幸せ者

不明瞭

第一話


 はぁ、と、息を吐く。

 目の前で飛び散る赤が影のなかでも濃く、網膜に焼き付いている。

 右手にぶら下がる鉄屑が緩慢に硝煙を吐き出していた。

 ずっと、何かが臓物の裏側で燻っている。けれどそれに腹を立てる暇もない。脈のない赤色と同じ。惨めにもなれない。哀れなまま。

「ben fatto!」

 薄暗いイタリアの路地、手を打つ派手な音が空虚に響いた。もうなんでもいいから逃げ出したくてここにいるのに、まともになれないまま、血を見ては辟易している。

「腕は確かのようだな。東堂の後を継いだだけある」

 さっきまでてっぺんにいたと思った太陽はすでに帰り支度を始めていた。なんだよ。おれが帰るまで待っててくんねえのか。

「そう睨むな」

 しゃべる豚。

 枯れたデカい声で小奇麗なスーツに身を包み二本足で立ってぶっとい指にゴテゴテ指輪付けてべたべた歩いてる豚。

 今日も元気で何より。できるだけ早く惨く死んでくれよ。

 視線を引っ張られる倒れた男の体は気絶でもしているみたいだといつも思う。ティーシャツの胸元が真っ赤でくらくらする。土のにおいと、ブタの香水と、血が入り交ざって上がってきた吐き気を飲み下した。

「次の仕事だ」

 お付きの背広が内ポケットから二枚の紙きれを出してきた。

 男どもの脇から出てきた子分が何やらぞろぞろと死体を運んでいく。早く受け取れと無言で急かすサングラスから写真をひったくった。

「これダレ?」

 ちいさな紙屑の中で黒髪をゆるく結んだ男がへらりと笑っていた。

 作られた柔和は人好きのしそうなもので、アジア寄りの顔立ちがそれに拍車をかけている。が、細められた目に情が一つも見えないのは、心底人様に関心がないからだろう。似合わないメガネはおそらく伊達。たいして隠せてもいない人相の悪さ気にしてんのかな。細身に見えるのは着痩せするからか。にしても、面倒事しか持ってこねえなこの豚。

「奴らが雇った殺し屋らしい」

「ふぅん」

「名はR。二ヶ月前から金髪のガキを連れているが、まだ身元が出ていない」

 メンドクセェと写真を一枚めくる。

 真っ先に目に入ったのは波打つ煌びやかな金髪。海の底を覗いているような深い青の瞳が正面を向いている。水色のドレスに包まれた少女の小顔に笑みはない。呼吸しているのか危ぶまれるほどの無情さがどこからかナイフの柄を覗かせていた。

 物騒なガキ。できればお目にかかりたくない。

「で、コイツ殺しゃあいーの?」

 どっちも情緒死んでて良いカップルじゃねえかと言外に含めつつ写真をお供に突っ返せば、舌打ちが返ってきた。豚の下卑た顔がニタニタと笑ってる。雇い主じゃなければとっとと眉間ぶち抜いてるところだ。

 ぶくぶく肥えた豚が加齢臭気にしてクセェ香水ぶっかけてるとか、とことん最悪コンボ。

 指輪だらけの手を見せびらかしてまぁそう急ぐなと葉巻に火を付けてもらう介護感。香水に葉巻とか余計最悪。

「仕事の話しねえんだったら帰るけど」

「子供はせっかちでいかんなァ」

 そよ風にあおられて正面から突っ込んでくる刺激臭と灰に顔をしかめて、苛立ち紛れに拳銃を握りなおす。ギチリと鳴いた右の革手袋に二人の背広がジャケットの内に手を入れた。お生憎サマ。少しでも抜いてみろ、血ィ見るのはそっちだ。

 ピリついた空気に目を細めたデブが、まだ長い葉巻をソールで踏み潰した。

 豚はノロマでいけねえなぁ。

 もったいぶってゆっくりと煙を吐き出し、みっともねーツラをさらに崩して笑うキタネー豚。

「ガキを捕まえろ。ソレを餌に男をおびき出して殺す。シンプルでわかりやすいだろう?」

 毎秒腹立つ男だなコイツ。殺してやろうか。

「素性は?」

「イギリスの末端にある教会近くに住んでいた一家が死体で見つかっている。おそらくその末の娘ではないかという話だ」

「要領得ねえな」

「まぁそう言うな。そのRとやらがリリィと呼んでいたという証言がある。一家の母親と同じ名だ。ちなみに顔も似てるぞ。十年も経てばイイ女になる」

 こーんな空っぽの容れ物に手出そうと思えるのがスゲーわ。下手しなくても殺されんぞ。

「金は今日と同じように。帰るわ」

 腹立たしさは臓物の裏で燻るそれが全部食らうから、なんとか明日も弱いまんま、最期を待ちわびて立っていられてる。

 背広は相変わらず警戒したままで、豚は余裕綽々といった様子でブヒブヒ笑う。イタリアって養豚場とかあんのかな。

「早急に捕まえろ」

「そんなこと言われてもね。こっちもやることあるから」

「やること?」

「観光」

 弾けるような汚い笑い声が路地に響く。

「早朝、ミラノ行きの列車に乗ったらしい。猶予は明日の正午までだ。それ以降はヤツらが動き出すだろう」

 やたら胴の長い車に戻っていくデブの心臓合わせて引き金を引くイメージをする。

 普通としてまともに生きられないクソガキが、食ってくためには大人から仕事もぎ取るしかねーわけで。そんでようやくおれは無事明日の飯にありつける。誰だって我が身がかわいくてしゃーねーだろ。だからバカみたいな時間かけてやるこた変わんねーのにこんなとこまで来た。

「まぁ、善処するよ」

 路地の脇に放ったトランクを持って豚とは反対方向に歩を進めた。路地から出る前にサイレンサーの付いた邪魔な銃を詰め込んだ。

 仰いだ紺に色を変えていくイタリアの空はどうにも空虚で、ひどく殺風景に思える。嫌いではないがまぁあまり好きではない。

 日本はもっとベタベタして重ッ苦しい感じだったけど、あれはいまも健在なんだろうか。意に介さずを貫き通す軽やかな青がどうにも憎たらしくて気分が悪い。

「はーあ」

 路地を抜けたさきは日本とはずいぶん違うレンガの国。どうにも歪で、自由だ。イタリアの空だって悪くはない。自由すぎて不自由すら感じるそれらを、おれが好きになれないだけで。

「日本よりマシ。か。日本ほど安全で物騒な場所はねえけどなぁ」

 少しだけ、嫌気がさして髪をかき混ぜる。

 これ以上の後悔が、なければいいけど。

 ミラノまで電車で二時間半。ため息をついて、仕事を後回しに観光へ意識を向ける。

 グッと背中を伸ばして滑る道を歩き始め、下ろした腕に引っかかった、腰に刺さるリボルバーがカチリと音を立てた気がした。



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