第三話


「ローマのジェラートおいしいって聞いてたのに」

「ごめんってば。帰りがけにでも寄ろうよ」

「おごり」

「わぁかった。任せて」

 日本みたいなやわらかい印象の電車じゃなくて、無機質な本当にただの鉄の塊みたいな車両に揺られることもう八時間。朝っぱらに出たはずなのに太陽はもうてっぺんを通り過ぎて落ちようとしている。

「快速だよね」

「うん」

「速い」

「そりゃあね」

 意味のない会話を落としては拾うことをお互い躊躇っていた。

「ねえ翔太」

 窓の外は塔だったり城だったりが一瞬で飛ばされてゆっくり眺める余裕もない。

 隣の席に座った顔色の悪い彼が寝ぐせの消えた癖っ毛を気まずそうに掻き回し、それから背もたれに体重を押し付けたのが三時間前。

「なんであたしんとこ来たの」

「……あかりが狙われてるから」

「ハ? なんで。悪いことしたことないんだけど」

「あー……マフィアの末端の話はしただろ」

「うん」

「そういうこと」

「おい説明になってないだろ!」

 ホテルのフロントに預けていたらしいトランクから何やらごそごそ取り出して着替えた翔太は大して変わり映えがない。

「だぁから! あの子の追手のこと! 末端の奴だったらしくて昨日つけられてたんだよ。あんたもおれも。たぶん、あの子も」

「……なにそれ」

 それ以上言いようがなかった。じゃああたしが助けたかったあの子は、いま、いないかもしれないってこと?

「おれも訊きたいことあったんだけど」

「……なに」

「そんな顔すんなって」

 へらりと、少しつらそうに笑って、それから足元に這わせた視線をあたしに向ける。光沢のない瞳が何を考えてるのか読ませてくれない。

 ひどく、気分が悪い。

「あんた。なんであの子を助けたの?」

 鉄特有のひんやりした感触と共に脳みそが横隔膜の裏に落ちた。腹が重いのに、気管に物が詰まったような息苦しさ。

 呼吸が少し浅くなって、目が回る。

 この顔は最近見た。

 空気を震わす破裂音と、倒れる二人の男。その背後に立っていた彼が、伸ばしていた左手。

「……しょうた、あのとき、なにしたの」

 黒曜のような瞳に映り込むあたしの顔は強張ってひどくみっともない。

「……次停まったら降りるから起こして」

 足で挟むように置いていたトランクの上、雑に放っていた白いキャップを深くかぶる。呼吸は浅いが安定して、細い。

 寝たのだろうと察してこっそり息を吐く。

 考えようもないくらい、悲しいくらいに本当だった。

 理由がない。少なくともいまのあたしには見当たらなくて、でも無理矢理引っ張り出すとすればこれからまだいろんなことがあるはずの女の子がこんなところで死ぬのかと思ったら、怖かった。あたしが死ぬことなんかよりもずっと。怖かった。

 安らかに眠る彼のことをあたしは一つだって知らないでいる。赤の他人であった彼が善人であると信じたかった。

 あたしにとっての善人の定義は、日本特有の平和ボケでずいぶん曖昧だけれど。彼の与えてくれた優しさだけは本当だと信じたい。どうせなら、せっかくなら、ここまで来たんなら。

 青々とした緑と空ばっかりが窓枠いっぱいに広がっている。それは通学中眺めていたものと変わらない気がして気分が悪くなって、ため息を吐いた。

 イタリアの電車はアナウンスがない。次に停まる駅名も表示されていないし、どっかの魔法映画みたいなホームには電光掲示板が少ないし、慣れてなければ本当に何が何だかさっぱりだ。

 車体のスピードが落ちてきた。たぶん、もうそろそろホームに入る。

「翔太」

「うん」

 寝てないのかよ。

 思わず出かかった言葉はなんとか呑み込んで、いつものように笑ってからまだ動いている車内で立ち上がる。

 上の荷物置きに詰め込んだリュックサックを取ってくれる顔色はやっぱり悪い。何度もどこかで休んだほうがいいと言ったのに聞く耳は持たず、「早く動かないとまずい」と繰り返していた。どれだけ危険なのかは、教える気はないらしい。

 ブレーキに合わせて前の座席を掴む翔太がふと、思い出したように口を開いた。

「あの女の子は無事だと思うよ」

 だからそんな死にそうな顔すんなよ。

 そうやって笑う翔太に違和感と、安堵を覚えた。いろんなことを知っていて、言わないでいる。だから訊かない。少なくとも逃がそうとしてくれてるのは、わかってるから、だいじょうぶになるまで、訊かないと決めた。

 むき出しの鉄から下車した姿はほとんどなかった。こもったオイルのにおいにうんざりする。ホームの天井に下がる駅名標には「Lecce」と書いてあるけど……なんて読むんだろう。

 イタリア語は基本ローマ字読みでなんとなくわかることがあるから助かるには助かる。トイレとか確かTOILETTEとか書いてあって結構面白い。ユーロも覚えやすいしいい国だ。こんな状況じゃなければだけれど。

 キャリーバッグを持ってくれる彼のあとについて階段を上って街に出た。土埃のような風が吹いて顔をこすった。

 クリーム色に包まれた壁の家々は背が高くて圧迫感がある。洋画なんかで見るような細道に思わずきょろきょろしてしまう。窓の外には幅の狭い籠みたいなのがついていて、観葉植物が並んでいた。日陰になってるけど意味あるのかな。

 レンガで出来ている壁はぼろぼろになっているところも新品同様の顔をしているところもあった。一階に設置されたどの窓も格子がはめられていて、日本との治安の違いに腹の底が冷える。

 壁から飛び出す街灯の装飾はどれも精巧で目を見張るほどに美しいが、歩きにくさばっかりは相変わらず。上ばかりも向いていられないと土っぽいにおいに咳き込んだとき、前方を黙々と歩いていたデニムジャケットが前触れもなく石道に膝を付いた。

「翔太?」

 トランクが大きな音を立てて落ち、倒れる。日陰のなかでも目立つ青いキャリーバッグのハンドルに寄りかかる彼が腹部を抑えて、キャップの陰に隠れた、浅く執拗な呼吸にようやく気付いた異常性に目が回った。

「しょうた、」

 顔は真っ青で覇気がない。上着一枚で過ごしやすい気温なのに汗が頬を伝っている。

 どうしよう。

 呼びかけてもしんどそうにあたしを一瞥して、どうにか立とうとしていて、でも力が入らないのか平たい爪が何度も握り込む自分の皮膚を引っ掻いている。

 病院、救急車? こんなところ入れるのかな、番号知らない、調べて、どうする、説明できないだろ。

 頼ってばっかのツケだと思い知った。

 あたしが悪い。逃げてきたあたしが悪い。救われたいと少しでも思ったあたしが悪い。

「だれか、」

 人の気配はどこにもなくて、大通りまで行こうにも、誰かに説明する語学も彼をひとりにする勇気もない。だってここは日本じゃない。

 どんどん血の気が失せていって、荒い息に反して重くなっていく瞬きの間にあたしを見る黒が、告げていた。

 あたしを責めるつもりは少しもないことと、落ち着けって、言ってた。

 そんなん無理でしょだってあんた、このままじゃ、死んじゃうよ。

 虚ろになって濁っていく黒曜が力を失って、あ、これ、

「大丈夫ですか?」

 背後からかけられた声と共に冷たい、石畳の上へと、翔太は簡単に倒れてしまった。

「翔太!」

 慌てて彼の肩に振れた瞬間に鼻を突いた鈍いにおい。藍色のトレーナーに滲む、二度と嗅ぎたくないと思った昨晩のパニックが湧き出て咄嗟に口を塞いだ。

 背後で見ていた男の人が翔太の頬や首に触り眉をしかめた。ああ、ダメかもしれない、死んじゃったら、あたし、あたしじゃ助けてあげられない。

 視界が揺らいでいく。膜が覆って翔太の顔が見えなくなる。白い帽子が近くに転がっていって、ああもう嫌だ、ダメだ。

「手を貸して」

 男の人が何かを言って、それから迷ったようにヘルプと言った。翔太の腕を掴み肩にかける。背負った翔太の体はいつもよりずっと小さく見えて、背の高い彼がキャリーバッグを指した。それから手招いて早足に細道を進んでいく。

