漂泊の民と岩貝の浜蒸し

 蜥蜴人の集落を出て暫く。鬱蒼と生い茂っていた木々が少しずつその背を縮めていき、やがて途切れた先に見えたものは。

「ぅ、わあああああ!!!」

 モルニィヤが真っ先に歓声を上げた。無理もない、初めて見たのだろう、森を抜けた先に広がる砂浜よりも、更に広い巨大な海原を。

「おみずいっぱい! おっきいいけ!!」

 青い瞳を輝かせて海とスヴェンの顔を交互に見てくる娘に苦笑して、頷いてやる。

「行っても良いけど中に入るなよ。あと、水は飲むな」

「あいっ!」

 いい返事をして、両手を上げて駆けていくモルニィヤの背を見送る。新しいものを見つけた時、勝手に動くと叱られるという事は学習してくれたようで、ひそかに安堵した。スヴェンも海を見るのは初めてではないが、あまり縁の無い所だ。隣で砂の上に両膝を下ろし、何やら祈りを捧げていた赤紫鱗が顔を上げた所で話しかける。

「旦那、この辺で食えるものが採れるか知ってるかい?」

「ふむ。我の知る限り、魚や貝に迂闊な毒のあるものは早々無かろ。但し、只人の腹が耐え得るかは解らぬ」

「だよなぁ。うーん」

 故郷の近くであるが故に知識はあるようだが、それが自分やモルニィヤにも合うかどうか解らない。多分、巨人や蜥蜴人より只人である自分が身体的には一番弱い自覚もあるし、腹を下したら今度こそ捨て置かれても文句は言えない。しかし手持ちの食糧はかなり心許なくなってきたので、日持ちのする何かを手に入れたいところだ。

 どうするかと首を巡らすと、程よく離れた浜辺に集落が見えた。家の造りからして恐らく只人のものだろう。

「ちょっくら情報集めてくるわ。モルが海に入らねぇように見張っててくれ」

「承知した。手が必要ならば呼べ」

 集落を指差しながら言うと得たりとばかりに顎を引かれたので、軽い足取りで砂を蹴った。




 ×××




 布でも被って顔を隠そうかと一瞬思うが、怪しさでは大して変わらないだろうと思って止めた。

 集落の家屋は砂浜から板を渡し、海の上に建造されているものが殆どだった。大きな波が来たら浚われそうだが、心配が無いほど海が穏やかなのだろうか。船や釣竿の姿も見えたので、漁で生計を立てているのは間違いないだろう。尚更、一度話を通しておかなければ漁場を荒らしたと思われるかもしれない。

 近くの砂浜に、流れ着いた海藻を拾い集めている子供が数人いたので、まずはそちらに近づいた。

「おーい。ちょっといいかい?」

 あくまで軽く声をかけると、不思議そうな小さな子供を庇うように年嵩の子供達が立ち上がり、警戒の籠った目で見詰めてくる。どうやらスヴェンの頬に刻まれた焼印の意味も知っているのだろう。正直、子供がそうやって動ける程度にはちゃんとした集落――賊の集まりや貧しい村では無さそうだ――と解ったので却って安堵する。

「いや、村に入るつもりはねぇよ。この辺にちょいと流れてきたんだが、海に入っても良いもんかい? 三人分の食い扶持が手に入りゃあすぐに出ていくさ」

 実際、大食漢がふたりいるのでもう少し多めに頂きたいがそこは伏せる。子供達は顔を見合わせ、何やら相談しているようだ。ひとりが集落の中に駆けていき、大人を一人連れて戻ってきた。恐らく漁師であろう、日に焼けた男は、やはり警戒したままぶっきらぼうに言った。

「……漂泊の連中か。蜥蜴共の森を超えて来たのか?」

 どうやら彼らにとって、森に住む蜥蜴人達は驚異の対象になるらしい。旦那を連れてこないで正解だったと密かに息を吐き、あくまで軽薄に言う。この手の実直そうな相手には、舐められた方がやり易い。

