第四話


 目を覚ませば見慣れない天井と、見知らぬ茶色い毛玉。それからわずかな肌寒さ。

「……」

 体を起こし、足元に転がった毛玉を手に取る。ただのクマのぬいぐるみで、なんだっけ、見たことあるけど名前が出てこない。

 肩を滑って視界を狭める黒髪に記憶を探るが何も思い出せなかったからぬいぐるみを枕に沈めてスニーカーを履いた。

 部屋を抜け出てまず、あたたかいにおいと包丁がまな板を打つ音に紛れて男性陣が気付いてくれた。

「おはよう」

「体大丈夫か?」

 相変わらず全開になった窓から入る冷風に身を竦めた。今日はずいぶん冷えるらしい。

 なんだかわからないからとりあえず会釈だけはしておいた。キッチンに立つスモークピンクのエプロンが振り返って睨みつけるから、これも会釈で誤魔化した。

「お風呂借りていい?」

 隣の扉を指してなんとなく伝えるとオッケーと親指を立てられた。お言葉に甘えて先に着替えを取りにドアノブを捻る。アイコは少しもあたしを見ないまま。

 圧の緩い熱湯をかけながら思うのは昨夜のこと。あれからの記憶がないこと、部屋に翔太がいないこと、机にぞんざいに置かれていた翔太の拳銃、壁際にそっと置かれていた翔太のトランク、カルロの言葉。

  翔太を助けに行く。

 カルロには翔太を助けるメリットがない。理由がない。あたしのために動く理由もない。

 そして彼は、仲間を説得するのにアンドレアさんの死を利用する。

 そうまでして動く理由は、おそらくあの少女にレネイと呼ばれた、あの男。彼のなかに蓄積された怒りは、純粋で、単純化されている。

 あたしの脳みそじゃ復讐なんて言葉しか思いつかない。でもそれ以外で、彼が動く理由も思いつかない。

 それでも、それに乗っかって人質でもいいから連れていってもらえるなら、それでいいか。

 これを投げやりと呼ぶのならそれでもいい。自殺願望と呼ばれても構わない。

 インナーとタイツを着込み、上からロンティーとパーカーとジーンズを手に取る。ドライヤーで雑に髪を乾かして、髪を一本に束ねた。

 最後に肩から胸元まで派手なオレンジが入っているナイロンジャケットを片手にドアノブを掴む。

 扉を開ける前に肺を限界まで膨らませる。早送りじゃなくて適当に継ぎ接ぎされた映像をすっ飛ばしながら見ているような、鼓動一つに五時間くらいかかってるような、そんな悪癖。三秒ほど残った記憶すら眠れば忘れる。脳みそを少しも使わないこれを、息を詰めて押し留めた。

 記憶、しなければ。

「……よし」

 薄いドアを押してゆっくり酸素を吐き出す。

 ちょうどできた朝食を頂きながらされた話は、翔太の安否だった。サンドを食べながら翻訳やアイコの声を聞いては頷く。

「さて、次に俺たちのことだけど」

「リーダー説明よろしく」

「おう!」

 勢いよく立ち上がるカルロ。イスの倒れる派手な音と共に彼の演説は始まった。ちなみに意味は何一つ理解できていない。

「俺たちは愛おしいイタリアを解放するために集まった解放軍だ! 我らが国を奴らが平気でうろつくせいで誰も彼もが穏やかの裏に隠れた殺戮をもたらす武器に怯えて生きている。イタリアは静かで温かく賑やかで美しい国なんだ。それを俺たちの力で取り返す。俺たちのできることで奴らと戦いこのイタリアで自由を、怯えることなく住めるこの国を取り戻そう! と集まったのが俺たちレジスタンスだ。……ただ最近は、復讐を目的に入る者たちもいるから一概には俺たちに一切の復讐の意志はなく、自由を取り戻すために立ち上がった! とは言えないのが現状」

