漂泊の民とベリージャムソース

 かちり、こつん。転がした輝石が、枝とぶつかって止まる。水を入れた皿の上に浮かべた木の葉はぴくりとも動かない。三回やり直しても同じ形に収まるその姿に、赤紫鱗は顎を撫でて鼻先から息を吐いた。

 蜥蜴人の術師に伝わる道標の占いは、何度やっても同じ結果を表していた。

 ――東の戦は続く。道を戻るべきではない。

 ――西は冬が深くなる。鱗を凍らせたくなくば近づくな。

 ――南に災難あり。進めば足を泥に取られる。

 今選べる道のどれもに、難が出てしまったのだ。そして他二つは兎も角、南の災難については心当たりがあった。

 辺りは深くなりつつある森で、本々の合間に広がる沼地には多くの水芭蕉が生えている。季節が悪いので花は咲いていないが、赤紫鱗は良く知っている。――彼の故郷が近いのだ。

 赤紫鱗は悩む。こんな結果が出てしまっては、進むことも戻ることも出来ない。しかし数日待ったからといって結果が変わるとも思えないし、漂泊の民が足を止めるのにも限度がある。

「おかさん、いっぱいとれたぁ!」

「よーし、赤い奴はこっちにくれ。黒くなってる奴は食っていいぞ」

「わああい!」

 少し離れた茂みの中で、スヴェンとモルニィヤが小さな果実を摘んで集めているが、今日の食事には足りるまい。少しでもこの場所から動いて狩りのひとつもしなければならない。

 摘んでいるのは、蜥蜴人の間では小さすぎて食用とされない果実だ。まだ酸味の強い赤いものを潰して煮詰めると、パンや肉に合うジャムになることをもう赤紫鱗も知っている。熟れて黒っぽくなって いる実を集めて掌に乗せ、美味しそうに摘まむモルニィヤが、そのまま赤紫鱗の方に駆けてきた。

「おとさんもたべるー? っあ!」

 足元を見ずに走ったせいで、モルニィヤの爪先が占い用の水皿を蹴飛ばした。ばしゃんと中の水が飛んでひっくり返る。

「あ、こらモル! 旦那が占ってる時は邪魔すんなって言ってんだろ!」

「ごめんなさーい!!」

 鍋の中で果実を潰していたスヴェンが気づき、振り向いて声を荒げる。モルニィヤも自分が悪いことはきちんと解っているらしく涙を浮かべて謝りだした。しかし赤紫鱗の視線は、ひっくり返った皿と濡れた輝石から動かない。

「――否。良くやった、モルニィヤ」

「ふぇ?」

「光竜ィヤスロゥの標を捕らえた。――進む道が見えたぞ」

 意味が解らず目を瞬かせる二人に対し、赤紫鱗は胸を張って堂々と言い放った。




 ×××




 漂泊を続ける際、森の中に入るという道程は中々に厄介なものだ。

 無論、荒野や草原に比べれば恵みが多い為、食料を得るために入ることは喜ばしい。だが、森を通り抜けるというのは、山を越える次に難しい。

 道は無く、本々の根が張り巡らされ、草が生い茂って行く手を阻む。昼でも暗く、樹に囲まれれば、方角を確かめることも難しい。迷ってしまえば中々抜け出せず、夜になれば尚更、獣に襲われる危険もある。

 ――だからてっきり、赤紫鱗が占いの結果に悩んでいたのは、どうやって森を抜けるのか、という算段を考えていたからだと思っていたのだが。

「此処より先は我等が地。水竜ナヤンブと樹竜マザラの息吹を湛えし森である」

 そう話しながら、赤紫鱗はかなり柔らかい泥の地面を悠々と歩く。大きく指が広がり水かきもある蜥蜴人の足は、泥の中にあまり沈まないらしい。

「つまり、旦那の、故郷ってわけかい? っとお!」

 スヴェンも如何にか歩いていたが、事前にこの有様を教えて貰ってブーツに履き替えたものの、かなり難儀していた。ちょっとでも油断すると足を取られ、泥の中に張った細かい樹の根で転びそうになる。幸い、そうなる前に赤紫鱗が腕を取って引き上げてくれたが、体力の消費が激しすぎる。

