第3話 前門の虎、後門の死

 眠気を増す昼休み。活気と倦怠感を両立した教室に、それは唐突にやってきた。

 机を挟んで向かいには、ぼんやりと携帯をいじる修。それを眺めながら、紙パックのジュースを吸い上げている時の事だった。

 ばん、と勢いよく教室の扉を開け、息を切らした見知らぬ男子生徒が飛び込んできたのだ。学年ごとに色分けされた上履きの色を見るに、どうやらひとつ上の2年生らしい。

 目鼻立ちのはっきりした、スポーツでもやっていそうな印象を受ける好漢だ。ルッキズムをものともせず生きていそうで正直いけ好かない。

「悪い、見知らぬ後輩にいきなりこんなことを頼むのもどうかと思うんだが……匿ってくれ!」

 そんな彼の放った言葉は唐突にすぎた。教室のざわめきがにわかに大きくなる。流れる感情は、好奇と困惑。

「……薫、あれ何かわかる?」

「皆目見当もつかん。お前は」

「いやいや。俺があんな意味不明な人の事、分かると思うの?」

「お前の意味不明仲間とかじゃないのか」

「意味不明仲間って何さ!? 俺まで意味不明ってことにしないでよ」

 そんな混沌とした喧騒の中、誰が言ったのか当然の疑問が声となって浮かぶ。

『あの、先輩……ですよね? 一体、どういう事情が?』

「悪い、後で説明する。今はただ、追っ手をごまかしてくれるだけでいいんだ!」

 先輩は慌てた様子でそれだけ言うと、掃除用具入れの中に身を滑り込ませた。

 クラス中が状況を把握出来ていない中、昨日の伊羽名先輩の言葉がリフレインする。果たして俺は、身をもって何を知ることになるのか。

 戦々恐々としている俺の耳に、またしても教室の扉が荒く開かれた音が届く。

「邪魔するぞ、1年! 悪ぃな、せっかくの昼休みに」

 教室の前を見ると、殺気立った2年生が5人ほど教室に踏み入り、そのうち1人が教卓の前に立っていた。

 あれが、先輩の言っていた追っ手とやらだろう。

「こっちの方に、見た目だけはいいクズの男が逃げてきたと思う。二王子にのうじって奴なんだが心当たりはないか? 捕まえるのにお前らの手を借りたい」

 ……バカらしい。二王子というらしいあの先輩が何をやったのかは知らないが、俺たちは結局部外者に過ぎない。手を貸す道理など無いし、触らぬ神に祟りなしだ。

 最初こそ興味を持っていたクラスの面々もついていけないと判断したのか、喧騒は収まりつつあった。

 しかし、追っ手であるところの2年生のリーダーと思しき先輩は、それでも俺たちに語りかけ続ける。

「これは正義のための戦いだ! 俺たちと共に工業科の平和を守って欲しい」

『あの〜……その二王子って人、一体何をやらかしたんですか?』

 またしても教室のどこかから疑問の声が上がる。要らんことを聞くやつだ。こういうのは興味を持った時点で負けなのだ。それを知っているからこそ、修も既に意識を携帯に戻していた。

