episode.5
スイセンの香りが消えない中で、閑古鳥の主人は困った顔をしていた。
「気に入ってもらえて嬉しいのですが」
彼は切り出した。私はスカートの裾を触った。
「もうここへ来られない方がよろしいかと」
天球儀が光を受けて鈍い光と影を作り出している。サメの頭蓋骨の犬歯がくっきり見えた。
「でも、ここが好きなのです。町で流れる時間も好きですが、ここでは色々なことが考えられると言いますか、考えがまとまったりするのです。ここにあるものたちを見ていると、落ち着くのです」
彼は文庫本のしおり紐を弄りながら、目を伏せて黙った。私は話題を変えようとした。
「このたび、時計を作ろうと思うんです。あなたの弟さんの」
切り出してしまったと思った。
彼がひどく傷ついた表情をしたのだ。
どう言葉を取り返せばいいかわからず、必死に引き出しを漁る。
「可愛い弟さんですね。元気がよくて職人意識が高くて。あんなに小さいのに」
彼を痛めつける気は全くなかったのに、口から飛び出す言葉はどれも彼を抉っていった。私はどうにか口を閉じた。首が下がる。ステンドグラスの足跡が揺れた。
「僕の弟は立派ですよ」
疲れた様子で彼はつぶやいた。私は黙って頷くしかなった。
この町の境界線が見えない。彼は大きく息を吐いた後、意を決して顔を上げた。
「気が済むまでとは言いましたが、ここへ来ることはお勧めしません」
「何が問題なのでしょう?ごめんなさい、私には何故あなたが恐れられているのかわかりません。ここを恐れる理由が見つからないのです」
この部屋に並べられたものを見つめる。どれもこれも、午後の日差しに落ち着いていた。
「あなたは勘違いしてらっしゃる」
ぼそりと彼はつぶやく。
「僕にはここにいる理由がありますし、ここあるものも異様なもので本来はあるべきじゃない」
「あなたが、時間を食べると言われることに関係しているのですか?」
彼の眉間にぐっとしわが入った。私は困惑のままに言う。
「でも時間なんてみんな食べてるじゃないですか」
弾かれたように彼は顔を上げた。何か言わせたくなってしまったが、私は続けた。
「みんな、他の生き物を捕って、寿命を奪っていきているじゃありませんか。何故あなただけ、時間を食べるなどと疎まれるのかわかりません。みんな同じでしょう?」
彼は口を閉じてじっと床を見た。展示物がこちらの様子を伺っている。きっと私は進んではいけない方へと向かっているのだ。好奇心は猫を殺すが、それでもこらえきれず私は言った。
「私はあなたのことをもっと知りたいのです」
彼は一呼吸後、顔を上げた。泣きそうな顔で数度口を開き、しばらくして諦めたように零した。
「違うのです」
「何がでしょう」
「あなたも、町の方も、必要な分だけ食べるでしょう。僕の場合は、無差別に時間を奪ってしまう。死を招くのです」
小さな沈黙が下りた。私は彼の言葉を待った。
「僕が物体に触ると、無条件でそれの時が止まってしまいます。触れるという条件だけで、僕の意思に関係なく彼らの時間を吸い取ってしまう。有機物であれ無機物であれ、ここにあるものたちのように微動だにしないのです」
「……もしかして、ここに展示されているものはあなたが触れたものですか?」
「そうです。すべて僕が触れて残ってしまった“死”です」
呆気に取られながら、改めて部屋全体を見渡した。
独特な空気感は、死を受け入れてから一切の時を刻んでいないからだったらしい。勿忘草は瓶の中で花を咲かせたまま腐ることはなく、天から降ってきた雪片は瓶の中で溶けることはなかった。
腐食、劣化、崩壊を気にせず、彼らは止まり続けていた。
「だから近づかない方が賢明です。ここがあること自体が異質で、あっていいものではない。何より、万が一僕に当たりでもしたら、あなたの時は止まってしまいます」
彼は口を閉じた。死を迎えた者たちが息をひそめて様子を伺っている。私は深呼吸をした。スイセンの残り香が、脳をくすぐった。
「それは想像以上に、難儀ですね」
「まぁ、そうですね」
おずおずと私は言ってみる。何が正解かわからないが、諦めるよりも口にした方がいい気がした。
