端に落つ

川口 暗渠

端に落つ

 三叉路を左に折れて、細い路地に入った。人がすれ違うのに気を使うような、細い道だ。

 車は通れないし、自転車も歓迎されそうにない。

 背広にカバンを手に下げて歩いてるが、場違いな感は否めない。仕事で来ているのだからある程度は仕方のないことだが、この仕事でこのような場所に来ることがあまりいい傾向でないことも、経験を重ねてきた中でなんとなくわかってきた。今回の案件もあまり気が進まなかったが、割り振られた以上よほどのことがない限り投げ出すわけにはいかない。こういう妙な真面目さが、自分の人生を締め付けている気がする。

 もっと楽に生きられないものか。

 最近、こんなことばかり考えるようになった。身体ばかり大きくなったのに楽する方法を知ってしまったせいで、やりがいだとか情熱だとか、世間体から垣間見える感情がすっかり失われてしまったように思う。

 道を進む。足元になんとか見えていたアスファルトがボロボロになって、いよいよ土の茶色が多くなってくる。考え事をしていたせいで道を全く意識していなかったが、事前に調べたときは一本道だったから、問題はないはずだ。すれ違うものもなく、一度振り返ったときに三毛の猫が横切ったくらいだった。付いていた鈴の音で気づいたが、それがなければ間違いなく気づかなかっただろう。そんな気づかないこと、気づけなかったことばかりで埋まった人生は、ある意味で幸せなのかもしれない。気づいてしまった方が、重みになることもある。少なからず。

 15分ほど歩いて、目的地に着いた。歩みを止めると汗が出るかと思ったが、不思議とそんなことはなかった。思ったよりも、風通しがいい。狭い分、流速が早いのかもしれない。文系のせいにして、詳しい思考は諦めた。

 目の前には、煙突のそびえる古い浴場があった。あまり大きくはないが、良く言えば味のある、悪く言えばオンボロの、決して綺麗とは言えない見た目の建物だ。クリーム色のモルタルのようなもので固められた壁から、ところどころレンガの赤茶が見えている。仕事でなければ、まず来ないだろう。

 青と赤の暖簾が、風で少し揺れている。要件は決まっているが、男湯の入り口から入るのは少し気が引ける。困っていると、後ろから物音が聞こえた。ちょうど良かったと振り返ったが、黒い猫がこちらを見ているだけだった。こちらは、首輪もなにもつけていない。ため息ともとれそうな息を吐いて向き直ると、女湯の暖簾の下から老人男性の顔がのぞいている。危うく声を上げそうになった。反射的に、挨拶を交わす。

「こんにちは。すみません、入りに来たわけではないのですが」

 老人は急に歯を出して、手招きをした。笑っている。と、思う。

「どうぞ、こっちから」

 落ち着いた声だ。

「そちら、女湯では?」

「入るんじゃないんだろ?」

 自分の中で妙に納得したが、少し苦笑しながら従った。不思議と、嫌な感じはしない。いつもとはなにか、違った感覚だった。

 女湯の暖簾に手をかけるのは、これが初めてだ。おそらく最後だとも思う。

 暖簾をくぐるときほんの少しだけ、今までとは違う世界に入った気がした。変な意味では決してない。自分の人生にとって必要な少しの冒険を、いくらかぶりに、ただし微かに、ふと思い出した気がした。


 入り口に入って、下駄箱に靴を入れた。

 老人が男湯の方に移ったので、札を取って、番台をまたぐ。またいでから靴を入れるべきだったか。

「靴、持ってきた方がいいですか?」

「いや、大丈夫。もう今日誰も来ないから」

 決めつけてしまっていいのかとも思ったが、大人しく従うことにした。男湯の脱衣所の扉をあけて、普段は客が入れない部屋に通される。「田舎の実家」という言葉がぴったりの、縁側のついた畳の部屋だった。もれなく風鈴も付いているが、蚊取り線香はみたところまだない。日中はやや汗ばむが、朝晩はまだ肌寒い。初夏と言えるか、微妙な季節だ。

「今年は昨日つけたんだ。ここは風が通るから」

 老人が言うと、返事をするように鈴の音が鳴った。会話でもしているようだ。

「良い音ですね。南部ですか?」

「お、そうだよそう。知ってるのか」

「ええ。大切にされてるんですね」

「ああ・・・まぁしなくたってな、いつまでも壊れないんだ、こいつは。そういうの、結構あるだろ?」

 老人は初めに見せたのと同じ笑顔を浮かべて、風鈴を指先で軽くつついた。

「まあ座ってゆっくりして」

 手で軽く促されて、部屋の中央にある机に老人と向かい合うように正座で座る。名刺は、まだ渡していない。手紙で何回かやり取りはしていたが、面と向かって会うのはこれが初めてだった。

