第4話「なにそれ!? 虚構世界の実在論!」

 やっほー! わたしの名前は純空すみぞら氷華ひょうか! 好きな食べ物は、シャーベットとエビフライ! シャーベットのシャリシャリとした触感と目が覚めるような冷たさ。冷え切った舌触りの上にほんのりと広がる甘さが、わたしの全神経を興奮させてやまないの! エビフライのよさについては、そのあまりの奥深さゆえにわたしでも語るのが難しいわ。衣のザクっとした食感とエビのプリッとした食感、お口に広がる油のべたつきの三者が奏でるシンフォニー♪ あの懐かしくて温かいような味わい。不思議よね、産まれる前から食べたことがあるのかと疑いたくなるほどだもの。エビフライのおいしさは、きっと全人類共通の前世の記憶なのよ――。まあ、絶対そんなことはありえないでしょうね!

 なんて話はさて置いて。今日はね、学校のイベントで大学へ見学に行く日なの。大学ってどんな感じなのか興味があったから、楽しみだわ。どうせ一緒に見学する友だちなんていないから、わたしは一人で回ろうっと。その方が、行きたいところに行けるというものよ。


 ◇


 氷華は自身の通う高校の学年行事として、地元の国立大学へと見学に来ていた。氷華と同じ学年の生徒全体に向けて説明があった後、各々の興味に応じて自由に研究室を見学できるという。

 配られた資料を見ていると、ある研究室で行われている研究題目が氷華の目に留まった。

「なんだろこれ、『虚構世界の実在論』って……?」

『おもしろそうピア』

「行ってみようかしらね」

 氷華はマップを頼りにその研究室を目指した。


 ◇


――コンコン

「こんにちは、見学したいんですけど」

 氷華は研究室の入り口をノックして、恐る恐る扉を開いた。部屋の本棚には大きな本がぎっしりと並んでおり、部屋の隅にあるソファーには二十代前半と思しき男性が一人で腰掛けていた。彼の頭髪はボサボサで、髭も全然手入れされているようには見えないが、それはそれで割と様になっている。彼は氷華に気づいて立ち上がり、物腰柔らかそうに微笑んだ。

「あ、どうもこんにちは。見学の高校生の方ですね」

「はい、そうです。純空といいます」

「ようこそわが研究室へ。私は若本という者です。そちらへどうぞお座りください」

 若本は自分の向かいのソファーへ氷華を誘導し、お茶やお菓子をテーブルの上に置いた。

 彼は眼鏡をかけており、どうやら裸眼での視力は非常に低いらしい。もし眼鏡がなければ、日常生活にも支障をきたしたことだろう。しかし、この世界には眼鏡がある。そしてそれは比較的安価で、庶民でも手に入れられる価格だ。おかげで彼は、際立った困難もなく生活できている。さらに、この社会では眼鏡をかけている人間はそう珍しくない。眼鏡はかなり普及しているのだ。それゆえ、眼鏡をかけて街を歩いていても、とくに周囲の人たちから気にかけられることはない。この生きやすさ、このありがたみを彼はわかっているのだろうか。いいや、わかっていないに違いない。やつはそういう男だ。

 若本はさっそく会話の先陣を切った。

「私はここで三年ほどフィクションというものについて研究しています。純空さんは、フィクションにご興味がおありで?」

「いえ、それほどでもないんですけど、なんだかおもしろそうだなと思って」

「あ、そうなんですね。わざわざ見学に来ていただいてありがたいものです」

 若本はにこやかにどうぞと言って冷茶の入った紙コップを差し出した。

「ありがとうございます」

 研究内容に興味があるのなら、それについて話してもよかったが、先ほどの様子だと氷華はフィクションについてそれほど興味があるというわけでもないらしい。このことを理解した若本は、一度相手に会話の主導権を譲ることにした。

「純空さん、何か聞きたいことなどはありますか?」

 研究室へと見学に来る高校生は、個別的な研究内容ではなく、大学生活一般について一層知りたがっているという可能性もあるからだ。若本は研究一筋の男ではあるが、同時に会話のキャッチボールを心得た男でもあるようだ。若本よ、中々やるじゃあないか。

