第二章 傷

第10話 下山

「ショーン、大丈夫?」


 心配そうな娘の声を聞いて、青年は我に返った。

 ふもとはだいぶ近づいたが、相変わらず深い森とゴツゴツとした岩の連なる険しい山道が続いている。もう昼近いのだろう。木漏れ日が地面に作る影はだいぶ短くなった。


 前夜、青年は二人の人物と出会った。一人は少女、もう一人は過去に青年の住んでいた村を焼き払った男。青年の左腕にまっている女神の腕輪の力を欲するその男との戦いで彼は重傷を負い、男が放った呪いを受けて一度は生命を落とした。その生命を救ってくれたのが少女……いや、少女の姿をしたさなぎからかえったという、今はショーンに肩を貸してくれているこの娘、メラニーだ。


「つらいんでしょ? 少し休んだほうがいいよ」


 青年は朦朧もうろうとする頭を軽く左右に振って目をらし、右斜め前方の斜面を指差した。


「あそこに木のないところが一筋見えるだろう。あれが街道だ。あそこに辿たどり着くまで、できれば歩みを止めたくない」


 青年の指差した先には、斜面の下、木々の向こうに確かに一筋の線が見えている。


「でもショーン、今かなり無理してるでしょ。あなたの苦しさが伝わってくるの。あそこまで、まだだいぶ距離もありそうだし……」


 メラニーの瞳が必死に休むよう訴えかけている。その瞳を、ショーンは見つめ返した。


「『苦しい』という概念は広すぎて、俺にはよくわからないが……そうだな。正直言うと、そろそろ限界だ。傷の痛みももちろんだが、ひどい寒気がする。意識が朦朧として、視界も暗くてはっきり見えない。自分の足がしっかり地面を踏めているのかも怪しいところだ。けれど、だからこそ、今の状況ならば無理をしてでも街道には辿り着きたい」


 彼女は天使だ。人の心を見ることができるらしい。そんな相手に嘘をついても仕方がない。彼は正直に自身の現状を伝えた。ショーンの迷いのない視線を受けて、メラニーの瞳が揺らぐ。


 彼女がショーンの身体を思ってくれているのはわかる。けれどむしろ、彼はメラニーの身体を心配していた。


 彼女は山道に慣れていない。だいぶ麓に近づいた場所からとはいえ、決して短くはない距離の山道を、メラニーはショーンを支えながらずっと歩いてきてくれた。

 途中、ショーンは杖になりそうな枝を見つけ、背負っていた背嚢はいのうをメラニーに預けて一人で歩こうと試みた。しかし、彼が前夜の戦闘で負った傷は彼自身が思っていた以上に深く、失血も多い。それに加えて、痛みと高熱に冒された身体をおして歩いてきたのだ。支えてもらっていたとはいえ、体力の消耗もいちじるしい。杖にちょうど良さそうな枝を見つけたとき、彼の身体はすでに杖を使っても一人で歩くことができないほどに弱っていた。

 結果、メラニーはそのまま重い背嚢を背負い、慣れない山道を降りながらずっと彼に肩を貸してくれている。彼女自身も、かなり疲れているはずだ。


(俺のことはどうでもいい。本当はメラニーを今すぐにでも休ませたい)


 そんな気持ちもある。けれど、ここで休むより街道に出てから休んだほうがいい。野営やえいもしやすく人通りもある街道沿いは、ここよりも野生動物や魔物に襲われる危険も少ない。


「気持ちはありがたいが……今休めば、俺は確実にここで動けなくなる。しかし斜面のきついここでは、野営をするには条件が悪すぎる。これが最後の急斜面。一見遠くに見えるが、街道まで距離としてはあと少しのはずなんだ。人通りのほとんどなさそうなこの急坂の山道で動けなくなるより、同じ山でも平らな地面のある街道近くに出てから休んだほうが安全だ。メラニー、君も疲れているだろうが……頼む、あそこまで行かせてくれ」


