第六話


 世のなかマジでしゃれにならないほどクソだと思う。

 シャレというよりも冗談にしてはいけないレベルってニュアンス。ふざけんなよって思うことがあんまりにも多すぎる。

 辞める旨を伝えたら正直笑えるほどの剣幕で怒鳴り散らしてくるヤツだったり、一週間留守にして子供一人連れ帰ってきたってのにガン無視というより気付いてすらいないヤツだったり、クソ適当な理由で休んだのが気付いたら留学とかになってて話したこともないのに土産せがんで来たくせ本当にないんだと知れば舌打ちして帰ってくヤツだったり、気安く人の命背負わせて自分勝手に死ぬヤツだったり。

「あかり」

「ん?」

『図書館行きたい』

「いいよ。行こうか。着替えといで」

 視界の端でひらりと揺らぐ金髪がクローゼットを開ける。

 世のなかマジでクソ。

 いっそ笑える。

 誰が死んでもなんも変わらんのが面白すぎてバイクパクって窓ガラス割って回りたいくらい。道行く人の頭部ホームラン大会したいくらい。そんなことしたって世のなかなんも変わりゃしない。笑える。

 しょうもない世界でしょうもない人間が今日も無職でふらふらしてる。

 単位計算して最低日数でなんとか卒業しようと計画中。底辺校だし日本だし。卒業できないなんてことはない。なんとかなる。知ったことか。

 どうでもよく。

 一生分泣いたからか情緒が急激に死んだ。

 全部すり抜ける雲か濃霧か幻覚みたいなもん。

 シャブ食ってるヤツのほうがマシに見える世界はまともなヤツから死んでいく。ざまあないね。

 あたしもそのざまあないの一員で、残骸。

 不意に思い出した『教会の子』という疑問に、着替えているリリィを横目で見つつもスマートフォンの検索バーに「くぜしょうた」と打ち込む。

 出てきたのは六年前、行方不明になった中学二年生の記事。

 当時小学二年生に上がりたての少年が強盗によって刺殺された両親の凄惨な現場を目撃した。その後、祖父母に引き取られる。それから六年後、久世翔太という男子中学生が、祖父母が体調を崩し入院することになってすぐに行方がわからなくなった。祖父母はその話を聞いてすぐに亡くなったそうだ。