「なんでも遠慮せずに聞いてもらって大丈夫ですよ」

「ピピア、こういうときなんて聞けばいいのかしら」

『そうピアね。こんなときはうじうじせずに、今彼女いるピア? って直球勝負すればいいピア』

「ふふ。今そういう場面じゃないのよね」

 氷華は耳元に取り付けた超小型インカムを通してピピアと通話している。

「どうかされましたか?」

「いえ、何でもありません」

『ピア。研究内容について聞けばいいピア』

「そうね、それがいいわね。あの、若本さんはどんなことを研究されているんですか」

 若本の眼鏡がきらりと輝いた気がした。

「よくぞ聞いてくれましたね。私はですね、フィクション世界の実在性について研究しています。小説や演劇などにおける登場人物やその世界は、いったいどのような仕方で存在するのか、といった話です」

「フィクションの世界が、実在するというんですか?」

「いやね、もちろん、私たちが住むこの世界とまったく同じ仕方で存在しているわけではないと思いますよ。しかしそれでも、フィクション世界の中にはその世界なりの自然法則、社会秩序や人間関係の歴史があります。フィクションだから何でもありだと思ったらそれは間違いで、その世界の中の秩序から逸脱した出来事は起こりえないんです。少なくとも私はそう考えています」

『それはそうかもしれないピアね。魔法がない設定の世界に魔法を出したら、読者はきっと怒るピア。ピアけどそれは、創作上のマナーの問題であって、フィクション世界側の秩序によって決まることだとは思わないピア』

「あら、ピピアが食いついたわね」

 氷華が小声でしゃべる向かいの席で、若本は話を続ける。

「フィクション世界内では、様々な出来事が起こります。また、その世界内の登場人物たちは、それぞれの心の中で苦悩したり、歓喜したりします。そして、私たちはそんな彼らの営みを認識することができるんです。これって、たとえばこの世界でかつて起こった過去の歴史について話を聞くのとかなり似ているとは思いませんか?」

「え、というと?」

「だってね、かつてこの世界に存在したものや起こった出来事なんかは、今はもう存在しないわけでしょう。昔の人々も、昔の出来事も、今は存在しない。それでも、それらの存在や出来事について、私たちは今知ることができるわけです。現に存在しないものについて今知ることができるというこの一点においては、過去の話を知ることも、フィクション世界について知ることも、そう変わらないと思うんですよ」

「へえ~」

『そうピアか? 仮にその一点において歴史記述と虚構記述が似通っているとしても、歴史はかつて事実だったことがあるピアけど、フィクションは一度も事実だったことがないはずピア。この違いは無視するピアか?』

「まあまあ、いいじゃない。ピピア」

『あと、かつて存在したものが現在存在しないという見解は、決して自明じゃないピア。ピピアはこのことをよく知っているピア』

 この発言、何を隠そう伏線である。

「若本さんのお話によれば、過去の話とフィクションの話には、似たようなところがあるということですよね。他にも似たような点というのはあるんですか」

 氷華がそう尋ねると、若本は自身のフィクション観を熱弁し始めた。

「それはもちろんありますよ。偉人の伝記とかを読むと、生きる勇気をもらえたりすることがあると思いませんか? 自分とは違う時代に違う文化の中で生きた、自分とは違う属性の人たちがいったいどんなことに悩み、どんなことに喜びを得たのか。偉人でなくともよいのです。歴史に埋もれた人々の営みについて知ることは、私たちにとってよりよい未来を照らし出すことにつながると思います。フィクションも同じですよね。現在の自分とは異なる環境で生きる主人公やその仲間たちが、様々な事件や冒険を通して成長し、ぶつかり合い、生きる喜びと苦悶について知ることになるのです。私たちは、彼らが生きる上で経験した戦いを追体験することで、生きる勇気をもらえたり、様々な種類の喜びや苦しみについて知ったりすることができます」