「おかさん、だいじょうぶ?」

「おう、お前は平気そうだな……」

「ん!」

 モルニィヤはまだまだ元気そうだ。躊躇うことなく裸足のまま、泥の中をざぶざぶ歩いている。この旅が始まってからずっとそうだが、彼女の足は流石巨人であるのか皮が分厚く、多少の悪路はものともしないようだ。靴が無い方が寧ろ歩きやすいのかもしれないが、流石に脱ぐ勇気は無い。ぐいと顔の汗を拭うと、飛んだ泥が却って広がってしまい、口に入った分をぺっと吐き出した。

 赤紫鱗は、難儀するスヴェンの隣を歩きながら、いつも通りの抑揚のない声で訥々と続けた。

「……嘗て、我は氏族の約定を破り、里を捨てた。この森に足を踏み入れた時点で、水芭蕉の一族に気取られたであろ。彼奴等にとって我は咎者。避けられぬ難があると、標の占にも出ていた」

「そりゃ、大変だな。けど、こっちに、進んでる、ってこたあ、何か、手はあるんだろ?」

 泥から足を引き抜くたび声が切れてしまうが、赤紫鱗は気にした風もなく瞳孔をぐりりと回す。

「然り。モルニィヤが皿を蹴り飛ばし、新しき標が見えた。即ち、貴様達と共に歩むことで、難を超えることが可能であると」

「そんなんで、いいのかよ?」

「標の占は示した」

 随分力業にしか思えないが、占いという奴はそういう直感というものが大事らしい。どんな原理かはスヴェンにさっぱり解らないが、元々当てなど無いのだから、彼がそう決めたことに否はない。と、また腕をぐいと引かれ、大顎がスヴェンの鼻先にひたりと向けられた。

「なればこそ――例え如何なる災が起ころうと、貴様とモルニィヤの無事を原初の七竜に誓う。我が命に代えても」

「……は、大げさだな相変わらず。その辺は信用してるさ」

 こういう律儀な奴だと知っているから、足先を並べるのも悪くないと思っているのだ。僅かなむず痒さを歪めた口の端で潰して、改めて泥と格闘を再開し――

「……ぁ」

 小さくモルニィヤが声をあげて、足を止める。その時には、泥の深みから何かがずぶずぶと浮かび上がってきていた。咄嵯にスヴェンはナイフの柄に手をかけ、赤紫鱗は杖を構える。

 泥沼から出てきたのは、森の中で目立たぬ暗い色の鱗を持った、蜥蜴人達だった。体躯は一様に大きく、皆赤紫鱗の倍はある。皆鎧は愚か武器すら持たず、己の爪牙を閃かせながら、三人を囲んでいた。どうするか、とスヴェンが問うよりも先に、赤紫鱗は大きく乱杭歯の並ぶ口を開き、朗々と叫んだ。

『――水芭蕉の一族に告げる! 我が名は赤紫鱗、水竜ナヤンブの鱗より生まれしもの! 嘗てこの地より去りし咎者である! 己が罪を裁けるは、水芭蕉の白骨尾を於いて他に無し! 何処にあるか!!』

 スヴェンには激しい唸り声にしか聞こえないが、蜥蜴人にとっては意味のある言葉だったらしい。他の蜥蜴人達が一様に首を巡らし、何か吟味しているように見えた。モルニィヤをさり気なく背に庇いつつ、慎重に辺りを観察していると、暗い森の中にまるで浮かび上がるような白色が現れた。