 座り込んでいた惨めなあたしを救ってくれるあたたかな手に、あたしはそれにすがるしかない。

 目が覚めたら、謝って、お礼を言って、あたしに出来ることはないか訊いてみよう。

 『絶対大丈夫』は魔法の言葉って聞いたことがある。

 絶対助かる。だいじょうぶ。

 自分に言い聞かせてジーパンの上から腿を叩き活を入れる。

 まず翔太の帽子をかぶった。後ろに結んだゴムが無理に下にずれたが全部無視。

 キャリーバッグのハンドルを持ち、左手で翔太のトランクを引っ掴んだ。細道の角、陽の射すそこで、短く活発な印象を与える黒髪と驚くほど、ぞっとするほど美しい青の瞳があたしを見ていた。

 名前も知らない彼に連れられて何度か曲がり、その都度キャスターが石畳に引っかかった。重いトランクをキャリーバッグの上に乗せて引きずるように進む。

 水色のシャツに黒のカーディガンを羽織った彼の背中で翔太はぐったりとしている。心配だけどいまのあたしには今度こそ荷物を捨てないように走ることしかできない。

「こっち」

 クリーム色に焼けたレンガの二階建てアパート。土煙っぽいにおいと太陽の香りが混ざって余計混乱する。家々の隙間に見つけた外付けの階段を動くたびに振れるリュックサックと、重いトランクと邪魔なキャリーを腕がちぎれそうになりながら登りきった。

 息が切れて手が震える。額の汗を拭い呼吸を整えていると、短髪の彼が微笑みながらがさばる荷物を運んでくれた。薄い青の瞳が細く笑って、早くおいでと手招かれる。

 それから真ん中の部屋に入っていった彼をなんとか追いかけた。

 翔太は玄関から真っ直ぐ壁に並ぶ窓際のベッドで眠っていた。苦しそうな表情は変わらずだけれど、少し、いやだいぶほっとして力が抜けた。トランクが彼のベッド脇に添えられる。

「翔太!」

 靴を脱がぬままにベッドへ駆け寄る。

 血のにおいが酷く、心臓が飛び跳ねた。

 服の色のせいで見えにくいが、藍に染み込んだ深い赤は確かに昨日見たもので、翔太を背負ってくれた彼の背中にも確かに張り付いている。

 宝石のような青色の瞳があたしをとらえて、安心させるように微笑んだ。

 薬とミネラルウォーターのペットボトルを持ってきた彼が翔太の肩を叩く。

「これ飲んで。鎮痛剤」

 薄く開いた瞳に光が差した。男の人が翔太の首を支えて錠剤を口に含ませて、水を与える。翔太の薄いのどが何度か上下して、それから力を失くした。

 男の人はジーンズの尻ポケットからスマートフォンを取り出し何度か操作する。そして画面を見せた。明るい画面には『鎮痛剤。私はカルロ。十六歳。君は?』と書かれていた。

 翻訳……そっか、その手があったかとスマホを受け取り、どうしようと迷ってからずっと背負ていたリュックサックからスマートフォンを取り出して同じように翻訳して見せた。

『あかり。彼は翔太。たすけてくれてありがとう』

 彼の端末を返して彼がまた打ち込む。

『話はあとで聞くから、少しここで休んでて。俺は買い物に行ってくるね』

『わかった。本当にありがとう』

『どういたしまして』

 腰を折ってにっこり笑う端正な顔立ちはどこからどう見てもイタリア人って感じ。柑橘系の制汗剤が強く香った。

 深いため息に続き、少し落ち着いた寝息が聞こえて、ほっと胸を撫で下ろした。

 カルロと名乗った彼が目を離した隙にストライプシャツに着替えて出ていった。

 鍵がかかる音がして物珍しさに部屋を見渡す。電気のついていない薄暗い正方形の部屋は広めのワンルームだと思い込んでいたが、黄色い扉が二枚並んでいた。

 キッチン側にあるのがシャワールームだとして、もう一つは、なんだろう、何かプレートがかかってるけど読めない。

 少なくとも一人暮らしの部屋ではないことは確かだった。

 翔太が眠るのと似たようなベッドが四つ等間隔で並び、男物の衣類がベッドの周辺に散乱している。ルームシェアでもしているのだろうか。イタリアの学生生活には縁も知識もなさすぎる。

 つかカルロ、十六て、歳下かよ……。

 縦長の窓は街中でもよく見たもので、こちらもまた四枚並んで開け放たれていたから、もしかしたらここは元々二部屋だったのかもしれない。

 キッチンの前にある長机は三つ合わさって大きな長方形を作っていた。そこにある色も形もばらばらなイスからちいさなスツールを一つ拝借する。

 陽が射し込む窓のそばに置いて、ちいさな鉢のサボテンが日光浴に勤しんでいるのを眺めることにした。

 太陽が傾いて結構経つ。ミラノにいたときは日中重ね着してれば平気だけど夜はすごく寒くてダウンが欲しくなる。こっちのほうはどうなんだろう。

 五月なのにこの肌寒さとは。イタリアって夏は暑いのかな。

 訊きたいことだらけになっちゃった。整理は付かないまま、サボテンの横で腕を枕に頭を横たえる。

「翔太」

 視界の端で白のレースカーテンがふわりと入り込むあたたかな風に揺られて泳いでいた。

 優しい時間だった。

 穏やかで、緊張が微睡みに呑まれていく。

 深く息を吸う。

 土壁のにおいと、それからサボテンの葉っぱの香り、藍色のプルオーバーシャツは汗臭くて、でも太陽の朗らかなあたたかさが肺に満ちて眠気が体を包む。

 三日しか経ってないのにこんなに穏やかな時間は初めてな気がする。

 生きてるって感じがするのは、現状で言うのは不謹慎だろうか。

 陽だまりのなか、落ちてくる目蓋に抗うことはせず、ゆっくりと体から空気を抜いていく。

「……あかり?」

 翔太の声が聞こえた気がした。

 次に聞こえたのは覚えのある爽やかな話し声だった。

 冷えた空気が首元をくすぐり、身震いしながら丸めていた背中を伸ばす。白い剥き出しの蛍光灯が部屋を照らしていて、反して外はすっかり暗くなっていた。隣のサボテンはどこかに行ってしまったらしく姿が見えない。