 メラニーはしばらく悩んでいる様子だったが、意を決したように笑顔をショーンに向けた。


「わかった。街道まで、ゆっくり行こうね」

「すまない。……ありがとう」



 二人がどうにか街道に辿り着いたのは、太陽が空の中心より少し西に傾きはじめた頃だった。

 二人は交差点付近の街道脇に根を張る太い木の幹に倒れるようにもたれかかり、ショーンがずり落ちるようにその場でしゃがみ込む。急に軽くなった身体のバランスを取りながら、メラニーはショーンが楽に座れるように彼の身体の向きをゆっくりと変えた。木の幹に彼の背中を寄りかからせる。そして急いで下ろした重い背嚢から水筒を取り出してショーンに差し出した。


「ショーン、お水、飲める?」

「ありがとう」


 青年は水筒を受け取ろうとしたが、腕をわずかに上げるのが精一杯だった。それを見たメラニーが、ふたを取り青年の口にそっと水筒を当ててくれた。水筒を持っていない左手をショーンの頭に添えて、飲みやすいようにと支えてくれる。


「一口でもいいから、ゆっくり飲んでね」


 水筒がゆっくりと傾けられる。水が口の中にほんの少しずつ流れ込んでくる。水が甘い。青年はその甘さをじっくりと味わってから、水を飲み込んだ。一口、二口、三口……よほどかわいていたのだろう。青年は水がストンと落ちるように胃のほうへと流れていくのを感じた。


 ショーンの手がメラニーに軽く触れる。メラニーは水筒を彼の口からゆっくりと離した。彼の頭を支えていた左手も放し、ショーンを再び木にもたれかからせる。


 ショーンは水筒を背嚢に戻そうとしているメラニーに声をかけた。


「メラニー、君もその水を飲んでくれ。それから……疲れただろう、荷物の中に入っている小さなびんの中身をさじすくって、少しめるといい」

「これのこと?」


 メラニーは背嚢から広口の小さな瓶を取り出してショーンに見せた。コルクで栓をしたその透明な瓶には、淡い琥珀色のねっとりとした液体が入っている。


「そう、それは蜂蜜。蜜蜂たちが集めて濃縮してくれた花の蜜をほんの少し分けてもらったものだ。甘いぞ。疲労回復にいい。それを舐めて君も休んでくれ。………ここまで来られたのは君のおかげだ。大変だっただろう。本当に、ありがとう……」


 消え入りそうなかすれた声。匙を取り出すため背嚢を探っているメラニーにそう声をかけながら、ショーンは視界が急速に暗くなっていくのを感じていた。気温は高いはずなのに、たまらなく寒い。全身がひどくだるい。身体に力が入らない。頭が重い。もう首が……いや、身体が頭を支えきれない。


「それならショーンも舐めたほうが……ショーン?」


 メラニーが顔を上げると、ショーンは眉間に深いしわを寄せ、まぶたを閉じていた。彼は苦しげな息を吐きながら、ぐったりと背中を凭れかからせていた太い木の幹から、メラニーのいる方向にズルズルと傾いてくる。


「ショーン!」


 ショーンの背中が木の幹から外れる。メラニーはひざまずき、そのまま一気に倒れてくるショーンを慌てて受け止めた。その衝撃によろめきながらも、メラニーはショーンをしっかりと抱き止めた。彼の身体が小さく震えている。そして、その身体はひどく熱い。


「もう……無理、しすぎだよ………」


 メラニーに力なく身体を預け、彼女の胸を枕に弱々しくあえぐショーン。声を発することもできないほどに弱り苦しんでいるのに、彼の心はメラニーのことを強く案じている。その心がメラニーの中に流れ込んでくる。

 そんな彼の頭に頬を当て、メラニーは青年を包むように優しく抱いた。


「ありがとう。私は本当に大丈夫だから……蜂蜜もらって一緒に休むから。今は自分のことだけを考えて。どうかゆっくり休んで………」


 その言葉に少し安心したのか、張りつめていたショーンの心が僅かにゆるむのをメラニーは感じた。


 ショーンをもっと楽な体勢で休ませてあげたい。メラニーは辺りを見渡した。

 今いる場所の足元は太い木の根がゴツゴツと張り出していて、彼を横たえるには具合が悪い。けれど、彼女の背後、ほんの少し街道側に行けば、往来の邪魔にならずに彼を横たえられそうな場所がある。おそらくもう自力では動けないショーンを、どうやってあそこまで連れていこうか……。

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