第二話
限界だ、
頭のなかを真っ白にして生きていくのも限度がある。
とにかく窮屈でしっちゃかめっちゃかな規律マナー流行なんかでギチギチに縛られているちいさな世界からすぐにでも出ていかないと、気付いた頃には死んでいると思った。
「次のシフト丸々休みになってたけどなんかあるの? ないならいつも通り入ってほしいんだよね。あ、それと学校早く終わる日とかない? 来週から林さんいないしお昼のレジ中村さん一人になるから」
知るか。と、知ったことか。
そう言えたのなら、馬鹿みたいに毎日毎日こんなところに来ないし、わざわざ残業終わりに呼び止められたりしないだろう。彼にとって、あたしの学校生活は夢物語と同じなのだから。
現在二十三時を優に越えている。手当が出ているのか知らないし、調べようという気持ちも起きない。だいたいのことはどうでもよくなってしまって、何もないし気にもならない。
「……最近母の調子が悪くて、それで、入院とか、あるっぽいんで」
素知らぬ顔で出た虚言に吐き気がした。キモチワル。
昨日の記憶がない。一昨日も、そのまえも、ここ一年くらいずっと。
ただ生きていたことは確か。
シフトを見れば昨日もそのまえも出勤になっていたから仕事だけはしていたんだろうけれど、仕事の内容も学校の記憶も曖昧。
「それだけで二週間休みってのはこっちの迷惑考えてなくない?」
もう疲れたという感覚すらない。仕事のやりがいも達成感もない。生きている感覚がない。
「新学期始まって忙しいんだろうけど人数減りまくってて大変なんだから少しは協力して」
朝六時四十五分に起きて七時に家を出て八時ギリギリに学校に着く。十五時三十分に校門を飛び出して十六時三十分からのシフトに間に合うように電車に乗る。六十分の移動時間めいっぱい使って水を飲むヒマもなく二十三時まで仕事をして、帰宅後すぐにシャワーを浴びて日付が変わる頃に寝る。
朝起きて、学校に行って、仕事して残業して、風呂入って死んだように寝る。
昼起きて仕事して帰る。
生きて、寝る。
毎日その繰り返し。
水曜だけ休み。たまに火曜も休み。でも学校がある。土曜日曜はフルタイム出勤。プラス残業。一日の半分は職場にいる。
毎日その繰り返し。
定期代と昼飯代くらいしか使わない給料。この間残高確認したら結構な額が貯まっていて引いた。
夜勤がいないからと散々働かされて、一時を過ぎて玄関を開けたのはいつの話だったか。そのときの母が「呑気に遊び歩いていいご身分ね」と顔も見ずに言い放ったことは、たぶん一生刺さってる。
生きながら死んでいるって、こういうことかな。
これ以上何を犠牲にすればいい。
放課後遊ぶ元気なんか少しもないしそれなりに責任感もあるから平気で仮病使って休むこともできなければぶっ倒れるほどの疲労感もない。というかそもそも疲れがない。一日一食、昼間コンビニで買ったおにぎりをお茶で流し込む。それだけ。食事なんて倒れないために食らうものであって楽しむものじゃない。ただ、食う。
先日別居中の父と鉢合わせて口論になったらしい母が珍しく嬉々としていた。
「離婚裁判だって! いくら慰謝料ふんだくれるかしら、母さん明日新宿の有名な先生のとこに相談行ってくるから!」
無邪気に笑っている母と最近の話をしたことがない。あの人の口から出るのは全部父のことで、昨日女子トイレの鏡に映った自分の顔色が青くてビックリしたけど、あの人は気付きもしなかった。あの人はもう、あたしの顔を覚えていないんだろう。
もう、つかれた。
自分が地面に足を付けて歩けているのかわからない。自分の心臓が正常に動いているのか、他と違わず息ができているのか、わからない。
「俺の言ってる意味わかる? 理由もなく休まないでって言ってるんだけど。そもそも責任感がなさすぎるんだよ君たちはさぁ。平気で仮病使って休めばいいと思ってるだから。二週間だよ二週間。二週間も理由なく休まれたら俺が何言われるか」
不平不満、仕事じゃないところであからさまな不機嫌をぶつけられるのは久々だった。学校の先生も同級生もここの人たちもあたしも、誰も他人に興味なくて、死んだら迷惑程度にしか思ってないことをあたしは知ってる。あたしがそうだから。
「チッ。とりあえず理由ないならいつも通り入ってもらうから」
上から吐き捨てて事務所を出ていく彼が、普段店長に散々言われて頭を下げていることを知っている。だから彼があたしたちみたいなバイトに酷く当たって何人も辞めていった。
だけどどれだけのことを言われても何も感じないのは、それだけあたしのこころが死んでいるということで。元々生きてないのかもしれないけど。
一年以上テレビを見ていない。ニュースは通学中スマートフォンで流し見する程度。授業なんか黒板全部ノートに写してるだけ。テストはずっと酷い点数で。
やけに冷える夜道を、自転車の錆びたペダルを踏みながら、深く空気を吸えば、惨めにも車体を止めてまで熱くなった目頭を押さえた。
もう限界だった。
限界を誤魔化しながら生きていくのは、もうできそうにない。
ここじゃないどこかに行って、正常になりたい。
泥の底にいるような密閉感。コンクリートで隙間なく四平を囲まれた一畳にいるような圧迫感。
あたしの世界にあるはずの酸素はずっと昔に尽きていた。
