Canarino Macchinario-epilogo
剥がれた壁や崩落した天井の端材が床に散乱する廃ビルの一角で、何かを蹴飛ばす破壊音が響いた。踏み荒らされた廊下側から蹴り開けられたドアは部屋の内側へ倒れ、数人の男性が咳き込んだ。
放置され続けた内部は、突然の侵入者を拒むように埃煙をあげた。その中で粉塵に備え鼻を袖で覆っていた青年が咳き込みもせず静かに立っていた。
「見て来い、カルロ!」
男性の怒号が響く。一歩部屋へ踏み出した青年は、空になったマガジンを捨て再充填しつつ、クリアリングを行いながら壁沿いに進んだ。
つい先程まで、彼らはとある埠頭に集合していた。麻薬取引のブローカー組織『アドローズ』に指定された場所へ商品を届ける為だった。
しかし取引に現れたのは、アドローズだけでなかった。中央警察が包囲網を敷き、組織の人間を一網打尽にしてしまい、事態は混乱を極めた。
カルロ達側も何人か犠牲を出したが、辛くも包囲網を脱出した。そうして、街外れにあった廃ビルへ駆け込み、ほとぼりが冷めるまでの隠れ家にしようと計画していた。
カルロは壁伝いに電灯のスイッチを見つけた。そのまま部屋を回り、窓が無いかを調べる。
どうやらここはミーティング室のようで、窓に面して居ない事を確認したカルロは、電気をつけた。
部屋に明かりが点り、室内に動くものは自分達以外居ない事を確認してから、仲間を呼び入れる。昔からのファミリーの一員や、新人を含めた今回のチームは無節操ながらも、総じて程度の低そうな人間で構成されたという点においては共通していた。
誰かがほっと息を吐いたのもつかの間、リーダー格がサブリーダーに突っ掛かる怒号が響いた。
「おいどういう事なんだよ!あんなに苦労して集めたヤクが、丸ごとパクられちまっだろうが!!」
「し、知らねぇよ!お前が全部やるって聞かねーから任せたんだぞ!」
カルロは言い争う彼らと、それを不安そうに見ていたり項垂れたりしているメンバーを眺める。
カルロの属していたスローンズファミリーの残党は、ある事件を切っ掛けに数を減らしつつも新入りを迎えたりしながら、何とか組織の体を保とうとしていた。
しかし最早ギャング以下の絆に信頼、品性に誇り…全てを失っていた事を、カルロはまだ信じがたく、しがみついていた。
争いは過熱していった。カルロが…スローンズファミリーではボスの嫡子として重用されたカルロの一声があれば止まるはずだったそれは、しかしカルロの静観により放置されていた。
仲介もせずにカルロはぐったりと壁に体を預けていた。ここ数日マトモな物を喰っていない。まとまった金で皆にやっと美味い飯が食わせられると思ったのに…と悲観し項垂れている。
例えそれが、バラ撒いた薬で不幸になる人を踏み台にしているとしても、カルロにはそれが普通であり日常だった。やがて殴り合いになるメンバーも、仲間割れの末に部屋を出て行くのも茶飯事である。だからカルロは止めもしないし引き止めもしなかった。
室内の乱闘から数時間経ち、ビルを見回って来ると言って部屋から出て行ったメンツが戻って来ない為、カルロは使いを下っ端の一人に頼んだ。
それもまた過去になって暫く経過していて、流石に誰も帰ってこない異変にカルロは腰をあげた。
その瞬間、部屋の電気が消えた。真っ暗になった空間に身を固めつつ、握ったままの拳銃を構え直す。廊下から何人かの足音が聞こえてきて、カルロは壁に張り付いた。
静かな室内に、オロオロとする部下数人の声と物音、加えてドカドカと踏み入る足音と銃声が響いた。同時に短い悲鳴と倒れ込む音がして、無音になった部屋にカルロが残された。
仲間の名を呼ぶこともせず、カルロは沸騰しそうな心臓とどこまでも冷えていくような思考を壁に押し付けるようにもたれかかる。
ライトの構え方から警察だろうと、カルロは必死に目を凝らして暗闇の中で息を潜めた。ドアに入ってすぐ横のカルロはまだ発見されていないようだった。
案の定、「警察だ!武装を解除し、膝をついて手を頭の上で組め!」と口上が怒号で放たれる。カルロを警察に対する激しい憎しみで覆うその声は、カルロにとって聞き覚えのあるものだった為、憎しみを凌駕して驚愕を導いた。
(今の声は…!)
