第10話エリスの執念
来た。まさかわたしが生きている間に全世界を巻き込んだ戦争騒ぎが起こるだなんて。これでおじいちゃんの無念が晴らせるわ。森家の汚名も返上よ。
世間のやつら。おじいちゃんのことを『森鴎外はビタミンの発見を握りつぶした大悪党だ』なんて糾弾するんだから。
なによ。おじいちゃんは悪くないわ。あれはおじいちゃんのせいじゃないんだから。おじいちゃんは脚気の研究に莫大な大金をつぎ込んだのよ。それがどれだけ医学の発展につながったことか。
そもそも、おじいちゃんがビタミンが豊富な玄米や麦を兵士に食べさせずに白米ばかり食べさせたのが諸悪の根源だなんて風潮だけれどそんなの違うんだから。そういう事を言うのは自然科学のことにしか興味がないようなサイエンティスト気取りのたわごとよ。
あの時代に白米が兵士にとってどれだけのごちそうだったかっていう人文科学方面からのアプローチをまるで考えていないんだから。命を懸けて戦場で戦っている兵隊さんに『貧乏人は麦を食え』なんて言えると思う?
今日死ぬかもしれない兵士さんには当時の最高のごちそうである白米を食べさすしかないじゃない。そこのところを大衆はまるでわかってやしないんだから。
だいたい、おじいちゃんの軍医としての経歴と作家としての偉業までごっちゃにしてほしくないんだから。おじいちゃんの文豪としての業績は疑いようがないんだから。
それなのに、『ああ森鴎外ね。自分の留学先で踊り子さんを手籠めにしてはらませた上に、母子供ともどもポイ捨てした鬼畜作家ね』なんてことが一般認識になっているんだから。
そのことが世間に知れ渡っていること自体、おじいちゃんの作家としての偉大さを示しているじゃない。おじいちゃんの『舞姫』が高校の教科書に採用されるくらいの作品だからこそ、そんな陰口が叩かれるのよ。
これが、作家として箸にも棒にもかからないダメダメ作家だったらこう話題にはならないのよ。もちろん、軍人として三下だったとしてもおなじことね。
おじいちゃんは作家としてもすばらしくて、そのうえ軍人としても優秀だったからこそこうして悪名が広まっちゃったのよ。でも、見てなさい。こうして世界が戦争騒ぎになったからこそ森家の名誉を挽回する絶好の好機だわ。
戦時中に蔓延する疫病騒ぎ。まさにおじいちゃんの時と同じシチュエーションじゃない。みてなさい大衆ども。偉大な文豪にして軍人である森鴎外の孫娘である森エリスがこの難局を解決して見せるんだから。
おじいちゃんの遺志を継いでわたしは防衛医大に進学して、教授にまで上り詰めたんだから。『え? 森鴎外の孫娘さんなの? それじゃあ白米をごちそうしてもらおうかな』なんてせせら笑ってた連中を見返して教授になったんだから。
ここで軍医としての名声を獲得してやるんだから。ウイルス騒ぎをわたしが解決してやるわ。勉強ばかりしてきたような灘を卒業して東大医学部卒業、東大医学部助手、東大医学部助教授、東大医学部教授なんて経歴が4行で収まるような連中には負けないんだから。
この非常時の研究にはなによりもまず体力よ。軍人としての教練も積んできた防衛医大の教授こそ災害時の疾病対策にふさわしいのよ。患者を診察している間に自分も発病するようなことにはならないんだから。
戦争騒ぎになったら、戦地に医者が当然のこと派遣されるわ。戦場ではデスクワークばかりしてるような研究室にこもりきりのピペットドクターなんて何の役にも立たないんだから。
見てなさい。わたしたち防衛医大の医者が戦場の兵士を救うのよ。そして、みごとこの難局を乗り切った暁には……回顧録なんてものを執筆するのもいいかもしれないわね。
おじいちゃん譲りのこの文才で歴史に残る傑作を文壇に披露するのも悪くないわ。まあ、おじいちゃんは軍人としてはともかく作家としての業績は疑いようがないからいまさらわたしがどうこうする必要もないんでしょうけれど……
やっぱり才能を持つ人間はそれでもって世の中に貢献する義務があるじゃない。せっかくの文豪としての才能を眠らせておくのは世間に申し訳ないし……わたしの文章が戦後復興の手助けになるのならしないわけにはいかないから。
あの世で見ててねおじいちゃん。わたしがこのウイルス騒ぎを鎮静して見せるわ。そうして森家の家名は偉大な軍人と偉大な作家を生み出したものとして燦然ときらめくのよ。
あたしに死後に墓碑に刻まれた『偉大な軍人と偉大な作家、ここに眠る』なんて碑文を見て後世の人間はこう言ったりするのかしら。『へえ、このお墓には二人埋葬されてるのかな。偉大な軍人にして偉大な作家なんているわけないからな』
それがいることになっちゃうんだなあ。このわたし、森エリスが。さあこうしちゃいられないわ。一刻も早く研究を進展させないと。もう誰にも森家を『医学の
妨害屋』だなんて言わせないんだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます