#12 目眩と耳鳴り

 触れた感じ、僕が手のひらを広げたくらいの大きさの手鏡。

 少し取り出してから念のため裏側も触ってみる。

 ザラザラとした盛り上がりがあって、彫刻的な装飾がついているみたい。

 これなら鏡を見ちゃうことなく鏡面を伏せたまま取り出すことができそうだ。


「もう目を開けても平気かな」


 手鏡の裏側が月の光に照らされている。

 高級そうな黒い手鏡。

 猫のレリーフが彫られていて、良いお値段つきそうな印象も受ける。


「この図案、お洒落なワインのラベル絵みたい」


「さて、これからどうし……」


 全てを言い切る前に、僕は口を閉じた。

 声が聞こえたからだ。

 まだ遠いけれど、アクアツアーのトンネルの方。

 誰かがこっちのエリアに来ているのか?


「今の日本語じゃないっぽいよね?」


 ヤツラか。

 急いで隠れないと。

 とりあえずこの鏡を壊すとか調べるとかは後回しだ。

 トワさんは僕と目を合わせるとゴールドラッシュへの裏側へと走り出す。

 僕も手鏡を急いでリュックへとしまい、彼女のあとを追いかけた。


 裏側から見るサーキットの建物はまるでグランドキャニオンを思わせるデザイン。

 こちら側は出口のようでトロッコ型のカートが無造作にいくつか並んでいる。

 そのカートがギリギリすれ違えるかなってくらいの道幅が三ルート。

 先を走っていたトワさんが駆け込んだ真ん中の道へ僕も急ぐ。

 だがすぐに追いついた……灯りを点けずに進んでいるからだ。

 通路上にもところどころトロッコが停まっている。


「これ、今でも走ったら便利なのにね」


「でも、きっと音がするよ」


 全て平地ならともかく、エリア間の高低差にはかえって邪魔だろうし、猿の電車の線路も走れないだろうし。


 僕らはまた手をつなぎ、音を立てないようにゆっくりと歩き出した。

 彼女が何かにつまずきそうになるたび僕の右手が引っ張られる。

 もしも出張がなかったら、もしも一緒に来ていたなら、僕がこうやって握りしめている手はあいつの手だったのかな……。


「風悟さん……あたし……」


 彼女がまた僕にぎゅっとしがみついてくる。

 今度はさっきまでのように腕につかまるのとはちょっと違う。

 もっと全身を投げ出してきたような感じ。

 彼女の香りと、柔らかさとが僕の腕の中にふわりと存在感を増す。

 視覚が閉ざされている分、他の五感が敏感になる……これ、ちょっと諸事情で腰が退ける……とか言っている場合じゃなさそうだ。

 彼女の呼吸が浅くなっている。

 様子が変だ。

 そして膝から崩れ落ちようとする……のを慌てて抱きかかえる。


「と、トワさん?」


「……なんか……耳鳴り……して……」


 苦しさの中、状況をなんとか伝えようとするその声は震えている。

 耳鳴り……もしかして僕の目眩と同じ類のアレか?

 そういえばそもそもここの内側に入りたくなかったのって、僕が嫌な気配を感じていたんだった。


 とにかく具合悪そうだし、こういう時は横にしてあげた方がいいのかなと手探りで地面をまさぐる。

 通路から少しひっこんだ窪みを見つけるが、そこはゴツゴツしている。

 せめてもとタオルを敷いて、彼女を横に寝かせた。

 夏じゃなく他の季節なら、もう少し下に敷けるような服でもあったんだろうけど。


 うわ。

 そんな最悪のタイミングで僕も目眩。

 続けて音が近づいて来るのが聞こえた。

 人の足音ではない……ある意味ヤツラの方がいくぶんかマシかもしれないこの音、そしてこの臭い。

 獣の……フェンスの所で遭ったアレか?

 ここに居ちゃいけない気がする。


「トワさん、おんぶするよ」


 背負っていたリュックをお腹側に担ぎなおし、彼女の手を僕の首へと誘導する。


「しがみつける?」


 僕の耳元で頭がコクンと動いた。

 意識は残っている。

 大丈夫だ。

 この場所を離れれば彼女の状態も良くなるかもしれない……ん?


 僕の中で何かが閃いた。

 トワさんを担ぎ上げてから、獣の出す音と臭いとが遠ざかったような気がしたのだ。

 もしかして何か法則があるのか?

 共通点……例えば……姿勢を低くする、とか。

 試しに頭を地面に近づけてみると、気配がまた近づいて来る。

 僕は慌てて立ち上がる……遠ざかって行く。

 やっぱり。


 相手の正体は得体が知れないままだけど、何らかのルールで近づいてくるのであれば対応もしやすい。

 トワさんをしっかりと背負い直して立ち上がると、獣の気配はもう消えていた。

 背中のトワさんはぐったりとしたままだし、目眩も相変わらずだけど、脅威を一つクリアしたということで気持ちが前向きになる。


 僕は背負った彼女を揺らさないように気をつけながら歩きだした。

 アクアツアーで悲鳴を上げてたヤツラは、もうこっちのエリアに到着しているのだろうか。

 悲鳴の理由はやっぱりあの白い手なのかな。

 となると、ヤツラとはまた違ったオカルト勢力がここに居るってことなのか?