朦朧とした判断力の欠ける頭でスクールバッグからスマートフォンを引っ張り出す。検索アプリからトップに出てきた海外格安航空券と書かれたサイトに行先を選択し、躊躇いもなく購入ボタンを押し込んだ。支払い手続きメールが届いたのを見届けて、確認したスマートフォンのデジタル時計はゼロを表示していた。また何か言われるかもしれないけれど、もう、どうでもよかった。
詰まった息を吐いて、吸う。生きた花の香りがどこからか、漂って、滞っていた血の熱を感じながら、ゆっくりと吐いていく。
妙に肌寒いことに気付いて、でも熱くなった顔にはちょうどよかった。
二秒間、両手で顔を覆う。
あたしは生きてる。だいじょうぶ。
深呼吸をして、それからようやくスマホをブレザーの内ポケットにしまい、自転車の向きを変えてコンビニに走らせた。
次の日はバイトがなかったから意味も連絡もなく学校を休んだ。
母は朝っぱらから弁護士のところに行くと出ていった気がする。
午前のベッドで一人、領収証を眺めていた。
「……やってしまった」
どう考えても何度考えても早まった。というか往復十万越えとかそんなかかんのかよ……一ヶ月の給料一瞬で飛んだわ飛行機だけにってかやかましいわ。
しょうもない脳内会議に雑なツッコミを入れ、後悔に呻いていてもキャンセル方法を調べないのは、昨日よりもずっと息がしやすくて、昨日よりもずっと視界が明るいからだと思う。あのときのあたしの行動は間違ってなかったと、思えたから。
昨今のインターネットの利便性が高すぎて逆に怖いくらい。入国用の書類を集め記入しついでにパスポート用の書類を持って提出。無事にパスポートが出来上がって長期旅行に必要な物全部買って、月曜からの五月連休明け一日目。
テレビでしか見たことのない空港から乗ったことのない飛行機で十八時間。狭い席にこもったにおいのなかで体を丸めてなんとか眠った。
そして現在。
本当に来てしまった。
荷物がなかなか出てこないうえに入国するのも長かったし、地上に出るまでも遠かった。緊張した入国審査は案外すんなりいって、暑苦しい地下の空港から出たあたしを迎えたのは、車の排気ガスのにおいと、星の散る暗い空と涼やかな風だった。
この時期ツアー客すら少ないのか、まばらなグループがバスに乗り込んでいく。
遠くに見えるのはイメージ通りの石造り。日本の木造建築とはいっさいがっさいが違いすぎる。
底冷えする空気が足元から漂うのを感じて、リュックサックから肩から胸元まで派手なオレンジが入ったナイロンジャケットを引っ張り出して着込む。ついでにリュックサックの底に隠していたサイフをジャケットの左ポケットに突っ込んだ。視線はほとんど上を向いたまま。
なんっだあれ。建物だよな。……建物だよな? え、塔? 街中に塔とかあんの? おかしくない?
真っ暗な空を仰ぎながらリュックサックを背負い直し、鮮やかな青のキャリーケースを引きながら適当に空港近くのホテルでも借りようと、明るい空港外から公道に出た。やたらと白いライトで照らされた空港を一歩離れて見てみるとただ眩しいだけの日本でも見たような建物だった。
名残惜しくも暗い信号を渡る。向かいから来た黒人の腕と左肩が当たり、反射的に謝罪を口にする。向こうもソーリーなんて言ってて、脳みそ麻痺ってるから良い国だなーなんて思っちゃう。
ガス臭いけど空気がうまい気する。
解放感になんにも見えてない自覚はあるけど、重すぎて地面にめり込んでんのかなってくらいの重力が、すっかり丸々どこか行っちゃったみたいな浮遊感に頭の片隅じゃ不安が募っていた。
でもそんなことどうでもいいくらい脳みその九割がハイになって、足元はおろか暗闇にそびえる建物の一つから記憶をすり抜けている。
空港を出てすぐ、白むほどのライトが一瞬にして消え去った仄暗いミラノの街は美術の教科書でもテレビでも雑誌でも、幾度となく見た光景。
歴史だとかそういったものはよくわからないがとにかく圧巻。というかそんなことよりもう座りっぱだったから倦怠感すごい体重い寝たい。
「ねえ」
明るい少年の声が背後から投げられた。日本語だ。自分だとは思ってなかったけど首を回すと、見覚えのある折りたたみサイフを手にしたあたしより少し高い目線がかぶっている白無地のキャップに触れる。
「これあんたの?」
「え、っあ、」
咄嗟に左手がアウターをまさぐった。確かにない。うそだろ。
「さっきの奴らにスられてたよ」
はい。スリ多いから気をつけなね、と手渡されるそれは日本円よりずっと重いはずのコイン丸ごと失せていることを如実に告げていた。中身を改めるとやっぱり。紙幣も小銭もなくなっている。
来て早々ため息が出て、宙を漂っていた風船に石をねじ込まれ落ちていくような、現実的な重力が全身に圧し掛かる。
浮かれるな。結局全部から逃げてきただけだろ。
考えたくはないけど、あたしの欠けたシフトはどうなったのか、気にならないわけじゃない。最低枠の上級くらいのことしてると思ってるから、やっぱりどうしても心臓は重い。
「すみません……ありがとうございます」
明らかに落ち込んだ声色でお礼を言ってしまった。良くないのはわかっているけど一度落ちたものはなかなか上がらない。苦しいなぁ。