「ああ、あいつらを避けながらぐるっと大回りで超えて来たから、飯が心許なくてね。漁場を荒らすつもりはねぇさ、少ないが手持ちを払っても良い」

 ちゃり、と軽い財布を振って見せる。正直中身は銅貨が少々だけだが、こんな外れの集落では貨幣自体が珍しいものだろう。男は少し考えるように腕を組み、フンと鼻を鳴らした。

「……お前の来た、森の近くの浜には俺達は近づかねぇ。好きにしろ」

「ありがとよ。ついでに、美味いもんのひとつぐらい教えてくれねぇか?」

 にやりと笑って更に問うと、今度こそ男は閉口したが、好奇心が我慢できなかったらしい子供がひとり口を開いた。

「岩貝いっぱいあるよ! 煮ても焼いても美味いよ!」

「イワガイ?」

「岩にべったり貼り付いてる貝だよ!」

「取るの大変だけど、美味いよ!」

「こら、帰るぞお前ら……!」

 口々に子供達が騒ぎ出したので、男が怒鳴りつける。スヴェンもこの辺が潮時かと思ったので、財布から硬貨を何枚か取り出し、最初に喋った子供に向けてほいと放った。

「ありがとよ、二、三日経ったら出ていくさ」

 砂浜に散った硬貨に声を上げて子供が群がるのを大人がまた怒る中、すぐにスヴェンはその場を離れた。




 ×××




「イワガイねぇ」

 帰る道すがら、浜に散らばる岩礁を確認してみるが、ぱっと見て貝らしきものは見当たらない。漁場を荒らされないよう適当なことを言われた可能性もあるが、流石に子供が口火を切ったのだから無いと信じたい。

「おかさんおかえり!」

 やがて、砂浜に大人しく座り、砂を掘っては波が入ってくるのを見ながら遊んでいたモルニィヤの所まで戻ってきた。服も手足も砂だらけなので、後で洗ってやらなければ。

「はいよただいま。旦那は?」

「首尾は如何に」

 砂地に杖を立て、紋様で円を書いていた赤紫鱗も立ち上がって近づいてくる。警戒の紋様だろう、野営の時はいつも書いている。災難を避けたり防いだりするものではなく、何かが近づいたのが解る鳴子でしかないが、野営では役に立つ。

「この辺の岩場に食える貝がいるらしいんだが、見ても全然解んねぇ。旦那、知ってるかい?」

「ふむ。――暫し待て」

 ぐるりと長い首を回し、爪の長い足を蹴立てて手近な岩場へと近づく。本当に人が入ってこない辺りらしく、隙間が見えない程海藻に覆われた岩の上へぎょろぎょろと視線を動かし。

「其処か」

 スヴェンの目には海藻と岩肌にしか見えない場所に、無造作に爪を立てた。ぎち、と岩が擦れる音と同時、僅かに開いた隙間に蜥蜴人の鋭い爪が突き刺さっている。

「噴ッ!」

 気合は一瞬、無造作に鱗の手はべりりと岩肌を剥がした。否、海藻や良く解らない結晶が沢山へばりついた平べったい貝を見事に剥がした。厚みは精々スヴェンの掌を重ねたぐらいしかないが、大きさは赤紫鱗の手よりも大きい。見た目は本当に岩の欠片にしか見えないが、端を覗くと綺麗に噛み合った貝の口が見えた。

「すげ、良く判ったなぁ」

「見れば判る」

「わかんねぇから言ってんだよ……どれどれ」

 調理用の薄いナイフで、受け取った貝の隙間をこじ開けるように突く。少々時間はかかったが、やがてぱきりと二枚に分かれた。中には、肉厚で乳白色の、縁が僅かに黒い貝の身がつるりと鎮座している。かなり大ぶりで、食いでも有りそうだ。