「ここがますます気に入ってしまいました。あなたが触っただけで、こんなにもいきいきと形を留めてしまうのですね」
私はブンチョウを振り返る。出会った時のままに、瞳を輝かせていた。
「魔法の手だわ」
「……あなたはひどい人だ」
彼の言葉が刺さった。振り向くと、空虚な瞳と目が合った。
「僕の弟もそういいました。兄さんの魔法の手が好きだと。けれど、僕は殺したくなかった」
空間にひびが入る。見えはしないが、確かに彼がこれまでそっと紡いでいた声色が、空気を軋ませた。
「僕は無差別にものの時間を奪って、延命などしたくはない」
私は歪んだ空気を視線でなぞる。私が見えるものと、彼の感覚は絶対的に違っている。
「ごめんなさい。心無い言葉でした。でもあなたの触ってきたものに対して、愛しいを感じるのです。見世物屋というのが乱暴だと思うほどです」
彼は眉間にしわを寄せたまま、少し首を傾げる。緑色の瞳が、じっとこちらを見ていた。
「乱暴、とはどういうことでしょう」
「あなたを介して彼らが得た死は、凍った湖のように冷たく静かな眠りで、見世物という表現は似合わないです。あなたが生きるために彼らに与えたものは、あなたが思っているよりずっと価値のあるものだと、思うのです」
彼は目を細めた。私は一度口を閉じる。自然と耳を澄ましていたが、日の光だけが時間を知らせる要因であり、何も聞こえはしなかった。歪みは少しずつ修正をして馴染みつつある。
「じゃああなたは、この部屋を何と呼ぶのですか」
「そうですね、例えば博物館という施設に似ています」
「ハクブツカン」
「はい。資料を収集し保存して、展示する場です。独特な空気が流れています。それぞれ展示されているものは止まっているのに、互いが共鳴しあって特別な時間が刻まれているんです。耳を澄ましても聞こえないほど僅かなのですが、死を超えた呼吸をしています。彼らがそこでしか存在できない、唯一の空間なのです」
彼はやはり眉は八の字だったが、どこか力の抜けた安らかな顔で微笑んだ。
「そうですか。それは、素敵なことを聞きました」
彼は柔らかく笑う。
「ここは彼らを弔うためにあります。死を包むための埋葬室なのです」
ほうと息を吐き出した。息は確かに、ステンドグラスへ吸い込まれていった。もうひびはどこにもなかった。
「でもやはり、ここには来ない方がいいです。僕はあなたを殺めたくはない」
「あなたとの距離は違えません。これまでのように、ここへ足を運ばせてほしいのです。こんなにも大切な場所を、私も大事にしたいのです。それに、あなたの体質だけを見て、あなたと接さないのは、なんだかとてももったいないと、思うのです」
だから、と続ける。必死で紡いだ言葉は、ステンドグラスにあたって、弾けて、消えた。
「私はあなたと、お友達になりたいです」
彼は、笑った。やるせなく笑った。
「生きている人とのつながりなんて、いりません。僕には死んでしまったものへの償いと、彼らの時間だけで充分です」
彼は愛用の木製机の木目をなぞった。イタチが、私のことを見計らうようにじっと見つめている。
「でも、それほど気に入ってくださったのであれば、時折赴いてください」
「ありがとうございます」
私は深くおじぎをした。はぁ、と安堵の息をつく。
「では、また来ます」
「はい、またどうぞ」
ガランガランとドアベルの音が背中で響く。
私は、ゆっくりと足を動かした。こんなにも本音で話をしたことはなかった。自分があまりに疲れていることに気づく。
きっと彼は私以上に疲れているに違いない。彼はどれほどのものを諦めてきたのだろう。人との接点をなくすために町を諦め、弟を諦め、それでも疎まれて、生きているという事に不安を覚えながらも、死ぬまでの寿命が来ない。
町の人のこともここの立地も頷けるし、彼の憂いげな雰囲気にも納得がいく。でも今日がないと、私があそこで過ごす明日はなかっただろう。カラスが鳴きながら林へ帰る姿を見ながら、うちに帰ったら私と彼の安らかな眠りを祈るためにカモミールティーを飲もうと思った。
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