 その体躯は他の蜥蜴人は勿論、赤紫鱗よりも小さかった。体を覆っている鱗は抜けるように白く、透き通っているようにすら見える。細長い尾を揺らめかせながら、恐らく部下であろう大柄な蜥蜴人を従えて、泥の上を悠々と歩いてきた。

『――まさか』

 ほんの僅か、掠れたような音が赤紫鱗の喉から漏れる。表情は全く解らないが、その驚愕が伝わってきた。そして、白い蜥蜴人はその赤い目をゆっくりと瞬かせながら告げる。

『我が母は我を産み、水竜ナヤンブの御許へ果てた。我は水芭蕉の薄澄鱗、水竜ナヤンブの鱗より生まれしもの。貴様の罪を裁こう、赤紫鱗――我が母の魂を踏み躙った咎者よ』

 やはり言葉の内容はさっぱり解らないが、どう考えても歓迎されていないことはスヴェンにも感じ取れた。



 ×××



 蜥蜴人の村は、沼地の上にあった。

 泥の中に根を張り、枝葉を扇のように広げた樹。その枝ぶりに包まれるような木の葉の住処が円を描くように並んでおり、その中心の沼の中に、赤紫鱗と白い蜥蜴人が向かい合っていた。その周りを屈強な蜥蜴人の戦士達がぐるりと囲んでいる。雰囲気は物々しく、鋭い鳴き声が飛び交っている。

 スヴェンとモルニィヤは、住居の一つから伸びた枝の上に吊り下げられた、太い蔓で編まれた篭の中に入れられていた。動くたびに揺れるのは少し辛いが、見張りなどは全くつけられていないし、運ばれる間も小突かれたりすらしなかったので、一応身柄の安全は保障されているらしい。

「今の何だって?」

「んと……しろいこが、しろいこのおかさんのあとに、いちばんえらくなったんだって」

 蜥蜴人が使う精霊語は言い回しが違えどある程度の意味は認識出来るらしく、モルニィヤにも聞取れていた。

「やっぱあいつが長か。旦那はなんて?」

「んー……しろいこのおかさんと、けっこん? してた? のかなあ」

「マジか」

 突然相棒の多分知られたくないであろう過去が判明して、ほんのちょっぴり気まずい気分になる。後あまり生々しい話をモルニィヤに訳させるのも嫌だ。もういいぞ、という代わりに頭を撫でてやると、青い頭がもすりと肩に乗ってきた。

「……きついか?」

「んー、ん」

 何せ篭が狭いのもあるが、モルニィヤの元気があまりない。肩口でふるふると首を横に振ってはいるが、眉毛が下がっている。閉じ込められるということ自体が、嫌なことを思い出すからだろう。スヴェンは少しだけ苦く笑うと、狭い中でどうにか娘の体を倒し、自分の膝の上に寝かせてやった。モルニィヤも抵抗せず素直に収まる。

 篭の隅に置いておいた荷物を漁る。没収どころか武装解除すらされなかったのだ。舐められているとも取れるが、蜥蜴人にとって爪も牙も無い人間など、恐るるに足りないのだろう。荷物の奥から先日作ったばかりの瓶詰を取り出して、指先で掬った赤黒くとろりとしたジャムを、モルニィヤの口元に持って行ってやる。

「ほれ、あーん」

「あー……んむ」

 甘く煮込んだベリーの味が美味しかったのか、スヴェンの指をしゃぶったままモルニィヤはふにゃりと笑う。少し元気が出たらしい。

 安堵の息を隠して、そのまま暫く頭を撫でてやっていると、小さく寝息が聞こえてきた。その頃にはどうやら下の方も話が終わったらしく、白い蜥蜴人が付き人と共に一番大きな住居に帰っていく。赤紫鱗も拘束などはされていないようで、泥を蹴立てて真っ直ぐにの方に向かってきた。巨体に似合わぬ身軽さでするすると樹を登り、あっという間に篭へ手をかける。