 若本、この男は熱い男である。

「読書や観劇などを通して、歴史上の出来事やフィクションの出来事について知ることは、私たちにとってよいことです。そういった経験によって、自分の人生を力強く生き抜けるようになったり、他人の苦しみを理解して、よりよく生きることにつながったりすると思うんです。フィクションは、人の人生をより豊かなものにするだろうし、この社会全体の幸福にも寄与しうるのではないかと考えています」

 若本も、これだけしゃべれたら満足だろう。氷華は彼にリアクションを返す。

「確かに、過去の話もフィクションの話も、今の現実じゃないっていう点では同じなのかもしれないですね。とは言っても、かつて現実だったはずの過去というものが、一度も現実でなかったはずの虚構と同じにされてしまうと、現実っていったい何なんだろう、って不安にもなりますけど」

『氷華、この男はフィクションの実在の話を終えて、すでにフィクションの価値の話に移行しているピア。そのリアクションだと、話の線が逆戻りするピア』

 ピピアが急にガチレスをキメてくる。会話のキャッチボールとは難しいものである。よく練られた文章のように、過不足なく一直線に進むものではない。会話とは、あっちこっちしてしまうのである。しかし、それが口頭の会話のよさでもある。対話者双方の興味と関心を踏まえて、その場だけでの展開が生まれるのだ。

 若本は氷華に返答する。

「言いたいことはわかります。過去とフィクションを同一視されてしまうと、嫌な感じがしますよね。過去が幻想にすぎないと言われているみたいで。でも私が言いたいのは、過去はフィクションのような妄想にすぎない、ということではなくて、むしろ逆に、フィクションは妄想じゃなくて実在なんだ、ということなんです」

 氷華が若本に研究内容を質問したときから、話がこの路線に入ることは避けられなかったのである。今こそ始まる、若本による虚構世界の実在論講義が  !

「私の考えでは、フィクションの世界は本当に実在します。しかし、それが実在するのは、この世界とは違うところです。フィクション世界は、この世界が存在する次元とは異なる次元に存在するのだと思います。ただし、異なる〈次元〉というのがどういうことなのか、私にもよくわかりません」

 若本の思想は、単なる思想である。これは、理論でも何でもない。彼の個人的な考えである!

「まず私が言いたいのは、過去の世界がこの現在の世界と同じ次元に存在するのに対して、フィクション世界はこの世界とは異なる次元に存在するということです。ここで重要なのは、作家によるフィクション世界の記述をどのように解釈するかという問題です。通常の考えによれば、作家は物語を創作します。つまり、何もないところから、フィクション世界を生み出すのです。そしてそれを、たとえば文章作品などの形で書き上げるのでしょう。しかし、私の考えはそれとは違います。作家は、フィクション世界を創り出すのではない。フィクション世界を、発見するのです。すでに実在しているフィクション世界を、作家が新たに発見するのです。彼はそれを書き留めているにすぎない。なお、世界のすべてを記述できる者は誰もいない。それゆえ、作家による物語の記述は常に不完全でしかありえないのです。この世界とは別の次元に実在する世界を、作家は見つけ出し、その一部だけを切り取って記述します。それを私たちは物語と呼んでいるのです。記述の仕方は、文章でも音声でも映像でもありえます。しかし、いかなる記述も世界についての完全な記述ではありえません。つまり、作家が記述していない部分も、確かに実在するのです。私は何よりもこの点を強調したいと思います」

 若本は極めて冷静である。今まで自分が考えてきたことを、高校生でも理解できると思われる語彙を用いて語っている。一方、氷華もまた冷静である。まさかこれほど熱弁されるとは思っていなかったが、そもそも氷華はこういう話を聞きに来ていた。ピピアも同様に、氷華のマイクを通して彼の話を聞いているのだった。

