漂泊の民と熱冷まし粥
『■■■■、早く行きなさい。二度と戻ってきては駄目よ』
『今のお前の足なら、封折山脈を超えられる。出来る限り、この里から離れるんだ』
『大丈夫よ、体が治ったら、お父さんもお母さんもすぐに追いつくから』
『我々の足なら山脈など一跨ぎだ。良い子だから、行きなさい、もう――』
「――……ふぇっ」
自分の泣き声でモルニィヤは目が覚めた。涙と鼻水で顔がかぴかぴしている。両手でぐしぐしと顔を拭い、彼女にとっては小さめの毛布の中に潜り込む。
酷く悲しい夢を見ていた気がするけど、どんな夢だったか思い出せない。それなのに頭の中はぐしゃぐしゃで、涙が止まらない。小さく唸りながら縮まって、洟を啜り続けていたけれど。
「……おなかすいた……」
きゅるる、と腹の虫が騒いで、モルニィヤの頭はご飯のことしか考えられなくなる。檻に閉じ込められている時もずっとそうだった。昔は野菜くずや水だけでも貰えればいい方で、いつも空腹で仕方なかった。だから今がずっと幸福であるのは、解っているけれど。
半身を起こすと、南に歩くにつれて増えてきた森林の中に、昨日からずっと広がっていた霧は薄まっていた。これのせいでろくに動けないし狩りも出来なかったので、夕飯は非常に慎ましやかな味の薄いスープだけだった。スヴェンの分から半分ぐらい強請って貰ったのだが、それでも育ち盛りの巨人の娘である彼女にはとても足りない。
辺りを見回すと、僅かに煙を上げる焚火の周りで、胡坐を掻いたまま眠っている蜥蜴人と、毛布に包まって寝ている只人がいる。いつもならモルニィヤが起きる頃には二人とも起きている筈なので、随分早く目が覚めてしまったらしい。
「おかさん、ごはんー」
毛布に包まったままべたぺたと裸足で近づいて行って、軽くスヴェンを揺り動かそうとして――きつく目を閉じたままの彼の顔が、酷く赤くなっていることに気づいた。
「……おかさん?」
そっと皮膚に触れると、燃えるように熱い。返事はなく、丸まったまま荒い息を吐き続けるスヴェンに、モルニィヤは叫び声をあげた。紛れもない、恐怖の。
×××
「――熱が高いな。……火の竜の障りか」
「……ッ、ぁく」
「声を無理に出すな、喉が裂けるぞ。薬を用意する故、少しでも眠れ。竜の障りを退けるのは己の魂のみ」
只人と蜥蜴人が同じ病にかかるのかどうかは、赤紫鱗も知らない。だがこの症状には嘗ての故郷で、覚えがあった。術式で退ける怪我とは違い、病を癒すことは非常に難しい。それなりに治療のやり方は得ているが、それが効くかどうかは患者次第だ。気力が続かねば、簡単に命は零れ落ちる。
僅かに鼻先に皺を寄せながら、赤紫鱗は自分の掌でスヴェンの瞳を覆った。水の竜の末裔である蜥蜴人の冷たい肌が心地よかったらしく、少しだけ安堵の息を吐いて彼は目を閉じた。寝ていた方が体力の温存になるだろう。
「………ぃ、てけ」
「眠れ、と言っているであろ。水も飲め」
乾いた唇で掠れながら紡がれた共通語に被せるように告げると、水袋の吸い口をそこに突っ込んでやった。んが、と悲鳴をあげるものの水は素直に飲んでいるようなので手を離す。
……漂泊の民とは、歩き続けなければならない民。それ故に、歩けなくなった者の末路は厳しい。年老いたもの、怪我や病を得たもの、心が折れたもの。どんな理由があれど、歩けなくなった者を連れて歩く漂泊の民は殆どいない。重すぎる荷物を背負えば自分達も歩けなくなることを、よく知っているからだ。情をかけて自分が削られては、何の意味も無いというのが定石だ。
だから、そうなってしまった者達は、道のりの半ばで置いていかれる。町や村に置かれたならばまだしも、荒野や雪山でも捨て置かれる。彼らにとって歩けなくなることは死と同義。長年そうやって過ごしているスヴェンも赤紫鱗も、それを知らない訳がない。