「よう、お疲れ」

「――面倒をかけるな。済まなんだ」

 あくまで軽く労うと、きしりと鋭い牙が軋む音がした。律儀で頑固な彼のことだ、今の状況に対する謝意だろう。スヴェンから見ればこの程度、拘束されている内にも入らないので暢気なものだ。

「で、結局これからどうなんだい?」

「明日、己が正を示す為、闘儀を行う」

「トウギ?」

「誇りを汚されしものが、汚しものに対し戦を申し込む。それで勝ちを得た者が正を得られる」

「決闘裁判ってことか。面倒だな」

「負けぬ」

 きっぱりと言い切った赤紫鱗の台詞に少し笑う。勿論、彼の術師としての実力は良く知っているが、この集落を見る限り、彼の体躯は決して恵まれているわけではないようだ。傲慢ともいえる台詞だが、いつも通り声に揺らぎはない。

「旦那が勝てば俺らも無罪放免かい?」

「然り」

「そいつぁ良かった。ま、いざとなりゃ自力で抜け出すから気にすんなよ」

 そう言いながら、さりげなくの床部分の蔓を指さす。気取られないようにあちこちに切れ目を入れているのに赤紫鱗も気づいたらしく、大きな目をぐるりと回した。

「こうしときゃ、いざとなったらモルの力で引きちぎるぐらい出来んだろ」

「……抜け目の無いことだ」

「誉め言葉として受け取っとくぜ」

「称賛している」

「そいつぁどうも」

 鼻先から太く息を吐き出し、赤紫鱗は広がった枝の上に器用に足を組んで座った。

「――我がこの里を出たのは、もう十巡りも前になる」

 視線は本々の合間から僅かに見える、暗くなってきた空に向けられたままだ。朴訥に語る声を、スヴェンも蔦の壁に寄り掛かりながら聞く。

「生まれてより、水竜と樹竜の印を受け、巫と成った。その時に、妻も決められた。薄澄鱗――自き鱗の娘、その母だ」

「ふぅん」

 先刻少しだけモルニィヤの通訳で聞いているが、わざわざ他人の過去をほじくり返す趣味は無い。勿論、相手が語りたいのなら聞くのはやぶさかでも無いので、あくまで軽く促す。視線を向けると、赤紫鱗は僅かに顎を引き、声を潜めて続けた。

「……卵を孕んだものは魂を焼き尽くし、子の糧とする」

「ん……?」

「如何なる、強き者であれど、避けられぬ」

 ほんの僅か。赤紫鱗の朴訥な声が軋んだ。

「それを無様に恐れ、我は――契りを果たさず、捨てて、逃げた」

「――!」

 難解な言い回しを漸く頭で解きほぐして、スヴェンも目を見開いた。

 ……蜥蜴人の数は少ない。この大陸に広がる国は殆どが只人によるものであり、蜥蜴人は人里離れた地で集落を作るぐらいしか個体数が無い。文明を拒む野蛮人であるからと嘯く声もあるが、もっと根本的な原因があるのならば。

「……孕んだら、確実に死ぬのか」

「然り」

「じゃあ、あの白い奴は」

「我が逃げた後、契った戦士との子である」

「そ、か」

 何を言えば良いのか解らず、流石にスヴェンも口が重くなった。蜥蜴人と只人にどれだけ懸想に関する差異があるかは知らないが――自分が本気で伴侶にしようと思った相手が、子を成せば確実に死ぬと解っていて、それを選べるのだろうか。疑間が視線に乗ったことに気づいたのか、僅かに鼻を鳴らして赤紫鱗は、もう一度木の葉の合間に見える狭い空を仰いだ。