カルロが声の主に想いを馳せた瞬間、カルロが銃を持った手に…詳細に言うと、手首に衝撃を受けた。銃を取り落とし、短い呻きをあげたカルロは、襲撃者へ攻撃を加えようと拳を振り上げる。
数人の、まだ誰か居るのか!という声が部屋内に響く。カルロの空を切った手は、文字通りの闇雲を掴むだけで襲撃者を発見できなかった。
取り敢えずこの場を離れようとカルロが後ずさると、一瞬部屋に電気がついた。その一瞬で見えたものが、よりカルロを混乱に陥れた。
「カル…ロ…?」
見えたものは数人の人影で、その中に一際見覚えのある青年が、カルロの名を呼んだ。
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探偵が警官数人を擁して偵察をしていた中で、隠れ家として使用される可能性が高いとされた建物の一つに踏み込んだジュリオ達は、粉塵を吸い込まないように袖を鼻に当てて見回す。
灯りを目の高さに構えて周囲を伺う。自分達か、潜む何かの息を潜める緊張感の中、ジュリオはただ耳を澄ませた。
僅かな明かりを頼りに進むと、何かが転がる音が聞こえた。音の方向に向かい、部下にも着いてくるように指示をする。
暗い廊下を壁沿いに進むと、いくつかドアがあるフロアに到達した。その中の一つが、開いているというよりは露骨に扉が無い。
ジュリオは手早く各部屋を確認しながら、扉の無い部屋に向かう。暗い部屋の中に誰かが居る事は明白だった。
「警察だ!武装を解除し、膝をついて手を頭の上で組め!」
部屋に居た数人を鎮圧後、威嚇の為に声をあげる。位置を知らせない為にライトは構えていない。声を出すという事は相手に自分の位置を知らせる事だが、ジュリオは勇敢にその役目を引き受けた。
付近で物音がした気がして、ジュリオは視線と銃口を向ける。その時、部屋の電気が一瞬付いた。
部屋の灯りは、仲間以外の人間を一人浮かび上がらせる。
「カル…ロ…?」
ジュリオは思わず、その人物の名を呼んだ。
あの懐かしい学舎の香りが部屋に満ちた気がして、自分の立場も今の状況も全てジュリオの背後で霞んでしまったような錯覚に陥った。
「ジュリオ……」
部屋に居た人物…カルロは、呟くように呼んだ。彼もまた、同じ錯覚に囚われて戸惑っていた。
僅かな郷愁ののちに、立場と状況を思い出した二人は行動を開始する。
しかしジュリオが拳銃を構えるのが一瞬遅く、カルロに拳銃を拾わせてしまう。
その瞬間、また部屋の電気が消えた。
「1名発見!拳銃を所持している!ドア付近、構え!!」
ジュリオは仲間に報告しながら位置を変える。味方の配置を思い出しながら、射線に入らないように動こうとした。
しかし背後からどさどさと聞こえる、何かが倒れる音に異常を感じて振り返る。闇に慣れた目で見まわしても、味方が皆床に伏してしまった事は見て取れた。
「…おい!どうした!おいっ!!?」
ジュリオはカルロの居る方向から銃口を逸らさず、背後に声をかけるが応答はない。
何らかの手段で無力化されてしまった部下たちを心配しながらも、今は身の安全を確保する為に過去の友人に銃口を向けていた。
カルロもだいぶ暗闇に慣れた目でジュリオから銃口を逸らさずに構えていたが、ジュリオの連れて来た数人が次々に倒れるのを見て驚愕していた。
「…おい、誰か居るぜ、ジュリオ?」
「……分かってるよ…でも、君を…逃がす訳にはいかない」
また突然、部屋が明るくなった。睨み合う銃口の間に、「何か」が突然存在していた。
カルロとジュリオは怯む。「何か」は人間の形をしていたが、そこだけまだ電気が消えていた時の暗闇が残っているように黒ずくめだった。体格から見て男性で、目深に被った帽子で顔は見えない。
「何者だ!武装を解除し、床に膝をついて頭の上で腕を組め!!」
ジュリオの呼びかけに反応せず、その男性は帽子のつばを持ち上げて、カルロの方を見やり、呟いた。
「キミ達には、忘れてもらうよ…」
帽子から覗く顔を見て、カルロは息を飲んだ。次の瞬間、怒号と共に発砲する。
「……ッレオナルドォォ!!!!!!」
発砲音と同時に、目の前の暗闇が立ち消えるように居なくなる。放たれた銃弾は、ジュリオの腹部を貫いた。
