第11話 御者

「おい、姉ちゃんたち、まさかあの山を降りてきたのか? 珍しいな」


 少し遠くから唐突に聞こえてきた声。ショーンを抱いたままメラニーが顔を上げると、向こうから簡素な荷馬車が近づいてくるのが見えた。

 馬を操りながら、御者ぎょしゃがこちらを見ていた。筋骨隆々の中年男だ。日に焼けた褐色の肌。癖のある褐色がかった黒い髪。いかにも屈強そうな男だが、人の良さが顔と声に表れている。

 御者は少しおびえた様子の馬が暴れないようショーンたちから離れた場所で馬車を止め、心配そうな顔をして声をかけてきた。


「そっちの銀髪の姉ちゃん……いや、兄ちゃんか? だいぶつらそうに見えるが、大丈夫か? どこまで歩く気だ?」

「……この先の、人里まで行きたい」


 少し顔を上げたショーンがかすれながらもしっかりと芯のある声で答えると、御者は驚いたような顔をした。


「おいおい、まだかなりの距離があるぞ。その様子じゃ日暮れまでに着けんだろう。ここで会ったのも何かの縁だ。乗ってけ。ちょうど俺もそっちに向かう用事があるんだ」

「ありがとう! それは助かります」


 メラニーがぺこりと頭を下げる。御者は馬車から降りて二人のもとにやってきた。


「ん? 血の匂いがする……兄ちゃん、怪我してるのか? 何があったかは知らねえが、ひでえ顔色してんじゃねぇか。そんな身体であそこまで歩こうなんざ無茶ってもんだ。姉ちゃんもかなり疲れてそうだな。ちょうど荷台は空だ。ちょいと硬いが寝っ転がっても構いやしない。楽にしてくれ」

「ありがとう。俺は痛みには強いたちなんだが、今回は正直 難儀なんぎしていた。本当に助かる」


 ショーンは素直に礼を告げた。御者はニッと笑ってショーンのかたわらにしゃがんだ。


「姉ちゃんは自分で歩けそうだな。荷台に自力で上がってくれ。兄ちゃん、立てるか? ……って、その様子じゃ無理そうだな。ちょいと痛むだろうが、我慢がまんしろよ」


 そう言いながら、御者はショーンを抱き上げようとマントをめくり、彼の背中に腕を回そうとした。


 御者の手が彼の肩にわずかに触れたとたん、ショーンの口からかすかなうめきがれる。

 御者の目に飛び込んできたのは、血ですっかり赤黒く染まった包帯。服の背中の大きな穴の感触。必死に痛みに耐えるよう強ばる身体。どこかに軽く触れただけで、苦痛にゆがむ顔。伝わってくる震えと体温の異様な熱さ。それまで気丈に振る舞っていたショーンの苦しげな吐息とその姿に、御者は驚いて動きを止めた。


「お前さん、何があった? よくもまあこんな身体で……満身創痍まんしんそういじゃねぇか! こりゃ想像以上にひでえ怪我だぜ。それに、熱もかなり高え。こいつぁこのまま連れてくのは危ねえな。悪いが、傷を見せてもらうぞ」


 真顔になってそう言うと、御者はいったんショーンを抱き上げるのをやめた。再び木の幹に彼の背中を寄りかからせて座らせる。ショーンのマントとボロボロの上着を脱がせ、慣れた手つきで血染めの包帯を解いていく。新しくそれなりに深い傷口がいくつもあらわになる。

 ショーンの胸には大きな内出血。心持ち胸の形が不自然な部分がある。肋骨が折れている証拠だ。


「すまんな。痛むだろうが、ちょいと触るぞ」


 御者がその胸に触れ、折れた肋骨を遠慮なくぐいぐい押して位置を直す。


 御者に押された患部が熱い。押し出された吐息に混ざって小さく漏れる声。ショーンはグッとまぶたを閉じ、歯を食いしばって痛みに耐えた。

 幸いズレはそれほど大きくない。完全にとは言えないが、短時間でほぼ元の位置に戻すことができた。


 御者は再び傷の確認に戻る。焼け焦げた服の穴からひどい火傷を予想したのだが、幸いそれは見あたらなかった。背中には右脇腹からの深い切り傷以外、外傷はなさそうに見える。

 ショーンの傷を確認している御者の邪魔をしないよう気をつけながら、メラニーはショーンの傍らに座って心配そうに彼の手を握った。心配するなと言わんばかりに、ショーンがその手を握り返す。


「今できるのはあれだけだな」


 そう一人ごちながら御者は急いで馬車に向かい、小さなかばん酒瓶さかびんを持って戻ってきた。


「この酒はきついぜ。だが蟾酥せんそを混ぜてあるから、少しは楽になるはずだ。かなりみるだろうが、兄ちゃん我慢しろよ。姉ちゃん、この酒は強い。こいつの蒸気はまともに吸い込むと危ねえから、ちょいと離れとけ。―――いくぞ」