ちらりと見上げる幼い顔が視線に気付き、八重歯を覗かせて笑ってみせた。デニムジャケットのなかは厚手でサイズの大きい紺のトレーナーが彼の体を着膨れているように見せていた。
幼く映る彼がグレーのスウェットパンツから丸められた紙幣を引っ張り出し、数える。
「ユーロってそこに入れてただけ?」
「はい……」
「じゃあ持ち金足りるし、出したげるよ。顔見知りの宿だから少し安くしてくれるかも。金は明日返してくれればオッケーって感じで、どう?」
「エッ」
素っ頓狂な声を出してしまった。特に気にしてない様子の彼はてしてし画面に親指を這わせている。
どうって言われても。
「あ、部屋空いてるって」
迷わないわけじゃない。言葉の通じない場所で言葉の通じる相手が見つかっただけでも幸運だ。
「…………おねがいします」
背に腹は代えられねぇ。しょっぱな、出だしの出だしで躓いて、くじけそう。情けない。
「おっし交渉成立。こっからだとちょっと離れてるけど、気分転換にでも歩こっか」
ちいさく頷いたあたしに愛嬌にあふれた笑顔を浮かべている彼は右手を差し出すから、そっと握り返せばかさついた太い指がぎゅっと力を込めた。冷えた手に熱いくらいの体温が心地よい。
「おれ、あー……、しょうた。なんだっけな、たしか、飛翔のしょうに太郎のたで翔太。ありがちなやつだよ」
「翔太さん。あ、えっと、小野崎光です」
「あかりちゃん? 漢字は? ある?」
「……ひかり」
「わぁ。わりとキラネだね」
「うるさい、です」
街灯はあちこちに立っているはずなのに空気はどこまでも重くて涼やかで、他人事だった。
あたしを知らないあたしが知らない街。
不思議だった。
まさか自分がこういう決断ができるとは思ってなくて、だから一生、逃げられないもんだと思っていた。コンクリートに四辺を囲まれた一畳に、死ぬまで。居るもんだと思っていた。
隣の彼はため口でいいとのんびり笑って、亀みたいな速度で上ばかり見てるあたしに歩幅を合わせてくれる静かな優しさを確かに感じている。ミラノに着いて早々浮かれまくってて金パクられるわでも捨てる神あれば拾う神ありというやつだろうか。
暗闇に白いライトが点在するミラノの街。普通の民家だろうがどこを見渡しても古い街って感じで見ていて飽きないし、足元には飽きるほどの吸い殻が散らばっていた。なんかで見たけど、イタリアはたしか室内全面禁煙、室外のみ喫煙だったっけかな。
そう考えたら澄んだ風のなかから煙草のにおいが微かにしてる。
「えっと、翔太さん」
「しょーたでいいって」
「翔太」
「なに?」
「本当にありがとうね。あたし一人だったらたぶん、あのまま一晩明かしてたかも」
「おせっかいかとは思ったけど、それならよかったよ」
八重歯が、新月の下で笑ってみえた。
やけに暗く感じるのは街灯が日本よりも少ないからか。
ヨーロッパの街並みにわくわくするよりも不安が勝る異国の夜十一時、寒さと孤独にたった一晩で死なずに済んだのは、単に彼のおかげだ。思わず寒さと緊張に強張った頬が緩む。
「あかりはイタリア初めて?」
「うん。海外自体初めて」
「日本イイ国でしょ。なんで出てきたの?」
ガラガラうるさいキャリーケースはイタリアの街に合わなくて少し気になる。持ちにくいし。
「貸して」
歩きづらそうにしていたのに気付いたのか、ハンドルをするりと盗む彼に悩んだけど、礼を言う。手荷物の見当たらない彼がにっこり笑い、あの先だよと指し示した。
手が空いて、少し楽になる。普段持たないもの持ってると邪魔で仕方ないな。
「……まぁ、仕事とかでいろいろ、しんどくなって」
「仕事?」
「バイトだよ。家の最寄り駅にあるファーストフード。フランチャイズだけど」
「あぁ、接客業ってやつか」
車の気配のない通りを抜ける。知識では知っていると語る表情が黒を仰ぎ、星すら見当たらない空中でわずかに白む息を吐いた。
不意にやたら賑やかしいライトが目に付いた。それに合わせてガラガラ引かれるキャリーケースがガタンと揺れる。足が止まったあたしに気付いて、翔太が振り返った。
「なにあれ」
「屋台。珍しいな」
寄ってく? 向けられた指先に頷いて、先を進む彼についてスニーカーの方向を変える。
日本ぽい屋台とは違う本当にただの出店が幾つか点在していた。オレンジのライトに目を細めていると、ポケットから小銭を引っ張り出した翔太がホットドッグを二つ持っていた。
「……いつ買った?」
「いま買った。はい。奢りでいいよ」
受け取ったほかほかのパン生地と、パツンと弾ける太いソーセージとむちゃくちゃからいマスタードが小腹のすいた体に染み渡る。屋台の周りはそこそこ人がいて、そこらへんの段差に腰かけて談笑しているグループが暗闇に紛れていた。
「おいしい」
「ジェラートはこういう屋台より店の方がうまい」
そうなんか。もごもご齧り付きながら見上げた先に、大きな、何か建物があった。
「……なにあれ」
「教会」
再び足を止めたスニーカーに並ぶ古いスニーカーが即答する。屋台付近が明るすぎて影になってなんにもわからない。なんだあれ。でかすぎねえか。
「教会って入ったことないな」
「さすがにこの時間空いてないし、予定ないなら明日来てみれば?」
他人行儀な物言いに違和感を覚えた。最後の一口を咀嚼して飲み下す横顔が気付き、短く問う。