「おかさん! それおいしい!?」

「さてな、初めて食うもんだからあんま期待すんなよ」

 漸く食べ物だと理解できたらしいモルニィヤがはしゃいで飛び上がるのに笑いつつ、予防線を張っておく。まずは調理法を考えなければならない。

「旦那、もうちょい数集めて貰っていいかい?」

「無論。モルニィヤ、貴様も手を貸せ。巨人の眼ならば判るであろ」

「ん! いっぱいある!」

「マジかぁ」

 解らない自分にちょっと落ち込むが、集めるのも大変そうなので任せることにした。このふたりならば指の膂力だけで、岩から貝を引き剥がせるだろう。




 ×××




 煮ても焼いても美味い、と集落の子供は言っていた。煮るのは得意分野だが、焼くのは中々難しい。

 硬い殻のまま焚火に放り込んでもちゃんと火が通るか怪しいし、火に負けて口を開けたとしても中身が零れて大惨事だ。かといって剥き身を火に翳しても、あっという間に焦げてしまった。

「……よし、これでどうだ」

 考えた結果、貝を開いて殻を半分だけ取り、森で取ってきた大きく分厚い青葉で中身を零さないように包み、焚火の中に据えた。殻の中にも海水が入っているだろうし、いい感じに蒸せるのではと考えたのだ。

「あー……竃に何か、燃えない網か何か被せて……その上に貝を置けばいけるか……?」

 ぶつぶつと策を考えるが、手荷物に無いものを求めても仕方ない。今度でかい街に行ったら如何にか都合しようと考えつつ、鍋の中に真水を入れ、こちらには貝の中身を取り出して放り込む。殻を開くのも中々の重労働かと思いきや、モルニィヤが軽々と両手で割ってくれたのですんなり終わった。

「手、大丈夫か?」

「ん!」

 正直心配したが、巨人の手や爪は子供だろうと非常に丈夫らしい。散々岩肌から貝を剥がし、殻を開いていたというのに傷の一つもついていなかった。

「手に入れたが、此れを如何に使う?」

「おう、有難ぇ」

 貝は充分に集まったので、赤紫鱗には別に海藻も集めて貰っていた。先刻子供達が拾っていた、茶色くて幅広の藻。硬そうな茎を取り除いて軽く切り分け、鍋に放り込む。

「わぁー! いろ、かわった!」

「おお」

 湯に放り込むとあっという間に鮮やかな緑色になった藻に驚くが、火が通った証だと思えばいいだろう。端を拾って軽く齧ると、独特の歯応えと僅かな塩味が悪くない。

「うし、こんなもんか」

 貝の剥き身が大分縮んできたので、鍋を火から降ろす。ちゃんと火が通っていないと腹を下すのが恐いが、食いでが減るのも嫌だ。作った者として責任を取る為と、自分が食えるなら他の連中も平気で食えるだろうという確信の元、煮込んだ貝をひとつ口に放り込む。

「ん――熱っち」

 肉厚の身を噛むと、じゅわりと湯だけでは無い旨みの液体が溢れて、思わず吹き出しそうになるのを堪える。熱いし独特の風味だが、塩気と僅かな苦みが合わさり、味が濃くて美味い。ごくりと嚥下し、これは酒が欲しくなる味だとしみじみ思った。残念ながら今はとても手に入らないが。

「おかさん! もうたべていい!?」

「今分けるからちょっと待ってろ。ほい旦那」

「有難く」

 我慢できずばたばた砂を踏む娘を宥めつつ、器に具と汁を両方入れて赤紫鱗に差し出す。器を軽く押し頂いて礼をし、匙でがばりと具を掬い取って大口に放り込んだ。

「む――美味也」

「そいつぁどうも」

 貝と藻を噛み締めて頷く赤紫鱗といつも通りの言葉に、安堵の息を隠して軽く礼を返す。どうやら相棒の口に合ったらしい。残りの鍋をモルニィヤに渡してやると、遠慮なくはふはふ言いながら食べ始めた。