「……えーと?」

 ゆるゆると拍手を送りながらアイコを見やれば、眉間を押さえため息を吐いた彼女の紅い唇が呆れを吐いた。その間、カルロは急に静かになって倒れたイスを直していた。

「つまり、アタシたちは復讐じゃなくてイタリアを怖がらせる組織の壊滅を目的としている。みたいなことを言ってたわけ」

「なるほど……?」

「とはいえ、メンバーのほとんどがあいつらに大切な人を奪われてるし、復讐の気持ちがまったくないと言えないんだけど」

 次に場所。三つにまで絞られた地図を眺め、現在地からはどこも離れている赤丸に眉をしかめた。

「で、翔太の素性はよくわかってないけど、マフィアの末端に雇われてたらしくて。さらったヤツもそう。確実に表の人間じゃない」

「……おもて」

「アンタが思ってるより人殺して小銭稼いでる人間は多いのよ」

 さらった男はRと名乗り、最近じゃ幼い女の子を連れている。受けた仕事にミスをしたことは一度もなく、その過去はどれだけ調べても出てこないそうだ。

「あかりの言ってた女の子と同一人物だと思うけど、情報出てこないらしい。ただ、イギリスの端にあるちいさな小屋にいたってのもあるけど」

 話はどこを切り取っても不確定要素ばかりだ。

「……翔太の、名前ってわかるかな」

「名前ね。調べてみるわ」

「とりあえず俺とあかりちゃんはローマの外れに行こう。ナポリの方は二人に任せるよ。詳細はあとで伝えるけど、たぶんベニートたちと合流することになると思う」

「了解」

 翻訳画面を一読し頷いて返す。出してもらったホットティーを一口飲んだ頃に各自解散になった。あたしは危ないから一人で出歩かないようにと言い含められた。

「……は、」

 一分がこんなに長いなんて知らなかった。

 助けに行きたい気持ちばかりが空振ってしまって苦しい。

 あったかい紅茶の香りだけが拠り所ってのも大概。

「体大丈夫なの」

 素っ気無い声が向かいの席に着いた。

「うん、だいじょうぶ」

 マグカップを机に置いて、風のよく通る部屋でぽつり、泣かないように息をしている。

「あたし、イタリアに来たときこんなことになるなんて思ってなかった。日本じゃ毎日おんなじテープ流してるようなもんでさ。擦り切れちゃって、でも現状を変える気力もなくて。だから少し、少しだけさ。自分で決めてここまで来たってのが、自信になると思ってた」

「うん」

「空港着いてすぐサイフスられたの」

「あはは。ツイてないね。アンタって」

「そう。昔からツイてないんだ。でも知り合いがホテルやってて安くできるよ、お金は明日帰してくれればいいからって代わりにお金出してくれたのが翔太だった」

「それが『助けてくれた』?」

「違う。勝手なことしたあたしを助けるために銃を撃った」

「命の恩人ってこと」

「……死んでもおかしくなかった。あたしは死んで、あの子は酷いことされて、翔太はケガしなかった。アンドレアさんだって死ななかった」

 目が回る。

 だって全部あたしのせい。それでも後悔していないのも、あたしのせい。

「……あのね」

「なに?」

「末端組織って人身臓器麻薬売買なんてのは当然、拉致監禁暴行殺人なんでもやってるヤツらでさ。アタシは、憎しみだけでここに入った。アンタは、バカげてると思うだろうけど」

 中身の少なくなったマグカップを傾け、人のいないこの部屋で息を潜めた。

「アイコはどうして、ここにいるの?」

「ようやく訊いたね」

「え?」

 彼女の猫目が前触れもなくあたしをとらえ、そして心底嬉しそうに弧を描いた。

「俊平っていう三個下の弟、生意気だけどかわいい弟を、アイツらいきなり撃ち殺したの。ハチの巣だよ。マシンガンでひたすら撃たれる人間の体見たことある? 穴ぼこだらけで血塗れで、マジで最悪だった。アイツらの内臓引きずり出して同じ目に合わせてやろうって思ったのが最初。アンドレアは婚約者レイプされて殺されて、ルカは親代わりしてた天使みたいにかわいくてちっちゃい妹が誘拐されて引き裂かれた体を送り付けられたんだって。アンタの訊いた動機なんかみんなこんなもんよ」