「何?」
「あした、連れてきてくれるとか、」
「ない」
「そ、すか」
一刀両断。
圧に二の次を紡げず、大人しくホットドッグを口にしていれば、躊躇いのある低い声が唇を尖らせた。
「教会。入れないから」
入りたくない、でもない言葉に首を傾げ疑問を投げた。屋台のライトのせいか、彼の瞳に陰が落ちて見える。薄暗く、怖い陰。
「知ってるかわかんないけど、日本の教会で殺人事件あったでしょ。それ、思い出すから、ヤダ」
幼く見えていた少年らしい顔立ちはずいぶんと大人の憂いを纏っていて、なんだか、逃げてきただけのあたしとはずいぶん違うなぁと他人事に思った。
「そろそろ戻るか。遅くなるし」
鮮やかな青が安定のしない道にガタガタ揺れて、彼の後ろ姿が暗がりに溶けていく。白いキャップが嫌に目を突き、気味悪くなって早足で彼の隣に並んだ。公道に出てすぐ、前方を指す平たい爪が青白く光っている。
「あそこ、大通り前の建物がホテルだよ」
「歴史ありそう」
「イタリアなんてどこもそうでしょ」
はは、薄く声を上げる呼気が歪さを示し、恐ろしく不気味だった。
「で、そっちは?」
「ん?」
見上げた先、まあるく黒い瞳がライトの明かりを受けて鈍く光る。少しだけ、内臓が軋む音がした。
「そっち、なんで来たのって」
「んー。ま、あんたと同じかな。逃げてきた」
「……逃げた」
歩き慣れたスニーカーでも滑る石道は足元が冷える主な要因だな。アスファルトだとそんなことないし。明日はタイツ履いたほうがよさそうだけど、天気予報とかあるのかな。理解できる自信がない。
「逃げだよ。あんたと一緒」
水色の三階建てのアパートみたいな造りの家が暗がりではっきりと輪郭をとらえられるようになってきた。たぶんあれだろう。
「そーね。そーだ。おそろいじゃん」
「こんなおそろい嫌だなぁ」
しみったれた空気にならない冷風が笑いを誘う。静かで、暗いだけの街に潜めた笑い声が二つ、かすかに響いた。
軽い、けれど急くような靴音が不規則に聞こえ、思わず息を呑んだ。
「最近のイタリアは物騒だからさ」
怪我でもしたら大変だし、さっさと中入っちゃおう。
腰をそっと押されるてのひらよりもずっと、あの音が気になる。必死そうなソールが石畳みを打って、そのあとを追うように響く複数の固い靴音。
紫煙を纏った風が、正面から吹きさした。
「あ」
どっちの声だかわからないけど、どっちかが確かに言った。
振り返ってもあの輝かしい空港は見えないくらいに離れた市街の中心。民家を一つ挟んだ大通り、曲がり角で俯いているライトの下を、一人の金髪が走り去る。
「うそ」
その後ろを追おうとする騒がしい音が、すべてあの金に向いていることに気付いて、恐ろしくなって、それから足が出た。予期していなかった動きに関節がギチリと嫌な音を立て、気付けば目的地である水色の壁を通り越していた。
「おい!」
「先行ってて!」
普段から運動しないツケだ。肺が凍えてる、痛くて苦しいだけで、呼吸すらままならない。あげくにスニーカーでも滑る波打つ石道がただでさえ遅い足を捕まえる。
金の走り去った左手に角を曲がる。足を止める要因は数えるほどある。いま走る理由のほうがもっとない。
でもゴムのソールが地面を蹴ってきらきら反射する金髪を探して息を切らしている。背中で振れるリュックに引っ張られて重い、邪魔だ。走りながら落としたそれは鈍い水と荷物の音が聞こえた。
追いかけているらしい足音を追う。左奥に向かった。暗闇のなかで大きな建物が見えた。
たぶんあっちのほう。そう角から飛び出したとき、下腹部にやわらかい何かが勢いよくぶつかった。
真っ先に目に入ったのは、大きなおおきな、零れてしまいそうなほどの、美しいサファイア。
白むライトに反射する少女の波打つ金は思わず追いかけたそれで。白のワンピースから覗く陶器顔負けの素肌が、薄いピンク色のうさぎのぬいぐるみを掴んで離す様子はない。端整で時間をかけて作られた人形のような、誰が見ても美しいと零すような少女が、戸惑いを含ませて身じろぐ彼女の細すぎる腕を咄嗟に掴んだ。
「こっち」
確実に日本人じゃない彼女には何を言ったのかわからないだろうがとにかく走り出す。
足音が近くなった気がして、どうしよう、どこだろうここ、走り出すんじゃなかった、ああ、ああでも無事でよかった、どうしよう、とにかく、とにかく逃げなきゃ。
急激に冷えていく脳みそと、右手の掴む体温が焦りを生む。
考えなしの行動力は自重しなきゃ、でも無事だ、どうしよう、どうしよう。
足は止まらない。暗がりで見えにくいからと家々の隙間に入り込んだ。小さな路地。落書きだらけのゴミ捨て場。行き止まり。ああ、どうしよう、靴音が、すぐそこで、男が二人、黒いスーツ、ああ、どうしよう。母さんに何も言わないで来ちゃった。書き置き見たかなぁ。見てないかも。荷物捨てちゃった。取られてなきゃいいけどそもそもどこに捨てたか覚えてないや。翔太。
翔太、無事だといいな。
唯一、あたしに優しくしてくれた人。
「なんだこのガキ」
「気にすんなよ。とりあえずそいつを捕えればいいって言ってただろ」
何か言っている。異国だもんな。英語ならまだしもイタリア語なんかてんでわかるはずもない。