 六年前で中二ってことは……十九? あいつ年上だったんかよ。つーか行方、わかんなくなることあんのか? 中二の、男の子が。

 たぶん、全部想像だけど。

 おそらく翔太は誘拐されたんだろう。

 さらったヤツが殺しを教えて、翔太は晴れて立派な殺し屋に。さらったヤツが元々やっていた仕事を引き受けたりとか、ない話じゃないだろう。

 どうでもいいことでケタケタ笑ってくれるアイツが、自ら望んでそうなったとは思えない。一度人を殺してしまった瞬間から、戻れなくなったんだろう。

 あたしだってもう戻れない。

 『次』があったら、たぶんあたしは迷わず警棒型スタンガンを振り下ろすだろう。

 何度も。もう二度と。動かなくなるまで。

 新しいウィンドウを開き、検索バーに「教会 子供 死亡」と打ち込んだ。

 真っ先に表示されたのはアメリカでの教会銃乱射事件だった。

「さすがに載ってないかぁ」

「どうした?」

 たどたどしい日本語があたしを呼んだ。

「リリィ。教会の子ってわかる?」

 やけくそで、というか日本語じゃない間でそんな話をしていたかもしれないというもっともらしい理由を持って、少女の記憶に踏み込んでみた。

「あたし」

「そうなの?」

 翻訳で話すのも慣れた。いまはリリィが日本語を頑張って習得中で、こっちに来てから覚えたいと言い出したのは正直びっくりした。

『教会に住んでた。父さんが痛いことした。レネイが助けに来た。だからついてくことにした』

「なーる。レネイは?」

『嫌がるけど連れてってくれた』

「ほお」

 思ってるより、人間らしい人だったんだな。あの人。

 日本にある我が一軒家に来てからもう二週間弱。学校に行った日は四日と半日。

 リリィの日本語は日々上達している。簡単な挨拶の使い方や簡単な単語くらいならすっかり覚えた。

 当然のように繋がれるてのひらに、この子はレネイというたった独りの男に愛されてきたんだなって、いつも思う。

「行こっか」

 古いあたしの洋服があってよかった。七分丈のジーンズに薄手のパーカー、汚れが目立ってきた白いキャップをかぶせる。

「ぶかぶかだね」

 どんな顔を見たのか、少女は少し、ただでさえ大きい青の水晶玉を見開いて、それから曖昧に頷いた。

 腰まで伸びた金髪を切りたいと言い出したのは彼女からだった。

 あたしに切れとキッチンバサミを渡してきたときは勘弁してくれと変な声が洩れた。一応毛先だけ切って、不服そうだったので速攻美容室に突っ込んだ。

 いまじゃ肩に擦れるくらいの長さに落ち着いた金髪は、今日もふわりふわりと漂っている。

 キャップはあたしがかぶることにして、金髪には新品の麦わら帽子を乗せる。

「かわいい」

「うん」

 トートバッグには安物の水筒と、サイフとスマホ。昨日借りた絵本の束。

 今日は昨日よりも日差しが強い。鍵をかけて熱くなったアルミの門扉をくぐる。

 少女のちいさなスニーカーに合わせて歩幅を縮めて歩く癖がついた。

「本日も晴天なり」

「?」

「今日もいい天気ってこと」

「きょう、は、おてんき」

「はは、そう」

 午後になったばかりのアスファルトから立ち上る熱気にくらくらする。子供の足で歩いて二十分の道すがら、コンビニに寄って涼むのが習慣になった。ついでに帰りは行きに気になった商品を買って帰る。

 リリィは安いミルクのアイスバーを気に入ってるらしい。今日もそれかな。

 コンビニを出てすぐに、少女が口を開いた。

『レネイは、あたしを捨てたの?』

 見下ろした青は帽子のつばに隠れて見えなかった。

 捨てたと言えば捨てたのだろうし、聡明なこの子に誤魔化しを伝えたところで向かってくるのは冷めた眼差しではなく、鋭い刃物だと知っているので、現時点でのあたしの考えを伝えることにした。

「捨てたんじゃなくて、リリィすぐナイフ出すでしょ。そういうのと縁がない、普通の生活をしてほしかったんじゃないかな。少なくとも、あたしの見たレネイって人は、リリィのこと、大事に想ってたと思うよ」

「Knife、だめ?」

「向こう出る前に捨てさせたでしょ。あれあったら日本来れなかったよ。つーかあのぬいぐるみなんなのめっちゃ入るじゃん」

 背中部分にチャックがあったあのうさぎのぬいぐるみ。胴体の綿はほとんどなくて、なかに金と折りたたみナイフと少女のパスポートと、牢の鍵が入っていた。その上に拳銃まで収まってたと思うとゾッとする。