「おはよ」

「……しょうた?」

 後ろから投げられた明るい黒曜がけろりとあたしを見つめていた。

「……こわかった」

「ごめん」

「痛くない?」

「痛いけど薬もらったしダイジョーブ」

 腹をさする彼の笑顔にほっとした。右隣のベッドに座るカルロが青い瞳を細めて親指を立てた。なんだかよくわからないからとりあえず会釈をしておいた。

「事情はわかった。仲間に声かけとくから、体力戻るまで休んだ方がいい」

「……なんでここまでする?」

「ま、女の子が困ってたからね」

 翔太の肩を緩く叩いてキッチンのほうに戻っていく彼が、テーブルの周りでのんびり話している三人組のなかに混ざっていった。

「なんて?」

「しばらくここ泊まれってさ」

「なんで」

「レジスタンスだから?」

「どーゆー意味?」

「よーするに、おれを撃った奴らに敵対心持ってるって感じ」

「……反乱軍てきな?」

「そんな感じ」

 壁に背中を預けている翔太の肌掛け布団に力なく置かれた武骨な左手を握る。

 ぴくりと動いた翔太のまあるく開いた黒があたしをとらえて、低く、なに、と零した。

「ぜんぶ、話して、ほしい」

 電車に乗っていたときのような、重く暗い空気がのしかかって呼吸が浅くなった気がした。

「言いたくないことは言わなくていいから、お願い」

 熱っぽいカサついた体温がゆっくりと握り返す。翔太はあたしを見ない。

「……あかりさぁ。あの子助けたからいま結構危ない状況なんだよ。だからさっき訊いたこと、ちゃんと答えて」

 ため息が暗い空気を吹き飛ばして、それでもわずかに重い酸素が胃に溜まる不快感に眩暈がする。

「なんでリリィをたすけたの?」

「死んでほしくなかったから」

 脊髄反射ってこういうことかと思った。自分の声だとは思えないほど張り詰めた声がまっすぐに伸び、部屋に一拍だけの静けさを招いた。

「……なにそれ」

 今度は翔太があたしに訊ねる番だった。重ねた右手が翔太の体温を奪ってかっかと熱くなっていく。それでも内臓は冷え切ったまま。

 あたしは簡単に言葉を吐く。

 彼はめずらしくしかめっ面を余計しわくちゃにしてあたしの声を聞き届ける。

 掬った泥の形を整えることなく彼の顔面に叩きつけるような行為だと思うけれど、いま思う感情は後悔でなく、疑問なのだ。

「自分が死ぬのは別にいいんだ。将来の夢とかないし逃げてきたって言ったでしょ? あそこに戻ってもどうせ何も変わらないから、だからいいやって思った。あの子が死ぬよりずっとマシだって」

 不愉快そうに唇を引き結んでいる。嘘じゃないってのもわかってんだろうし、だからもういいやって思った。

 このまま見放されても最悪死ぬだけで、最悪生きてあの場所に戻るだけ。二週間の逃避行なんかちょっと長い夢みたいな顔で日常に戻るだけだし。投げやりとも言うけれど。

「おれ、そういうの嫌い」

「……って言われても」

「自己犠牲かよ」

「ダメ?」

「ダメ。あかりが危険にならなくてもあの子は自分でどうにかできたよ。あの子銃持ってたよ。おれが助けなくてもあかりが助けなくてもあの子反撃できたよ。おれがあの子になんて言ったか知らないでしょ。おれが止めなきゃあかり、あの子に殺されてたよ」

「そ、れは……イヤだなぁ」

 まくしたてる彼の表情は真剣そのもので、あたしのために怒ってるのがよく伝わってきて、なんだか、不思議な気分だ。よく知らない男の子に叱られてる。はた目から見たらただのケンカだろうけどあたしから見たら異様だった。

「もしあの子がすでに反撃してたとしても、あかりはあの子を助けた?」

 何その質問。とは言えなかったから頷く。

「うん」

「嫌い」

「……でも、」

 そっぽを向いてしまった翔太の手を握る右手に力をこめる。振り払わないから、優しいなと思う。

「あたしのせいで翔太がケガしたから、それは、浅はかだったなとは、思ってるよ。ごめん」

 血の跡が乾いて目立つトレーナーを見つめる。

 あたしの名前を翔太の声は優しかった。それでもあかりのせいじゃないって言ってくれるであろうこと以外は、何もわからなかった。

「なに訊きたいの」

「いろいろ、あるんだけど」

「いーよ」

 リリィといったあの女の子を追っていたのがマフィアの末端組織で、そいつらに撃たれたらしい。

 仕事のことは教えてくれなかったけど、たぶん翔太は怖い銃を持ってるしそれを一昨日の夜に使ってる。翔太と一緒にいたあたしも狙われてるからレッチェというらしいこの街まで逃げたんだけど、この時期観光客も少ないから目立って見つかるかもしれないから、ひとりで外に出ないように。あたしが走ったときの判断は間違ってないってこと。イタリアの夏は日本と変わらず猛暑だということ。自分の命を大事にしようとしてくれとのこと。

 なんだかいろいろ言われたけれど、結局は心配だということらしい。話し終えて疲れたから寝ると布団にもぐってしまった翔太の手を放しておやすみと声をかける。

 開けっ放しの窓を閉めようと外に身を乗り出した。

「あんた、日本人でしょ」

「あ、はい」

 肩上で切りそろえられた黒髪にはっきりとした猫目が印象的な同い年か年上くらいの女の子が、退けと割り込んであたしの代わりに窓を閉めてくれる。

「プレートある部屋が女子部屋ね。スペアベッド片付けたから今日はそこで寝て」

「ありがとうございます」

「敬語なくていいよ。アタシ柳愛子。アイコって呼んで。あかりって呼ぶから」

「わ、わかった」

 パキパキした物言いはきっと仲間に対しても物怖じしないんだろうなと思わせる。太めの黒いチョーカーに小さな十字が彼女の動きに合わせて振れていた。

 服はてんで詳しくないから合っているかわからないけど、パンクロックと言ったらいいのかな、ダメージジーンズと肩と二の腕を露出したどこもかしこも華奢な彼女のハスキーがあたしに向いた。

「アンタ、なんにも訊かないんだね」

「え?」

「さっきだってそうでしょ。話聞こえてたけどさ。なんにも訊かないでノコノコ知らない男についてきたって、正直頭おかしいよ」

「あー……」

 強くまっすぐ。あたしを見据える眼光からとにかく逃げたくて視線はうろうろそっぽを這う。

「へんなの。」

 彼女からは悪意も悪気も感じない。それ以上でもそれ以下でもない言葉はただの事実を彼女の主観で述べている。それなのにこんなにも心臓に刺さって痛い。

 母の遊び歩いてる発言が頭をよぎって眩暈がした。

「そうかもね」

 傷付きたくないのは誰だってそうだろうと嫌なあたしが顔を出したから口から零れ落ちる前に呑み下して知らないふりをした。

「あっそ。ルカ! アンタ今日夕飯の当番でしょ!」

 何か言いながらダイニングテーブルに突っ伏して寝ている男性の後頭部を叩いている。

 素っ気なく興味を失ったと離れていく彼女はきっと正しい。

 確かに彼の言うことが嘘だったならあたしはとうに死んでいるだろうし。それに関してつくづく、己の愚かさに反吐が出る。

 でもそんなこと関係ないあんたに言われたくないんだと嫌なあたしが不機嫌に騒ぎたてるから、すっかり解けかかっていたポニテを粗雑に直す。

 窓際で眠る翔太に視線を移せば、肌掛け布団のなかで丸まっていて、彼が今日一日ずっと周囲を警戒しているように見えたから、やっぱり疲れてたんだなと。腹に穴が開いてんだから。血塗れであたしのために、あたしのところに来たんだから。

 なんか、守られて、ばっかだなぁ。

 あのときみたいに撃っちゃえばいいのに、見捨てちゃえばいいのに、翔太はあたしを気にして撃たれた。じゃあもうぜんぶあたしのせいじゃん。あたしが余計なことしなきゃ翔太がケガすることもなかった。