「ん、おいひい! このかいおいひいい!!」

「あんまり急いで食うなよ、念の為。蒸した奴ももう開けるか」

「別の手管か、期待しよう」

 焚火の中からそっと葉に包んだ貝を取り出す。黒くなった葉を剥いてみれば、上手い事中身を逃がさず火を通せたようだ。何より、煮たわけではないので身が充分に大きい。

 食べさせてみれば、モルニィヤは幸せそうな歓声を上げたし、赤紫鱗は満足げに鼻息をゆっくり吐いたので、おおむね成功したと言えるだろう。




 ×××




 ゆらゆらと弱く光る金陽が海の向こう側に落ちていき、すっかり腹を満たしたモルニィヤがうとうとし始めた頃。

 スヴェンと赤紫鱗は僅かに湿った砂浜に線を引き、小石を駒代わりにして遊戯に興じていた。

「……っしゃ、2の2の3」

「否。3の2の5だ」

「げ! 糞、しくった」

 8つの駒を動かして行う陣取り遊戯のようなもので、国や地方によって細かいルールは異なる。蜥蜴人には縁の無いものだったらしく、赤紫鱗も最初は面白さが理解できなかったようだが、スヴェンの薫陶により今では3回に1回は勝ち越されるようになっている。

 不機嫌そうに駒を片付けるスヴェンに対し満足げに鼻息を吐いていた赤紫鱗がぴくりと目の被膜を動かす。何かが結界に引っかかったらしくスヴェンも警戒に入るが、普段なら飛び起きる筈のモルニィヤはうにゃうにゃと変な寝言を言いつつも瞼を開けない。ナイフに手を伸ばすべきかと考えている内、砂浜をさくりと踏む軽い音がした。

「誰だ!」

 誰何すると僅かに息を飲む音と同時、砂浜の上にどさりと尻餅をつく影が見えた。僅かに息を吐き、焚火から薪を一本抜いてそちらへと向ける。

「……あの村の餓鬼かよ、何しに来た」

 昼間に見た記憶のある、集落にいた子供の一人だ。多分、スヴェンに真っ先に話しかけて来た少年だろう。スヴェンの警戒と赤紫鱗の姿にかなり怯えてはいるようだったが、その瞳には好奇心の光があり、薪の火を照り返して見せた。

「っ、兄ちゃん達、冒険者なんだろ?」

 期待の籠った視線に、如何したものかと目を逸らす。自然と赤紫鱗の方を見てしまったが、相棒は敵では無いのなら知らぬとばかりに目の被膜を閉じている。どうやら自分が相手をするしかないらしい。ぐしぐしと頭を掻いて、呆れた口調で言った。

「違ぇよ、俺達は漂泊だ。冒険者じゃない」

「どこが違うの?」

 定住する者にとって、区別がつかない所だろう。どちらも旅をして日銭を稼ぎ、村や町に立ち寄っては去っていく者達。実際、明確に分けられる基準などが定められているわけでもない。しかし、巷の吟遊詩人が謡い伝える冒険者と、ただ歩き続ける漂泊の民ではその在り方が異なる。

「俺達は遺跡荒らしじゃねえし、冒険なんてしたくもねぇからさ」

 冒険者、と名の付く者達が欲しがるのは正しく「冒険」だ。何物でもない者が何かになる為、金や地位や名誉、そして伝説と浪漫を求め、神々や魔の遺跡に潜るものも多いと聞く。単純に食い詰めて強盗や山賊に身を窶すよりはまだましだと、冒険というお題目を掲げて嘯く連中。

 その存在を合法としては認めない国も多いが、幸い、辺境になればなるほど金で動く腕っぷしの持ち主には価値が増すので、土地によっては食い逸れない者も多いという。

 対して、漂泊の民が求めるものは「生活」だ。腰を据えられる生まれは無い、辿り着くべき場所も無い、ただ生きていくために歩き続けなければならない者達。たった一つしかない命をかけて、一攫千金を狙うような奴は間違いなく早死にしかしない。

