第五話


 腹ごしらえをして二時間後、午後十時。

 まとめた荷物とカルロと共に見知らぬ車に乗り込んだ。

 アイコとルカさんは別の場所に行くらしく、きちんとさよならをした。

 着心地の悪い重たいばっかりの防弾ベストを何度目か触る。

 二時間弱ほど揺られ降りた街はまたしても海の近くで。

 嫌な記憶の新しい潮風に顔をしかめる。日付が変わる頃、強面の男たちが銃器を詰め込んだ車を再発進させる。

 話を聞くにはサン・ニコラ聖堂の奥にガラクタ同然の教会があるらしい。カルロの目的はそこにいる。

『二日で上達したらしいね』

『あれを上達したっていうならね』

『筋はいいって聞いたけど?』

『本番でもそうだといいけど』

『はは、本番ね。期待してるよ』

『どうも』

『あかりちゃんは身を守ることをまず考えて。俺から離れないようにね』

『了解』

 車は止まる。

 荷物を置き去りに降りて、夜中の冷風なんか気にならないくらいに緊張して全身が熱い。

 それなのに拳銃を持つ手ばっかりが冷えて、思い通りにならないことは知っていたけどこんなところで躓くとは。

 気を落ち着かせようと深呼吸をしていると肩に触れた手が無情すぎて逆に緊張が解けた。カルロの手は死ぬ覚悟の決まっている温度のまま。

 あたしたちはさびれた教会に足を踏み入れた。

 一言で表すればとにかく大きい。ドゥオーモよりは二回りほどちいさいが同じくらい繊細で美しいであろう立派な教会は、手入れなんかとうの昔からされておらず、侘しさを突き付けられる。

『危ないと思えば手足を撃て。命を奪うことはなくても動きを制限することが出来るから』

 カルロにかけてもらった言葉を反芻し、彼についていく。

 打ち合わせのとおりに少数チームに分かれた先行隊が入り口から手榴弾を投げ込み、爆発する。

 それを合図に何十人かが一斉に教会に突っ込んだ。あたしとカルロは人に会わないよう静かにそっと教会の裏手に回る。すでにあたりは銃器の破裂音や人の声であふれていた。

 小屋かと思うほどちいさな教会が隠れていた。木製の扉前でカルロからここにいろの合図を受け、壁に背を預けて待機する。銃を下さずなかに進んでいくカルロを見送っていると、覚えのある声がよその銃声に紛れて鼓膜を打った。

「いらっしゃい」

「ドーモ」

 何か話し声が聞こえる。少女の気配はない。空気は現状最悪で、ピリついた緊張感が静電気みたいにあちこちに散らばっていた。たった木の板一枚で隔離されたこの場所でも恐ろしく、足が竦んで、石の壁にもたれてしゃがみ込んだ。

 穴のあいたネズミの死体が目の前をチラつく。無意識に最小まで抑えた呼吸に酸素は体を回っていかず、苦しいまんま背後の声に気を取られ続ける。

「グラッセッリ家の養子くん」

「皮肉だな」

 両手で力いっぱい握った拳銃は顔の前でみっともなく震えていた。

「神様の前で人殺しがエラソーにお祈りかよ」

 発砲音が数回聞こえた。なかを覗く勇気すら持たないあたしはじっと、震えるしかできないでいる。

 呻き声と、鈍い殴打の音。人の声と波の音が眩暈のように弾けては消える。どうにもならない、どうにもできない。

 あたし、バカだ。

 そもそもあたしみたいな覚悟もない凡人にできるようなことじゃなかった。

「無理はするもんじゃない」

 頭のなかにさっきまであった翔太を助けたい情が掻き消えていた。バカなんだ。全部。だって人が死んでいる。どこもかしこも。撃って撃たれて後悔と懺悔と哀れみを混ぜ撃って死んで。