 はずなのに。

 お礼言いそびれたし。言ったところで、傷が治るわけじゃないけど。

 祈ることしかできない。

 イタリアは教会がいっぱいあるからきっと聴き届けてくれる。都合のいいときしか祈らないから信仰心なんかてんでないこともバレてると思うけど。

 神様、翔太を死なせないでね。なんて願ってみる。

 ひとりぽっちのあたしを救った翔太のように、あたしも彼の救いになれたらと思うのは、少し飛躍しすぎなんだろうか。

 それでも優しさをわけてくれた彼へ恩を返したいと思うことは、至って自然のことだと思う。

 アイコがあたしを呼んだ。ここ座って、と背もたれのある木製のイスを引いてくれる。さらりと前を横切った黒髪から甘い花のにおいがした。

 向かいに座るのは金の短髪に整えたひげを生やした男性。先程ルカと呼ばれていたふわふわのブラウンをうなじでまとめている男性はキッチンに立っている。二人とも、ずいぶんガタイが良い。

「カルロ、だっけ」

「何」

 彼女のチョーカーが天井の光を反射して瞳孔に刺さる。ピシャンとした物言いにのどが詰まった。

 リリィの深いサファイアとは濃度が違う、アクアの瞳は見当たらない。

「あの人は?」

 キッチンで野菜を手にしているルカさんの隣に立っているアイコは、あたしを一瞥することなく吐き捨てた。

「この時間はいつもいない」

「そう、なんだ」

 スマートフォンが手元にないことに気付き首を後方に回せば、鮮やかな青のキャリーケースが翔太のベッド脇に置かれていた。その隣に見慣れたリュックサックも。

 ちいさなナイフがまな板を打ち、軽やかな話し声が漂い始める。

 静かに席を離れる。

 サイドポケット、ない。どこに入れたっけ、最後は背中側のチャックの隙間に滑り込ませた気がする。ナイロンジャケットがサリサリ鳴ってるのをかき分けて奥、指先に当たる固く冷たい感触はずいぶん馴染みのあるものだ。

 カバーの付けていないそれを引きずり出して起動。少ししてから表示された時間はとうに七時を回っていた。

 肌寒いから土と汗のにおいがするプルオーバーシャツの上からナイロンジャケットをはおる。右ポケットにスマートフォンを突っ込んだ。

「ただいまー」

 ちょうど階段を登る足音が玄関を開けた。口々にカルロを出迎える声が舞う。

 彼のアクアの瞳があたしをとらえて笑うから少し躊躇い、曖昧に笑い返した。

 あの場所とは違う、優しい空間だった。

 他が他を認め合い尊重し支え合って生きているような、そういう縁のない環境。

 そりゃあ居心地はいい。少なくともここで微睡んでいたいくらいには。

 幸福であると感じさせる緩慢な時間の流れが、あの瞬きの内にすべてが終わり気付けばベッドの上みたいな、何もかもが無駄になるとは正反対で。

 羨ましくても、いくら憧れても。この時間のなかじゃ、あたしはきっと生きていけないんだろう。

 毎日を無駄にしていく。一日は二十四時間もあるはずなのに気付けば全部終わってて、あたしは全部を見ていたはずなのに、何も覚えてなくて。

 そういう空間で自分の首を絞めながらじゃないときっと生きていけない。

 自分の命を大事にしろ、か。

 酸素を渇望してるくせに身動きの取れない一畳から出ていこうともしない。そういう生き方じゃないと不安に殺されてしまう。

 できるもんならやってる。と、言ってもよかった。でもそれで見放されるのが怖かった。

 何度考えても少女が死ぬよりずっとマシって結論に行きついてしまうから、たぶん一生、価値を見出せないまま生きていくんだろう。

 誰だってそうじゃないのか。瞬きの一日のなかで。苦しいまんま。ひとりぽっちで生きていくしかないんじゃないのか。

 ルカさんが作ってくれたのはトマトの酸味が効いたパスタだった。本当の家族みたいにわあわあしゃべってて、あたしはそれを聞き流していただけでも、とても幸せな光景を眺めているんだと思った。

 兄弟とか家族とかってたぶんきっとこういうことで、ああ、そういえば最後にあの家で母とご飯を食べたのはいつだったっけ。最近はコンビニのおにぎりしか食べてない。

 あの家の幸福をあたしが知らなければ、もっとずっと純粋に母を恨んで父を見放せたのかもしれないが。やわらかい春の日に母と父と手を繋いで歩いた公園を覚えているから、惨めにも期待を捨てきれなくてこんなところに逃げたのだろう。あの二人の関係修復はもう、できたもんじゃないのに。

 スマートフォンの翻訳が心配を滲ませていた。彼はそれ以上何も言わずスマートフォンを伏せた。

 鮮やかな赤いパスタをなんとか飲み切ってナイロンジャケットのうえからスマートフォンを触る。せっかくワイファイ借りてきたのに数分しか電源を入れてない。通知は全部切ってるし、翻訳画面以外何にも開いてない。引きずり戻されたくないという気持ちのほうが強いと思う。この二週間を夢物語で終わらせるにはと考え続けているのは、さすがに往生際が悪すぎるか。

 シャワーはホテルと変わらない水圧で少しだって泡立たない。ベッドは昨日とは違う安物マットレス。

 時計の針をぐるりぐるりと回している感覚に近い、曖昧な記憶が終わりを告げる。

 気付けばベッドの上。日本にいたときと変わらないこれは悪癖と呼ぶにふさわしいんじゃないか。

 なんて思いながら、眠たくもない意識を無理やりドブに沈める。温度の消えたベッドのなかは終わりがない迷路みたいで気分が悪い。

 結局あたしはあたしのことしか考えてないんだなって、辟易するのも仕方のないことな気がするよ。母さんと同じ。最悪だ。

「あかり!」

 肩を思いきり殴られる衝撃に冷たい酸素を吸い込んだ。縦長の窓は開けられ、涼やかな風と見当違いな方向を見ている陽の光がうすらと射し込んでいた。部屋のなかはぬいぐるみやら洋服やらで生活感があちこちに散らかっていて、あたしのなんにもない部屋とは正反対で違和感に頭が冴える。

「早く着替えなよ」

 昨晩移動させたキャリーを開ける。黒のスキニーと薄紫色のプルオーバーシャツのなかに黒のインナーを着込む。

 リュックサックのサイドポケットに収まっていた、半端に残ったミネラルウォーターを飲み干した。中身の空いたそれをベッドに放り、ショルダーバッグにサイフとスマートフォンを押し込んだベルトを肩にかけて、朝から慣れないが汚れたスニーカーを履いて部屋を出る。

「彼起こして。ご飯食べさせるから」

 応諾し、昨日から変わらず肌掛け布団を巻き込んで丸まっている翔太の肩に触れたと思う。薄い布団が音もなくベッド脇へ滑り落ちて、視線がつられた一瞬の間に真っ黒な銃口が、鼻先でピタリと止まった。

「、っあ、」

 どちらの声だかわからない呼気が鼓膜に届くより早く、背後のテーブルから複数の重い物が構えられる音がした。

「待っ、」

 息を呑む。

 見開かれ焦りに染まる黒曜が、震える両手を隠すように銃を横たえ、ベッドに沈めた。

「……ごめん」

 叱られているこどもの引きつった表情が伏せられ、浅く息を吐き出していた。傷が痛むのかとか、なんでそんな顔すんのとか、のどがへばりついてたせいで、何も訊けなかった。

「なにが、」

 同じように震え出したのどが吐いたのはそんな言葉で。

 焦燥も困惑もあるくせに翔太は銃を手放さない。

 鳥の声と緊張に包まれた部屋。呼吸すら気を遣うその空間で手を叩いたのは、シャワー室から出てきたカルロだった。

「ま、はやくごはん食べちゃおう。ほら翔太もあかりも!」

 手招く彼が、この現状化において一番の異常なんだと理解した。

 髪を後ろに流して束ねているルカさんと、短い金髪にヒゲのアンドレアさんと、昨日とデザインの違うチョーカーに触れたアイコは強張った顔を崩すことなく、あたしを、いや、翔太を、睨んでいる。