 しかし、恐らく冒険者という存在を素晴らしく立派に描いた詩に憧れる子供に、容赦なく現実を突きつける趣味も無ければ、説教臭く諭すつもりもない。どう誤魔化すかと悩んでいると、不意に赤紫鱗が立ち上がった。怯えて子供が後退るのを止める前に、鋭く呼気と共に言葉を放つ。

「――魔の気配。来るぞ」

 声と同時に、ずっと音を響かせていた引き波の中から、水では無い粘性の何かがぞわりと沸き起こってくるのが見えて、スヴェンも立ち上がって叫んだ。

「餓鬼、逃げろ!」

 何が起こっているのか解らない子供に叫び、持っていた薪を海際に向かって投げる。僅かな明かりに照らされる黒い波――否。ずろりと海から生まれ、不定形の体をもたげてくる黒い粘体ウーズ。沼に住むものは見たことがあるが、海にもいるとは知らなかった。

「――んぶぅ!?」

 モルニィヤもその時には目を覚ましていたが、一番海際に居たので間に合わなかった。立ち上がる前に、ぐわりと広がった粘液が顔を覆い、穴という穴に潜り込んでいく。全ての餌を己の体に取り込んで溶かすために。抵抗しなければあっという間に窒息してしまうだろう。

「モルッ!!」

「ん――ぎゅ、あああああ!」

 しかし異変に気付いていた巨人の娘の動きは速かった。飛び起きてウーズを解こうとし、不可能だと気づいた次の瞬間には自分の五指で滑る体を突き刺す。そのまま引き剥がそうとすると、膂力に耐え切れなかった粘体の塊はべちゃりと千切れた。

「うー、や、だぁああ!」

 体が千切れただけでは粘体は死なない。幸い顔に張り付いた分は取ることが出来たが、少し小さくなった塊が今度は集団でモルニィヤの体を押し包もうとする。スヴェンは焦りを堪えてもう一本薪を抜き取り、娘にへばりつく一番大きな塊に松明の火を押し付けてやる。

 じゅわっ、と粘液の水分が蒸発し泡立つ。大きな塊は悲鳴を上げるかのようにびくびくと震え、焼けた部分はぼろりと土塊のように崩れた。

「モル、落ち着け、暴れんな! 火傷すんぞ!」

「うー……!」

 気持ち悪さに耐え切れないのかモルニィヤはいやいやと首を振るが、それでも火によって大きな塊は剥がすことが出来た。流石に掌ほど小さく千切れれば力尽きるらしく、僅かな粘度も失って動かなくなる。

「大分取れたな、髪は……後で洗ってやるから我慢しろ」

「うえぇぇえん」

 青色の長い髪にべったりとへばりついた粘液には、迂闊に松明は近づけられない。気持ち悪さから泣いているが、流石に今慰めるのは無理だ。何せ新手が暗い海からじわじわと上陸し始めている。

「旦那!」

『――雷電!!』

 鋭い吐息を吐くような音と共に、赤紫鱗の口から青白い稲妻が迸る。波間に突き刺さった輝きは海を一瞬白く輝かせ、広がり散った。其処に浮かぶ黒い粘体は一瞬動きを止めるものの、再び浜に向かってくる。

「効きが悪い。火の竜ギナの加護を得られぬ我の不覚」

「出来ねえもんを気にする余裕はねえさ、ほらよ!」

「忝い」

 不満げに鼻を鳴らし後退する相棒に笑い、火のついた松明を渡してやる。とにかく灯と火が必要だ。幸い、岩場から砂地に上がった粘体達の動きは比較的鈍くなっていくが、松明による牽制だけでは逃げ切れそうにもない。集落まで連れていったら犠牲者が増えるだけだろう。