ジュリオは痛みに呻き、屈みこみそうになりながらも、霞む視界に目を凝らして狙いを定めて引き金を引く。
狙いはカルロの銃を持った手、そしてそれは狙い通り着弾してカルロは銃を取り落とした。
誰も息をしていなかったかのような静寂に、ゆったりと暗闇が立ち上るように男性が立ち上がった。
「こ、の…裏切り者、が………」
カルロが手を抑えて呻きながら暗闇を睨みつける。だが相手は意にも介せず、カルロの落とした拳銃を蹴って手の届かない位置にやってしまう。
「ジュリオにとってのブルータスはどっちだったのかな?オレたちのうち、どっちが彼を裏切ったんだろう……ねえ、ジュリオはどう思う?」
明かりの下で、帽子をゆっくりと取りながら男性は呟いた。帽子の下から、朝焼けのような髪色が現れたと同時に、蛍光灯の眩しさか彼の持つ独特な気配ゆえか、カルロとジュリオは焼かれたように目を細めた。
「……レ、オ…」
男性…レオナルドは、黒い皮手袋も取ってコートのポケットに入れる。
「うん、久しぶり。でも、ジュリオとは結構会ってたよね。一緒に捜査もした仲じゃない」
レオナルドは肩を竦めてやれやれという顔をする。懐かしい顔が重なって、ジュリオは混乱した。
「一緒に…捜査…?」
「そう、ここ数日、一緒に行動していたでしょ?」
そう言われて、似た背格好だった探偵を思い出す。探偵は黒い長髪をサイドツインテールにして、黒いスーツ、ネクタイにサングラスと異様な様相でレオナルドとは結び付きもしなかったが、何故か直感した。
「彼は…レオだったのかい…?」
「当たり。楽しかったね、一緒に遊べて嬉しかったよ」
レオナルドは首を僅かに傾げてふわりとほほ笑む。懐かしさに胸が詰まりそうになったジュリオは、レオナルドの微笑みに目をとられて手元からそっと拳銃が奪われた事に気付けなかった。
「レオ、駄目だ、それは…返して、くれ……」
痛みに我に返って、傷口から流れる血を抑えながらレオナルドに呼びかける。レオナルドはカルロの銃を拾い上げて、2つの銃からマガジンを取り出す。
「ああ、丁度一発ずつ使ってくれたのかな…」
何かを確認しながら、また装着した。気を失ったのだろうか、静かになったカルロは蹲って動かない。ジュリオは膝をついて、床を這いながらカルロの名を呼ぶ。
「特別性の銃弾を受けただけさ。死にはしないよ…キミもね」
レオナルドの少なくとも学生時代には一度も聞いた事がないような冷えた声に、ジュリオは思わずレオナルドを見上げて問う。
「銃弾…何が特別なんだ?レオの目的は…一体……」
「オレに目的なんてないよ。あの時も、今も。多分…これからも」
レオナルドはジュリオの方を見ず、カルロから目線を外さずにぽつりと答えた。それを最後に、ジュリオの視界が暗転した。
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――そして、50名以上ものアメリカ系ギャングの違法行為を取り締まったのですね。
ええ、といっても…ほぼ覚えていないんですけど。部屋に踏み込んで…銃撃戦に巻き込まれて…その後の事はさっぱりで。
撃たれたらしいんですけどね。(氏は腹部をさすった)
――彼…ブルータスが捜査に協力してくれて、今回の大捕り物という事だそうですね。
はい。残念ながら彼も詳しい事を覚えていませんが…覚えていたとしても守秘義務で話せませんがね。(インタビュアーが笑う)
主に敵地潜入の任務を負って貰いました。
――表彰されたようですね、会見は行わなかったようですが。
病院ですからね、俺もブルータスも。こんな狭い部屋じゃ、お偉いさんが溢れかえって終わりですよ。(インタビュアーが笑う)
――後ほど彼にもインタビューを行う予定ですが、彼について一言。
彼とは、とても長く一緒に居た気がします。今回初めて組んだはずなのですが…懐かしい、ような…。
一度だけ病室に尋ねてその話をしたところ、彼も同じような事を言ってくれました。
俺は何故か、彼と一緒に居たいと思ってます。彼もそう感じているようで、退院後の申請が通れば、同部署に配属が決まってます。
――すると、今回の名コンビは相棒となる訳ですね!