「よくぞ聞いてくれた。あいつは──1年工業科女子4名の内、3人とデートの約束を取り付けているッ──!!」

 空気が凍りついた。今まで自分は静寂という言葉の意味を知らなかったのではないかと思えてしまうほどに。

 しかしそれも一瞬。その一瞬が過ぎ去った後には、教室のあらゆる場所で囁くような話し声が生まれ始めた。

『1年女子の4分の3を……?』

『おいおい、そんな事ありえるかよ』

『だが確かに顔は良かったな』

『顔がいいってだけで許せないと思わないか?』

『……1年女子をデートに誘ったって件も、本当かどうかはふんじばって確認すればいいんじゃないか?』

『そうだ、処刑だ! 奴を裁け!』

『奴に裁きを!』

『『『裁きを!』』』

 クラス編成からわずか三日目にしてこの団結力。結束のコツは共通の敵を作ることらしい。

 というか何より、状況に適応するのが早すぎる。ここに来てたった3日の1年生がこのザマなのだ、工業科の動物園扱いは妥当であると言えるだろう。

「裁きを!」

「あ、薫も一応そっち側なんだね」

「当たり前だろ、あいつは俺たちの幸福を独占しようとしてるんだぞ!? むしろお前は粛清側に回らなくていいのか」

「う〜ん……その話が本当だとしたらあの先輩のことは縊り殺さなきゃいけないんだけど」

「だけど、なんだ?」

「別に俺がどうこうしなくても、すぐに死ぬだろうしなぁ」

「あー」

 世の中には2種類の人間が存在する。幸福な奴を不幸にしたい人間と、幸福な奴に不幸になって欲しい人間だ。

 見たところ修は前者で、逆にクラスの大半が後者であるらしい。

 ちなみに俺はどちらかというと修と同じタイプだ。もっとも、自ら手を下したいという欲求も当然持ち合わせているが。

 視界の端では、クラスメイト達が掃除用具入れのロッカーから二王子先輩を叩き出していた。

『オラァ! 出て来やがれクズ野郎!』

『ヒャッハー! 消えろゴミが!』

『こっから生きて帰れると思うんじゃねえぞセンパイ!』

「うわぁ! みんな協力してくれるんじゃなかったのか!?」

『ンなこと一言たりとも言ってねぇ! 死に晒せオラァ!』

 そんな光景を見て、心の底から修に同意する。

「……確かにありゃ長くは持たないな。いいザマだ」

「でしょ。ま、俺たちは楽しく眺めてようよ」

 そんな心持ちで飲み終わった紙パックを握りつぶすと同時、不意に背筋に怖気が走った。修も同様の感覚を感じ取ったらしく、2人同時に同じ方向を向く。

 俺たちのクラスメイトであるところの1年生に囲まれた二王子先輩と目が合った。先輩はわざとらしく声を張り上げ、俺たちの方を指さす。

「君たち! たしか昨日伊羽名先輩に部活に勧誘されて追い回されてたよな!?」

 ……何を言いたいのか分からない。彼を囲むクラスメイトたちもキョトンとしている。

 しかし彼の言葉はそこで終わらないらしく、改めて口を開いた。

「そう、3年生工業科にして普通科のトップにも立てるほどの成績優秀者でありとんでもない美少女であるところの伊羽名理宇先輩に大層気にいられてるらしいじゃないか!!」

『『『奴らをぶっ殺せぇぇぇぇえええ!!!』』』

 そんな怒号とともに、あらゆる角度から刃を全て出したカッターやコンパス、果てはバタフライナイフなんかの危険物が飛来する。

「喰らうかよ……!」

「あっぶな! 本気で殺す気だったよね!?」

 なんとか身を投げ出して回避に成功する。

 野郎、余計なこと言いやがって。やっぱりこの先輩だけは俺の手でトドメを刺してやる……!

「ちげえ、勧誘されてたのは俺じゃなくてこっちの富塚修って奴だけだ!」

「いやいや! 気に入られてたのは御幸薫の方で俺はとばっちりを食らっただけだよ!」

 こいつ、俺を犠牲にして自分だけ助かる気だ。何て性格の悪い奴だ!

『黙ってろ、事情は拷問の後処刑してから聞いてやる』

「そこまでするならもう事情を聞く気はないって言っちゃっていいんじゃないかな!?」

 そんなこんなでいつしか壁際まで追い詰められた俺の視界の隅に、二王子先輩の姿が入った。

「おい待てあの先輩逃げる気だ、俺たちに構ってる場合じゃないんじゃないか!」

『何だと!?』

 と、クラスの注意がそちらへ逸れた隙に、俺たちも教室から脱出する。

『何……ってテメェらも逃げんじゃねえ!』

『というかあいつらって確か、初日に遅刻してきた連中だよな……』

『……しかも駅で痴漢をしてて遅れたとかいう……』

『なんでそんな奴らがッ……!』

 廊下を並走する俺と修の背後で、殺気が膨れ上がった気配がした。それにしても、一昨日から全ての行動が裏目に出てるような気がする。

 そろそろ本格的に、自分の幸せを追い求めるより他人を不幸に陥れる方向性に転換するべきかもしれないと、背後の怒号を聞きながら考えた。



「いい、薫? クラスの連中は人数が多いから逃げに徹すること。ただしあの二王子とかいう先輩を見つけたら……」

「全力でブチのめせ、と」

「そ、よく出来ました。っと、こっちにも5人チームいたよ」

「おう、じゃあこっちだ」

 改めてこうして駆け回ると校舎は思いのほか広く、鬼ごっこ紛いの生存競争の舞台としては十分すぎるほどだった。

 この学校は特別教室棟を挟んで進学科棟と工業科棟に分かれており、今俺たちは特別教室棟の1階、過剰としか思えない数の自販機の前を駆けていた。

 工業科棟にいる間は全くと言っていいほど女子の姿を見ることは無かったが、中間の特別教室棟にはそれなりの数の女子が歩いていた。ちなみに、その全員が例外なく俺たちとそれを追う暴徒の姿に奇異の目を向けてくる。