 若本はお茶をすすってから話を続ける。

「たとえば顕微鏡を使うと、プレパラート上にいる微生物や細胞なんかを観察することができます。ただし、顕微鏡を覗いて一度に見ることのできる範囲は限られていますよね。どこかを見ているとき、別のどこかは見られていない。しかし、たとえプレパラート上のある領域が見られていないからと言って、その領域が存在しないことになるわけではありませんよね。このことは、フィクション世界の記述にも似ているところがあります。作家が描いた部分がすべてじゃない。作家が描けなかった空間、時間、心理的な営み、すべてが実在するのです」

『言いたいことはわかる気がするピア』

「そうね、ピピア」

「私たちがある異世界を正確に知ることができるかどうかは、その世界を記述する作家の一存に委ねられているのです。よって、もし作家が誤った記述や不十分な記述を与えてしまうと、読者もそれにつられてフィクション世界の誤った理解を余儀なくされてしまう。これは恐ろしいことです。ときどき、物語の中に矛盾が発見されることがあるかもしれません。しかし、世界の中に論理的な矛盾が存在することはありえません。物語に矛盾があるように見える場合、それは虚構世界内に矛盾があるのではなく、作家の記述が矛盾しているだけなのです。つまり、その作家が誤った記述を与えてしまったということです。ですから私は、ある物語内の記述が矛盾しているとしても、物語世界の実在性が否定されるわけではないと思っています」

 若本は、とても真面目な大学生である。氷華も真面目な気分になって、思ったことを質問する。

「若本さんのお話だと、たとえば小説家の人なんかはフィクション世界を発見して、それを書き留めるということですよね。では、作家の人たちはどうやってフィクション世界を発見するんですか?」

「それは、想像という意識作用によって行われます。想像することで、作家はフィクション世界とその内部での出来事を発見するのです。たとえばある作家が頭の中で、あるキャラクターと別のあるキャラクターとが会話するところを想像するとします。通常の考えだと、それは単なる空想にすぎませんよね。ありもしないことを思い描いているだけだと思われるでしょう。しかし、実はそうではない、と私は考えています。あれは、別次元に実在する世界を意識内で観測しているのです。誰かが世界を想像するとき、その人が脳内で物語を生み出しているというよりも、むしろその人は脳内で異次元世界を観測しているのです」

「それは、とても驚くような見解ですね」

『ピピアたちにそんな能力があったとは驚きピア』

 想像するだけで、意識が別次元の世界を観測できるとすれば、人間の意識にはとても神秘的な能力が備わっていることになる。若本は、人間の意識能力の一つに関して独創的な解釈を提案している。氷華は彼の提案をまだ受け入れてはいなかった。しかし同時に、若本の見解がもつ豊かなロマンティシズムに興奮を覚えていたのも確かだった!

「もっと聞かせてください」

『氷華が食いついたピア』

「重要なのは、この世界もフィクションの世界も実在の重みに関して優劣はないということです。つまり、この世界からすれば、この世界こそが実在する世界であり、想像された異世界は虚構世界にすぎないのでしょう。しかしこれは、異世界の側にとっても同様なのです。あちらの世界からすれば、あちらこそが実在する世界であり、私たちのいるこちらの世界が虚構世界ということになります。とはいえ、矛盾するようにも見える双方のとらえ方は、どちらも間違っているわけではありません。私たちが小説に描かれた世界を虚構世界だと捉えるのは何ら間違いではないのです。私たちがこの世界に存在する限り、この世界こそが実在世界であり、想像や読書により観測できる物語世界は虚構世界であることになるのです。私たちがこのようにとらえること自体は、正当化されるべきことです。しかし、もしこの世界内の視点から離れて、超越的で中立的な視点から宇宙全体を眺めようとするならば、この世界と観測された世界のうちどちらか一方のみが本当の実在だ、とかいうことは言えなくなるはずだ、という話です」

『これも言いたいことはわかるピアね。いかなる場所に存在する人であっても、自分の立っている場所を『ここ』と呼ぶことは正当化されるべきピアし、いかなる時点に存在する人であっても、自分の存在する時点を『今現在』と呼ぶことは正当化されるピア。たとえ昔の人が、昔の時点を『今』と呼んだからと言って、現在存在するピピアたちがそれを誤りだと指摘することはできないピア』