 ちょうどマグカップの中身が空になった。アイコの口調は普段よりも淡々と抑揚がなく、激情を押し込めて話しているのは明らかだった。

 彼が、簡単に人を殺せる人間だってことをまざまざと突きつけられたような気がして、じゃあなんであのとき助けてくれたのか、やっぱり訊いておくべきだった。

「カルロは、なんでここにいるの?」

「知らない。あいつは訊いても何も言わないから、知らない。」

「そっか。変なこと訊いてごめんね」

「……いいよ」

 ティーバックで淹れてくれたミルク入りの紅茶はまろやかに舌に残っている。今更ながら寄こされたスティックシュガーを二本入れ、濃く張り付いた甘さを呑み下した。

「なんで、話してくれたの」

「行くんでしょ。アンタも。なら話しておくべきだと思った。それだけよ」

「そっか」

「うん」

 微睡みじゃあない。

 冷たい風とやわらかな陽光に、気は休まるどころかわずかに体を走る緊張感に目が回る。倒れたんだから今日は休んでなさいよと言い残した彼女はネームプレートの扉に吸い込まれ、あたしは独り。

 彼が眠っていたベッド脇にイスを持って移動する。窓に寄りかかって目蓋を下ろした。

 心配で恩人だから返したいという純真さだけでなく、彼に、生きていてもいいんだって許しがほしい不純がために、救われた命をドブに捨てようとしている。

 元より救われるような人生じゃないからって、もういいかって諦めてる。

 思えば幼少期からずっと何かに打ち込むこともなかった。大人の言われたとおりに生きて、意思がないから、大人の都合のいいように使われて、悪さもできずただ生きてきた。

 バイトだってずっと喧嘩ばっかりの両親から逃げたくて始めただけで。部活もやってないし家にも帰りたくないからと徐々に勤務時間は伸びていき、このザマだ。

 他人のためにここまでするなんて思ってなかった。できると思っていなかった。

 窓枠で日向ぼっこをしているサボテンを薄目で眺め、眠たくはないけど目を開けている気力もなくなって体がぺたんこになるまで酸素を吐き出した。冷たい風が熱っぽい頭をかき混ぜていく。

 やっぱりどうにも、意味もなく泣きたくなってしまった。

 震える視界を塞ぎきって鎮める。

 最後までおちちゃえば、怖いことなんかない。

 午後六時頃、知らずに眠っていたらしい。寒くなって目が覚めた。サボテンはずっと隣に居たらしい。背中にかかったブランケットがするりと落ち、気付いたカルロがあたたかい紅茶を淹れてくれた。

 それから聞かされた話は思っていたよりもずっと深刻だった。

 末端だが、そもそもが巨大すぎる組織、人数は当然向こうが勝る。時期尚早だが向こうもごたついているらしく、それに生じて乗り込む。

 翔太は自分の雇い主の仲間を撃ち、Rの雇い主のやつらに撃たれた。

 あたしに銃を撃つ訓練をさせること。教えるのはルカさんで、自分の身くらいは守れるようにとのこと。

「わかった。やる」

 ここまできて怖気づくわけにはいかないと頷いてみせた。やるという意思表示にルカさんの男前な顔が薄く笑って紫煙を吐いた。

「よろしくな」

 節張ったおおきなてのひらが差し出され、右手で握り返す。この人の体温は翔太よりも少し高い気がした。

 入国して六日目、翔太が連れていかれて二日、彼らの隠れ家に住まうようになって四日の昼。

 初めて握った銃はどこまでもスマートで、翔太が持っていたようなものとは一切合切が違っていた。

「そう、いいね」

 グッドのサインを見てグラッツェって返した。

 アパートから十五分ほど離れたバールの地下で射撃訓練を開始して二時間が経過していた。

「ちょっと休憩するか」

 おいでと動く手振りに銃を替えのマガジンが置いてあるテーブルに横たえ、笑顔で返した。うなじで束ねただけのブラウンが半袖のティーシャツの上でふらりふらりと揺れている。階段を登ってバールのイートインスペースで座ってろと指されたので角の席を選ぶ。

 何かコックの服を着た恰幅のいい男性と話していた彼は、しばらくしてトレイに乗せたサンドと濃い香りが漂うコーヒーを二人分、持って向かいに座った。

『明日もたぶんこんな感じだよ』

 上のほうが少し割れているスマートフォンを机に置く。

『アイコと仲良くしてくれてありがとうな』

 はっきりとした二重に、眠たそうに隠されるブラウンの瞳がおもむろにあたしをとらえた。

『十歳の時にこっちに来たんだけど、気が強いっつーか、あいつ言い方キツイだろ。あんま友達いなかったらしくてな。両親はあいつが十五の時に交通事故で亡くしたんだって。弟と孤児院に引き取られた末に結局あいつらに殺された。』