 翔太が本気で撃つとは思ってなかった。

 だから背中に刺さる怯えたこどものような視線を見ないまま、席に着いた。

「何アイツ」

 アイコが通常のボリュームで言い放つ。

「夢見でも悪かったんじゃない?」

 素知らぬ顔をしてクロワッサンをちぎってイチゴジャムを付ける。

「なぁカルロ、あいつ本当に大丈夫かよ」

「大丈夫だろ。撃たなかったし」

「にしてもよ」

 翔太を除いた男性陣が何か言い合っている。あたしは作ってもらったスクランブルエッグを水で飲み込んだ。

「アンタそれで流すつもり? 死んでてもおかしくないのよ」

 彼女が向かいで猫目を吊り上げ語気をキツく吐き捨てる。

「まぁ、そうかもね」

「アンタ昨日もそう言った」

 一瞥する彼女の瞳は可哀想なものを見る目で、なんだかあたしが異常者になったような気分。

「そうだったっけ」

「そうよ。死にたがりなわけ?」

「死にたいとは思ったことないけど」

「……へんなの。」

「そうかな」

「そうよ」

 振り返ると、よく跳ねた黒髪が身動きせずに、開けられた窓の外をぼんやり眺めていた。太陽の光をいとおしそうに、羨ましそうに見つめているその顔は、もう日向に出ることはないと信じ切っていて、すごく、さみしくなった。

「あかり?」

 卵の黄身で少し汚れている白い皿に、バスケットに乗ったクロワッサンを三個取り分けて席を立つ。窓に向いた瞳がゆっくりとあたしをとらえた。あぐらをかいている間に落ちた両手が確かリボルバーと、そう呼ぶ銃を握っていて、銃口があたしに向かう様子はない。

「はい」

 両手の上に皿を乗せる。斜めになった平皿からパンが滑り落ちた。

 驚きからか口を開き、次いで引き結ぶ薄い唇を眺めていれば、困ったようになんでと蠢いた。

「ジェラート。早く治して食べに行こう」「殺されるとは、思わないの」

 震える疑問と躊躇いこそが答えなんじゃないの。とは言わないけれど。

 あんたには怒られたけど、あたしいま死んだって後悔はないんだ。あんたがそんな顔してるほうが、あたしは嫌だよ。

 後ろでかちりと軽い音が聞こえて、アイコの咎める声が微かに響く。

 冷たい酸素を深く吸い込んで、鳥の声を借りる。臆病者だから死なないでとは言えないから。いまのあたしに優しくしてくれたあんたを見捨てたりなんかできないんだよって、言えたらいいけど。

 いろいろ考えた末に出た声は窓枠でさえずる鳥とは似ても似つかず、サボテンが陽光のなかで冷風を受けて倒れかけている。

「だってあたしのこと、たすけてくれるんでしょ」

 驚きを含んだその表情が、徐々に優しくやわらかく歪んでいくのは、会ったばかりに覗いた大人の顔とはかけ離れていた。

「わかったよ」

 静かにそう零して銃から手を離す。その手でクロワッサンをちぎって口に詰め込む翔太の顔色は悪いには悪いけど、昨日よりはずっと明るくなった。

「昼間、彼女の観光に出たいんだけど」

 もそもそ食べながらダイニングテーブルに向けて何かを言う。パンくずで汚れた右手の親指がぞんざいに隣に立ったあたしを指して、それを見たラフな格好に身を包んだカルロが返す。

「いいよ。この時期なら、少し離れた海沿いの街にお祭りがあるから、そこにでも行こうか」

「祭り?」

「パレードもあるよ。日本人のお祭りとはだいぶ形が違うと思うけど」

「海沿いは奴らの根城があるんだろ」

「だからこそだよ。やつらもパレードの日は流石に手出さないさ」

「……わかった。頼むよ。彼女を危険に晒したくない。なんとかできるか?」

「任せて。他の仲間にも声をかけておくから」

 あたしだけてんでわからない言葉が飛び交う。胡散臭くも作り笑いでもないカルロの微笑みはまるで聖母そのものだった。

 齢十六の男がこんな顔できるかよ。

 それが本心だった。

 違和感すら覚える絶対的な壁。

 人として当然のことをしたまでだという顔の裏は踏み込んでくるなという拒絶。透き通るほど真っ直ぐ純真に彼の瞳のように美しく歪んでいる、その様をまざまざと突きつけられ眉を寄せてしまう。

 視界の端で少し尖った唇をさらに尖らせ、しかめっ面をしているアイコも、その違和感を知っているようだった。

「あかり、ありがとな」

 静かに零した声は今度こそ悲しくなくて、あたしはそれに笑って返す。

「こちらこそ」

「……なにそれ。ていうか水持ってきて。あと薬」

「人使い荒いなあ」

 午前から午後へ。

 緩慢な時間の流れを翔太が取り戻してくれた。

 コンクリ一畳部屋は酸素を与えられ、少しだけ、生きやすい。

 カルロが何か電話をしている間に翔太はシャワーを浴びて、アイコがごてごてストーンのついているスマートフォンを見せながら教えてくれた。

「ガリポリって場所、海沿いにあるんだけど、毎年日本で言うイルミネーションみたいなので街が飾られるの。屋台とかもたくさん出るし、そうね、電車で一時間くらいかしら。パレードのあとに点灯されるんだけどすごく綺麗なのよ。観光ならそこがいいんじゃないってカルロが」

 へえ、いいね。なんて口を開こうとして翔太が先に挟んできた。都合が悪いとき、聞かせたくない話をするとき、いつもこうして隠してしまう。イタリア語、少しくらい勉強してから来ればよかった。

