episode.2
翌日、私は転居届を提出するために町に出た。
越してきた町は私の憧れた場所であり、心躍るほど快適なところだった。レンガを基調とした町並みに、工芸品や見慣れない品がたくさん作られる町だ。
小さくても活気があるためか町民同士も仲が良く、店番を客に頼んだり物々交換をする姿も見られる。笑い声が絶えない、明るい町だった。
私の家は商店街より南にある、林に近い場所にあった。下草の伸びる緑の道を、必要書類と買い物かごを持って歩いていく。ラッパの音や笑い声が近づくと、わくわくと気持ちが膨らんで、自然と笑みがこぼれるのだ。
役所は町の中心にあった。からりと湿気の少ない町を、意気揚々と歩んでいく。
「やぁお嬢さん。今から役所かい?」
魚屋のおじさんが手を上げた。私も軽く手を振る。
「やっと必要なものがそろったんです」
「そりゃよかった。楽しみだな」
ロープでカツオを吊るす彼に笑って手を振った。そのあとも、何人もの町民に挨拶をして、石積みの威厳ある建物に入る。
案内受付に会釈をして、フロアを左へ進んだ。カウンターの向こうで、小太りの男性が待っていた。
「こんにちは。転居先を提出しにまいりました」
「はい、お待ちしておりました」
ニコリとほほ笑みあい、私は担当者に書類を渡した。パラパラとその場で確認をしていき、最後の書類に大ぶりのはんこを押した。無事に済んで、ほっと胸をなでおろす。
「鍵をお貸しください」
クリームパンのような、ふんわりとした掌に鍵を乗せる。担当者はカウンターの下でガタゴト音を立てた後、鍵と一枚のカードを差し出した。
私は先に、家の鍵を受け取った。カードは無地で何も書いていなかった。
「これは、何ですか?」
「この町で一番重要なものです。さぁ、どうぞ」
促されて私は両手で受け取った。
親指と人差し指の間でカードが震えた。無地だった紙の中心に、黒い点が生まれる。点はみるみる紙に染みわたっていき、気づけば猫の顔のシルエットが浮かび上がっていた。
「ねこが」
「はい、おめでとうございます。黒猫ですね」
担当者は祝福の言葉を述べた。私は彼に尋ねようとして顔を上げて、はと驚いた。
先ほどまで、温厚そうな印象だった中年の男性が、何故かカワウソに思えた。実際彼は人の形のままだったが、どこから見てもカワウソという単語しか浮かんでこない。
「何が、どうなったのですか」
「この町の、なんといいますか。呪いのようなものです」
「呪い」
「私たち町民の絆の形とでも言うのでしょうかね。ともかく、これであなたもこの町の住民になれたのです」
カワウソになった担当者は、にっこりとほほ笑んだ。
「ではよい生活をお送りください、黒猫さん」
私は呆然としながら役所を出た。先ほどと同じ景色なのに、受け取る情報がまるで違うのだ。道行く人々に動物の名前を思い浮かべてしまう。
今すれ違った人はハムスター、八百屋の奥でおとなしくしている奥さんはチンパンジー、あそこで立ち話をしているおしゃれなキツネさんは、確か洋裁店を営む娘さんだ。
「おや、黒猫だったのかい」
行きを見送ってくれた魚屋のおじさんが声をかけてくれた。彼はペリカンだった。
「ネコは良いな!魚買っていくか?」
ドキリとした。まだ自分がどういう状況なのか把握できていない。
私は自分に、「魚が前よりも好き?」と問いかけてみたが、私は首を横に振った。
しばらくして、ペリカンさんが笑い出した。
「ジョークだよ。記号がついたからって、似るわけじゃない」
「そういう、ものなのですね」
「なに、あだ名だと思ってくれりゃいいさ。俺のこともペリカンって呼んでな」
わはは、ともう一度笑って、ペリカンさんはキンメダイを持ち上げた。
「安くしとくよ」
「わぁ、ありがとうございます」
私はいそいそと財布を取り出して、割引された金額を渡した。
「煮つけがうまいぞ」
「ありがとう。また来ます」
その後が大変だった。見知った顔が次々と現れ、「黒猫さん」と改めて挨拶していくのだ。
魚がかごの中でぐったりとのびているのに、ちっとも前に進まない。愛想笑いと握手を繰り返してそろそろ疲れてきたとき、肉屋のチーター夫人が声を上げた。
「明日の晩、歓迎会を開きましょう。それまで挨拶はお預け」
わぁと歓声が上がった。拍手に、私は感謝で笑顔を零しながら一礼した。
その晩、ろうそくの火の中で、煮つけを食べた。脂ののった白身がほろりとおいしくて、口角が上がってくる。気分がよくなって、今日散々呼ばれた「黒猫」を意識して、もう一口食べる。
味は変わらずおいしいままだったけれど、どこか心の奥で黒猫という自覚が芽生えた。魚がおいしいのも、私の中に黒猫がいるからかもしれない。
「にゃお」
口に出して、一人で笑ってしまった。どうあれ、おいしいことは良いことだ。私が黒猫と呼ばれるのなら、そうかもしれないのだ。そうやって、私は黒猫になった。
**
閑古鳥の戸を叩くと、彼はたいそう驚いた顔をした。
「どうされました?」
「昨日見られなかったものを、見に来ました」
彼の目を見てほほ笑む。彼は困惑した表情のまま招き入れてくれた。カツコツ、足音が鳴る。
「あの」
声が震えていた。私は彼の背を見上げた。
「町の方から、聞いていませんか?」
「何をですか?」
私は彼の背が丸くなったのを見た。
「……いえ、何でもありません」
部屋に入ると、彼は昨日と同じように椅子に座った。
私は静寂を一度吸い込み、ぐるりと棚を見渡す。何も変わらず、彼らはうずくまっていた。私はブンチョウに挨拶してから、二階へ上がれる階段を目指した。
足音が彼らの中に吸い込まれていく。
彼は本から目を離さない。上から見る彼は、ここにいるものたちと同じであるような錯覚に陥った。薄汚れたぬいぐるみは自分の持ち場を守っている。
横にコバルトブルー、チョコレート、アンモナイトが座っている。試験管立ての前にラベルが張られていて、水素、星屑、涙、と書かれていた。中にはどれも淡色のものが入っていた。
手すりから身を乗り出してみる。何も聞こえないのに、耳鳴りはしない。中央に吊るされたステンドグラスがくるくる回っている。私はそっと目を閉じた。
昨日の騒ぎが嘘のようだ。今息をしているのは、私とおそらく彼だけだろう。それが堪らなく不思議で、耳を澄ますほどに心の中で何かが溶けていくような感覚に陥る。
私はほうと息をして、はるか向こうの冥王星に思いをはせた。
半刻ほどして、私はゆっくり階段を下りた。パラリとページが捲られる。
「あの、今晩私の歓迎会があるんです」
おずおずと、私は切り出した。彼は伏せた瞼を持ち上げた。
「会場は町の広場だそうです。よろしければ、来られませんか?」
音が広がって、壁と展示物に染みこんでいく。彼は丁寧に二度まばたきをしああと、こちらを向いて微笑んだ。
「楽しんできてください」
そうして遠慮気味に立ち上がる。私はおじぎをして、店を出た。
**
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