しかし赤紫鱗は荷物を纏めることも無く、逆に手荷物から火にかけられる土壷と、様々な色をした毒々しい薬草と茸、黒い殻に包まれた穀物の粒を取り出す。焚火の火を起こし直して小さな壷で湯を沸かし、穀物は擂鉢で荒く潰す。黒い殻が割れて出てきた中身を、湯の中に薬草と共に放り込んだ。
「水が更に要る。モルニィヤ、川の気配は解るな? 汲んで来い」
低く平坦な声はいつも通りだったが、普段なら返ってくる返事は無い。ぐるりと大きな丸い瞳を回して青髪の娘の方を見やると、彼女は両膝を腕で抱えたまま、どこか呆然とした顔で、意識が茫洋としているらしいスヴェンを見つめている。目を逸らすのが恐ろしいとでも言うように。
「モルニィヤ」
もう一度名を、先刻より強く呼ぶと、びくりと肩が跳ねる。しかし何かを拒むようにいやいやと首を横に振り、縮こまってしまった。
鼻先から細く息を吐き出し、赤紫鱗は立ち上がる。蹲った娘の前にどかりと座り直し、静かに問うた。
『病が恐ろしいか』
意味を間違わないようにと、精霊語で話しかけた。青髪の頭が、小さく頷く。
『今、あれは戦っている。火の竜の障りが続けば、臓腑が茹りあがってしまう。それを退けるために水が要る。解るな』
うー、と小さく唸る声がした。一応肯定したのかもしれない。
『ならば行け。我は障りを退ける薬を作る故、火の傍から離れられぬ』
『やだ!!』
ばっと顔を上げたモルニィヤの顔は、涙に塗れていた。僅かに鼻を鳴らすが、赤紫鱗も止めはしない。幼子であろうと、互いの主張を聞かねば会話は出来ないのだから。
『やだ、やだ、やだ!! 離れない!!』
『何故だ』
『離れたら、死んじゃう! お父さんもお母さんも、みんな死んじゃう!!』
『――』
『離れて、待ってたのに! 待ってたのに来てくれなかったの! いっぱい熱が出て、動けなくなって! やだ、もうやだ、絶対やだ……!!』
ぼろぼろと涙を零して必死に紡ぐ彼女の話は、随分と要領を得ないものだったけれど、赤紫鱗は僅かに目の皮膜を細めて顎を引いた。
『……なればこそ』
ゆっくりと両手を仲ばし、長い爪が彼女を傷つけぬよう、そっと濡れた頬を包んでやる。
『病を退ける為、出来る限りの事を成す。貴様は離れて逃げるのではない、あれが戦う術を増やす為、救う為に必ず戻ってくるのだ』
『……、』
首を横に振るのは堪えたようだが、やはり恐怖が先に立つのだろう、声が出てこない。以前彼女に過去を聞いた時は何も覚えていないようだったが、今の状況から繋がって思い出したのかもしれない。
恐らく、彼女が生まれた巨人の里で病が広がり、家族も倒れ――病が移る前に、親から逃げるように言われたのだろう。せめて幼い子供だけでも、命を助ける為にと。彼女はその言葉に従い、独りになって、人買いに捕まり売られてしまった。
まだ幼い彼女に与えられた、理不尽な恐怖は計り知れまい。だが、赤紫鱗は未だぴくりとも動かず寝入っているスヴェンの姿を、大きな瞳で捉えて、更に続けた。
『吾も、貴様も――あれを失いたくは無いであろ。行け、モルニィヤ』
ほんの僅か、濡れた青い瞳が瞬き、赤紫鱗とスヴェンの間を何度も行き来して――ぎゅっと口を結び、漸くモルニィヤはこくんと頷いた。
×××
土壷の中で煮込み、ふやけた穀物に、磨り潰した辛子の種と、土の竜トォデオの欠片とも言われる茸の粉末を混ぜる。見た目は粥だが、色は黒っぽく、どちらかというと薬の類だ。体の中に或る火の竜の力を取り除き、再び侵されないよう守る為のものだ。
壷の中をぐるぐるとかき回し、粘性になったものを皿に取り出す。振り向くと、先刻赤紫鱗に言われた通り、汲んだ水で布を濡らし絞り、何度もスヴェンの額に当てているモルニィヤがいた。まだぐすぐすと鼻を啜っているが、自分がやるべきことをちゃんと成している。
「良し。――起きられるか」
「……ン」
「おかさん!!」
薬を持って近づいていくと、僅かな呻きと共にスヴェンが目を開けた。すぐさまモルニィヤが縫りつくが、未だ熱に浮かされているらしく、目が焦点を結んでいない。
