Canarino Macchinario-2

ジュリオは、自室のベッドで目を覚ました。目覚ましも鳴っていないし、朝の眩しさも無い。何が自分を目覚めさせたのか、ジュリオは虚ろな頭で、取り敢えず水でもと寝ぼけた頭で考えた。

同室で、近くのベッドに寝ているであろうカルロを起こさないようにそうっとベッドを降りた。サイドテーブルを探り、水の入ったコップを探り当てる。埃避けの蓋を外して一口だけ飲み下した。

すると冴えた頭がふっと、昼の美術室での自分の言葉を思い出させた。


『レオナルド、今夜の自由時間に、僕たちの部屋においで。取っといてあるから…見せてあげるよ…。』


もしかして先ほど、突然の来訪をしたレオナルドはこの約束を果たしに来てくれたのだろうか?ジュリオは自分が忘れていた約束を思い出して焦った。

彼は気を悪くしただろうか?約束なんてその程度か、と思われているのだろうか…ジュリオは居てもたってもいられず、ベッド下の引き出しを漁った。

背後からカルロの呻き声が聴こえて、ジュリオは咄嗟に振り返る。しかし暗闇からはすぐにカルロの寝息が聞こえてきて、ジュリオは安堵の溜息をついた。


カルロが描いた似顔絵を探り当てて、それをするすると丸めジュリオはそうっとドアを引く。廊下の暗い灯りが弱く明滅している。

廊下の端の方は暗く、窓が風に軋んでいる。ジュリオは似顔絵を抱き締めて怯んだ。

ジュリオは入学してこのかた、こんな規則破りはしたことがなかった。真面目に愚直に、ルールに従う子羊だったのだ。それが今、消灯後は外出禁止という校則を破ろうとしていた。

自分を突き動かしているのが、信頼を失う恐怖なのか逸脱するスリルなのか、ジュリオには分からなかった。しかし分からないまま体は動き、物音を聞き分けて的確に動いた。


階段を上がって来る見回りの教員が木板の床を軋ませる音を耳にして、咄嗟に暗闇側に隠れる。教員はカンテラをぶらさげ、ジュリオの居る方とは別の方へ曲がっていった。

教員を躱し、部屋番号を辿ってレオナルドの部屋を探す。以前に聞いた部屋番号は、確か同じ寮だったはずだった。階が違う部屋の番号までは把握していなかった為、するするとついに1階まで降りてきてしまった。


ルームメイトの組み合わせによっては、学年が違っても同じ部屋というケースは耳にしていたが、ジュリオは困惑した。流石に1階には最年少クラスの学年くらいしか集まっていないからだ。

目的の部屋番号を見つけたが、ひどく困惑したままジュリオはドアノブを回した。廊下からの光で中を伺うと、中はジュリオ達の部屋と同様の構造だった。

2つのベッドをそれぞれ覗き込み、ジュリオは愕然とした。どちらにもレオナルドは眠っていなかったのだ。ぱさりと、手から画用紙が滑り落ちた。慌てて拾おうとすると、床が大きく軋んだ。

ジュリオは大きく息を吸い込んで止めた。一人が身を起こし、こちらを見ている。


「先生…?」

細い声が、ジュリオに問いかける。

「あ、ああ…物音が聴こえたから、就寝してるか確認に来たんだよ。」

ジュリオは咄嗟に、震える声色を叱責するが如く強い口調で言い放つ。それが逆に教師らしい高圧さを放っていたのか、単に相手の生徒も寝ぼけていたのか、苦しい言い訳は通ったようだった。