そう、なりますかね?仲良くできると思うんですよね…。
――大活躍ペアが、これからこの街を守ってくれるという事で。住民も安心するでしょう。
はい、私たちは今までもこれからも、市民の皆様の安全に尽くします。
体こそまだベッドから起き上がれず、包帯だらけではあったが、氏は頼り甲斐のある目をして力強く約束をした。彼のような存在のお陰でこの街の平和がまた、守られたのです。
…
─────────────────────────────────────────────────
青年…ジュリオがベッドの上で大きな盾を贈呈されている写真を見て、エスタルノはインタビューの掲載された新聞を投げた。
エスタルノが腰かけたソファの前のローテーブルに着地した新聞は、テーブルを挟んだ向かいに座っている相手に取られた。
「ああ、もう新聞になってたのか。ちゃんと情報操作できてるようだな」
新聞をざっと見した神庭は、満足そうにうんうんと頷いた。エスタルノはその様子を見てからローテーブルに視線を落とし、いつの間にか新聞の代わりに置かれたエスプレッソを見つける。
手を伸ばそうとすると、神庭が思い出したようにエスタルノの方に向かう。
「ああ、カルロ…彼だが、あの名のままでは些か不都合があるから、改名させてもらったよ。ブルータス君だよ。いや、他意はないがね」
「絶対他意あるよね、それ」
神庭は「はっはっは」と豪気に笑い、エスタルノの返答にイエスともノーとも返さなかった。
「一応説明しておこうと思って…君にじゃないけどね。ああ、ちょっとメタな発言だったかな…まあいい」
エスタルノの呆れたような表情に目もくれず、神庭は居住まいを正して咳ばらいをした。
「以上だ。現時刻をもって、貴公の本作戦…『ザ・ブラック・ロータス・イーター』への投入を終了する。ご苦労だった。」
神庭はそう言い放つと、革張りのソファに身を沈めた。エスタルノは、背もたれに身を預けて軽く脱力したように頷いた。
流石に疲れたようだと、投げ出した自身の手足に目を向けながらエスタルノは考えていた。コントロールできるはずの肉体の疲労が、蓄積された分猛威を振るって襲い掛かってくるような重さに感じられる。
「後払い金は契約通り、指定の口座に振り込もう。それと、頑張ってくれた事へのご褒美だ。何か欲しいものはあるか?」
エスタルノの夢見心地に滑り込むように、現実とおとぎ話の間で響くような声が蠱惑的に欲望を煽った。その声を聴いて、虚勢代わりに口角をニィとあげて、エスタルノは応える。
「まるで物語みたいだ。ランプを擦ったら魔人が現れて、何でも願いを叶えると囁く…。」
「おや、俺はあんなケチな制約はつけないよ。ただし、一つだけだ。」
いつのまにかローテーブルを乗り越えて、近くで響く声にエスタルノは目を開けた。神庭が目の前で、人差し指を唇に当てている。「願いはひとつ」、或いは「質問は許さない」の意思表示だろうか。
エスタルノは疲労で軋むような思考をフル回転させて、一つの願いを伝えた。
「そんな事か。叶える願いを増やす、でも良いんだぞ?」
願いを聞いた神庭は、少しがっかりというような声色で提案をしてきた。が、サングラスのせいでエスタルノからはあまり表情は読めない。
だが恐らくきっと楽しそうな顔をしているのだろう、エーヴァに知恵の実を食べるよう唆した蛇のように。エスタルノは何故かそう感じていた。
「定石だよね、身の程を越えた願いは破滅しか呼ばないんだ。」
凡そキミみたいなタイプには、特に試すような真似はしない方が良い。それでも少し踏み込んだ冒険を、とエスタルノが選択したのが、今回の願いだった。