「教会、あぶないんじゃねえの」

「仲間がいるわ」

「その仲間の話だよ」

「少なくとも、アンタほど危険じゃないわよ」

 そうすればもう少しくらい、力になれたのかな。

 疎外感はあるけれど、いつものことだと知らぬふりをできてしまう自分が憎らしい。口を噤んで事の成り行きを見守る。

「ルミナリエって言うんだけど本当に奇麗なのよ。曲芸師みたいなのもいっぱいいるし賑わうから、アンタも楽しいんじゃないの」

 サラリとストレートの黒髪が揺れる。ため息交じりの言葉は呆れと配慮を含んでいて、この子は物言いがキツイだけで優しい子なんだと理解した。

「スリも多そうだな」

「そりゃあね。アンタ車大丈夫なの」

「さぁ。なんとかなるだろ」

「そんなんじゃ、またあかりに迷惑かけるわよ」

「……なんで知ってんの」

「カルロに聞いたわよ。ブザマね」

「うるせえわ」

 情緒豊かな二人の応酬の内容はわからないけれどどこか心地良く、聞いてて楽しくなる。

 だからずっと、見ていた。

 翔太が銃をしまっていないことにも、アイコがしつこく何度もチョーカーに触れることにも、気付いていた。

「そろそろ出るぞ。支度しろ」

 アンドレアさんが外に出ると仕草で示す。

「荷物どうしたらいい?」

「置いて行ったら? コイツどうせ明日も寝たきりよ」

「あんたまじで一言余計」

「じゃあさっさと治してみなさいよ」

 苦い顔でイーと歯を出して威嚇する翔太にせせら笑うアイコがベッド脇から離れる。リビングテーブルで眠たそうに大欠伸を零しているルカさんと共に残るらしい。

 いてて、体を起こす翔太が腹をさすり、ベッドから足を下ろしてくたびれた革靴の先を打った。

「だいじょうぶ?」

「鎮痛剤飲んだしダイジョーブ」

「トランク持ってくの?」

「あー……いいだろ。一丁持ってるし」

「さっきの」

「うん」

 オーバーサイズのトレーナーは腰に付けたホルスターを隠すためだったらしい。代り映えしない服装はもう見飽きた。

 ようやく銃もホルスターにしまい、ほわほわした黒髪が白いキャップに押しつぶされる。キャップのつばを後ろに回し、腰に下がるホルスターに何度目か、触れた。

「……撃たなくてよかった。」

「なにが?」

「朝の話。あんた撃ってたらたぶん、すごい後悔してたと思うから」

「そ」

「なにその反応」

「はは。心配そうな顔してるから」

 きょとんと見上げる幼い顔がくしゃりと丸められ、久々に八重歯が見える。

「はは、そんな?」

「そんな。だいじょうぶだよ。翔太が思ってるよりか」

 左手を差し出せば簡単に掴んで立ち上がる彼の力強さに安心した。

 まあるい黒曜が目線の少し上で止まる。握ったままの高い体温がぎゅっと意志を告げた。

「あんたの愚直なとこ嫌いじゃないから。ちゃんとまもるよ」

「それ褒めてる?」

「めちゃくちゃ褒めてるじゃん」

 こどもみたいに笑いあって手を離す。

 残る温度を一人で握り直して、先に玄関へ向かった彼の背中を追いかける。

 きっとだいじょうぶ。

 世界は案外安易にできている。なんとかなるし、なるようにしかならない。

「あかり。行くよ」

 翔太の声があたしを呼んだ。

 窓は開いたまま。

 気分は軽い。

 シルバーの日本車に乗り込んでアンドレアさんが助手席に座るカルロに何か言い、緩やかに発進する。

 過ぎ去る景色を眺める横顔は幼いくせに大人で、こどもみたいな理由で逃げたあたしがみっともなく思えてしまう。

 それでもイタリアの空気が肺を満たすたびに少し身体が軽くなっていく。心臓が血を吐き出しては生きていることを理解する。

 惨めでお粗末すぎる逃亡劇がちゃんと意味を見出せているような気がして、それらは全部翔太のおかげだってことくらいしか、わからないけれど。

「翔太、」

 あたしを見ない翔太のまあるい瞳がゆったりと瞬いている。

「……ありがとうね」

「……うん」

 おんなじだけの間を取って独り言みたいに零した声は車のエンジン音にかき消されそうだった。

 前列がこっそりと窺っているらしく、カルロの透き通る瞳とかち合ったが彼は曖昧に笑うだけで口を噤んだ。

 舗装されていない石畳を一時間強も揺らされた先。

 陽気な音楽に満ちる車から降りてまず、冷たい潮のにおいが風に流されて飛んでいく。

 広場の中心から聴こえる軽快なラッパが観客を呑み込んでいるのがわかる。華やかな赤と黒のドレスに身を包んだ女性や赤い制服を着た男性たちがくるりくるりと舞っていた。そこかしこで歓声とスマートフォンのカメラが向けられている。

「すごい……」

 思わず零した声は喧騒に丸められてそのまま落ちた。背の高いアンドレアさんとカルロが横に並んで楽しそうに眺めている様を見れば、夏の間だけやる日本のお祭りと変わらないのかもしれない。

「あっちにもう屋台出てたぞ」

 翔太が白いキャップのつばを前にかぶり直していた。吸い寄せられる目線が終わりを迎えたパレードに向き、踊っていた彼女らが美しい所作でドレスをつまんで恭しく腰を折っていた。

「気に入った?」

 いつの間に隣に並んだカルロの軽やかな声が降ってくる。見上げるとニコリと整ったマリアの微笑みを向けられ、反対隣に立っている翔太が意味を教えてくれたので頷いておいた。

 暗くなってきた空と共に彼らが去って観客がまばらに散っていく。そのほとんどが広場に点々としている屋台へ立ち寄っていた。

「向こうにパニーニあった」

「なにそれ」

「日本で言うサンドイッチみたいなもん」

「へぇ。お腹空いたし食べてみたい」

 黒いカーゴパンツのポケットから取り出した重たいコインを数えている翔太を横目にしていると、カルロがあたしの肩を突いた。

「あかりちゃん。あっちにジェラートもあるよ」

「え、なにカルロ、向こう?」

「ジェラートのことだろ。カルロ、アンドレアはどうした」

「こっちの仲間のとこ。そろそろ戻るんじゃない?」

 翔太が助けてくれたけど、なんだろう、少し真面目な顔をしている。

「ジェラート、食べたい」

「並ぶんならおれの分も買っといてよ。いまカルロんとこのお仲間さんが来てるらしいから顔合わせしといたほうがいいかもって」

「あたしは?」

「……どうする?」

 身長差のある二人がそろって首を傾げた。

 見上げるほど高い一八四センチと言っていたカルロが翔太と並んでいると写真のフレームに収まらなさそうでちょっと笑える。

「なにその顔」

「えっ、いやなんでもない」

「……いちおー言っとくけど、一六〇あるからな」

「うそぉ」

「疑うなよ」

「だって翔太あたしとそんな変わんないじゃん」

「変わるだろ」

 軽口を叩いている間に太陽が広い空から姿を消した。

 ふっと、あたりが暗くなった一瞬の間を挟み、灯る鮮やかなライトたち。一瞬にしてお祭り感が強くなる広場は馬鹿みたいに明るい音楽と、馬鹿みたいに明るい表情をした人たちが楽しそうに行きかっていた。