「定めと、決められていた。父も母も、そのまた父も母も、皆そうして血を繋いできた。命とは、そうして回すもの。理解している。理解している、が――」

 篭の蔓を掴んだままの、赤紫鱗の爪が、ぎしりと食い込んだ。

「我は許せなんだ。故に、この里を捨てた。我が魂を賭けて決めたが故に、漂泊の民となったことに後悔などは無い。只」

 縦の瞳孔が揺れ、見開かれていた瞳がゆるりと皮膜を閉じ。

「我が、あれを――いずれ生まれたであろう、あれの子と共に、捨てたことに、変わりはあるまい」

 だからこそ、彼は故郷の裁きを受ける気になったのだろう。その上で、勝つつもりで。

「……勝ちさえすりゃあ、この里に残るのもありなんじゃねえの?」

 爪を食い込ませる鱗の手を、軽く指の背で撫でて、そっと問う。

「否。最早此処は我の地に非ず。一度足を止めれば、また歩き出すのみ」

「はは、同感だ。……勝ってくれよ?」

「無論」

 結局のところ。どんな理由であろうと、自分も彼も漂泊の民なのだと納得してしまったので、やっと蔓から離して握られた相棒の拳に、篭の隙間から伸ばした拳をこつりとぶつけた。




 ×××




 一夜明けて朝になっても、森の中はいつも変わらず薄暗い。

 薄澄鱗にとっては、変わらぬ一日の始まりだった。集落から少し離れた、亀の穴と呼ばれる丸い沼が、闘儀の舞台だ。罪人である赤紫鱗は、既に沼へ腰を沈めている。その姿に怒りや怯えは無く、ただ泰然としていた。

 ほんの僅か、苛立ちが呼気にってしまったことに気づき、自戒の為に軽く歯を鳴らして堪える。

『ご心配召さるな、白き巫よ。憂いを晴らす為、我がこの地に立ちましょう』

 部下である大柄な戦士――巫の素質は無いが、今この里の若衆で一番の腕前だ――が気炎を吐いて喉を鳴らす。闘儀に当たり、咎を犯した者に対し因縁深き者は、沼に入ることを許されない。これはあくまで罪の是非を竜に魂を捧げて間う儀式であり、そこに個人の感情を差し挟むことは許されないからだ。故に彼女は代理を立てた。

『では、勝ちなさい。我の戦士。ナヤンブに血を捧ぐことを許します』

『直ちに!』

 周りの戦士達も一斉に吠え、沼は物々しい雰囲気に包まれる。その中でも、罪人である筈の男はただ、皮膜で目を閉じている。

 蜥蜴人としては小さな体躯。しかし巫としての実力は確かで、だからこそ次ぐ力を持つ薄澄鱗の母、白骨尾との婚姻を望まれた。しかしそれは、彼が逃げたことで立ち消え、未だ、自分は母の域を超えることが出来ていない。母の魂を捧げられたにも拘わらず、だ。

 成さぬ未熟な己への苛立ちが、かの男に向かっていることは只の八つ当たりであろうと理解している。だが――まだ卵だった己だけに聞こえた、母の最期の言葉を思い出してしまう。

『母は、最期に父ではなく、貴様の名を呼んだのだ』

 誰にも聞かれないよう、小さく呟いてから、薄澄鱗は声を張り上げた。

『これより闘儀を執り行う! 咎者、今や氏の名も無き赤紫鱗よ、異議は有りや無しや!』

『――無し』

 いらえは一言だけ。蔦を編み上げて作られた杖を軽く振り構える、それだけで十分とばかりに未だ皮膜を開かない。

『対する、水芭蕉の重ね爪よ、異議は有りや無しや!』

『無し!』

 戦士は両手を振り上げて吠える。その爪は生まれつき、4枚や5枚の爪が蛇腹のように重なって伸びており、これに掻かれれば傷は広がって膿み、命を落とすと恐れられている。一撃でも当てれば確実に、赤紫鱗の命を奪えるだろう。