 その暴徒たち──すなわち俺たちのクラスメイトは、追っ手側である2年生の指示があったのか1チーム5から6人ほどのチームで俺たちを追ってきているらしい。

 しかし、昨日の伊羽名先輩の指示を受けたメイ同の時ほど追い詰められている感覚もない辺り、あの人がどれだけ上手だったのかが伺い知れる。

 もっとも、昨日は俺の青春がかかっていただけなのに比べ、今はリアルに命がかかっているのだから難易度設定としてはバランスが取れていると言えなくもない……のだろうか。

「……ストップ、こっちにも5人」

「ん」 

 正面から歩いてくる敵を見つけ、柱の影に身を隠す。

 息を潜めていると、通り越す連中の話し声がうっすらと聞こえてきた。

『それ…………まさか……に……そろばん石……』

『重石も……、拷問…………楽しみだ……』

 ……やばい、変な汗が出てきた。

「……薫、そろばん石って知ってる?」

 そんな問い口にする修の額にも、脂汗が浮かんでいた。

「……見たことはないな。出来ればこの先もお目にかかることなく生きていたいが」

 どこからか敵が襲いかかってくるような気がして、辺りを見渡す。

 ──と、先程教室で見た姿を認める。

 二王子先輩。つまり、俺たちの最大の敵であり打倒すべき悪の姿だ。

 それを認識した瞬間、身体は勝手に動きだしていた。柱の影から飛び出し、右拳を握り固める。

「世の為に死ねェェェ!!!」

「っ!? 危なあっ!」

 クソ、外したか! 意識外から放つ全力の一撃を躱すとは、こいつ、只者じゃない……!

「まっ、待て。俺たちが争ってもどうにもならないだろ! 今は俺たちで協力してこの状況をくぐり抜けるべきだ!」

「協力ってんなら、テメェの死体は囮にしてやるからとっととくたばれ……!」

「薫、これ使って!」

 振り向くと、どこから持ってきたのか、修がデッキブラシを俺に差し出してきた。

「サンキュー修、これで奴を仕留めてやる! おぉおおおらぁっ!」

「うおおぉお! 話を聞いてくれないのか君は!?」

「くそ、これでも仕留めきれないか……大人しく死んで俺らに協力しやがれ!」

「悪いがこっちは命を狙われるのにも慣れてるもんでね……君らみたいな1年坊にやられるほどヤワじゃないんだよ」

「ちょこまかと、往生際が悪い! 修、お前も──って修?」

 いつの間にか、視界の中から修の姿が消え去っている。

 ……あの野郎、1人で逃げやがった。

『いたぞ、連中だ! 都合のいいことに痴漢野郎と下級生に手を出すクズが一緒に居やがる!』

『対象、二王子と御幸を補足。別働隊には富塚を探せと伝えろ!』

『さぁて、お楽しみの時間だぜ。はっはははは』

「御幸くん、諦めて俺と協力しないとヤバいんじゃないか!? 俺のことが気に入らないのはわかるけど、ここは──」

「──男には、退けない時ってのがあるんだよ」

「……え?」

「この手でテメェを殺すまで俺は退けねえ、全員まとめて相手してやるからかかって来やがれェェェ!」

『よくぞ言った、逃げんじゃねぇぞカス共……!』

「いや俺は何も言ってないんだけど!?」

『問答無用だァあああ』

『テメェが生きてるだけで不幸になる人間がいるんだよ……!』

『アンタに少しでも人情が残ってるなら今すぐ死にやがれェ!』

「コイツら誰一人として話が通じない……! 畜生が、何がなんでも生き残ってやる──!」

「おおォォォォォオオオッ!!」

 空間を埋め尽くす殺意に負けないように雄叫びをあげる俺を、進学科の連中が冷たい目で見ているのが肌で感じられた。



*



「えー、初めまして。今日からこのクラスで歴史の授業を担当させて頂く倉嶋くらしまです、よろしくお願いします」

『…………』

 教壇の上でそう言う初老の教師の言葉を聞き、途切れそうな意識を何とかつなぎ止めながら、言葉の意味を咀嚼する。

「……えっと、さっきから気になっている事があって。自分がこのクラスで初めて授業をするから、色々とわかっていない、というか……このクラスにとってはこれが普通なのかもしれないんですが」