 ああ、眩しいな。木々に電球を巻き付けるような日本のイルミネーションと違い、ライトたちが色鮮やかに意味のある模様を描いている。痛いほどに目が奪われる光景だった。

「そういやカルロ」

「何?」

「あんた、なんであのチームにいる」

「理由のこと? それならみんなと変わりないよ」

「ちげえよ。誰が狙いだ。相手に寄っちゃ、手ェくらいなら貸してやってもいいぜ」

「あのさぁ。今朝のアレ、さすがに擁護できないんだよね。不信感による拘束か、自発的に話すか、選んでいいよ」

「……信用しろとは言えねえけど、できないか?」

「できないね。俺はともかく、他の仲間が」

 あたしに聞こえないくらいの声量で何か話している彼らから目を移すと、ちょうど広場の向かいに位置する屋台の隙間からアンドレアさんがひょっこり顔を出した。

 イタリアって絵になる路地裏が山ほどあって、そこから彼みたいなヨーロッパの顔立ちの人が出てきても当然ながら違和感がないからすごい。

 人でごった返している広場を突っ切ろうと目があったその人は手を振ってきて、あたしがそれに返した一秒後。

 不意に首を押さえた彼は後ろに倒れた。彼の背後には、暗闇に紛れた誰かの気配。

「え、」

 あたしの声が洩れるより先に、かばうように前へ出た翔太が音もなくリボルバーを抜いて、逆にカルロは一歩下がりスマートな拳銃をどこからか取り出した。

「しずかに」

 地元民があふれている見渡せる程度の広さに点々とテントが並んでいる人混みのなか。

 あたしよりずっと大きな背中が銃を構えることなく強張ったのがわかる。

 空気の揺れが、肌を打った。

 首筋に、鋭いそれが食い込んでいて、翔太の舌打ちは喧騒を飛び越えて落ちる。

「あー……まじでヤキが回った」

 そう零し、リボルバーを地面に落とす翔太はあたしの知らない顔で、翔太の隣に並んであたしを見つめて立つ、ナイフを握る男に嘲笑を向けた。

「やーっぱあんただったか。クセェと思ったんだよなぁ」

「先日はどうも。お嬢さん」

 肩につくほど伸びたストレートの黒髪に人当たりの良さそうな優しげに見える微笑み。その中身が空っぽだと、脳の警告音が知っていた。

「あの子の、」

 細見に映る長い体は案外がっしりしていて、それに気付いてしまえば最後。本能的に理解する。

 翔太と同じ、血のにおい。

 視界にチラつくのは波打つブロンドに鮮やかなサファイアがはめ込まれた陶器人形顔負けの美しい少女と、「殺されていた」の言葉。

 彼はナイフを持つ右腕を翔太の首に回して人差し指を立てた。黙ってろという合図のあと、手本のような柔和な微笑みを浮かべてみせる。

 ゾッとするような、完璧に作られた表情は、こんな状況じゃなければ騙されてしまいそうなほどに、慈愛に塗れていた。

「楽しんでいるところ悪いね。こっちも仕事なんだ」

 翔太の背中は男の懐にねじ込まれるが、刃物だけは、引く様子がない。

 嘲笑を浮かべた翔太の首にぐっと、刃が押し付けられる。二人の応酬は止まないまま、暗がりに細く垂れる血がトレーナーの襟を汚していた。

「あのリリィとかゆーのはどーしたよ。ア? ウチの雇い主にでも捕まえられたか?」

「君のご主人はずいぶんお怒りらしいね。味方を殺したあげくに連絡もないって。躍起になっているみたいだよ」

 何も持ってないと両手を腹の高さに固定する幼い顔が鬱陶しげに歪んだ。

「チッ。ウゼェ豚だな」

「君の処分は俺の雇い主が交渉するのかどうかは知らないけど、たぶん、まともな死に方はできないんじゃない?」

「はは、鬼の首でも取った気でいんのかよ」

 せせら笑う彼らの会話はわからない。

 わからないけれど、嘲りと挑発があふれて、あふれ出て、べたりと落ちて弾む。喧騒があたしたちの外側を流れていく。あたしたちだけ、取り残された。街にも屋台にも人の目にも触れない場所に、置いていかれた感覚だった。

 じり、スニーカーの底が石畳を擦ってわずかに下がる。その隙間に体をねじ込んだカルロの広い背中が割って入った。

 グレーのワイシャツが余すところなく本物の殺気で満ちていて、あまりの圧力に気管が狭まり、鼓動が限界値を突破してひどく痛む。

「……やっと会えたな」

 地を這う低声が揺らぐことのない絶対的な怒りや憎しみが心臓に突き刺さり、すがろうと一応伸びた右手は無意味に空を掴んだ。

「どちらさま?」

 当たり障りのない整った微笑みに全身が一瞬にして芯から冷えていく。

 いままで心地良い涼やかさと祭の茹だるような熱気を、その顔面に貼り付けた微笑一つで殺してしまうほどの無情な無関心さ。

 清々しいまでに興味がない。

 彼が握る冷たいナイフだったりそこから垂れる赤い滴だったり、眼前に立ち塞がる彼の、憎悪だったり。

 はかり。知れることではないけれど。

 あんまりにも非日常化しすぎていた。

 こんなことになってもあたしの世界が騒がしいだけで、それ以外は見向きもされない。哀れな世界。

 単純な恐怖に足が竦んでまた一歩。惨めなあたしが後ろに下がろうとする。

 途端。

 翔太の固く真剣な声が鼓膜を穿つ。

「カルロ、そいつはおれが勝手に連れてきただけだから、ちゃんと、帰してやって」

 ああ、きっとまた犠牲になってまで、あたしを助けようとしてる。そういう声だ。わかるよ。命大事にしてないのあんたのほうじゃんか。バカ。

「……信用してないって言っただろ」

「じゃあいましろ」

 変わらぬ美しい微笑みが翔太の肩を掴み、ナイフを持った手をひらひらと振ってみせる。

 傷口から垂れる血は曖昧な光のせいで真っ黒に見えた。潮風に乗って薫る血のにおいはやっぱりあの日に嗅いだそれで、胃が溶けきったに近い違和感をなんとか、呑み下す。

「しょうた」

 震えた声が暗闇を切り取ったような瞳が重く、あたしをとらえた。持ちあげた手がキャップをポイとあたしに放る。

「あかり、ごめんな。できれば無事に、早く帰って」

 光すら呑み込んでしまう黒曜が逸らされ、雑踏が取り囲む。長すぎる数分間が闇に葬られた瞬間だった。

 誰も見てない、誰も知らない。

 喧騒に紛れて人が死んでも、連れ去られても、世界はどこまでも無関心だった。

 翔太が連れてかれた。

 おそらく、アンドレアさんが殺された。

 夜道で女の子を追いかけていた見知らぬ人が二人も死んだ。

 意味わかんない。

 わかるわけがない。

 わかりようもない。

 だってそこまでされる理由がない。

 わざわざ命をかけてまで、翔太があたしをかばう理由がない。

 きっといまのあたしより怖い思いをする。それなのに。

「あかりちゃん。帰ろう」

 カルロの険しい顔があたしの腕を痛いくらいに掴んだ。一瞬屈んで何かを拾った彼と路肩に並んだアンドレアさんが運転していた車に押し込まれて、発進した。

 沈黙の一時間の帰路。

 収まらない震えを出さないよう、惨めなあたしが泣き出さないよう、息を潜めた。

 じっと、晴れた空は雲一つない藍色で、薄く光っている星が目に染みる。

 光なんて名前に、いまさら嫌気が差すとは思ってなかった。

 助けてくれた人に恩返しもできず、あたしはそのまま日本に帰るのか。人の命の上に立つ勇気もないあたしが、これからものうのうと生きていくのか。

 なんにもないのに。

 人の命を噛み締めて生きていけるほど、あたしは強くないのに。

 ガタン、雑に揺れ止まる車体に重い沈黙を背負ったまま体を引きずって下りる。カルロの静かな表情は元々整っている分余計に怖い。

 どうしたらいいのかもわからないまま、彼の大きな背中を数歩後ろから追いかける。言葉はない。階段を登る音と、土煙の混じる冷風だけが漂う異国の世界はどうにも冷たくて、浅い呼吸を何度も繰り返していた。泣かないで済むように、何度も、肺を冷やしては、息を止めた。

「おかえり」

 アイコの明るさに目が眩む。深く息を吐いて返すカルロに俯いたままのあたしを見比べた彼女が眉間に皺を寄せたのが見えた。

 ダイニングで頬杖を突きながら煙草を吸っていたルカさんが沈黙を察してちらりと視線を寄こす。

「何。アンドレアとアイツは?」

「翔太は連れてかれたよ。アンドレアは、死んだ」

「は?」

「おいどういうことだ」

 イスを粗雑に引きずった音と怒気を含んだ二つの声。

 手首を握る右手に力が入り、骨が軋んだ音がする。

「なんであいつ連れてかれたの」

「英語で話していたし内容まではわからない。ただ、顔見知りのようだったから」

「なんなの。あかり翔太の知ってること全部話して」

「知らない」

 努めて、冷静に返したつもりだった。

 ここであたしが動揺したって仕方がないから、声を荒げても泣き喚いても意味がないから、静かに、嘘のない言葉を選ぶ。

 それでもアイコの表情はしわくちゃなまま。

「知らないって何。」

 鋭く砥がれた言葉の刃が振りかぶる。痛い。痛いだけで済んで、まだマシなんだろうけれど。

「あたし、本当になにも知らないんだ。教えてくれなかったから、知りようもない」

「アンタなんでそんなヤツについてきたのよ!」

 金切り声が目の前を掠めた。慌てたようにルカさんが煙草を灰皿に放ってアイコに駆け寄る。

 なんで見知らぬあんたが泣いてんの。

 翔太のこともあたしのことも知らないあんたが、なんで泣いてんの。

「言葉もわかんないような場所に来て得体のしれない男に殺されかけてなんで平気で笑ってられんのよ! 頭おかしいんじゃないの!?」

「たすけてくれたんだ」

 痛いほどの沈黙がべたりべたりと決して広くはない部屋を這いずって傷を作っていた。

 ああ、これだから。イヤなんだ。

「なんにもできないあたしを助けてくれたんだ。何度も。そのやさしさを信じちゃダメだった。怪我してまで、あたしなんかを助けようとして連れてかれちゃった。そんなの、そんなのおかしいじゃんか」