男の伸びる手。少女を背中に隠すがたぶんどうせ連れてかれる。少しずつ、後ろに下がる。ソールが石に擦り付けられて鈍い音が出た。
後悔はある。
なんで走ったんだとか、どうにかできるはずないだろとか、なんかいろいろ。職場辞めてくればよかったとかほんとに取り留めのないことばっかり。
でもこんなちいさくてカワイイ子がこんな怖いのに捕まるくらいなら、あたしが死んでこの子が無事のほうがずっとマシだって。
ジャケットのなかから取り出した、黒く重い物。実物見たのは初めてだ、あたし知ってる。人を殺す道具でしょ。
急激に熱にまみれていた脳が冷えた。
息は切れているまま。苦しいけど、いまだけ、一瞬でも彼女を守れたのなら、あたしが死ぬ理由くらいにはなるでしょ。
眼前に突き出された黒い無情の穴。息を呑む。あーほんと、もう少しマシなことしとけばよかった。
彼らの後ろで二つの破裂音が、男の目が見開かれて、ゆっくりと、倒れていく。
暗がりの真ん中で、荒く息を吐いた、翔太が。
「あっ、ぶねぇー……」
左肩にはあたしのリュック。知っている少年の姿に、全身の力が抜けた。横たわる二人の男の顔は見えなかった。
「お説教はあと。さきにホテル戻ろ」
まずはあたしに視線を向けて、次に後ろから顔を出した少女に言う。たぶん、英語。
「安全なところで話聞くから、ついてきて」
「わかった」
頷いた少女の声は本当に鈴みたいでちょっと驚いた。キレイな子って全部キレイなんだ。
翔太について路地を出る直前、煙草の混ざる風に少し慣れない錆びたにおいがした。
「ねぇ、あの人たちどうしたの?」
「見たまんま」
通りの様子を窺いながらなんでもない声が返ってくる。だからそうなんだと思うことにした。足音はいつの間にかなくなっていて、何事もなくホテルの前まで戻ってこれた。
フロントに投げ込まれてる鮮やかな青のケースを拾い、何やら白人の男性と話してる翔太の背中を眺める。
まぁ、なんにしても来てくれてよかったと、安心している自分もいる。
あとでちゃんとお礼を言おうと思って見ていると、ちょいちょいと手招きされて、ついていく。あたしの隣にずっと立っている少女が、サファイアをきょろりと瞬いてエレベーターに乗り込んだ。
「翔太」
「ん?」
「あの、ありがとうね。助けてくれて」
「ほんとにね。あのまま死んでてもおかしくなかったよ」
「……ほんとにごめん」
「反省してんならいいよ」
金色って感じの目が痛くなる装飾にちょっと戸惑っていると翔太が三のボタンを押した。開閉ボタンがなくて、扉が閉まるまでしばらく待った。
「イタリアすごいな」
「なに、ジェネレーションギャップ?」
「それは意味が違うでしょ」
「そっか」
少女がきょろきょろあたしと翔太を見比べるから、そういえば名前知らないなと思って、翔太に頼んだ。
「おれは翔太。こっちはあかり。きみの名前は?」
「リリィ」
少女のちいさくふっくらとした唇が室内の暖かさに包まれてか、桜に色付いてきた。
「り、え?」
「リリィね。エルアイエルワイ?」
明るいところで見てもやっぱりキレイでカワイイ子だな本当に。
ウェーブしている長い髪が腰まであって、細い手足も子供体型というのだろうか、大人の女性に見るしなやかさではない曲線がひどく愛らしい。
齢九つほどの少女が着ているのは花の刺繍が全面に施されているレースのワンピース。長袖部分が透けて素肌が見える。セットなのかフォーマルシューズも純白で、いっそ羽でもつけてやれば天使っぽいのにそれもなければ表情もないから、余計すごく、人形に見える。生きているのが不思議なくらい。
「アール、アイエルエルワイ」
「だって」
「発音良すぎてわかんないんだけど」
「英語は?」
「こないだ小テストでれーてん取った」
「ダメダメじゃん」
人間味の薄い少女を挟んでピースをして見せ、少年がけらけら笑った。知人ではない三人がそろって家族ごっこか。何してんだ。ほんとに。
「ここね。三〇三」
鍵を差し込んで開けた先は本当に日本じゃない光景だった。
白い蛍光灯と、ベッドが二つあるのは大して変わらない。その上にある絵画と、シャワー室に洗面台と便器が突っ込まれてるところとか、浴室がガビガビしてて汚いこととか、壁紙の柄がちらちらして目が痛いところとか、なんだかよくわかんない。
「鍵なくさないでね。明日また来るから」
「え、もう行くの? 話は?」
「あんた疲れてんじゃないの?」
テンション上がってふかふかのベッドに横たわっていると翔太がさっさと出ていこうとするから声を掛ければ「明日その子の保護者探すついでに市街案内してあげるから」と言われた。
「話は明日聞くから、一回寝な。彼女は害がないから手出すなよ」
たぶん同じことを彼女にも言って、それから鍵を閉めるように、下手にドアを開けないようにと忠告して、出て行った。
足の低い丸テーブルと壁に背を付けたソファ。その上になんだかよくわからない宗教画。決して広いわけじゃない部屋に陶器人形のような少女が一人腰かけていた。
変だ。すごく変。
ばたりと仰向けでベッドに倒れる。
本来ならあり得ないことが死ぬほど起こって、下手したら死んでたような、ああそういえばあの倒れた人たちは大丈夫だろうか。ホテル代も返さないと、まずお金引き出さなきゃ、なあ。