『…………』

 倉嶋と名乗った先生の顔に、にわかに不安の表情が浮かんだ気がした。

「どうして皆さん、そんなにボロボロになっているんですか……?」

『…………』

 こんな、明らかに異常だと分かるような状況を目にしてなお自分が間違っている可能性を考慮できるこの先生は、きっととてもいい人なのだろう。

『…………多分、そのうち普通になっていくと思います』

 誰かが言った言葉を最後に、俺の意識は全身の痛みを受け入れ闇へと落ちていった。



*



「という訳で、先輩にはクラスの連中の誤解を解いて欲しい」

 放課後、卓球部室にて。そんな言葉を聞いた伊羽名先輩は、表情で表現しうる限りの最上級の興味を示していた。

「こっちの方にも話は回ってきたけども、今年の1年は早々に元気だねぇ」

 パイプ椅子にふんぞり返り、そう呟く。俺と修はその前に立ち、見下ろす形だ。

「一応確かめておきたいんですけど、これって伊羽名先輩の差し金じゃないですよね?」

 修の言葉に、意表を突かれる。

「差し金……って、どういうことだ?」

「……まあ、俺の妄想に過ぎないんだけど。俺たち、クラスの連中に命を狙われたでしょ?」

 命を狙われた、という表現が比喩でないというのが恐ろしい。

「その原因が俺たちが伊羽名先輩に部活に勧誘されたことである以上、もっとも確実に誤解を解く方法は、伊羽名先輩の口から今回の件について誤解だって言ってもらうことなわけ」

「……」

 伊羽名先輩は、そんな修の言葉に口を挟むことなく聞いていた。

「そして、クラスの連中に命を狙われている俺たちは可及的速やかにそれを先輩に頼まないといけない。で、一刻も早く先輩に会わなきゃいけない俺たちは、ここに来ざるを得ない」

 この先には、きっと聞きたくない、知りたくない真実が続くんだろうなぁ。さすがの俺にも察しがつく。

「昨日の放課後。あの話の流れからして、今この部室にいる俺たちはこの部活に入る意思があるとみなされてもおかしくない」

「……で、俺たちにそういう行動を取らせるために先輩がこの騒動を起こした──って訳か」

「まあ、あくまで俺の想像に過ぎないんだけど」

 そう言って、伊羽名先輩の方を向く。

「あはは。残念だけど、私は今日の騒ぎには無関係だよ。それどころか、入学早々こんな騒ぎを起こすなんて考えてもいなかった。というか昨日、普通の平和と幸せが欲しい、みたいなこと言ってなかったっけ? それで昨日の今日であの騒ぎを起こすってのも凄いなぁ」

「いや、あくまで俺は巻き込まれただけなんだが──」

「にしては積極的に攻撃してたみたいだけど」

「……まあ、強いていえばだな」

「うんうん」

「俺が幸せになる過程で、幸せな他人って邪魔じゃないか」

「……君、本当に工業科ここに向いてるよ」

 この先輩が呆れ顔をしている理由が、全くもって分からなかった。

「要するに、今回の件は偶然で、俺たちはそんな偶然で今ここにいると?」

 修が、ズレた話題を元に戻す。

「当たり前だ。私みたいなか弱い女の子が、あんな暴動に関わっているわけがないだろう?」

「そうやって自分の弱さを誇示するやつが、実は1番危険だったりするんだけどな」

「全く、可愛い後輩だな、こいつめ」

「……」

 ボールペンで腹を突っつかれる俺、楽しげに突っつく先輩、面白そうな視線を送る修。これっていじめじゃないだろうか。

「……それで先輩、誤解を解いてくれる、ってことでいいのか?」

「んー……。別にいいけど──まだ、君たちからはっきりと入部の意志を聞けてないんだよね」

「……言わなきゃですか、それ」

「や、別にいいんだよ、本当に。ただ、素直になれない後輩が可愛すぎて──いざ君たちのクラスメイトの前に立った時に、君たちへの愛を叫んでしまうかもしれないんだけど」

「「入部します!」」

 分かりやすく言い直すと『入部しなければクラスを扇動して俺たちを殺す』という訳だ。まさか命を人質に取られるとは思わなかった。

「ふふ、いい子たちだ。その件については、明日にでも君たちのクラスへと出向いて説明するよ」

 そう言った後、先輩は一息置くと。


「──これからよろしくね、後輩くん達!」


 なんて、とびきりの笑顔で言い放った。

 ……その笑顔の威力たるや、表情だけはあまりに普通の美少女すぎて、これも悪くないかもな、なんて思ってしまう程だった。

 これだから、弱さと可愛さを武器にする人は危ないのだ。

 どうも、俺以上にその笑顔にあてられた様子の修にローキックをねじ込んでから、襟を掴んで引きずり部室をあとにした。

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