僅かに沸いた不安という名の居心地の悪さを、軽く歯噛みをするだけで堪え、あくまで普段通りに赤紫鱗は彼の目の前に腰かけて話しかけた。
「薬だ。せめて一口、出来れば三口飲め。後は貴様次第故」
「……は、あんた本当、変な奴だな……」
呆れたように皮肉を呟くのはいつもの彼と変わらず、赤紫鱗は安堵の息を吐くのを堪え、匙で粥を掬って、僅かに開いた唇の間に差し出す。
「……っ、ぅえ」
正直味が美味さとは程遠いことは良く知っているので、反射的に吐き出しそうになったのだろう口をぐっと掌で押さえて止める。涙目で睨まれたが許さず、観念したようにごくりと喉が動くまで手を離さなかった。
「おかさん、くすりおいしくない……?」
「辛ぇし、苦……。三口でいいんだな……?」
「然り。耐えろ」
物凄く嫌そうだったが、己の命を繋ぐために必要なものだと理解しているのだろう。用意した赤紫鱗のことも、信用しているからこそ、覚悟を決めた顔でもう一度口を開いた。誇らしさから頷いて、赤紫鱗は再び匙を差し出す。今度は掬う分を気持ち多めに。スヴェンは眉を限界まで顰めたまま、どうにか三口飲み込んだ。
「……ぅっげぇ……」
「おかさん、おみず」
「おう、あんがとな……」
素早くモルニィヤから椀に汲んだ水を差し出され、遠慮なく一息に飲み干す。赤紫鱗は壷に蓋をすると、広げた毛布でスヴェンの体を包んで再び寝かせてやった。
「後は貴様の気力次第。――打ち勝て。貴様は強い」
「はは、精々頑張るさ。……悪ぃな」
眠りに落ちる直前、小さく零れた詫びは聞こえない振りをした。捨て置かれるのも覚悟の上だったのだろうが、少なくとも赤紫鱗には全くそのつもりは無い。
一度、誰からも唾棄され消されかけた彼の命を救うと誓ったのは赤紫鱗だ。だからこそ、何があろうと彼の命を保つために尽力するのは当然であったし――この道行をまだ終わらせたくないと思っているのは、恐らくこの場にいる全員の、共通の思いであろうと理解していたからだ。
×××
全然お腹が空かない。日が暮れて、再び火を囲んで寝床に入っても、モルニィヤの腹の虫はちっとも鳴らなかった。理由は解らないが、ご飯を食べる暇が無かったので、彼女としては問題も無かった。
焚火を挟んで向こう側に、スヴェンが眠っている。本当は隣にくっついて寝たかったが、火の竜の障りは他者に移る可能性があると言われ、渋々離れた。その隣には赤紫鱗が、先刻までモルニィヤがやっていた濡れた布を当てる作業をずっと繰り返している。……水の竜の末裔である蜥蜴人は、火の竜の障りにかかりにくいと言っていたが、本当だろうか。不安は後から後から湧いてくる。
ほんのちょっとだけ、思い出した、昔のこと。父がいて、母がいた。父は狩りが上手で、母は料理をたくさん作ってくれた。他にも、今のモルニィヤよりもずっと大きな人たちが、一緒に暮らしていた。
何がきっかけだったのかは解らない。ひとりが熱を出して倒れ、体中に発疹が出た。それはあっという間に周りに広がり、父と母も同じようになった。
モルニィヤは――その時は別の名前で呼ばれていた気がするが、思い出せない――、何故か全く熱が出ず、発疹も出なかった。両親はこの病を、病神シブカの毒だと告げて、お前だけでも逃げろと言った。
怖かったけれど、治ったら必ず追いつくからと言われて、モルニィヤは走った。丘を駆け降り、森を抜け、山を越えた。ようやっと広い場所に出た時には疲れ果てていて、只菅眠ってふたりを待ったけれど、どれだけ金陽が昇って銀月が沈んでも、ちっとも来てくれなかった。
そしてある朝気が付いたら、縄で縛られて馬車で運ばれていた。周りには小さな人たちが沢山いて、見た日だけなら上玉だの、知恵遅れだの、色々言われていた気がするがやっばり覚えていない。共通語も碌に知らなかったし、お腹もぺこぺこで、何か言うと棒で叩かれるのが怖くて、檻の中でずっとじっとしていた。