シャワー浴びなきゃだしそうだ、ご飯食べてない。明日何時に来るとか言ってたっけ。
疑問が降って湧いて、微睡みに溶けていく。
サファイアがじっと、無力なあたしを見ている気がした。
体も思考もまとまらないまま、オレンジに光るサイドランプに視線を移したところで眠りに落ちた。
「いっ!」
硬い衝撃とこめかみあたりをぶつけた痛みで起きた。カーテンも閉めていない部屋はオレンジと白と、太陽光で照らされてひたすらに眩しい。
なんだよもう、愚痴りながら体を起こせば、目の前のマットレスには白すぎる素足。
記憶がほんのり思い起こされる。
歩き慣れない道路を走ったから足が痛い。ついでにこめかみが痛くてため息をついた。風呂に入らねば。
シャワーは大変だった。
水圧クソ弱いしシャンプーは泡立たないし洗ってんだか撫でてんだかわかんない。濡れたカーテン張り付いてキモいし冷たいし。
不慣れながらもなんとか済まして外着を身につけシャワー室を出れば、グレーのパーカーを着た翔太がいた。昨日も似たようなデザインを着ていたから気に入ってるんだろうか。白いキャップがないせいか、毛量が多く癖の強い黒髪が飛び跳ねている。
トランクが足元に置いてあった。古く、使い込まれているであろう皮のトランクはずいぶん重そうだ。
「おはよ。昨日ぶり」
「もう来たんだ」
「もうっていうか、もうそろ昼だぞ」
「結構……寝たね?」
「十時間くらい? お目覚めは?」
「あんまり、実感ないけど」
窓の外は家から見える見飽きた公園でもマンションでもなくて、馴染みのないレンガの建物が密集していた。
「すごい。見てるだけでワクワクする」
雲のない、薄い空の色は眩しいほどに明るくて、あれ、なんていうんだっけ。
「とりあえず腹減ったし、飯行こーよ」
スカイブルーだったっけ。安直。
「賛成」
少女が目を覚ました。白いシーツに散らばる金が、持ち上がる体に集まっていく。目をこする仕草すら完成されていて、とことん人形じみてるなと痛むこめかみで思う。重そうな、うさぎのぬいぐるみは彼女の腕にすっぽり収まっていた。チラリと見えた大きなチャックは半分ほど開いて、なかからは何かが覗いている。
「なんで追われてた?」
「レネイが逃げろって」
「レネイってきみの保護者?」
「そう」
街のオープンカフェ、気候の良い五月九日。深茶色のパラソルの下でもそもそトマトだかレタスだかが詰まったサンドが目の前に並ぶ。
銀行で待たされまくって現在、カフェのテラスにて黒くてつるつるする丸テーブルを陣取ることに成功した。
向かいに座る昨日と同じ服を着た少女がうさぎのぬいぐるみを膝にフライドポテトをちまちまつまんでいる。
端末の表示する時間は午後十三時に迫っていた。サンドを包む紙がバリバリ鳴って、硬そうなパンにかぶりつく。
言葉が通じないからずっと口を閉ざしたまま黙々と食べる。ソースが結構辛くてちょっとしんどい。水で誤魔化してるけど辛いもんは辛いし、痛い。翔太の美味いは信用しちゃだめだな。
「男?」
「うん」
「どんな見た目してる?」
「黒髪でこれくらい、彼女と同じ髪型をよくしてる。背が高くて、少し目が細い」
リリィと名乗ったらしい少女があたしを見て髪を縛る仕草と肩の少し上にちいさな手の甲を置いた。ふんわりとした袖のレースが手首ですぼまっている。にしてもカワイイデザインだな。センスが良い。
「ありがとう。レネイっていう男、あんたくらいの黒髪に高身長、で、目が細いって」
「へぇ。というかあんた英語出来んのね」
「まーね。で、きみはなんで追われてた?」
「レネイの弱いところだから」
「きみにとってレネイってなに?」
「あたしを救ったひと」
「……ふーん」
アイスコーヒーに口をつけた翔太がおもむろにあたしの後方へ視線を向けた。
「なんて?」
「まー。いろいろだよ」
「なにそれ。それよりあんた、さっきっから何気にしてんの」
「うーん。やーらかしたかなーあって」
「なにが?」
「いろいろ。さて、そろそろ本格的に探すか」
見慣れない人々が大勢通りを歩いていて、どのひとも、リリィを一瞥している。まあそりゃ見るよな。びっくりするほどのブロンドが太陽光に輝いてますからね。金箔もびっくり。金箔見たことないけど。
残り少ないポテトを食べつつ腰を上げた翔太につられた瞬間だ。
「リリィ!」
低い声がテラスに駆け寄ってくる。それはずいぶん切羽詰まって、荒々しいものだった。
「レネイ」
「一人にしてごめん。きみ、彼女を助けてくれて本当にありがとう」
白い丸首のティーシャツに薄手の黒ジャケット、ジーンズに使い古したトランクを持った右手は包帯が巻かれていた。サイドに垂れたストレートの黒髪はぞんざいに縛られて、確かに目は細め。アジア寄りの人好きのする顔立ちはどこまでも優しく映る。
リリィがイスを下りて彼の手に触れた。その様子はまるで兄妹、いや、家族そのもの。あたしの知らない、正しくはずっと昔の記憶に埃をかぶって収まった美しい家族の在り方そのものだ。
「あんたがレネイ?」
「ああ、そうだよ。それが、何か?」
テーブルに肘をついて事の行方を眺めていた彼が不意に口を挟んだ。表情は冷えて、つまらないものを見るような、そんな顔。
「綴り教えてくんない?」