「すみません、気付きませんでした…。」

ルームメイトを気遣ってか委縮してか、相手の生徒は控えめに答えた。

「いや、何事もないようで良かった。邪魔したな…。」

ジュリオは顔を見られないようにと思いながら、急いで部屋を後にした。


ルールを破り、名を偽り、それを暴かれるのを恐れ、嘘を重ねて更に隠し通そうとしている。

今までそんな事を思った事も実行に移した事もなかった自分が、本当にそんな恐ろしい事をしているのだろうかと、ジュリオは信じられずに絶望していた。

足はもつれ、立ち眩みふらつく程に絶望しているのに、まだ、身を潜めて耳を欹てて、保身に一生懸命になる自分が情けなく、いっそ死んでしまいたくなる程だった。

痛烈な耳鳴りを感じ、気付くとジュリオは自室のベッドで座り込んでいた。

その日一日、ジュリオはそうやって過ごすことになった。



「リーオ、どうしたの?」

「さあ…朝からずっとこんなで。ロクに反応しやしないんだ。」


レオナルドがカルロに尋ねるも、ジュリオの調子について何も知らないと返答された。

「そっか、心配だから保健室に連れて行ってあげてよ。オレ、ちょっとさっきの授業で分からない事があったから先生を追いかけたいんだ…。」

レオナルドは気遣わしげな表情でジュリオと、教室の扉を交互に瞥見する。

「ああ、分かった分かった。行ってこいよ、ジュリオの事は任せろ。」

「ありがとう、それじゃ。」

レオナルドは鞄を持ち、帰宅する生徒の間を縫うようにして廊下へ出た。先生に質問がと言った手前は体裁として、先生を追う方向に向かう。

ただ話しかければ嘘を言った事にはならない。ただし内容は、質問では無かった。


「トレント先生、すみません。」

振り向いた女教師トレントは、少し後ろで慌てて追ってきたのであろう、息を乱した生徒を見つけた。

先程の教室でトレントの授業を受けていた少年だった。目立つオレンジの髪色を揺らし、大きな紫の瞳が真っ直ぐに教師を見つめる。

授業中も今のように、その大きな瞳のどちらを見つめるべきか、トレントは僅かに動揺した事を思い出した。

「あの、これを…落としませんでしたか?」

その動揺の隙をつくように、レオナルドは言葉と右手に持ったハンカチを差し出した。

短いが細く美しい指が頼りなく掲げる畳まれたレースハンカチは、廊下の光を受けて教師のイニシャルを象った金糸をきらめかせた。


「先生…?」

はっとトレントはレオナルドの呼び声で我に返った。ありがとう、落としてたのねと慌ててとりつくろいながら、トレントは手を差し出す。

ハンカチを受け取ろうとしたトレントの手は、レオナルドが左手でやんわりと手首を支えて裏返される。急に掴まれたにも関わらず、僅かな抵抗も見せずに翻る自らの手に、トレントは僅かに息を飲んだ。

上に向けたトレントの手の平に、ふわりとレースハンカチが重ねられる。レオナルドの繊細な指先に挟まれた自分の手が、何故かとても羨ましく感じられた。


トレントが気付くと、目の前からレオナルドの温もりが消えていた。少し離れて、こちらを振り返って微笑んでいるレオナルドを見つめたトレントは、レースハンカチを握りしめて立ち尽くしていた。

一瞬か永遠かと思われた見つめ合いは、レオナルドがゆっくりと振り返って終わった。トレントは名残惜しく感じたが、まだもう少し彼を見つめていたかったと自覚まではできなかった。