 僅かな高揚を飲み下し、あくまで里を治める巫として、薄澄鱗は命じた。

『なれば、水竜ナヤンブと樹竜マザラの名に於いて、牙を剥き、爪を合わせ、血を捧げよ!』

 その声と同時、重ね爪が駆け出した。沼地の泥など、蜥蜴人にとっては歩き慣れた道も同じ。泥水を蹴立てて、僅か十歩もあればその爪は赤紫鱗に届く。巫がその祝詞を捧げて竜の力を齎すには、いかな簡単な術でも時間がかかる。酷く不公平な闘儀であることは百も承知、本人が認めたのだから容赦もない。

 沼地を囲む全ての蜥蜴人が、同じ結末を感じ取ったと同時。少し離れた蔓の篭中からでも、位置が高いお陰で闘儀の様子は見えていた。

「――遅えな」

 心配からかぎゅうっとしがみついてくる娘の頭を撫でてやりながら、何でもない事のようにスヴェンが呟いた、と同時。


『――雷電!』


 沼から飛び上がり、たった一言。赤紫鱗が口を開いて発したのはただそれだけ。同時に、彼の牙が並んだ口端から、青白い稲妻が地に向かって迸り、凄まじい音と共に沼が輝いた。網膜を焼かれた蜥蜴人達が悲鳴を上げ、スヴェンもモルニィヤの目を塞ぎながら自分も閉じて――すぐに収まった光に合わせて瞼を開いた。

 沼地はしんと静まり返り、重ね爪はその大きな体躯を沼地に半ば沈めて倒れていた。死んではいないようだが、体が痺れて動けないようだ。

 ざぶりと着水した赤紫鱗は、軽く鼻で息を吐き、呆然としている薄澄鱗へ視線を移した。

『闘儀は成った。水芭蕉の巫よ、見届けたか』

『――如何して』

 途方に暮れた子供のようにぽつりと呟かれて、やれやれと目の皮膜を眇める。

『術の研鑽を重ねれば、祝詞は身の内に捧げるだけで良い。……我も、この里を抜けて漂泊の旅をせねば気づけなんだことだ』

 竜に祈りを捧げる為の祝詞が何より大事であると、この里の――否、ほとんど全ての蜥蜴人がそう思っている筈だ。それが彼らの信仰であり、常識であった。

 しかし赤紫鱗は、全く信仰の異なる只人の中にも竜の息吹を使えるものがいることに気づき、その在り方を研究した。彼らも祝詞を唱えるが、高位になればなるほどそれを省略し、果てはただ思うだけで力を放てる者すらいた。

 信仰を捨てたわけではない。ただ、旅を続けるにあたって必要であると感じたからこそ、術と祝詞の研鑽を重ねた。何せ、揉め事に巻き込まれ、或いは首を突っ込むことが多い自覚はある、術の発動を早くすることに損は無いからだ。

 鼻先を上げると、僅かな木漏れ日の下に吊り下げられた中、嬉しそうに暴れて篭を揺らす青髪の娘を宥める青年が見える。

 自分が勝つことを疑っても居なかったのだろうその姿に、己の誇りを捧げるべく大きく息を吐いた。




 ×××




 目の前にどんと置かれたのは、丸焼きにされた水牛一頭。

 野趣あふれる代物だが、周りの蜥蜴人は気にした風もなく無造作に噛みつき、引き千切り、齧り取っている。

「闘儀が終われば、後は祀になる。貴様も食らうが良い」

 そう言いながら赤紫鱗は、命を懸けた戦いをした気配など微塵も見せず、いつも通り朴訥な言葉と共に水牛の腿肉を丸一本持ってきた。ただ焼いたものであるらしく、少しナイフで削いでみると、焦げついた革の下はまだ肉が赤い。流石にこれをこのまま口に入れる勇気はスヴェンに無かった。

 どうするかな、と首を捻っていたところ、赤紫鱗に動きは無い。ただスヴェンの方を感情の見えない瞳でじっと見て――正確には、彼の荷物の方を見ている。視線に気づき、ああ成程、と言いたげにスヴェンは鼻を鳴らした。