「……RENEEだよ。それが?」
「ただの興味。あんたその右手どうしたの?」
翔太が右手を指して、リリィのちいさな手が包帯に触れる。
質問を受けた彼が細めていた瞳に警戒の色を混ぜ込んだような気がした。
「大げさなだけだよ。ただの切り傷さ」
「ふーん。ま、なんにせよ見つかってよかったよ」
「ああ、本当にありがとう。せめてもの気持ちだ。ガールフレンドにも伝えておいてくれ」
「どーも」
「それと。ここらも何かと物騒だから、気を付けてね」
二言三言交わしたと思ったら少女と手を繋いで人混みに消えていく翔太より高い後ろ姿が、安心したといった表情でリリィと何か話していた。
「……。なんでさっきちょっと不穏だったの」
「不穏て。本物かなー? って思っただけだよ」
ただの勘だけど、たぶん嘘。話してる内容はてんでわからないけれど、怖い空気は絶対流れた。
「で、さっきのなに」
「金もらった。ガールフレンドによろしくって」
「へえ」
「ところで、最近流行ってる怖い話でもしようか? 昨日のご自分の行動がいかに危なくていかに後先考えてないかをなぁ!」
「ごーめんってばー」
あたしに向き直った翔太が少し怒った顔でアイスコーヒーを飲もうとして、空だったらしくちょっと買ってくると、五十と書かれた紙幣をくしゃくしゃに握りしめながら席を立った。
「まぁ。いいことだよなぁ」
と、一人ごちる。
少女は居場所である男性の元に戻れてハッピーで。
じゃああたしにしては文句なしの一級品じゃんなんて思わなくもないんだよ。
平和そうな街は穏やかなまんま。緩慢な空気はどうしても物騒な物事からは隔離されている。
「ほいおまたせ」
アイスコーヒーと、一つのカップを机に置いた。甘い香りだ。チョコレートかな。その隣にはペーパーナプキン。何やら文字が書いてある。
「チョコラータ」
「チョコランタン?」
「ラータ。わざと言ってるだろ」
「わりと」
ブラックのまま口をつける彼にならって飲んでみる。
「すごい濃いね。おいしい」
「ならよかった」
辛いの食べてひりひりするのに熱いの飲んで舌痛いけど、でもおいしいからいいや。
真面目になった翔太の空気に合わせてカップを下げる。かちゃりとソーサーの音が喧騒に呑まれた。
「イタリアには昔からマフィア組織がいくつかあるの知ってる?」
「映画とかでよく見るやつ?」
「そう。で、昔からある組織ってどうしても人の数が増えていくもんなんだよ。膨らみすぎた組織は細々した派閥だらけで誰かの命を狙い続ける。それをいいことに末端が悪さし始めて。最近他のマフィアの末端と張り合っててさ」
「詳しいね」
「まーね。末端の片方が有名な殺し屋雇っちゃったせいでいつ抗争起きるかわかんないんだよ」
「殺し屋って」
「創作だけの職業じゃないんだよ」
いつになく真剣な表情に何も言えなくなってしまう。沈黙を誤魔化すようにカップの持ち手をなぞった。滑らかな曲線が控えめな振動を伝える。
「……翔太ってさ、なんでイタリアに来たの?」
コーヒーの香りが漂う。グラスを持ち上げたその手が止まった。
一拍置いて、翔太の薄い唇が静かに動く。
「……仕事だよ」
ほとんど減っていないアイスコーヒーをそのままに、翔太は席を立った。視線はわずか後方へ向いている。
「ま、どっちにせよ気を付けて。なんかあったら連絡ちょうだい」
「ハ? 市街案内は?」
「今日は無理」
置いてかれて一人。ため息を吐いた。
おもむろにペーパーナプキンをひっくり返せば、大きな癖の強い数字が並んでいた。
ケー番、て、なんかあったらもクソもないでしょフツーに。
たぶんきっと、愛嬌のある彼に会うのも美しい少女に会うのもこれっきりだ。あとは逃げてきたなりに遊びほうけて地獄へ帰るだけ。ならやりたいことやったほうが得だろう。
ミラノっつったらドゥオモ? 違ったっけ。聞いとくんだったなぁ。失敗した。こじゃれたイスから立ち上がりショルダーバッグを肩にかける。空と見慣れぬ建物のコントラストは肌に馴染まないが仕方がないとカフェを後にした。
「わ、」
思わず洩らした声は出る前から人混みに吸い込まれた。
角を曲がってすぐ。
なんの情緒も前触れも猶予もなく唐突に現れるバカデカい建物。こんなもん作ろうと思うのがもう頭がおかしい。首の骨が反対側に折れるほど背が高く、視界に収まりきらないほど広い歴史ある建築物、大聖堂ドゥオーモ。
目がチカチカする緻密な石の集合体は少しの歪みもなく惨めなあたしを見下ろしていて。圧倒的な存在感にさっき貪ったレモン味のジェラートが胃酸に紛れて暴れていた。たぶん畏怖とかそういう言葉って、こういうときに使うんだろうなと漠然と思うほかない。
どこからどう切り取ってもポストカードの模倣みたいになるから大人しくスマートフォンを構えるのはやめた。
ホテルを出る際に教わったのは、リュックサックではなく小さめなショルダーバッグに荷物を入れてチャックを握ってること。
リュックサックに入れたサイフはスリの多いイタリアじゃ狙われるだけだからやめたほうがいいと翔太が言っていた。いかにも観光って感じなんだから特に狙われるって。
あと水道水間違っても飲むんじゃねえぞって言ってた。そう考えたら昨日何もしないで寝ちゃったのって正解だったかも。