だから――あの時、赤紫鱗が解る言葉で話しかけてくれて、スヴェンがこっそり檻の鍵を開けてくれて、驚いた。父と母は小さな人たちに関わるな、とずっと言っていたし、その中に自分に優しくしてくれる人がいるなんて知らなかった。
ふたりともとても優しくて、一緒に居れば凄く温かくて、美味しいものが食べられる。もう二度と、失いたくなかった。
「ゃだよぅ……」
小さく呟きながら、いつの間にかうとうとと眠ってしまったらしい。重い瞼をぱち、ぱち、と瞬くと、近くに背中が見えた。驚いている内に、身動ぎに気づいたのか振り向いてくる。いつも通りの、ちょっと困ったような笑顔で。
「よう、モル。目ぇ覚めたか」
「……おかさん!!!」
がばっと毛布を蹴っ飛ばして起き上がり、彼の背中に抱き着いた。ぐお、と僅かな悲鳴が聞こえたが構わずにぎゅうぎゅうと両腕に力を込める。触っても、昨日のような熱さは全く感じない。熱が下がったのだ。
「おかさん、げんき!! やったぁ!!」
「わかった、わーかったからちょっと腕緩めろ……!」
いつも通りのスヴェンの言葉に、叱られていると解っていても離れたくない。がっちりしがみついていると、振り解くのは諦めたようで、そのまま手を動かし出す。ふわりと鼻に届いたスープの匂いに、ぐうっと思い切りお腹が鳴った。
「んだよ、昨日飯食わなかったのか?」
「ん! おなかすいた!!」
「はいはい、ちょっと待ってろ」
背中に抱きついたまま――モルニィヤの体格差だと覆い被さる、の方が正しい――スヴェンの手元を覗き込むと、いつもの大鍋の中に大きめの干し茸が何個か浮かんでいた。感じた匂いはこれだったらしい。
そしてスヴェンは、赤紫鱗の使っていた小さな壷の中身を、そのままぼしゃりと鍋の中に入れてしまう。ぐるぐる掻き回すと粥はあっという間に攪拌した。
「おかさん、それからくてにがくない?」
「とっときの干し茸で出汁取ったから、何とかなる……と思う。勿体無ぇし、念のためにお前も飲んどいた方が良いだろ」
「薬は苦きものだ」
がさがさと下生えを掻き分けて、どこかに行っていた赤紫鱗が戻ってきた。川に行っていたのか、全員分の水袋と共に、随分と大きな川魚を一匹、どさりと地面に放る。
「冬につれ、脂が乗っている。使うが良い」
「おう、いいね。けど旦那、少しは薬も味に気ぃ使った方が良くね? あんなん飲めたもんじゃねぇよ」
「詮無き事」
ふん、と鼻面を上げて諭すように言うものの、薬を入れたスープの行方は気になるらしく視線は鍋から離さない。スヴェンも助けて貰った手前それ以上不満は言わず、手早く魚を捌いて内臓以外は全部ぶつ切りで放り込んだ。
塩で味を調え、魚の脂がしっかり溶けて身が白くなった辺りで鍋を火から下ろし、三人で囲む。モルニィヤは真っ先に魚と一緒に、スープを口に放り込んだ。
「あひゅい! でもおいひいぃ!」
「む――美味也」
「よっしゃ」
薬の味を誤魔化せた事が嬉しかったらしく、スヴェンがぐっと拳を握った。事実、嫌な味は殆ど無く、茸と魚の味がどちらも旨味を放っている。空腹も手伝ってモルニィヤの匙はどんどん進んだ。鍋の底に沈んでいた僅かな穀物も気にせず口に入れ、
「ぅ。ちょっとからくて、にがぁい」
「やっぱ薬そのものは無理か……」
「耐えよ」
びっ、と背筋が震える刺激のある味だったが、スープの味のお陰で我慢できない程ではないのでぎゅっと飲み込む。ちょっと心配そうに覗き込んでくるスヴェンと、深く頷き諭す赤紫鱗の顔を交互に見て。
「……おいしいねぇ、おとさん、おかさん!!」
いつの間にか、恐怖を全部忘れてしまったモルニィヤは、満面の笑みをふたりに向けた。ふたりとも、解りにくいけれど笑顔で返してくれることを知っているから。
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