第144話 峡谷

 九九に簡単な手当てをしてもらったミルヒは、ぷるぷると軽く身体を震わせて全身についた雪を払い落とし、さぁ乗ってと言わんばかりに俺達の前で身体を屈め、ぱたぱたと尻尾を振る。


「いや、ミルヒは怪我してるだろ? 無理しない方が良い。俺は歩ける」


 俺はそう言ってミルヒの頭を撫でてやったんだけど、ミルヒは不満げにウウ、と小さく唸って、伏せの姿勢を取ったままだ。ミルヒの背中を掌で擦った九九も、俺と視線を合わせて「うーん」と悩む声を漏らす。


「私も歩くから大丈夫。……でも、杠だけはミルヒちゃんに乗せてもらったら? 頭打ってるんだし、まだちゃんとお医者様に診てもらったわけじゃないもの」

「そうだな」

「そんな……私も歩けるよ」

「まぁまぁ、怪我人は用心しとこうってことで」

「ミルヒちゃん、杠をお願いね」


 遠慮する杠を、九九と二人で言いくるめてミルヒの背中に乗せる。

 杠を背中に乗せてゆっくりと立ち上がったミルヒは、一声「ワン」と鳴いてから、俺達を先導するように雪の中を歩き始めた。

 森を抜けると、なだらかな丘の先に雪を抱いた山の姿が見えてくる。多分あれが、ルーダ連山だろうな。しかしミルヒはその山に背を向け、逆方向にザクザク歩いていく。ミルヒを呼び止めて「あの山を越えるんだよ」と諭してみたけれど、本人(狼)はスピスピと鼻を鳴らし、やっぱり逆方向に数歩進んでは立ち止まる俺と九九を振り返り、ワンワンと小さく吠える。


「……もしかして、何処か私達を連れていきたいところがあるのかしら」

「そうっぽいな。ついていってみるか」


 俺と九九は頷きあい、ミルヒについて雪の中を進む。

 一時間ほど歩くと、目の前に、あの地図に記されていた峡谷が姿を見せた。雪原を大きく横に切り裂いた形の亀裂は、少なくとも見える範囲の中では、途切れた場所が見当たらない。どうやら、橋も近くにはないみたいだ。


「クゥン」


 ミルヒが崖の手前で立ち止まり、足を折って座り込んだかと思うと、今度は俺を見上げて何かを訴えるように吠える。取り敢えずと杠がミルヒの背中から降りてみれば、ミルヒはすぐに俺の足元に来て伏せの姿勢を取り、ふくらはぎあたりを鼻先でつんつんと突いてきた。


「……もしかして、乗れって言ってる?」

『多分、そうだと思うですよ』


 肩に乗ったミケも小声で同意してくれたので、俺はミルヒの背中に跨り、ふさふさした背中と頭を何度か撫でる。俺が背中に乗ったのを確認したミルヒは、一声大きく吠えた。同時に、ミルヒに跨った姿勢でいる俺の身体が安定するのを感じる。ホルダから観測所まで二人乗りで来た時みたいに、ミルヒが騎乗スキルを使ってくれたみたいだ。


「……ん?」


 俺を乗せて立ち上がったミルヒは、まっすぐ切り立った崖に向かって歩いていく。

 ……あれ、これってもしかして。


「シオン!?」

「えっ……ミルヒちゃん、待って!? シオン!」


 杠と九九の焦る声を尻目に、ミルヒは俺を背中に乗せたまま、崖の端っこから宙に向かって、身軽に飛び出してしまった。


「うわーー!?」

『にゃーー!?』


 悲鳴を上げる俺とミケに構わず、ミルヒはとんとんとリズム良く崖の側面を蹴って落下の勢いを殺し、最後は法面を軽く滑るように滑降して、なんてことないように峡谷の底に辿り着いた。


「ワン!」

「……いや、ワン、じゃないんだな……」

『び、びっくりしました……』


 さすがにいきなりは、心臓に悪い。元気に鳴くミルヒの背中で俺はぐったりしてしまうし、ミケの方も、毛並みがぶわっと逆立ったままだ。


「ワン! ワン!」

「あぁうん、大丈夫大丈夫。なんか、俺に見せたいものがあるんだよな?」


 あれだけ身軽に崖を降りれたのだから、本来はあの峡谷も、ミルヒなら飛び越えられるのだろう。それをあえて俺を崖下に連れて来たということは、多分、何か目的があってのことだ。


「さぁ、ミルヒ。案内してくれ」

「ワン!」


 そんな俺の予想は、どうやら大当たりだったみたいで。

 俺達を乗せたミルヒが進んだ先にあったのは、峡谷の底に積もった雪の中に突き刺さる、一本の細身の槍だった。

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