先ほどの授業中、トレントは教科書を読み上げながら、生徒の机の間を歩いていた。その彼女からレオナルドがハンカチをかすめ取ったとも知らずに。


トレントに背を向けて歩き出したレオナルドは、先ほどまでの柔和な笑みが消えて、次の目的地の事を考えていた。



レオナルドは寮へ戻り、寮の1階に戻る。

ある部屋をノックする。当然返答はない。この曜日、下級生は6限まであり、午後5時になるまで寮に戻らない予定であることを、レオナルドは知っていた。

ドアを押し開け、部屋に入る。一瞥し、目当ての場所に移動する。片方のベッド下に用事がある為、ベッドをどかそうと目論見た。

しかし、ベッドの下を覗き込み何かが落ちているのを発見してどかすのをやめた。

一枚の紙を引きずり出して、それを眺める。そして2つの可能性を考えていた。


嘘の部屋番号を教えられたジュリオは、どのタイミングか不明だがここに来て、見せようとした絵を落とした。

もう一つは、警告。わざわざここに隠した可能性についてだった。


敵かどうか、見極めないといけないな…とレオナルドは溜息をついた。

あとは、夜は部屋に居ないと面倒になりそうだと思いながら、次の目的地へ向かった。


次にレオナルドがノックしたのは、ジュリオたちの部屋だった。ノックの返事が返って来るかは五分五分だな、もし返ってきたら――

今の保護者に関わってから、すっかり身に着いた賭け癖が賞品を定める前に、ノックの返事より早くドアが開いた。

「レオじゃん、ジュリオなら寝てるよ。早退させろってさ。」

「そうだったんだ。リーオ、大丈夫かなあ…。」

「熱も今の所無いし…ストレスかなって保健室の先生が。」

カルロが喋りながら、レオナルドを部屋に案内する。レオナルドは、寝ているジュリオの顔を覗き込んだ。

「ホントだ、熱はないね…。」

レオナルドは、ベッドに腰かけてジュリオの額に触れた。カルロは机に向かい、ジュリオの鞄を机に乗せている。


「あれ、これ、昨日言ってた似顔絵?ホラ、リーオがさ。」

レオナルドはぱっと、カルロに向かって画用紙を広げた。それを見たカルロは、徐々に明るい表情になり、しかしジュリオを気遣ってか控えめな笑い声をあげた。

「うわ、懐かしい。そうそう、それだよ。なんだよジュリオの奴、どこがシュールレアリスムなんだ?やっぱりちゃんと上手に描けてるじゃん!」

「確かに、カルロらしい絵だよね…。」

レオナルドは改めて絵を眺める。年相応と言えばそうだが、保護者の仕事の関係で画商に携わった身としては、それ以外の感想が出そうになかった為、言葉を濁した。

カルロとレオナルドは二人で連れ立って、残りの授業へ向かった。



ジュリオは、カルロの声で目が覚めた。

「大丈夫か、お前すっげーうなされてて…うわ、熱出てるぞ、お前。先生呼んで来るから…。」

カルロはうなされていたジュリオを起こしたらしく、触れた肩から熱を察して部屋を立ち去った。

待って、待って…ジュリオがそう言おうとしたが夢の中のように声が出ず、せめて手を挙げようとしたが鉛のような重さでベッドに縫い付けられているように動けないまま意識までも地中深くに引きずり込まれて行った。


ジュリオはふと天井を見つめている事に気付き、次に頭痛に襲われて思わず手を額に宛がった。

「起きたのか?」

カルロがジュリオの方を伺いながら、机に向かっている。参考書を脇に除けてしまっているから、また勉強してないな、とジュリオは何となく思った。

外はもう暗い。ジュリオはさっき起きた時には辛うじてまだ夕方だった気がして、喪失した時間に思いを馳せた。

「全く、先生が来る僅かな時間に寝やがって。一応診察してくれたし、薬も置いてってくれてるから…ちゃんとした診療はまた明日でも良い、ってさ。起きてられそうなら呼んで来るから。」

「ん、ありがとう…。」

ジュリオは頭を枕に預けようとして、見慣れない物があった為に再度頭を擡げた。

「カルロ、それ、何…どうして…」

カルロが眺めていたのは、昔カルロが描いた、ジュリオの似顔絵だった。


「ああ、レオも見舞いに来てくれたんだぞ。」

「レオが…?」

レオナルドの名を聞いて、ジュリオは全身が固まった感覚に陥った。部屋の番号についての疑念が晴れず、彼に疑いを向けている自分の後ろめたさが毒のように瞬時に全身を回り、一気に熱が上がったような気分になった。

「その、絵…どうして…。」

「え?お前が見せようとして机とかに置いてたんじゃねえの?」

「え…?」

そうだっただろうか、とジュリオは熱に浮かされた頭で考えた。あの夜の事は、夢だったのだろうか?

ジュリオが考えている間に、カルロはまた寝る前に薬を、と他にも何か言いながらジュリオに薬と水を飲ませた。

そのまま、また眠りに落ちた。



レオナルドは就寝時間になってから、そろりとベッドから出て行った。先程見舞ったジュリオのベッドに取り付けた盗聴器のお陰で、保険の教師が行った予後診断もジュリオが起き上がれる状態でも無い事を知っているから、動きたい放題だと考えた。

行先を決めたレオナルドは、窓を押し開けてレンガ造りの壁に張り付きながら外に滑り出た。ルームメイトは寝る前に口にする水に混ぜた睡眠導入剤で朝まで起きる訳も無かった。


向かう先は、美術室だった。靴音が鳴るのを避け、しかし足が汚れないように履いてきた靴下で夜の校舎を駆け抜け、そろそろと移動した。

窓から入る事も考えたが、ここは扉から入ろうと考えた。校則違反をしている点を除けば別に自分はやましい訳ではないし、校則違反は相手も同じ事だと考えれば対等な態度で然るべきだと考えた。

そう、レオナルドはここへ、人に会う目的があって来た。


レオナルドは丁寧にノックまでしたが、これは賭けるまでも無く、当然返答はないと考えていた。と同時に、部屋の中の相手が咄嗟に息を潜めた気配も感じていた。

たっぷりとした時間を空けて、扉をするりと開ける。


「こんばんわ、良い夜だね。」

レオナルドは美術室の一角に声を投げかける。その闇は、どうにかやり過ごせないかと画策しているようだったが、声をかけたのがレオナルドと気付き、驚きの声と共に、ランタンに灯を点した。


「レオナルド君…?」



弱弱しく尋ねるバロック少年がもつランタンが、不安を映したように震えていた。

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