 老人は、先代から続くこの銭湯の支配人だ。既婚だが、数年前に婚約者を亡くし、以来この銭湯を一人で切り盛りしている。話だけ聞いたときは自分の仕事からすると厄介な性格を想像していたが、交わした文面も非常に落ち着いていて、丁寧な文字と文体が非常に印象に残った。実際に会ってみても、この人だというのがなんとなく伝わってくる。全体的な雰囲気だが、なんというか、スキがない。

「して、この場所を売れって?」

 まっすぐ、こちらを見ている。威圧感とは、また少し違う。対話を拒んでいない。そんな印象だ。

「はい」

「うん。ここだわ。ここ残しちゃ、そりゃなんも進まないわ」

 老人は見ていた要項の紙を置いて、裏向きにそっと置いた。折り目に沿って、中央が少し浮いている。外を見つめて、動かない。

 やや間ができた。

 風鈴が鳴ってもおかしくないと思ったが、静かなままだ。ずっと空気に触れていると、そんな真似ができるようになるのかもしれない。自分には、読めたものではない。

「決めてたんだがな・・・」

 口を開いた老人は、額に手をやって、少し眉をあげた。迷っているように見える。実際そうなのだろう。この仕事をしていて、自分の中で1番辛いのがこの時間だ。目の前の老人についても、それは例外ではなかった。まして、自分ひとりの土地ではない。少なくとも、人の生きるよりは長い間活かされてきた土地だ。それを考えないような人柄でないことは、これまでの雰囲気から十分に感じる。

 老人が、紙を手に取った。

「いや、いいんだ。時間を取らせてしまって申し訳ない」

 初めに見せた笑顔をほんの一瞬だけ見せ、紙を表にして置いてから、深く頭を下げた。

「この場所、お任せします」

 風が吹いた気がしたが、結局風鈴は最後まで鳴らなかった。



 帰り際に風呂に入るかと誘われたが、さすがに断った。今思えば、ある意味で失礼だったかもしれない。「入りそびれた」という表現がしっくりくるあたり、自分に未練があるような気もする。

 老人のもとを訪れてから何日か経って、書類が郵送されてきた。相変わらず丁寧な字だったが、1番下に紙が1枚だけ増えていた。


 同情を誘うわけではありませんが、ここがなくなる前に是非一度入りにいらしてください。

 お待ちしています。


 小さく息をはいた。

 やさしさとか愛だとかそういうものとはまた違った、ある種人間の諦めのようなものに包まれ、また見つめられている。

 書類を一通り確認して、手続きに入る。不備はなかったが、老人の元へ行くことにした。



 普段仕事をしている分には、プライベートで客と関わることはまずない。基本的に客とぶつかり合うような仕事をしていて、客にとっては顔も見たくないであろうことも少なくないからだ。恨まれて然る職業である。

 ただ、この職に就いて、ある意味で自分の優しさを知ったといっていい。ぶつかってくる他人を受け止め、自分を殺し、なるべく穏便な方向へそっと流す。冷静になってみると、自分がものすごく優しい人間に見えてくる。もしかするとそれは、他人、もとい自分自身にさえ関心が薄いだけなのかもしれない。誰にとってのなんなのか、わかったものではない。

 そこに住んでいたわけでもないし、関わりがあったわけでもないが、それでもなお自分に近い土地というものがあるのかもしれない。住まう人々、動植物、風景がどこか懐かしいような、そんな場所は確かにある。

 この平野に横たわる台地の淵から滲み出る細い暗渠と、その先でめくられる土地と暮らしの1ページが、自分にとって無関係だとは思えなかった。思えば、わずかそれだけのこと。


 三叉路を左に折れて、細い路地に入った。人がすれ違うのに気を使うような、細い道だ。

 車は通れないし、自転車も歓迎されそうにない。

 今この路地で持っている風呂の用具は、しばらくすると、おそらく意味をなさなくなる。

 側溝の淵の苔も、少し傾いた街灯も、やがては路地すら消えていく。

 土地は新しく生まれ変わって、痕跡もまばらに未来へ向かう。

 ここにあった時間はきっとどこかへ持ち出されて、薄まりながらも残っていき、思い出す人間がいなくなったとき、失われる。

 その様は長いようで一瞬の、人の表情にも似た移ろいだ。

 老人の笑顔が、頭に浮かぶ。

 やはり自分には、この仕事は向いていないのかもしれない。

 残したいと思うものが、できてしまった。

 煙突が見えてくる。猫は見つからないが、そのうち現れるだろう。直感を感じる場所は、それだけでおもしろい。

 建物に近づくと、風鈴の音が聞こえてきた。老人が、暖簾を整えている。こちらに気づいて、笑顔を見せた。こちらも、自然と笑顔になる。

 青い暖簾をくぐった。

 自分自身が、また変わる気がした。

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