 浅くなった鼓動を正常に戻すために、酸素を混ぜ込んだ、肺に溜まった黒くてドロドロしたものを吐き捨てる。

「だいじょうぶ?」

「ダイジョーブ」

 あの日、銃の反動か恐怖か、震えの収まらない両手に少女は鍵を握らせた。牢の鍵を時間はかかったがなんとか外して、逃げた。

 逃げなきゃって、それだけで走った。少女の手を掴んで。あの夜みたいに。

 追手は来なかった。というよりも誰もいなかった。階段を駆け上って外に出れば空港が、目の前で。

 困惑に停止していれば少女が不意にどこかに消えて、物陰からあたしのバカみたいに目立つ青のキャリーバッグを括りつけられたリュックサックごと引きずってきた。

 荒縄で縛られたそれを解けずにいるとリリィはぬいぐるみからナイフを出して切ってくれた。

 そのままぬいぐるみに戻そうとした手をひったくって排水溝に叩き捨てた。なかを改めれば大金とパスポートに絶句して、いまはあたしの部屋に置いてある。

 チャックの中身に綿を詰めたのはわりと最近の話で、そのなかに日本金を突っ込んでいるのは昨日知った。

 信号のない通りを横断したところで、図書館はあと少し。

 ああそうだ。

 R……人の頭ぶん殴ってくれちゃったレネイはどうしているだろうか。想像に難くない気もする。

 逃がしたんだ。捕まってるか翔太みたいになってるか。

 まぁ。そうだな。

 あの人なら案外生きていそうな気もするけど。

「あかり」

「なに?」

「どうした、の?」

 純真な青が覗く。カルロとはまったく違う、色濃い青が、浅ましいあたしを陽の目に晒す。

「しょうたのこと?」

「まぁね」

 繋いだ手はどっちも少し汗ばんでいて、熱を含んだ風がふわりと喉元を掠めていった。

「いいひと」

「ん?」

「しょうた」

「……へぇ」

「こわい」

 子供ってのは良くも悪くも素直で正直。というのが世の印象であって、この子供にそれが通用するのかはわかりかねる。

「まぁ確かに。レネイよりはマシってくらいかな」

「?」

「レネイの方が怖いってこと」

 翔太は決して善人ではなかった。

 それでもまともであって痛いと足掻いている優しい人だった。

「平和だねぇ」

「うん」

 それでも意味不明に歪んでいる日本のなかで、まともになろうとしているこの子供を、あたしはせいぜい必死こいて守っていかなきゃいけない。

「あかり、これ」

 図書館のなかは冷房がやけに効いていてとにかく冷える。平日の昼間だからか人はほとんどいなく、どこもかしこもガランとしている。

「あーこれ小学校んときに読んだな」

「おもしろい?」

「なかなかに」

「ナカナカ……」

「面白いと思うよ。借りる?」

 こっくりと頷くちいさな頭を撫で、先にトートバッグに入れた本を返しにカウンターへ向かう。

 日本じゃ明らかに浮いている美しい見目と毛色はどうしたって仕方がない。

 学校とか、養子縁組? とかいい加減、なぁ。今日父さん来るって言ってたし頼んでみるかな。

 リリィに関心のなかった母さんとは違い、父さんは驚いてあれこれ訊いてきたがそれでも「なんかあったらいつでも言え」と言ってくれた。母さんは先週から精神科に通院しているらしいし、父さんの出入りも増えたから正直助かることが増えた。

 元々マメな人だからか、最近自炊に励んでいて、あたしとしてはおいしいご飯にありつけてラッキー。リリィのことも気にしてくれていて、絵本や服を買ってきたりドリルや言葉を教えたり。なんだか前よりもずっと生き生きしている。

「おじさん、きょう、くる?」

「そう言ってたけど」

「ほん」

「また買ってくるかもね。なんかいいのあった?」

「これ」

 軽くなった布切れを脇に置いて、百均で見る蛍光色のジョイントマットに腰を下ろした。ちいさなスニーカーの前で絵本を持ったリリィが駆け寄ってくる。

「……これ前も借りてなかった?」

「おもしろい」

「あ、そ。ならいいけど」

 ただのよくある童話だった。

 いたずら好きのきつねが健気にヒトのために尽くして、最期はヒトに撃たれて死ぬ話。

 どこにでもある話だ。

「どこらへんがツボなの?」

「?」

「面白いかってこと!」

「……」

 少し考えるそぶりを見せた少女が首を傾げる。それを合わせて肩に擦る金髪がさらりと揺れた。端末を寄こせと示すものだから放ってやれば、迷うことなく打ち込むわずかに赤らんだ細い指が画面を見せつける。

『きつねはあたしで翔太だ。』

 心臓が止まった。

 いや、心臓だけじゃない、血流も脳みそも肺も呼吸もいったん全部止まってしまった。

 あんまりにも、あんまりだ。

 つまりこのきつねを撃ち殺してしまったバカな男は、あたしであり、Rだと。

 翔太とあたしに関しては大正解。だけど。

 満足そうにニッと口角を上げて見せるまだ幼い少女は、まだまだ子供なはずなのに誰よりも大人の顔で笑うときがある。

 それがあたしは、少し怖い。

「しょうたと、あたし、にる」

「にる……似てる?」

「そう」

 あたしが知ってる翔太は幼く八重歯を見せて笑い、時折ひどく残酷なほどに冷たい目をする、子供のような大人だった。

 アレは、あたしの世界で唯一、正常であって揺るがない目であたしを見る人間だった。

 世界でただ独り、あたしを見つけた。

 見つけて、笑って手を差し伸べた。

 リリィもそうだったんだろうか。

 ひとりぼっちの狭すぎる世界に酸素を与えてくれた存在が、薄っぺらな感情を人好きのする微笑みで隠してしまうあの男だったとしたら。

「リリィから見たレネイってどーなん?」

「どう、?」

「どんな人だった?」

『本当は言わないけれど、嘘も言わない。たまに、眠るのが怖いとあたしをベッドに呼んで眠るときもあった。人は平気で撃つくせにあたしがケガすると慌ててた。大事そうに頬を撫でられたのも、髪を梳いてくれたこともあった。それでも父さんみたいなことは一度もしなかった』

「父さんの悪いことって、訊いてもいい?」

『神様を、信じていた人だった。だから赦しを請うていた。赦してもらえないと嘆いて、あの人の信じる神の前であたしを痛くした。赦してくれって何度もぶって、たくさん痛いことをした。だから怖い』