「そっか、こいつが使えるな」

「然り」

 瓶詰のベリージャムを取り出し、軽く揺らして見せると牙の並んだ顎が深く頷いた。前に何度か作った味付けなので、赤紫鱗も覚えていたのだろう。ほんの僅かな面映ゆさを口元で噛み殺し、愛用の鍋を取り出す。

「あー、勝手に火って使っていいもんかい?」

「火の竜ギナの恵みと滅びは全てに与えられる、気にすることも無し」

 断言されたので、竃を組むことにする。石や乾いた薪が少なくて難儀したが、水気を蒸発させる術も使える赤紫鱗が用意を手伝ってくれた。勿論、やっと篭から出られたおかげで上機嫌に動き回るモルニィヤにも。

「おかさーん、いしいっぱいあったよ! ぬまにおちてた!」

「おう、有難え。お前あんまりうろちょろすんなよ?」

「巨人の娘に害を加える愚者がこの里に居るとは思えぬ。気にするな」

 泥まみれの石をどうにか組み合わせ、火を起こす。鍋をかけて、薄く削いだ腿肉を並べて火を通しつつ、真ん中に流れ落ちていく肉汁の中に、塩と残り僅かな香辛料、この前町で買った甘辛いソース、そしてベリーのジャムを瓶半分ぐらい放り込んだ。手早くかき混ぜながら弱い火で煮込む。甘味と酸味が効いた、肉に合うソースを作るのだ。

 何度か味見をしながらかき混ぜていると、下生えを掻き分ける音がして、また部下を引き連れた白い蜥蜴人が近づいてきた。流石に先刻赤紫鱗と戦っていた者はいないが、命に別状はなく寝込んでいるだけらしい。

『――何の薬を煎じているのです?』

 スヴェンには当然言葉が解らなかったが、鼻先をひくひくとさせながら鍋を覗き込んできたので、どうやらこれに興味があるらしいことは解った。どうしたものかと視線を赤紫鱗に動かすと、僅かに顎を引いて口を開く。

『薬に非ず。肉をより美味に食らう為の得難き代物だ』

『そんなに薄く切ってしまえば、食いでが無いではありませんか』

『然り。只人の顎では食い千切れぬ故仕方なし』

 会話を交わしているようだが、そこまで棘ついた気配が無いので、本当にあの戦いで全部けじめはつけたということで良いのだろう。後ろに控えている戦士達は胡乱に睨んでくるが、恐らく一番位が高いのであろう白い蜥蜴人が居る限り心配はなさそうだ。ソースの粘性がかなり強くなったのを確かめてから、火の通った薄切り肉をそれに潜らせて一枚ぱくりと食らう。

「……んー、こんなもんか。やっぱもうちょい香辛料ありゃなあ」

 前より塩味が心許なかったので、少し甘口になってしまったようだ。まあ贅沢は言うだけ無駄だし、硬い肉でも薄く切ったお陰で逆に歯ごたえが心地良い。料理が出来たことに気づいたらしいモルニィヤが駆け寄ってきたので反省を終え、もう一枚掬う。

「おかさん! ごはんできた!?」

「おう、ほら口開けろ」

「あー……んむぅ! ほいひぃいい!!」

 ソースを垂らさないように注意しながら、ナイフの先に刺した薄切り肉を娘の口に放り込んでやると、両手で頬を覆って大はしゃぎしている。もぐもぐ動く頬は幸せそうに綻んでおり、どうやら味付けもお気に召したようだ。僅かに安堵しながら、二枚目を掬う時には、既に赤紫鱗が隣に陣取っていた。