 ――成程、こういうのが出るからかとスヴェンは冷静な頭の隅で納得する。集落の家が海に張り出していたのは、この粘体から身を守る為だ。足場が細ければ巨体のものは登ってこれないし、小さいものならば小さな火で充分に対応できる。楽に漁をするのと同時に身を守れる、生活の知恵であるのだろう。……岩場は多量の貝があるのにあまり手を伸ばさないのも、余所者をそちらへ追いやるのも。

 頭を回しながらじりじり後退すると、嫌そうに頭をぐしゃぐしゃ掻いているモルニィヤの隣にまだ子供がいた。腰が抜けてしまったのか、砂地にぺたんとしゃがみ込んだまま動かない。小さく舌打ちしながら、放っていた荷物を掴んで片手で中を探る。

「まだいたのかよ、逃げろっつったろ」

「ぅ、う……」

 涙を浮かべて首を振る子供を、今は叱る余裕も諭す時間も無い。赤紫鱗も杖を構えたまま後退するが、良い手は思いつかないようだ。水と樹に特化した竜の息吹は、海に住む魔と相性が悪すぎる。

「如何にする」

「でかい火がありゃいいんだろ?」

 ならばそこは自分の仕事だ。荷物から取り出した小さな油壷の蓋を噛んで抜き取る。小まめに木の実の種から絞り取り、料理用にちまちま使っている貴重品だが、出し惜しみして死んだら何にもならない。

「そらよっ!」

 砂地に大きく広がり、波のように体をもたげてきた粘体の大物に、油を思い切り振り掛ける。幸い的は大きいので外すことは無い。成程、と小さく首肯した赤紫鱗が、躊躇わず自分の持った松明を粘体に押し付けた。

 ぼうっ、と油に火が付き、表面を焼いていく。目も耳も無い粘体にとって、表皮は全ての感覚器官だ。炎に揉まれ、のたうちまわる。逆に危険なのでその隙に更に森側へと退避した。

『――!!―――!!!』

 悲鳴も上げず、暴れる動きはだんだんと遅くなっていく。他の小さな粘体達も、砂浜を大きく照らす明るい火を恐れたのか海へ戻り逃げていく。大きな体はじわじわと蒸発し、縮んでいき――動かなくなった。

「……死んだか?」

「恐らく。砕いて水から遠ざけよ、再び起き上がるかもしれぬ」

「面倒臭ぇな……!」

 勘弁してくれ、と言う代わりに戦闘用のナイフを抜いた。人ひとりを包み込めるほどの大きさの焼け焦げた何かを、ざくざくと千切っていく。幸い、珍しく怒りに震えるモルニィヤが力任せに踏んでくれたおかげで、作業は早く済んだ。

「かったー!」

「はいはい、後は砂に埋めときゃ雨が降らない限り大丈夫だろ」

 両手を掲げて胸を張る娘を労い、軽くなった油壷を残念がりつつ荷物にしまう。食事だけでなく色々なことに使えるものだが買うには高すぎるので、また自力で少しずつ集めないといけない。

「……あ、あの」

 ふと、ようやく立ち上がった子供が話しかけてきた。顔は真っ青で、まだ震えている。もしかしたら彼自身もこの砂浜が危険なことを知っていたのだろうか。それでも、「冒険者」がいるなら大丈夫だと思ったのだろうか。

 子供の憧れや失望を態々背負う趣味は無い。やれやれと溜息を吐き、ひらりと手を振って背を向ける。

「もう今日は来ねぇだろうし、早く家に帰んな。安心しろ、言った通り二、三日経ったら出ていくさ」

「あ、」

 なおも言い募ろうとした子供に、呆れたように振り向いて。

「帰る家があるんなら、そっちにいろよ。別に悪かぁねえんだろ?」

 出来るだけ軽く言い捨ててやると、子供は俯き、ぺこりと下げて砂浜を走っていった。小さく息を吐き、僅かな葛藤を逃がす。

 これからあの子供がどうなるのか、壊されたのかもしれない夢をまだ追うのか。本来なら自分が背負うべきものではないのに、つい子供には甘い目を向けてしまう。悪い癖だと自覚はあるのだが。