  息が切れる。

 酸素が回ってないせいで眩暈がして、脳みそがキューッと締め付けられている。

 小学校のときに父親の煙草をくすねて火を付けたときの息苦しさを思い出した。あのときから何も変わってないってことでしょ。惨めなあたしが可哀想になるくらいに泣き喚いていて、視界が揺らぐ。違う。泣きたいわけじゃない。

 ここまできてなんにもわからないほど察しは悪くないつもりだ。

 わかってる。

 翔太はあたしを無事に帰すためだけに捕まって、そのやさしさも、彼の言う「仕事」も、これから彼がどうなってしまうのかも、頭では理解していた。

 極端に眠りが浅いこともときおり疲れたように深いため息をついて、誤魔化すように笑っていたことも。知ってる。わかってる。

 わかってるからこそ、やさしさを無下にしても、あたしは。

 肺を空気で満たして止めた。手の甲で目を擦るとあっという間に濡れそぼった両手の下はちいさな水溜りが出来ていた。クリアになった視界に苦しそうな表情を浮かべたアイコと、彼女の腕を引いたままのルカさんと目が合った。彼は気まずそうに顔を伏せる。

「翔太を助けに行く」

 真剣で、嘘偽りの感じない芯のある声が、いやに響いた気がした。

 カルロと翔太の間で交わされた内容は知らない。訊かないし、言わなかったから、そういうもんだと思った。でも最後に、翔太は帰れって言った。だからカルロも、そう言うのだろうと思っていた。

「たすけるって、何言ってんの」

「え、」

 咄嗟に見上げた先がマリアの微笑を浮かべただけだった。いつだって読める裏があるほど中身なんかないことしかわからない。『ちょっとそこまで』の声色はいつだって少しも違うことなく、本心なのだろう。

 スマートフォンの画面をタップするカルロが詰め寄るアイコの頭上を乗り越えてあたしに手渡す。

『翔太を助けに行こうと思う。他所にいる仲間を説得するのと準備があるから、実際動けるのは最短で三日後になる。』

 パッと顔を上げる。その先のアクアマリンは確かに笑っていた。

「カルロ! なんとか言え!」

 それでも虹彩の奥底で苛烈な怒りが、憎悪が煮え滾り腐臭をまき散らしている様が見え、強すぎる感情に目が回る。

「……あたしも行く」

 あのときの彼の怒りは、憎悪は、あたしを庇うためのものじゃない。

 あたしみたいななんの役にも立たないようなのが行ったところで死ぬだけかもしれない。

 でも、このまま何もなかったように帰ったら、あたしは絶対後悔する。

「はぁ!? あんたみたいなのが行ってどうすんのよ! 無駄死にするだけ」

「それならそれでいいよ!」

 カルロの胸ぐらを掴んで離さないアイコの必死の形相が勢いよくあたしに向いた。艶やかな黒髪が白い蛍光灯の光を反射させて少しだけまぶしい。彼女の真っ直ぐな感情も、まばゆくて、羨ましい。

「……いいわけないでしょ」

「アイコ」

「いいわけないでしょ!」

 ルカさんの窘める声も聞かず、八つ当たりのようにカルロの頬を打った彼女がネームプレートの下がる扉を力いっぱい閉めた。

 気付けば両手で握りしめていたスマートフォンを彼に返し、ショルダーバッグから自分の端末を取り出して開きっぱなしだった画面に打ち込んで、見せる。

『あたしも連れていってほしい。役立たずでもおとりでもなんだっていいから、翔太を助けたい。彼はあたしを助けてくれた』

 それを読んだルカさんがぼんやりと言った様子でカルロを見やる。その表情は固く、やめておけと言っていた。

「どーすんの」

「いいんじゃない?」

 オーケーのサインをされほっと息をつくが、ルカさんはまだ心配そうな顔で短くなった煙草を置いた灰皿を引き寄せている。

「本気かよ」

「俺はいつでも本気だよルカ」

「……あっそ。ウチのリーダーはオマエだし任せるけどさ、あのバカの説得はオマエがやれよ」

「協力する気ないなぁ。あ、そうだあかりちゃん」

 腰に手を当てた彼がふと何かを思い出したのか、あたしの狭くみっともないてのひらに押し付けた、重たい塊は確かに、今朝向けられたものだった。

「護身用」

「?」

「えーっと、スマホ、」

 再び見せられた画面には「おまもり」と書かれていた。

 どう返すのが正解かわからず、とりあえずお礼を伝えておいた。

 火を付けた煙草から紫煙がくゆる。カルロが何か言い残して玄関を出ていった。ルカさんはてのひらを出して銃を寄こせと示すので、合っているかどうか不安になりながら彼の手に乗せる。

「言葉通じねえって不便極まりねえな……おいアイコ!」

 何かをぼやいている彼がネームプレートに怒鳴りながら、昨晩翔太が使っていた窓際のベッドへ歩いていく。トランクを雑に掴んでダイニングテーブルに乗せたとき、アイコが渋々顔を出した。

「……何」

「通訳」

「なんで」

「オマエしか日本語わかんねーだろ」

 彼はアイコをちらりとも見ないまま弾倉を開ける。

「こいつ使ってたか訊いてくんね」

「……これ、アイツ使ってたの」

 この空気のなかで察せることは多い。言葉が通じないから、仲介として頼んだのだと思う。渋々、重く閉ざしたはずの真っ赤な唇をときおり震わせながら訊く彼女は、たぶんきっと、不用意に人の死を見たくないだけで、それでやっぱりあたしのことを死にたがりだと思ってる。

 誰だって、人が死ぬところなんて見たくないだろ。ましてや散々助けてくれた相手が、死ぬかもしれないなんて考えたくもない。

 今度はあたしの番、なんて格好良くはいきっこなくても。

 絶対。

 アイコがあたしに無駄死にしてほしくないと思うのとおんなじで、あたしも翔太に死んでほしくないんだよ。

「三日前、あたしが入国したんだけど。そのとき女の子が追いかけられてて、あたしがその子を庇っちゃって、撃たれそうだったときに、たぶん、使ってる」

「……二発?」

「うん。二人いた、から。あたしのせいなんだ。アンドレアさんが亡くなったのも、翔太が連れてかれたのも」

「……だからアンタが行くって?」

「だって、そうじゃなきゃ、つじつまが合わない」

 アイコの細い喉がこくりと動いた。ルカさんが目を丸くして咥えていた煙草を落とす。空気が、止まる。

「つじつまって」

 アイコの掠れた声が嫌に響いた。部屋の広さを改めて認識する。

 自分の居場所がどこにもないと突きつけられるたび、満ち満ちていたコンクリート一畳部屋の酸素が急激に奪われていく感触。気持ち悪い。眩暈がする。

 チカチカ、ちかちか、してる。

 不意に玄関が開いてカルロがスマホを片手に戻ってきた。

「マヌエルとベニートが手貸してくれるって」

「マヌエルってローマだろ。こっちまで来んのか?」

 ルカさんが何かを返す声がかろうじて聞こえる。ゆったりと落ちたまぶたが持ち上がり、その美しいアクアマリンをとらえる前に、あたしの意識は黒に沈んだ。

「あかり!」




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