いいだろう、と神庭はするりと身を引き、ローテーブルの上から身を退けてソファーに再び沈んだ。エスタルノは、神庭が目の前から退いただけで圧迫感が失せて、自分が呼吸をしていなかった事を思い出していた。
「廃墟になったあの街で起こったのは、マフィアの抗争という事になっている。しかし…。」
「本当に起こっていたのはガス爆発事故だった。そうだよね?」
神庭の言葉を承けて、エスタルノは続けた。神庭は驚くでもなく、そうだ、と肯定した。
エスタルノは例の潜入作戦のあと街から撤退したが、卒業生の証言がかみ合わない事が多かった事について、事件の衝撃のせいと片付けずに現場を検証して一つの結論に辿り着いたと伝えた。
「調べたのか、あの炭窟…『毒の壺』を。それは…ご苦労だったな。」
労わりの言葉に答えず、エスタルノは懐から小さいチャック付きの遮光ビニール袋を取り出した。それをローテーブルの、神庭側へ投げる。神庭はそれを摘まみ上げて、袋の中から黒い蓮の花びらを出した。
「お陰でガスマスクと肺と気管支をいくらか使い潰したよ。これだけの労力を支払って、証拠がそれだけなんてね。入念な証拠隠滅っぷりだった…完敗だ。」
「いやいや、上出来だよエスタルノ。まさかここまで到達してたなんてな。」
「探偵としてジュリオに関わって、彼の身の内話を聞くうちに、何だか他人事とは思えなくてね。オレは最初、麻薬犯を抑えてシンジケートの抑制…その裏で武器密輸を行う作戦、『ザ・ブラック・ロータス・イーター』に作戦開始から関わっているんだと思ってた。でも違ったんだよね、この作戦は、オレがあの学校に通っていた頃から発動していたんだ。」
神庭は黙って、エスタルノの饒舌に耳を傾けていた。肯定するような、賞賛するような弧を描く神庭の唇に、エスタルノはますますまくしたてていく。
「全部じゃないけど、思い出したかもしれない記憶もある。混濁してるのか、作られた記憶か、夢の風景かも分からないものもあるけど、確かに…『作戦の協力者』はあの学校に居たんだよ。事件は卒業後だったけど…ジュリオ達のように、当時あの町にいた全員が、記憶の操作をされていた。黒い蓮を、爆風に乗せて街を包み込んで…待機させていた雇いの偽マスコミに、マフィアの抗争があったというインタビューで詰め寄らせて、住民の記憶を操作したんだ。」
マシンガンのように言葉を放って、エスタルノは息切れを覚えて咳き込んだ。神庭が大きい拍手をして、それはエスタルノの咳が止むまで続いていた。
拍手を止めた神庭が、糊が効いて上質な黒いスーツに包まれた長い脚を優雅に組みなおした。よくもまあローテ―ブルにぶつけないものだ、とエスタルノは目を細めた。自分だって神庭の所作をコピーしたのだから、神庭が出来て当たり前だとも思っていた。
「『ザ・ブラック・ロータス・イーター』は、麻薬取引の露呈と、その裏で行った武器密輸のサポート作戦なんかじゃない。大規模な記憶操作実験の…記憶を持った一人、カルロの記憶を封じて、やっと終わったんだ。」
咳き込みも拍手も止んだ静寂を縫うように、エスタルノの声はなおも続く。内臓までも黒く染まって良そうな神庭の内臓を暴き、晒し、神庭の前に並べ立てるつもりで喋っているのに、自分の耳に届く声はとても震えているようで、思わず自嘲した。
ふむ、と神庭は口元に手を当てて考える仕草をした。にわかにぱっと顔を上げたと思うと、何も無かったかのように首を傾げながらエスタルノに話しかける。
「お前は真実が知りたかったんじゃないんだな。答え合わせなんて、学校のテストじゃあるまいし。まあ、一応花丸でもつけてやろうか。」
「何それ、どういう意味だい?」
「日本では解答用紙に教師が〇と×をつけて、正誤を示すんだ。よくできた解答なら、ハナマルになる。」