余談だけど、翔太がもう一泊できるように頼んでくれたからこれからジェラート食べてお肉の美味しいところ探してホテルに戻る予定。
日系人はほとんど見当たらないし、イタリア語はおろか英語すらままならないあたしにまとわりつくのは底冷えのする紫煙と確かな不安だけ。
それでもそれ以上に、呼吸がしやすい。それだけで天国かと錯覚する。
そこらの大理石に腰を掛ける彼ら彼女らの姿はやっぱりどうしても見慣れなくて、ジェラートを食べるときにどぎまぎしながら座ってみたけど、その瞬間降り掛かった気楽さに泣きそうになった。
ぼうっと待ち人を待ち続けているブロンドの彼女だったり、友達と談笑に勤しむ彼らだったり。
どこも、煙草の吸い殻と普通の幸福にあふれていた。いつまでもどこまで行っても地続きで普通というか、単純で明確で真っ直ぐな幸福だらけというか。
正直、あたし一人だけがバカみたいだなあなんて思わなくもないわけで。ちょっとだけ、心臓がギチリと鳴ったから、怖くなって考えるのをやめた。惨めなのはあたしだけじゃないって思い込んだ。それから昨晩のあの瞬間に、撃たれていたほうがよかったのかもなんて思って、わざわざ助けてくれた翔太に悪いよなと思考を放棄した。たぶんそれが、いまこの現状を含めて、いちばん正しい選択だと思えた。
ドゥオーモから離れてからだいたい三時間強。ふらりふらりと歩いて陽の落ちたホテルに帰宅したのが午後七時前後。休まらないお風呂に入って、フェイスタオルを首にかけたまま何やら愉快なテレビを流し見ること午後九時過ぎ。
予感もしない扉を叩く音に少しだけ全身に力が入った。
薄い木製のドアが響いて揺れる。
「……あか、り」
聞き覚えのある掠れた音。
慌ててノブを回す。スリッパを履いた足元に転がるのは苦痛に歪む幼い顔と、腹部を押さえる手から滲む赤。
パニックになりかける脳を叱咤する。昼に見た服装と同じ、灰色が鈍く重く色を変えていく。
「翔太」
「した、よん、」
「わかったすぐ戻るから」
もたつくスリッパの邪魔さに脱いで握りしめる。非常階段を駆け下りて目が回ったままフロントに突っ込んだ。白人の男性が目を丸くして何か声をかけてくれている。
耳鳴りに近い音が自分の心臓の音だとは気付かないまま、彼の腕に縋りつく。やっぱりこういうときに思うのは運動部にでも入っておけばよかったという後悔。
「どうしたの?」
「翔太、うえ、ゲホ」
「上? 君三〇三の子だよね。翔太とお友達の」
腕を離さないまま素足がカーペットを踏みつける。砂とか小石とか、ザリザリして痛い。それよりもさっき嗅いだ、路地での錆びたにおいに困惑して、内臓が引き攣っている。泣きそうで、とにかく鼻をすすった。
心配そうに彼はあたしの手からスリッパを抜き取って、一段先に置いた。ぼやけた視界を持ち上げるとそこにあるのは優しい、安心させるようなブルーの瞳と微笑みだった。
ゆっくり、深く息をして、それから階段を登る。背中をトンと押した彼が先導し段差を登っていく。
「ここだよね。入るよ」
身振り手振りで教えてくれる彼にとにかく頷いてなかに入った。
「ショウタ!」
ああ、それだけは聞き取れた。
「撃たれたのか、すぐに救急箱を持ってくるから、君! ここを押さえて、すぐに戻る」
わけのわからぬまま赤くなった部分を押さえるように手を引かれ、彼は血に塗れた手をそのままに出ていった。
「ごめん、なぁ。巻き込んじったぁ」
「わかんない。わかんないよ! なに、どうしたら」
バタバタと走り込んでくる先の彼がありがちな箱を持ってきてあたしの手を握った。もう大丈夫って、たぶん言いたいんだと思う。
「ありがとう。あとは大丈夫だから」
最初の言葉は知ってる。グラッツェって、ありがとうって意味でしょ。
「ショウタおまえ今度は何したんだよ」
「何っていうか油断?」
「あんま心配かけんな。特に女性に!」
「ごめーん……」
何か話してる。イタリア語だと思う。てのひらにあふれた赤が熱くて、どうしたらいいかわかんなくて、すごいなぁなんてカーペットにへたり込みながらぼんやり眺めていた。
「よし。もう大丈夫。通訳して」
「もーダイジョーブでーすってさー……」
ソファに移動させようと彼の肩を借りてしんどそうにふらふら手を振った翔太が目蓋を下ろす。
「明日朝イチでミラノ出るから、そのつもりで、おねまぁ~す……」
そのまま力なく落ちたてのひらを布で拭う白人の彼がそっと、あたしの手も拭ってくれて、それからストップの仕草をして、出ていった。
「なんなんだよ……」
血のにおいがむせ返る。泣きそうになるのを必死で絶えて、それから戻ってきた白人の彼がホットミルクの入ったマグカップを与えてくれた。
「何かあったら言ってね」
躊躇うようにあたしを見ていた彼が、何かを零して今度はしっかり扉を閉めていった。
カギかけなきゃ。でもそれより脱力感のほうが強くて。
苦しくなった酸素を誤魔化すためにホットミルクを呑み込んだ。なんの味もしないそれをソファ前にあるローテーブルにそっと置いて、ベッドに座る。
ふと目が回っていることに気が付いた。
けれど次の瞬間、意識が落ちたことには気が付かなかった。
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