「神に祈って復讐を遂げるよりも、マシだけれどね」

 穏やかすぎる低声が鼓膜を穿つ。イタリア語だから余計わかんないけど、でも諭すような声色がどこまでも優しく、異常に、憎悪にまみれたカルロに語りかけていた。

「神なんてもんがいんなら、こんなことになってねえんだよ! 俺がこんな目に遭うのも! おまえがこんなところにいんのも、つじつまが合わねえんだ!」

 カルロの怒号が引き金を引いた。揉み合う音と骨が折れる悲鳴と正反対の、いっそ慈愛すら滲むRの声があまりにも場にそぐわなくて、気持ち悪い。

「幸せになれ。カルロ・グラッセッリ。歪まないで生きることが、君のご両親が、君を救ったことの手向けになるだろうさ」

 無情な破裂音がカルロの怒りを通り越し、どこまでも冷淡で面白みに欠ける温度が大理石に倒れる音がした。目蓋を強く瞑る。荒すぎる呼吸と、爆発しそうな心臓だけが暗闇にあって、革靴が床を打つ音に涙を滲ませる。

 途端、前方から地面を揺らすほどの爆発音が響いて目を開ける。先と変わらない教会の裏手は火が立ち上っていた。

「小野崎光さん。君なら、リリィを救えるかな」

 低声が降る。見上げた先には後ろでまとめられた黒髪と、細い目が、あたしを射殺して、

「ッ」

 怯えが勝った。

 咄嗟に銃を彼に向けて強張った人差し指が引き金を押し切る。そうしなきゃ死ぬと思った。死にたくなかったのかもしれない。

 固まって解けなくなった手が簡単に横へ弾かれ、銃弾は壁に埋まった。即座に弾倉を抜かれ腕を掴まれた拍子にもう一発、撃ってしまった。

 今度は彼の左肩に当たる。すぐに黒いタートルネックセーターが汚れていく。血のにおいが潮風に混じってひどく、気持ちが悪い。

 指を解くように這う皮の手袋がそっと、冷え切っていた剥き出しの両手をあたためてくれる。解けていく指先が拳銃を落としかけた一瞬、彼が振り上げた拳銃のグリップがこめかみを殴打する。

 脳みそがぐるぐる回る、落ちる頭が鈍く、翔太、ごめんって、そんな怒んなよ、

「行くか。」

 カツリカツリと面白みのない靴音に合わせて力の入らない四肢が揺れる。腹にかかる圧と末端の痺れ、手足の中途半端な浮遊感に気持ち悪くなって重い目蓋を持ち上げようとした瞬間、錆びた鉄が擦れて、ぬめる床に雑に放られた。背中を打って呼吸が押し戻される衝撃にえづいた。