「はいよ、旦那」

「む。――美味也」

 ぐわ、と開いた牙だらけの口に、肉を放り込んでやる。モルニィヤにやった物より気持ち大き目だ、此処での慰労も兼ねているので。

 さてもう一度自分の分をと思った時、白い蜥蜴人がするりと近づいて来た。さりげなく赤紫鱗が動線を塞ぐが、赤い宝玉のような丸い瞳がじっとスヴェンを見据えてくる。

『興味が有ります。我にも寄越しなさい、只人よ』

「……此れがお前の仕上げた肉を欲している。不満があるのならば渡さなくて良い」

 凄く鼻先に皺を寄せて言われたので、不満があるのは旦那の方じゃなかろうかとは思うが、無駄に争いの種を増やすつもりはない。手早く準備して、焼けた肉をソースに潜らせる。

「はいよ」

 ナイフで差し出すのは流石に駄目かと思っていたが、気にする風も無く齧り取られた。

『……成程』

 僅かに俯いたまま暫く、肉を噛み続け小さく呟き、頷く。表情は赤紫鱗よりも更に読めないが、そこまで悪くは無かったようだ。

『何故このような工程を行うのかという理由は理解しました。悪くありません』

 白い蜥蜴人が喋ったと同時、周りの蜥蜴人達の喧騒が大きくなる。彼等も食べたいのかもしれないが、流石にこれだけの相手に分配したら自分達の分のソースが無くなってしまう。

 それに気づいているのだろう、赤紫鱗だけでなくモルニィヤも鍋を庇うように動いたので、近づいては来なかったが。やれやれと息を吐き、追加の肉を削いで焼くことにする。甘めのソースももう少し煮詰めた方が良いだろうから。




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(世界自然百科/原初の七竜について より抜粋)


火の竜ギナ

 原初の七竜の中で最初に始原神イヴヌスに創られた竜とされる。北方海の海底火山にて眠り続けているとされており、数多くの竜人に信仰されている。「全ての火山はギナの心臓、全ての溶岩はギナの血液」と信仰する竜人の間では伝承されている。



水の竜ナヤンブ

 海神ルァヌの伴侶とされる竜であり、ともに信仰されている事が多い。全世界の海に住まう竜人や、海岸に面した国家や街でも信仰が残っている。「ルァヌに祈り、ナヤンブの波を聞け」という海難避けの祈文は現在も船に刻むことが多い。



樹の竜マザラ

 鳥獣女神スプナの伴侶とされる竜。始原神が眠りについた後も全ての生物を見捨てなかった神と竜であるとされ、南方大陸では現在も広く信仰されている。



土の竜トォデオ

 現存する資料がほぼ残っておらず幻の竜ともされていたが、××××年に藍皇国の都市・尖頭ジァントゥに原因不明の直下型大地震が起き、その後都市そのものが10万人の住民と共に海陸問わず移動を続けるようになった。その原因がこの竜であるという研究が藍皇国にて発表されたが、学会は懐疑的である。



風の竜オーフエレ

 トォデオと同じく、資料がほぼ残っていない幻の竜。竜人による信仰の上でもそもそも実体が無いとされており、絵姿に描かれることもほぼ無いため、嘗ては「原初の七竜」という言葉自体が誤りではないかとされていた。現在はオーフエレを加えて七竜とすることが一般的である。



光の竜ィヤスロゥ

 金陽神アユルスの伴侶とされる竜だが、アユルスの吐き出す光そのものともされており、名は広く知られているが信仰しているものは少ない。神人には発音が難しく、表記揺れが多い(イヤスロ、ヤスーロ、ヤズロウ等)。



闇の竜ラトゥ

 銀月女神リチアの伴侶とされる竜。銀月が満ち欠けを行うのは、ラトゥが妻の姿を地に晒すのを嫌がる為や、妻が神として封じられることを防ぐ為腹の中に入れて守っている等の伝説が多数残されている。極北の島国エルゼールカを30年に渡って襲い続けた黒い飛竜は、全てラトゥの眷属とされており、2度だけ現れた巨大な個体はラトゥそのものである、と言う記述が残されている。




編修注:以前の版では「蜥蜴人」「只人」の表記が使われてきましたが、特定の種族に対する差別的な表現となる可能性がある為、「竜人」「神人」に統一されました。

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