 食事時にする話だろうかと思いつつも、彼らなりに仲間として認めてくれているのだろう内容に自分の端末で当たり障りのない返事を選ぶ。

『俺は妹、アンドレアは婚約者。こっそり調べたんだけど、カルロは義理の両親を』

『義理ですか?』

『養子だったらしくて。昨日のRの情報全部カルロが出してただろ。憶測だが、あいつはRだけに用があるんじゃねえかな。俺らとはなんかが違う気がしてたから、納得って感じだけどな』

『アールって何者なんですか?』

『とりあえず腕のいい殺し屋ってことしか、まだな。それ以上出てこないのも違和感あるし、たぶんまだ言っていない情報があると思うぜ』

『カルロはどうして話さないのかな』

『仕留めたいんだろ。自分の手で』

 カップをソーサーに置いて、彼は顔を伏せた。ひどく曖昧なため息を吐いて、自身に起きた過去を思い出しているのだろうか、寄せられた眉が苦痛に歪んでいた。

 同情は、できないけれど。

『先に戻ります』

『わかった』

 スペースを出てバールで水を買い、従業員スペースに入ってその奥にある狭い階段を下りる。

「復讐。か、」

 テーブルから銃を手に取る。

 教えてもらったばかりの動作で弾倉を変えて、構える。

 数メートル離れたボウリングのピンみたいな形をした的は、すでに穴だらけになっていた。

 一生わからない感情だと思う。わかりたいとも思わない。

 ただ、たった独りの人間を突き動かすだけの力を持っていることは確かだった。

 きっとあたしの腹に沈殿したこれとは、似ても似つかないもの。

 不純と無雑と執着に近いこれが、彼らの慈愛を奪った怒りと、同じなはずがない。

 頭を意識して習ったとおりに引き金を絞る。

 腹まで響く反動に耐えようと息を詰め、ひたすら。

「お」

 溜めた酸素を吐き出してちょうど、背後で低い声が笑っていた。

「ルカさん」

「熱心だな」

 伸びてきたおおきな手が頭を撫でる。優しい人だ。

 カルロとは違う。あれは、全部がどうでもいいからこそ誰にだって優しくできる人間だ。

 彼は、もう、誰が死んでも悲しくないんだろう。

 可哀想な人。生きる動機が臓物を焼き切る怒りだけなんて。あたしと、大差ない、哀れな囚人だ。

 窓のないコンクリートの壁は数メートル先まで伸びて、時折揺れる裸電球が酸素を薄くさせていく。

 先程よりも穴だらけになったガラクタは倒れる寸前。あれが人間だったら、あたしも正当におかしくなれたかな。

『妹は不思議なやつでな。ぼんやりしてると思えばいきなりどこかに行ったり猫拾って帰ってきたり話せばキリがない。背丈もそうだが、雰囲気はおまえに似てるかもな』

 見せられた端末がそう言った。

 きっと妹さんのなかでのルールみたいな、いまの自分よりも優先させるようなことがたくさんある、優しい人だったんだと思う。兄に似て。

 あたしとは違う。あたしにはルールも優先もない。考えたくないことから逃げてるだけ。本気で助けられるなんて思ってない。ただこれ以上、背負いたくないだけで。人の命だとか後悔だとか、当たって砕けて、死ねれば儲けもんだと思ってる。

 どこまでも姑息で卑怯な自分に辟易してるあたしと、普遍的に幸福だったであろう妹さんのどこが似てると言えるんだろう。

『あなたに似て、きっと優しい方だったんでしょうね』

 思ってもない言葉を吐いて捨てた。

 反吐が出る。

 彼はそろそろ帰るかと呟いてあたしはそれに頷いた。

『ちょっと寄り道していいか?』

『どこ?』

『教会』

 連れてこられたのは、土壁の家々が建ち並ぶ隙間。

 翔太が倒れた場所は教会の前だったらしい。物々しい黒く大きな扉が開かれていた。

 なかに招かれ、ふわふわ揺れるブラウンに並んで、入り口近くのイスに腰掛けた。

『ここに来ると落ち着くんだよ』

 確かに。

 外は茶色ばかりで面白みがないのに、思っているよりも室内は天井が高く広々としていて、聖母マリアを模したステンドグラスを消してやさしくない太陽光が突き刺してひどく美しい。