 仰向けになった細い視界に入るのは無情な黒髪と、赤茶に変色した鉄格子。じめっとした錆びのにおいと、あの夜の、古い鉄のにおいに脳が少しずつ冴えてきた。

 靴音が去っていく。

 疲れきった彼の視線が一瞬、あたしじゃなくてその奥に向けられた気がして、でも背中を打ったせいで声が出ないまま、音を見送って、酷い頭痛と共に体を起こした。

 右のこめかみがとにかく痛い。力いっぱい殴りやがったなと恨みがましく頭を振った。

 薄暗い空間で真っ先に目に入ったのは、カルロとは違う深い、海の色。

「こんにちは」

 桜に色付いたちいさな唇から洩れ出る鈴の音は、まごうことなき、あの日助けたはずのリリィだった。

 薄いレースの刺繍が繊細に散りばめられた純白のワンピースはどこもかしこも土に汚れていた。そんな少女の透き通る頬にも、大きな痣があった。

 言葉は、出ない。

 あの日助けたと思っていた女の子はあたしが助けたと思っただけで、結局こんな、ざまで。

「……ごめん」

 己の無力さに、無様さに、反吐を食わされている気分になる。

 涙が滲んでいくのを奥歯を食いしばって耐える。

 大丈夫、だいじょうぶ、まだ生きてるから、だいじょうぶ。どうにかなるよ。どうにかならなきゃ、つじつまが合わない。

「ねぇ」

 鈴が、指した。ちいさな人差し指が三畳もない狭く苔だらけの隅を示す。少女の頭上にある曇りガラスからの明かりで、なんとか見える、その存在に、息を呑んだ。

  ひとが、いる。

 石でできた壁に寄り添うように、細く危うい呼吸を繰り返すモノに、あたしの心臓は止まってしまった。

「……しょう、た?」

 不意に、死ぬってこういうことかって、何かを理解した。

 幸運なことに入院するほどの大怪我をしたことはない。怪我も病気もない、だからまき散らかる大量の血液を、あたしは見たことがなくて。

 この鉄のにおいも、震える両手も、別に間違ってないのに。

 間違えたのは、選択のほうか。

 眩暈がする。

 どうにもならない。どうにもできない。うなされている彼を、あたしは救えない。

 臓器の詰まった人形の、関節を外してバラバラに捨てるような感覚に近い、おぞましい光景だった。

 彼の右足は本来曲がるはずのない方向へ捻じれ、骨を抜き取ったように平たくなっている。左足は膝から下がなく、ぞんざいに包帯で縛ってあるが血でまみれ、滴るほどの量が苔に吸われていた。

 異常だ。イカレてる。

 広がる泥濘は彼の血液であることに気付き、のどがか細い音を立てる。その音に薄らと開いた曖昧な黒曜に慌てて覗き込んだ。

「ぁ……かり、……?」

 爪の剥がれたてのひらがあたしの頬を滑り、力なく落ちていく。

 つらそうにぎゅっと目蓋を瞑った彼がゆっくりと、腐った酸素を吐き出した。痛みはきっと想像の範疇を越えているだろうし、呼吸一つすら痛むだろうに、翔太は薄らと笑った。

「馬鹿だなぁ、あんた、なんで来ちゃったの」

 ゆっくり、一言を発しては、なんでもないように口角を上げる。

 顔や首を垂れる汗は赤く汚れていて、そういう、非現実じみた一粒一滴に気付くたび、血の気が失せて吐き気が込み上げる。

「あんたに、生きてて欲しかったからだよ」

 逃げ出せるもんなら逃げ出したい。鼻腔にこびりついた血のにおいなんか最悪だ。最悪で、最低だ。

 みっともない。

 声を捻り出した瞬間水の膜が視界を覆い、慌てて二の腕で顔を拭いた。

 最悪だ。 最悪だ。

「な、あかり」

 細い声に顔を寄せる。

 彼の体のそばに付いたてのひらがぬるりと滑って、見なくてもわかる、血の感触に悲鳴が洩れかけた。

 安心させるように、翔太の手が、一回りも二回りもおおきなてのひらが、あたしのガラクタ同然の腕をそっと捕まえた。

 翔太は生きている。

 動けなくても、生きていた。

「生きることが正しいわけじゃないんだぜ」

「、 え」

「それでもおれは、あかりに生きていてほしいと思うよ」

 それはそれは、眠れない幼子に童話を読み聞かせるような、泣きじゃくる子供に子守唄を捧げるような、優しい声だった。

 堪えきれなかった涙があふれて零れて、彼に降り積もる。

 どうして。

「なんで、そんなこと言うの」

 ひゅーと隙間風に似た音が血のにおいに混じって濃く、薫る。

 ああ、これが死のにおい。これから死にゆく人間のかおり。

 嫌いだ。嫌いだ、こんなの、

  こんなのって、違うだろ。

「おれ、さ。ろくな生き方してなくて、でもあんた、たすけたでしょ。ばかだなって思ったし、でも、すごいなって、打算とかそういうの全然ない、おれ、たすけなかったんだ。教会の女の子」