 敵対勢力が増えるのは望ましいことではない。

 そいつらがお互いに協力しあってなくとも。

 それにしてもトリーのやつ、どこに隠れているんだよ。

 あいつにだけ届けられるメッセージとかあればいいんだけどな……。


 暗闇の中、ずっと壁伝いに歩き続ける。

 今度は音を立てないよう、壁の確認はマグライトではなく軍手をはめた手で。

 途中、いくつか分岐している道もあったが、そこは勘で道を選んで進んだ。

 ここはホラーメイズではないんだ。

 そこまで迷うような設計にはなっていないと考えたから。

 スピードは遅くともいい。

 トワさんを揺らさないよう、落とさないよう、しっかりと進むだけ。


「……風悟さん……」


 トワさんの小さな声が背中から聞こえた。


「うん」


「……もうそろそろ……自分で歩けるかも」


「無理すんなよ。向こう、少し明るくなっている。きっと入り口の方まで抜けてきたんだと思う」


「風悟さん……ありがと……足手まといになっちゃってるね」


 そんな事言われて「そうだね」とか言えるわけないじゃないか。

 まったく変にしおらしいと調子狂うな。


「いや、トワさんがいろいろ詳しくて助かってるよ。こちらこそ、ありがとな」


「風悟さんがわざわざ迎えに来てくれた彼女、幸せ者だよね」


 あいつ、そんな風に考えてくれるかな。

 でもあの手紙は僕が来ることをプリーズしてる感じだったし、喜んではくれるのかな。

 トリーの横顔を思い出す。

 僕と顔を合わせていない時は、いつもなんか思い詰めている感じがあった。

 あいつ、いっつもなんでそんなに我慢しているんだろう、みたいな印象があったな。

 感情を表にがなかなか出さないし、禁欲的な修行僧のイメージすらある。


「幸せ……なのかなぁ。そうだといいけど」


 それにしても本当にどこに居るんだろ。

 電波がつながらないという状況は、本当に待ち合わせが困難だ。

 昔の人は携帯なんて持ってなかったのに、どうやって待ち合わせしてたんだろう。

 あいつとは不思議といつも一緒に居たから、言いたいことがあったらすぐに声をかけられる距離に居たから、伝えるための工夫なんて何にもしていなかった。

 それでも僕らは別に付き合っているわけではないし……そう自分に言い聞かせ続けていたけれど、傍から見たらそういう距離感じゃないんだろうな。


 肩をポンポンと叩かれて、僕は立ち止まっていることに気付く。


「自分の足で歩いてみる」


 トワさんの声からはけっこう回復している感じが伝わってきた。

 僕は静かに膝をつき、彼女の足を地面へと着ける。

 トントン、と軽く地面を蹴る音。


「うん。いけそう」


「よし。じゃあ入り口付近から外の様子を見てみようか」


「はーい」


 その返事と共に僕の右手に何か固いモノがゴンと当たる。


「痛っ」


「え、あれ? あたし、何持ってるんだろ」


 トワさんが手に持っている何かを入り口の明るさの方へかざす。

 淡い月明かりの照らす屋外を背景に黒いシルエットがくっきりと浮かび上がる。

 それは人形の腕なんかではなく、どう見ても頭蓋骨だった。


「ひっ」


 思わず大きな声をあげそうになるトワさんの口に手を伸ばしてとっさに口を塞ぐ。

 もちろん、彼女も必死に声が出るのをこらえた様子ではあるけれど……二人して入り口の方をじっと見つめる。

 人が近づいてくる気配はない。


「トワさん、それどうしたの?」


「あたしもわかんないよ。気が付いたら持ってたの……でもこれって……黄金バーガーもらえる黄金の髑髏ってやつじゃないの?」


 確かに心なしか光沢があるような気がする。


「トワさんの食い意地、見せてもらいました」


「そ、そんなんじゃ……ないつもりですけれど……それよりその軍手、すごく汚れてない? あたし右手側に居て良かった。左手側だったら今頃ガングロにされていたとこ!」


「ごめん……なんかとっさに……つい」


「じゃあ、代わりにこれ持ってて。黄金バーガーもらえないとは思うけど」


「いやいや。お店やってたら逆に怖いって」


 お互い、軽口を叩けるくらいには回復したようだ。

 目眩ももうほとんど感じない。

 黄金の髑髏かもしれないソレも僕はリュックへと放り込む。


 耳を澄ましてみるが、相変わらず風が草を撫でる音以外には何も聞こえない。

 次はどこへ行こうか。

 ヤツラが来ているかもしれない状況を考えると、ドリームキャッチャーから丸見えな場所を通らないとたどり着けないホラーメイズはなんとなく危険性が高い気がする。

 それに開拓時代から向こう側のシュバルツシルトへは抜けられそうもないんだし。


「……ね、そうは言ってもゾンビハウスに行くのが一番良い気がするんだけど、どう?」


「同じこと考えてたよ。だってアクアツアー、もう一回通りたい?」


 トワさんは首を左右に激しく振った。

 やっぱりゾンビハウスしかないだろう……それはわかっている。

 でもゾンビハウスという名前はどうにも……。


「ゾンビロードで本物のゾンビ出てきたらちょっと嫌だなぁ」


「風悟さん、男性なんですから先に噛まれてね」


「そこはレディファーストなんじゃないの?」


「ゾンビ化したあたしに噛まれたいって?」


「うーん。勝てる気は全くしない」


 小声ではあったけれど、精いっぱいくだらない話をする。

 そうでもしないとすり減った神経がぶつんと切れてしまいそうで。

 一人じゃなくて良かったと、今は本気で思っている。


「あれがゾンビハウスね」


 ああ。

 何度聞いても近づく気が萎えるアトラクション名だな。

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