 御者は酒瓶の栓を抜き、まずはショーンの腕と脚の傷口にたっぷりと酒をかけた。


「うあッ――!」


 たまらず漏れる呻き。激しく鋭い痛みのあとに、じんじんと熱い痛みが脈を打つ。うつむいて歯を食いしばり息を荒らげながらも、ショーンはなんとか意識を保った。


「よく耐えたな。大抵の奴ならこれだけひでえ傷にいきなりこいつをぶっかけりゃ、気を失う」


 御者の驚いた声に、ショーンは俯いたまま弱々しく答えた。


「予告、してくれただろう。それに、身を焼かれるのに比べたら、まだ楽だ」

「お、言うじゃねぇか。そんだけの口をきけるなら大丈夫だな。次はもっときついぜ。ちょいと横になってもらうぞ」


 御者はショーンのマントをつかんで立ち上がり、辺りを見回した。ここは青年を横たえるには地面がゴツゴツし過ぎている。御者は今いる場所からほど近い街道脇に向かい、なるべく平らな地面にマントを敷いた。

 すぐにショーンのいる木の根元に戻り、項垂うなだれたまま苦しげに肩で息をしている彼を慎重にかつぎ上げる。御者はできるだけ揺れのないよう低めの重心で先ほど敷いたマントに向かい、その上にショーンを下ろした。

 まずはゆっくりと仰向けに横たえる。そして、できるだけ傷口を刺激しないよう慎重に、右脇腹が上にくるよう横向きに彼を寝かせなおした。


「よし、覚悟はいいか。かけるぞ」

「ああ、やってくれ」


 御者は真剣な顔でうなずく。そして力なく横たわるショーンの脇腹付近に手を置き、傷口に行き渡るよう躊躇ためらいなくたっぷりと酒をかけた。


「――ああアァッ!」


 焼け付くような激しく鋭い痛み。ショーンは身をよじり、右手でマントの端を握りしめて苦しげに呻いた。固く閉じられた瞼。眉間に寄った深いしわ。額に浮かぶ脂汗。途切れ途切れに吐き出される荒い息に微かに混ざり続ける声が、痛みの激しさを物語る。辛うじて意識は保っているが、言葉を発するだけの気力が今のショーンにはもう残っていない。


「ひとまずこれでよし。姉ちゃん、この葉を手でこんなふうに転がす感じでよくんで、酒の飛んだところから順に深い傷に当ててやってくれ。こいつは蟾酥ほど薬効が強くない。気休め程度だが、このイタドリの若い葉にも痛み止めと血止めの効果があるんだ」


 御者は近くに生えていたイタドリの若葉を一枚採って両手で挟み、てのひらをこすりあわせるように動かして丸めて揉んでみせた。そして再びイタドリの若葉を数枚採り、メラニーに手渡した。


「はい。あの……センソって……」

「ああ、東国の薬でな、ガマガエルが皮膚の表面や耳の後ろに出す白い分泌物を乾かしたヤツだ。水には溶けないが酒や油には溶ける。出血を止め、傷口の神経を麻痺まひさせて痛みを和らげてくれるんだが薬効が強くてな。量を間違えれば毒になる。こいつは東国で分けてもらったごく薄いものだから、この程度の量なら害はない。大丈夫だ」

「そんな貴重なものをあんなに……ありがとうございます」

「なぁに、困ったときはお互い様だ。おっと、蟾酥をかけたところに触ったら、手を洗うまで絶対に目はこするなよ。小さな傷に触っても一瞬地獄を見る。ものすごく滲みるぞ」


 御者は少し悪戯いたずらっぽい笑顔で言った。

 かなり強い酒なのだろう。腕と脚の傷口にかけた酒は蒸発して、もうほとんど残っていない。脇腹の酒もみるみるうちに蒸発していった。苦痛に歪んでいたショーンの表情が、ほんのわずかだが穏やかになる。


「服は新調したほうが良さそうだな。ここまでいたんでいると、直すのは難しそうだ」


 そんなことを一人ごちながら、御者はショーンの顔を見た。ひどい顔色に変わりはないが、少し穏やかになった彼の表情を見て、御者の表情も心なしか優しくなる。

 御者はショーンをゆっくりと抱き起こし、近くの木に背中を寄りかからせて座らせた。


 メラニーがイタドリの葉を当てたところから、御者は慣れた手つきで手早くショーンの傷に新しい包帯を巻きなおしていった。ボロボロの服をショーンに着せるのを諦め、マントでくるむ。それが終わると、改めて御者は苦しげにあえいでいるショーンを慎重に担ぎ上げた。


「兄ちゃん、すげぇな。よく頑張った。この先の集落の外れに俺の知り合いのいる修道院があってな。あそこならもっとまともな治療をしてもらえるはずだ。そこまで急いで向かうからな。もう少し辛抱してくれよ」


 そう言いながら、御者は馬車へショーンを運び、彼を荷台に慎重に下ろした。ゆっくりと仰向けにショーンを横たえようとしたとき、御者は耳元で微かに「ありがとう」という声が聞こえた気がした。


「礼を言うにゃあまだ早いぜ」


 つぶやきながら御者は御者台に座る。

 ボロボロな上着と荷物を持ってメラニーがショーンの隣に座ると、御者が手綱を持って後ろを振り向いた。


「さてと、飛ばすぞ。兄ちゃんはその傷でその弱りようじゃ、一刻を争う。路面が悪いから揺れてきついだろうが、我慢してくれ。二人とも、振り落とされるなよ!」

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