「ピピア、さては何か勉強してきてるわね?」

 若本は連続してしゃべっていたため、お茶を飲んで一呼吸入れている。

「純空さん、私の話を聞いて、どう思われましたか? 正直、私が話してきた見解はどれも通常は受け入れがたい見解だと思いますが……」

 若本は、自分がエキセントリックな見解を提示しているということを自覚している。大学見学にやってきた女子高生にこのような話をしても、ドン引きされてしまうか、怖がられてしまう可能性が高いかもしれないと想定している。しかしそれでも、彼は試したかった。自分なりに練り上げてきた見解が、若い人たちにどのような仕方で受け止められるのか、確認せずにはいられなかったのだ。

 また、相手が高校生だからといって、初めから相手の理解能力に見切りをつけて蚊帳の外に追い出すのは失礼だとも考えた。若本は、初対面のときはひとまず相手の能力を高めに見積もっておくのが、他者を尊重する生き方だと考えているのである。

「あの、一つ質問してもいいですか」

「どうぞ」

 氷華は食べていたポッキーを飲み込んでから質問をする。

「本の作者だけでなく、読者もフィクション世界を観測できるんでしょうか。観測するのは作者だけで、読者は作者の記述を眺めるだけなんですか」

「それは、どうなんでしょうね。私は、記述を眺めることは、フィクション世界を観測することでもあると信じていますよ。もちろん単に印刷された文字を眺めるだけでは不十分でしょうが、文章を読みながら、その世界像を脳内で思い描くとき、確かにその読者はフィクション世界を観測していると言えるはずだと思います。なにせ、作者は自身が想像した世界を記述しているにすぎません。読者がその記述をもとに世界を想像すれば、同様に世界を観測できるはずです。どちらにせよ、重要なのは観測されていないときであってもフィクション世界は実在し、日々動いているということです」

 若本の紙コップはよく空っぽになるので、彼は度々冷茶を継ぎ足している。

『ロマンがあるピアね~』

「そうね。若本さん、もし本当にフィクション世界が実在するんだとしたら、わたしたちがそっちに行けたりはしないんですか?」

「それは残念ながら不可能だと考えています。おそらく異次元間では互いに干渉することはできません。何ら影響を与え合うことはできないのです。しかし、単に観測することだけならできます。本来無関係であるはずの両世界は、〈観測する―観測される〉というこの一点においてのみ、関係性をもつことができるのです。この世界に存在する私たち読者が、作家による記述を通してフィクション世界を観測するとき、フィクション世界内における出来事が、私たちの脳内に現れます。このとき、私たちの意識内には、ある意味でフィクション世界が実在すると言えないでしょうか。この瞬間こそ、本来交わるはずのない異世界どうしが、意識による観測という出来事を通してつながる瞬間なのです」

『ロマンチックピアね~! ピピア、若本っちにガチ恋寸前ピア!』

「何よそれ、ピピアったらおかしいんだから」

 ポッキーの次は、トッポを噛み砕いている。若本の話を踏まえて、氷華は感想を述べる。

「読書するだけで異世界と関係をもてるなんて、すごくファンタジックですね」

 この言葉、何だか嫌味に聞こえやしないだろうか。しかし、若本は気にしていない。なにせ自分の話をわかってもらおうとすることに夢中だからだ。

「そうかもしれませんね。もちろん、私が言ったような見解を受け入れる人は少ないと思います。読書するだけで異世界を観測できるなんて。とはいっても別に私は、意識内で世界を想像するだけで、私たちが実在としての世界を新たに生み出せるだなんて言っているわけではないんですよ? 観測する前から、虚構世界は存在するのですから。私は単に、私たちはそれを発見しているにすぎないんだと考えているんです。ただし、私はこのような考えを何ら論証できていません。まだ学術的にもっともな主張となるにはほど遠いんです。残念ながら、現段階では『そう考えてみるのもおもしろいよね』くらいの個人的見解でしかありません。ですから、純空さんも、私が言ったことは話半分程度に聞いておいてくださいね」