「おかさあああん! かみ! かみやってえ!!」

 僅かに淀んだ未練が、モルニィヤの絶叫で吹っ飛ばされる。粘液に絡みつかれた髪を自分で解こうとして限界だったのだろう、泣きそうな顔で地団太を踏んでいる。

「あー、念の為まだ海に入らねえ方が良いだろ。明日な、明日」

「やーだああああ!」

 流石にこの長い髪を洗える真水は手持ちにないので、海で洗うしかないのだ。ぎゃーんと泣き叫ぶ娘をどうにか宥めていると、海際に警戒の紋様を書き直していた赤紫鱗が戻ってきた。

「否。海に入る必要が生じた」

「え、なんでだよ。――あ」

 波打ち際に、ぷかりぷかりと白いものが浮いている。何かと思えば、腹を向けて浮いている大小さまざまな魚だった。先刻赤紫鱗が叩き込んだ雷により力尽きてしまったものが、波に流されてきたのだろう。

「糧を無駄にしてはならぬ」

「……だなぁ。しゃーねえ、モル! ついでに頭洗ってやるから海入れ!」

「やったぁああ!」

 念のため、出来る限りの焚火を点して夜の波打ち際に入る羽目になった。幸い黒い粘体達も懲りたらしく、戻ってくることは無かった。

 モルニィヤの髪をどうにか梳いてやり終えた時には、魚は二十匹ほど捕まえられた。開いて一日干せば保存食にもなる。宣言した通りの日にちで再び歩き出せそうで、スヴェンは自然と口元を緩めた。




――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



(インターネット辞書/オクトコルムナのページ より抜粋)



●オクトコルムナ(またはオクト)とは


概要/


二人で行うボードゲームの一種である。世界最古のゲームとも呼ばれており、現在も広く親しまれているゲームである。


白、黒それぞれ8種類の駒を使い、丸いボードに並べる。


ボードの上には升目が引かれており、升目が交差する場所に駒を置いて交互に動かし、駒を最低3つ置くことで陣取りをする。最終的に取った陣が広い方が勝ち。


駒毎に移動範囲や占領範囲が異なり、階位の高い駒は相手の低い駒を除外することが出来る(同階位は不可)。





歴史/


オクトコルムナの歴史は古く、八柱神から神人へと与えられた遊戯のひとつと神書に記されている。


元々は神殿内で行われる儀式のひとつであったが、駒と板さえあれば出来るゲームであったことから、旅商人や漂泊の民により全世界に広まっていった。


現在は白・黒どちらも駒の種類は「王、王子、王女、賢者、将軍、魔女、騎士、兵士」となっている。


地域や国、時代ごとにもルールや駒の種類にかなり差異があった。


ここでは代表的なものだけを記載する。




・中世版


ルールは現在のものとほぼ変わらないが、黒駒の呼び方が白駒と異なり「王、王子、王女、戦車、騎士、兵士、魔女、奴隷」となっている。名前が違うものは動き方も異なる。


八柱神殿による奴隷解放の詔が発表された後は奴隷が兵士に変更されたバージョンが多い。



・神殿版


駒に白黒の区別はなく、全て別の色に塗られている。強さの順は白、金、銀、青、緑、紫、橙、赤と八柱神が象徴する色に見立てられている。黒駒は存在せず、4対4の駒をプレイヤー毎に一つずつ選んで戦う。



・古代版


実際に神々の名前が彫られた駒が使われていたらしいが、信仰の誤りであると主張する神殿の弾圧により殆どが処分された。現在は赤砂漠の遺跡から僅かに出土したのみであり、正確な駒の形やルールは残されていない。




公式ルール/…(以下省略)

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