「……それで?」

『レネイがあの人を撃った。神様は祈っても助けてくれなかった。でもレネイは助けてくれた』

「彼の、昔の話とかは訊いてる?」

『知らない。それでもまともじゃなかったって。とても、怖い場所、銃を持たなきゃ生きてけないような、暗く狭い世界だったと』

 やっぱりそうだ。

 大事にしたくても方法がわからなかった。まともな世界に放り込めるチャンスがあの瞬間しかなくて、彼はきっとあたしと賭けをしたんだ。

 リリィを助けるか、見捨てるか。

 そして彼は賭けに勝った。

 別に負けたつもりはないけども。

 釈然としない。存外勝手な人だとは思うけど。

 リリィをどうにかまともにしたいと願っていたことだけは確かだ。

「あとなんか借りる?」

「これ」

 少女の近くに平積みされた絵本の束を持ってカウンターへ向かう。勤勉な少女のことだ、今日明日にはすっかり読み終わるのだろうし。

「あかり」

「うん」

 そっと手を繋いでくる少女の熱は、むせ返る血液のにおいと変わらない。

 ……ダイジョーブ。

 リボルバーの重みを忘れてないから。

 ヒトの身勝手さを知った。

 あたしは明日も、生きなければいけない。

『生きることが正しいとは限らない』

『それでも、おれはあかりに生きていてほしいと思うよ』

 目蓋を下ろせば、不愉快なほど鮮明に映る、少し幼い笑顔。

 覗く八重歯が愛らしく、童顔に似合わない鋭い黒曜を潜ませる彼が、グチャグチャになって、死んでいく。

 おかげさまで夜は眠りが浅くなった。

 鼻腔を通り越して脳みそにこびりついた赤が常に薫っている気がして、毎夜飛び起きる。

 両手を確かめて。

 酸素が足りてない朦朧としている意識の合間、呻きと呼吸でフラッシュバックする血液に吐き気が蠢いていた。

 生々しすぎて気味の悪い触感が皮膚の下を這いずっている。嗚咽に近い呼吸に面白いくらい震える体を、リリィがそっと抱きしめてくれる。

 暗闇で眠れなくなった。

 翔太の死体がチラつくからじゃない。

 赤黒い血に塗れた部屋で誰かが、早く殺せと喚き散らすから目が覚めてしまう。

 最近は赤い電球一個点けて市販の睡眠導入剤でムリヤリ眠っている。

 眠れないのを知ってか、父が「内緒な」とお酒をくれたことがあった。慣れないアルコールのせいで視界がぐらぐら揺れて酔って吐いたから、たぶんもう飲まない。

 あんたが、言ったんだよ。生きろって。

 狭い暗闇が恐ろしいから眠れないんじゃない。

 夢で逢う翔太が怖いから寝たくないんじゃない。

「光」

 引き金を引かせた彼と同じことを、あたしは、今度こそ躊躇いなんか持たないで、出来てしまうであろう自分が、腹の底で起き上がってしまうことが恐ろしくて堪らないだけだ。

『毎朝日本人はどこで祈るの?』

 端末が言う。そういえば渡したままだった。

「さぁ。お天道様じゃない?」

「What?」

「太陽のこと」

『じゃあ、あたしは誰に祈ればいいの?』

「さぁ。それこそ誰でもいいんじゃない?」

「レネイは?」

「いーんじゃないの。誰も止めないよ」

「わかった」

 伏せた青が麦わらのつばに隠れてしまう。緩やかな金髪が、少女の顔周りでふわふわ揺れていた。

 あたたかな陽の光。心地良いぬるい風。

 哀れにもなれない。

「光」

 やわらかな、低声が、もう二度と聴けないことくらいわかってる。

 あたしが殺した。あたしが奪った。

 それでいい。

 それ以外の事実はいらない。

 これから先の、あたしの人生。全部あんたのもんだよ。

 生きてほしいと願ったあいつのために。

 今日も。明日も。

「なぁリリィ」

「なぁに?」

「明日から何を理由に生きようか」

 きょとりと見上げる海の底を閉じ込めた美しい青に、知らずに笑みが零れた。

「あかり」

 なんでもないことだと、麦わら帽子の陰に居る少女が言うもんだから、失くした者同士、欠けた部分を合わせて生きていけるようにしようと、繋がる汗ばんだ手に力を込めた。

「そっか。なら、いいや」

 たった九日間の旅路は、もう一生あたしを手放してはくれないんだろう。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る