「はい、話半分程度に聞いておきます」

『ピア! そのリアクションはどうピア』

「ははは、素直でいいですね!」

 若本は心から笑っており、目も笑っている。

『そろそろ他の研究室にも行くピア?』

「そうね。若本さん、ちょっとそろそろ他の研究室にも……」

 若本はハッとしたように部屋の置き時計を見やる。

「あ、そうですね。いや、長時間拘束してしまってすみませんね」

「いえ、すごく勉強になりました。とってもおもしろいお話をありがとうございました」

「いえいえこちらこそ。こんな話によくぞ熱心に付き合ってくれましたね。ありがとうございます。何かわからないことでもあれば、いつでもまたお立ち寄りください」

「はい、ありがとうございました。それでは失礼します」

「お気をつけて」

 氷華はさっと部屋を出た。


 ◇


 氷華は次の見学場所を探して歩いている。

「次はどこに行こうかしらね。近いところだと、社会学だとか、人類学だとかの研究室があるみたいね」

『おもしろそうピア。ピピアはイノセシアから来たピアから、人間界の社会については勉強してみたいピア』

「マップによると、研究室はあっちの方ね」

 氷華は他の専攻の研究室がある方へ向けて廊下を歩いている。

「さっきの話、中々おもしろかったわね。フィクション世界が実在するはずだって必死で訴えている人がいて。役に立つとか立たないとかじゃなくて、本当にやりたいことを研究しているんでしょうね」

『そうピアね。でもさっきの話は、全然無駄じゃないピア。あれは単なるフィクションについての話じゃなくて、この世界についての話だったピア。氷華もいつか、知ることになるピア』

「え、どういうこと?」

『ピアぁ~ア!』

 ピピアはインカム越しにあくびの声を伝達してくる。

 そのとき急に廊下の奥の方の扉が開かれた。

――バタンッ!

 部屋からは大学生だと思われる若い年齢の女性が出てきた。女性はキョロキョロと辺りを見回し、氷華の存在を見つけると、ただちに氷華の方へ向けてズカズカと歩いてきた。

「なんだか勢いのある人ね。ちょっと怖いわ」

『これはどうやら氷華に用があるみたいピア』

「え、嘘でしょ!?」

 女子大生は、氷華の前で立ち止まった。深刻そうな面持ちで氷華の顔を真正面から見据え、こんにちは、と挨拶をしてきた。

「こ、こんにちは」

 氷華がそう返すと、彼女は言葉を続けた。

「あなた、高校生の見学の方?」

 この女子大生、興奮気味だ。有無を言わせぬ気迫がある。

「そ、そうです。これからいろいろ見て回ろうかなと思って」

「そう……。ところであなた、最近大丈夫? 何かつらいこととかない? 勉強とか進路とか、家庭や友人のことでも何でもいいわ。何か悩みとかあるんでしょう? そうよね! 絶対あるわよね? ないわけないわ! だって人間だもの!」

「え、え? どういうことですか?」

――ガッ

 女子大生は氷華の両肩を掴んできた。

『中々凄みのある人ピア。やっぱり女子大生は奥が深いピア』

 女子大生は氷華の瞳をとらえて離さない。

「あのね、私はこの社会でいかに大変な思いをしている人たちがいるかを学んだの。生まれたときの時代、土地、家庭環境、そして自身の身体や心の特徴など、それらの偶然的な条件のみを原因として、ひどい状況や苦しい心境に置かれ続けている人たちがいるの。ふつうに過ごしているだけじゃ、気付きづらいこともあるけれど、私は大学でそういう人たちの存在を知ったわ。あなただって、何かあるんでしょう? 私なんかと違って、誰にも言えない深刻な悩みがあるんでしょう? え?」