 涼しげな空気が満ちているこの場所は、疑いようもなく救いとして存在していた。

『妹がどうやって死んだか、聞いたか?』

『いいえ』

『行方がわからなくなって一ヶ月。もう見つからないかもしれないと思っていたらある日クール便が届いてな。もう六年も前の話か。あいつ左腕に結構派手な傷跡があってな。その左腕とあいつの金髪、どっかの肉と目玉が入ってた。最低な気分だった』

 祈るように指を組む彼は、ひどく幼く見えた。深く、重すぎるため息を吐いた彼は、堪えるためか、目蓋をきつく結ぶ。

『恨んだよ。どうせただの家出だろうとまともに探さなかった俺を。あいつらがどうとかじゃなくてさ。もしもとか考えてもキリないことくらいわかってても。俺のためにさ』

 ルカさんは、自分の命を使ってでも妹の存在価値を示したいんだろう。

『ただの逃げ口上さ』

 復讐を遂げれば妹の命を満足に尊べて、そこで亡くなっても妹の元へ逝ける。理由としても行動理念としても一級品だ。

 最高に、最低だ。

「帰るか」

 人々の祈りが浮遊する空間はひどく居心地がいい。

 十字架とか神様とか、信心深い清い人間を選ぶから好きじゃなかったけど。

 独りじゃないと思えるから。

 いやに落ち着く。

 だから明後日、役立たずのあたしが死ぬ事実にも、思うことはない。

 惨めなまま。

 席を立ったルカさんと並んで教会を抜けアパートに戻った。時刻はまだ十五時すぎで、薄く光る空に眩暈がした。

 部屋では二人がたくさんの銃器を机に広げていた。

 着実に戦争の準備が整っていく現状に全身の血液が足先から流れ出ていく。

 血の気が引けていく。眩暈がする。

 そんな最低な気分で味の濃いパスタを呑み込んでひと眠り。

 隣のぬいぐるみにあふれたベッドではアイコが背を向けて静かに眠っていた。端末を覗けば午前五時。起こさないように部屋を抜け出るとリビングテーブルではカルロが、拳銃を片手で弄びつつ、紫煙を吐いていた。

「えっ」

「あ」

 目を丸くしてはにかみ、すぐに銃を置くアクアが煙草を灰皿に押し潰して席を立った。彼の向かいに腰を下ろしている間にカチカチとコンロの火が付けられマグカップの触れ合う音が微かに響く。

 視線を向けた四つ並んだ玄関に一番近いベッドでは、ルカさんが死んだように眠っていた。

 わずかに明るくなってきた空が窓から窺える。

 静かな早朝に不釣り合いの鉄がテーブルの上で横たわっていた。歪すぎるそれは黒々と、存在を主張する。

 耳鳴りに似たぶれる視界に割り込んだ湯の沸ける音に目を覚ます。淹れてくれたココアの香りが五月なのに冷える空気を突っ切って差し出される。

「ありがとう」

 湯気の立つマグカップをテーブルの上で包み、冷えている両手で暖を取る。

『早いね』

『そっちこそ』

 声のない会話が始まる。

 あの夜、煮詰めすぎたジャムみたいな憎悪にまみれている背中とは大違いだ。

 ひどく穏やかで、一つだって害がない。

 その無害さは、無邪気な幼子が爆弾の詰まったカバンを抱えて遊び回っているのと同じようなもの。聖母のような微笑すら恐ろしく、彼のなかではもう、すべての事柄に関心がないのだと。

 ならばなぜ、

『カルロはどうして翔太を助けたの?』

『助けない方がよかった?』

 経験上、質問に質問で返すのは答えが悪いほうの想像通りだから。

 翔太のこと知ってたのかもな。知ってたどころか、リリィを助けたの、知ってて、狙ってた?