 支離は滅裂、呂律も回ってなくて聞き取りづらいけど、それが翔太の包み隠さない全部だって、わかってる。

 聞いてるよって、二の腕に触れている彼の手を握る。体温は、徐々に落ちていく。冷えた手が、恐ろしくて、引きつって、涙が止まらないまま。後悔に塗れた声を聴く。

「たすけなかった、黒い髪の、あの子、なまえ、わかんないけど、黒髪の、怯えた子。かみさま、にずっと、祈ってた」

 赤のへばりつく癖の強い黒髪。濁った黒曜が、あたしと同じように泣いている。

「こわかったろ。ごめんな。ばかだけど、会えてよかった」

「ふざけんな!」

 自分ののどから出た声だとは到底思えないような怒号だった。

「あたしはあんた助けにきたんだよ! 怖かったけど、ジェラート奢ってくれるって、言っただろ……」

「……ごめん、ごめんな」

 尻すぼみの惨めな声に繰り返されるささやかな謝罪。

 逃げられるなんて思ってない。

 だってどう考えても現実的じゃないし、だって足がぺたんこで、あたしみたいな非力なのが翔太とリリィを連れて逃げるなんて、夢物語にもほどがあるだろ。

 ほらやっぱり。祈ったところで神様は聴いちゃいないし、あたしは、何者にもなれないまま。

 体が重く、泥に沈んでいく感触があった。

 緩慢に、惨めなまま、血反吐に混じって消えていく。

 まあそれでもいいかと思った矢先、思いのほか意思のある翔太の声が端で膝を抱えている少女を呼んだ。

「うん」

 暗がりの隅で丸くなっている少女が、脇に置いていたうさぎのぬいぐるみの背を開ける。

「あいつ、レネイとかいうの、あいつホント性格悪いよ」

 うっすら出っ張った喉仏がくつくつ震えて、白い手が重く黒いそれを取り出した。

「どーせならあんなやつより、あんたのほうが、ずっといい」

 彼女の伸ばした左手から受け取って、

「ッ、ダメだ!」

「だめじゃない」

 穏やかで、イカレてる。

 こんな状況で、なんでそんな顔できんの。

「まってよ、だって、なんのために、あたし」

「なぁあかり」

 爪の剥がれた赤の滴る両手が、べたべた粘ついて冷たくなり始めた手が、あたしに最悪を選択させる。

「おねがいがあるんだよ」

 ガチリと、ハンマーが落ちた。

 強張る指がリボルバーを手放そうとするのに、翔太の広いてのひらがしっかりと握り込んで、離れない。離してって、お願いしても神様がいない。こんなときに限って。ばかやろう。おまえなんか嫌いだ。

「やだ、翔太お願いだから、やだよ」

「あかり。あかり」

 なだめるように優しく笑っている。

「しょうた、はなして」

 冷たい銃口がのどを通り過ぎて額に止まった。

「光」

 まあるい声がいつもよりも少し、歪に掠れて、力なく持ち上がった口角から覗いた、上部から射し込む灯りで嫌に目に付く赤い八重歯。

「そんな顔すんなよ」

 薄い喉仏がくつくつ笑った。

 包んでいる両手にぐっと力が込められる。

 目を奪われた。

 彼の細い喉は何度か震えて、呼吸をしている。

 生きているのに。

「生きててほしいっておもった、あたしはどうなるの」

 いなくならないでよって、零れた涙が言っていた。

 あんたのためにここまで来た。

 自分勝手な欲のためにここまで、来て、でもそれはあんたに死んでほしくなかったからで、あんたが、どんだけ後ろ暗い人間でも、あたしは、それでもいいのに。

「おれさ。眠れないんだよ。」

 翔太の親指が引き金をゆっくりと押し込む。

「だからさ、もう、寝させてよ」

 キラネとか言ったけど、いい名前だと思うよ。光。

 そう言う翔太の顔は悲しさとかそういうもの全然なくて、あたしだけ置いてけぼりにされたみたいな、孤独に刺される。

 眩暈がする。

 むせ返る血のにおいにもう嫌だって泣き喚きたくなった。

 嫌なんだよ。なあ。置いてくなよ。

「くぜしょーたって、わすれないでね」

 親指が、あたしの人差し指ごと引き金を押し切って、

  ああ、最悪だ

 最低な振動が内臓から全身の筋肉から末端まで響く。

 髪の毛の一本まで痺れてる。衝撃で心臓が止まってしまった。

 過剰に荒い呼吸が鼓膜に触れてようやく泣いていることに気が付いた。

 瞬きすら忘れて絶え間なく落ちていく涙が、肉を濡らす。

 赤を滲ませぬかるんだ石に吸い込まれた。

 なあ。なあなんで。

 言葉にならない拳が床に落ちた。息が苦しい。もういい。もういやだ。なんでこんな思いしてこんな。

 濃すぎる鉄がまばらに弾けて、鼻腔を抜けて目に染みる。

 たすけて。

 たすけてよ。

 不意に強く引かれた腕の先、土に汚れた床に擦る、仄暗い部屋のなかでわずかに光る白金が、海を閉じ込めたサファイアが、じっと、あたしを見てる。

 なんだよ。なんなんだよ、それ。

 最低だ。

 あんたも、あんたもあんたも。

 離れないリボルバーが、嫌な音を立てて床に当たった。



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