『こやつ……。まさかピュリキュアのことを知ってるピア? そんなはずないピア』

「と、とくにないです。つらいこととか困っていることとか、とくにありません。いたって平穏な日常で、わたしは毎日ハッピーです!」

 氷華はとっさに相手の期待とは真逆だと思われる返答をした。このまま相手のペースに飲み込まれると、何か危機的な状況に見舞われそうだという直感が働いたからである。

「そうなの……。あのね、私もそう。毎日平穏。両親とも仲がいいし、友だちや恋人もいて、特別な病気とかをもっているわけでもなく、お金にも困ってないの。たぶんこのまま大学を卒業して、正規雇用で就職できるんじゃないかしらね。人生ではもちろん人並みにつらいことはあるでしょうけど、私が学んだ人たちの苦しみに比べたら、たかが知れてると思うわ」

『氷華、この人いったいどうしたピア?』

「わからないわ……。ただ、わたしは今この人から肩を掴まれているのよ。何だかそこはかとなく怖いわ」

 ほとばしるのは、狂気! 感じるのは、恐怖!

 女子大生は、氷華の肩を掴む手の力を強めていく。

「……ねえ、あなた女子高生の格好してるけど、本当に女なの? 心は男性なのに、女性の身体に生まれたからって無理して女性の格好させられてない? それとも、外見ではわからないだけで、実は何か重大な発達障害なんかを抱えているんでしょう!? それとも何よ。両親からネグレクトや暴力を受けてきたの!? あるいは貧困? それとも性差別? 何に悩んでいるの!! きっとあなたにもあるんでしょう! 被害者性が!」

「あの……」

 氷華はリアクションすることをやめた。激しく肩を揺さぶられているが、これに反応することもやめた。ただただ苦々しい表情をしながら、この嵐が過ぎ去るのを待っている。

『氷華、それでこの場を切り抜けられるピア?』

「いったん様子を見るわ。それにしても、もしかして大学ってこんな人たちばかりいるの? 魔窟まくつすぎるでしょう~。こんなの狂気の住処すみかだわ~!」

 しかし、嘆く氷華を前にして女子大生は冷静になる。そしてまるで憑き物が落ちたように、落ち着いた様子で語り始めた。

「私はね、生きているのがつらくなったわ。……許さない。これだけ私を追いつめた、社会の中の被害者たちを許さない。すでに被害者だと認められた者たちが、私の生きやすさを奪い取っているんだわ。……つらい。そんなことはないはず。なのにそう思ってしまう恵まれた私の醜さがつらいわ! ウぅ、ウぅぅぅぅ……」

 女子大生はとても悲しそうな声を上げている。その奥底に渦巻くのは、怒りと嘆きを混ぜこぜにしてできあがった、狂気的な罪悪感情。よく見ると、彼女の背中のあたりから黒々とした煙のようなものが立ち昇り始めている。

――ズモモモモ

「こ、これは!」

『罪悪エナジーピアか!?』

「他人のあらゆる被害者性が、私に対する加害として現れてくるの。それは私が恵まれていることの報いなの? 私は恵まれているはずなのに、どうしてこんなにつらいのかしら! ……でも、このように被害者面づらをすること自体が、私には許されていないように思われてならないの。なぜなら私は恵まれているのだから――! ねえ、そうでしょう!?」

「うわわわ。落ち着いてくださいってば!」

「これこそ悪だわ。私は恵まれているにもかかわらず、自分の被害者性ばかりを強調する、自分勝手な人間なのよ。最悪、最悪だわ……。う、ウぅ……。ウぅぅ――ウゥウガァァー!」

――ズモモバァァー!

 女子大生の背部から猛烈な罪悪エナジーが噴出し、女性の身体はみるみる暗黒オーラに包まれていった。

「ウガァァーイ! テアラァァーイ!」

 彼女は全長およそ一九〇センチの暗黒怪人、アクヤークと化した。

「うわぁ~! アクヤークになっちゃった!」

『すでにギルセシアの民から〈ギルティー・チャージ〉を受けていたようピアね』

「でも、罪悪感を増幅させられる前から、どうやらかなり苦しんでいたみたいね」

『そうピアね。これはかなり強敵になる予感ピア。ひとまず外に出るピア!』

「わかったわ!」

 氷華は急いで研究室棟の外へと駆け出した!


 第七話おわり

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