 そういうんじゃないんだと打ち込みながら、嫌な仮説に滲む汗が知らずの内に背中を湿らせていく。鳥肌にぶるりと体を震わせて慌ててココアに口を付けた。

 ぬるくなった舌触りの悪い後味を残して喉元を滑るそれは、目の前で涼しい微笑みを浮かべて見せる年下の男と、なんら変わりがない。

『そう?』

 出会ったばかりの頼りになる背中などかけらもない、あたしのなかにあるのはカルロへの不信感にもなりきらないような、ちいさなトゲ。

『訊きたいことでもあるの?』

『あたしはどうすればいい』

『そのまま。人を撃てればそれでいいよ』

『撃てなかったら?』

『俺ときみが死ぬだけ』

『あんたは、復讐するんじゃないの』

『そうだね』

『どういう意味?』

『善人の皮をかぶった悪人が真っ当に生きていた善人を嬲り殺しというだけで、行動するには充分だと思うけれど』

 生かしてくれた善人をある日いきなり奪われれば、どうにでもして見つけ出して、ねじ殺してやりたいと思うのは人間として当然だと思う。

 それを実行するかしないかは、大きな違いだけれど。

『あたしはあんたの昔の話に何も言えないけど。でもそれだけじゃないでしょ』

『どうして?』

『勘』

 たった一文字を見てようやく躊躇いを見せた指先にざまをみろとココアに口を付ける。

『撃たれるとは思わないの?』

『理由も得もないだろ』

『理由も得もなくたって人は殺せるよ』

『殺したの』

『殺したよ』

『じゃあ、あたしも殺す?』

 少なくなってきたぬるいココアを飲み切る頃。

『あかりちゃんは不思議だよね』

 踏み込んでくるな。と解釈した。あながち間違ってないだろう。

『そう?』

『うん』

 空になったマグカップをシンクに置いて部屋に戻る。刺し殺すような勢いのアクアマリンがずっと付きまとってきて鬱陶しい。エサにするつもりなのは、何一つ変わりないだろうに。

 知ったことかと、靴を脱ぎ捨てベッドに潜り、目蓋を下ろす。

 カルロも大概、同類のにおいするけど。

 隣で眠る彼女の言葉を借りれば、自分の命に頓着しない、死にたがりのにおい。

 嫌な話だ。

 アイコに叩き起こされた午前十時、食事をとってからルカさんと共に先日のバールに向かった。

 操作に慣れてきた頃、ルカさんの煙草が地面を指した。そこには丸々太ったネズミ。

 撃てってことなんだろう。

 静かに構えるが心臓がうるさく、定まらない。ネズミがちょろちょろと、端に逃げていく。

 まいったな。

 部屋の隅に空いた穴へあと一歩の命を撃った。強い反動に知らずに止めていた息を吐いた。重たい拳銃を下す。後ろでルカさんはゆるい拍手を打っていた。褒められているのか微妙なところだけど、赤に濡れたネズミはぐったりと横たわっていて、隅の壁には飛び散って生臭い鉄が鼻腔を突いた。

 端的に言えば最悪。これ以上ないくらい最低な気分に目が回る。血のにおいなんて最悪以外ない。

 いつものように頭に触れたルカさんが帰ると仕草をした。だから前もって打っていたメッセージを見せれば、彼は少し渋る表情をし、

『一時間したら迎えに行くから』

 そう言ってくれた。

 見慣れない教会に入って昨日座った場所に腰を下ろした。

 冷えた空気を感じながらステンドグラスの前に鎮座している十字架を眺める。

 ここには何もない。

 神はいない。

 それでも祈りたくなる。

 そら。こんなのあったら祈りたくもなるわ。

 人が人のために創った人の拠り所となるべき場所。

 すがるための空間だからか、あたしみたいな無力な人間はどこまでも居心地がいい。存在理由すら与えられたような、そんな気すらしてくるんだからすごい。

 そりゃあ。誰だって祈りたくもなる。答えが出なくたって、許された気にさせてくれるもんな。

 緩く組んだ指をみっともなく前に放り出した足の間に落とし、背もたれに体重を預ける。だらしのない格好でも注意する人間がいないのをいいことにゆっくりと、息を吐く。

 前方の神父が誰かと話しているくらいで、他はいまのところ見えない。

 決して広くはない教会はどこまでも広々と神聖で、聖域だった。

 心地良さと、それを包み隠してしまうほどの嫌悪。不快で心臓が痛い。猛烈な怒りで手が震え、光を透かす美しいステンドグラスを十字架ごとぶっ壊してしまいたいほどに、喚きたくなった。

 あたしは、どっかでわかってる。

 翔太を助けられないであろうこと。

 あの場所にも、味方なんかどこにもいない。神聖なこの場所にもあたしの味方はどこにもない。

「アカリ」

 ほら。やわらかい声だって全然違う。優しくたって違うそれを、もう一度、無性に聞きたくなった。

「ルカさん」

「帰るよ」

「帰りましょうか」

 いつまでも他人の顔をした教会に馴染めないまま、みすぼらしいあたしは馴染まないアパートに帰っていく。




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