「ふうん。じゃあ、もらっておこうかな。」
正直、答え合わせと揶揄された事もからかわれている事も、エスタルノにはどうでもよくなっていた。自分が何故こんな願いを叶えたがったのか、それは神庭に自分の能力を認めさせたかったからだと自覚が追いついたからだった。
そして、ここまで明かすという事は、この人間はエスタルノをここから生かして出す気はないのだろうという事だけを鮮明に理解していた。そして、相手はエスタルノがそれを知っている事を、知っている事も感じていた。
(少なくとも、今までのオレじゃなくなるんだろう。でも、それが何だって?ずっと同じ事をしてきた気がするんだ。オレが忘れても、ジュリオもカルロも忘れても、この人が覚えていてくれるんだろう。だから、オレは…。)
エスタルノは重い手足を何とか動かし、ローテーブルに出されていた濃いエスプレッソに口を付ける。強い苦味は、黒い蓮の存在を内に秘めてより苦く感じられるようだった。
「ああやはり、」と思うに留めたエスタルノは、吐き出さずに素直に嚥下した。
「最後の一人…オレの記憶…これで『ザ・ブラック・ロータス・イーター』作戦は終了…ってワケかい…?」
飲み終えたカップを持つ手も震え始めたが、エスタルノは自分の耳に届く自身の声を頼りに発話した。
神庭は何も答えず、先程まで無意味に弧を描いていた上機嫌そうな口角を無表情に引き締めて、エスタルノを観察していた。
まるで巻いた螺子が切れたカラクリのように動かなくなったエスタルノの胸へ、神庭はそっと耳を近付けた。
酷く緩やかな心音、呼吸していないかのように静かな吐息を確認して、神庭はエスタルノから身を離す。
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静寂に満ちた部屋にノックの音がして、神庭が促すと青年が一人入って来た。ソファに横たわるエスタルノに驚いた様子だったが、異変に慣れたようですぐに神庭に向かい直る。
「ああ、死ぬほど疲れてるみたいだから、起こさないでやってくれ。それより先日出品した作品だが…あれを含めて個展を開こうと思っている」
「個展…ですか」
青年は…バロックは喜びに打ち震えた。個展、画家としての一大イベントであり、世に自分の作品をより知らしめて、知る人には更に知ってもらう機会。そのチャンスがやっと自らの手に巡って来たのだ。
駆け出しの若輩者である彼にはその資金も名声も無かったが、神庭という画商兼パトロンに雇われてから急激にその力を発揮し始めた。神庭はバロックの芸術によく理解を示し、賞賛し、賛同して利益を生み出す、バロックにとっては最早居なくてはならない存在だった。
バロックは頬を紅潮させて動揺した。神庭はその様子を見てバロックに声をかける。
「まあ落ち着けって。個展は逃げないぞ」
「落ち着いていられませんよ!夢が…ずっと、生活の為に贋作ばかり描いてた僕が、こんな…」
バロックは感極まって泣き出してしまう。神庭はよしよしと言いながら、自分の座っていたソファにバロックを座らせた。
「これでも飲んでなさい」
神庭がバロックの前にエスプレッソを差し出した。バロックは震える手で受け取る。一気に飲み下し、やがて天井を煽っていた目はとろんと閉じられてしまった。
「記憶の無い画家なんて、センセーショナルじゃないか?きっと大広告になるさ…」
神庭はそう言って、微笑んだ。
Canarino Macchinario 野津井 香墨 @bluebird_yy
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