第142話 地図
「ん……?」
俺が思わず上げてしまった低い声に反応したのか、杠が小さく呻き、眉を顰めて身じろぎをした。彼女が動いた拍子に二人の上から捲れそうになった外套の端を咄嗟に掴み、そのまま即座に視線を天井にやった俺を褒めて欲しい。
「う……ん……」
「杠、気が付いたの?」
「え……九九……?」
どうやら杠が目を覚ましたみたいだけれど、今視線を下ろすと、これまでの努力が全部無駄になってしまう予感しかしないんだよな。
「シオン……?」
「杠、大丈夫か?」
俺は視線を天井に固定したまま、軽く手をあげてみせる。九九はクスクス笑ってるけど、こっちは大変なんだぞ。
「私……確か、馬車から飛び降りて来た男性に、殴られて……」
「あぁ。杠を殴ったのが、あのマルディとかいう奴だったんだよ。覚えてる?」
「……なんとなく。おでこ、痛いかも」
「そこね、剣の柄で殴られた痕が残っちゃってるの」
「まぁ、やだ」
九九が「こっち見ても大丈夫だよ」と言ってくれたので、ありがたく視線を下ろさせてもらうと、二人は元のようにぴったり寄り添った姿勢で外套に包まっていた。俺は改めて焚火の傍に座り、薪を足して、火が消えないように努める。
「それで、シオン。あの後、どうなったの……?」
杠の問いかけに、俺は軽く肩を竦めるしかない。
「マルディがミルヒを奪って、あのままノスフェルの内陸に向かって逃走してる。エレンに乗った炎狼とスルナが、チコラを連れて追跡してると思う。俺は杠を抱えてたんだけど、足元が崩れてどうしようにもならなくなってた時に、九九が助けに来てくれたんだ」
「……そうだったのね。九九、ありがとう」
くっついている杠から笑顔と一緒に礼を言われた九九は、くすぐったそうだ。
「どういたしまして。でも、結局はちゃんと救出できてないんだもの。そんなに感謝されたら、恥ずかしい」
「そういえば、今の状況は、何かしら……? なんだか、遭難してるみたい」
「みたいじゃなくて、実際に遭難中なんだなこれが」
「……どういうこと?」
俺は、九九の召喚獣である白鳥のオデットが何者かに狙撃されたことと、氷流移動が起きた場所に近い現在地では、インベントリやIMが使えなくなっていることを杠に説明する。
「つまり、ここでは魔法も使えないし、救援も呼べない状態なのね」
「その通り。しかも、夜の時間帯だし、雪も降っている。無闇に移動したら、速攻でレッドアラートになると思うんだ」
「確かに……」
「それで、この洞穴を見つけて雪から避難したんだけどな。気を失っている杠が、低体温症になりかけていたんで……」
「私が、温めました!」
はい! と小さく顎の下あたりで手を上げて主張する九九に、杠がまた笑う。
「ふふっ、九九が居てくれて助かったわ」
『ミケもお手伝いしたよ!』
二人の間でミャアミャアと声を上げたミケも、「ありがとうね」と杠に頭を撫でてもらっている。仲が宜しくて何よりですこと……。
「じゃあ、俺はまた一旦外に出るから、服を着ていてくれ」
「分かったわ」
「ありがとう、シオン」
俺は二人が身支度を整える間に、再び洞穴の外に出て、外の状況を確かめることにした。
さっきまでは頬に当たるような強さで横殴りに振っていた雪が、今はふわふわとした雰囲気で降っている。空を見上げれば曇天の一角に、薄く光を透かしたようになっている場所があるから、あの雲の向こうに側には月があるのかも。
しかし、月の形が分からないからな……そもそも、リーエンの夜空にある月って、どんな形をしていたっけ? これが
俺がうんうんと悩んでいる間に、洞穴の中から駆け出してきたミケが、俺の脚の間に身体を滑り込ませる。
『マスター。ゆずちゃんとくくちゃんが、呼んでます!』
「お、着替え終わったのかな」
俺はミケを抱き上げていつものように定位置の肩に乗せ、首にくるりと尻尾を巻いてもらってから、洞穴の中に戻る。
身支度を整えた杠と九九は、折り目が入った一枚の紙を二人で覗き込み、何やら相談中みたいだ。
「ただいま」
「お帰りなさい、シオン」
「シオン。早速だけど、地図を見て欲しいの」
「お、地図があるんだ?」
杠が差し出してきたその紙は、ノスフェルに行くと決めた後に、ホルダで買い求めた地図だ。スルナからは「正しい道を進んでいるか確かめるためのもの」と言われたやつだから、そこまでしっかりと目を通していなかったんだよな。
確認したい時にすぐ取り出せるようにと、杠が、腰に付けている小物入れの中に折り畳んで入れておいたそうだ。インベントリに入れていなかったのは、ラッキーだったな。
「多分、今私達が居るのは、最初に目的地にしていた雪原の町『ヤホ』よりずっと南側の、氷河に近い『ルーダの森』だと思うの」
杠が口にした森林地帯の名前は、ホルダから北側に向かって伸びた街道がノスフェルの領土に入り、最初の町である『ヤホ』に到達するかなり手前から、やや脇に逸れた位置に記されていた。
地図によると、ルーダの森の近くには標高の低いルーダ連山があって、それを越えた先には小さな『モリコ』の町がある。
「私がオデットに乗って来たのがモリコの町からだから、間違いないと思うわ」
「あぁ、近くの町で召喚してから来たって言ってたもんな」
オデットの背中に乗って空を飛んでいる時に、連なった山の姿は、一瞬目にしている。
「この山を越えて、モリコの町を目指すのがいいと思うんだけど、どう思う?」
確かにそんなに険しい山には見えなかったけれど、俺達が徒歩で踏破できるかどうかになると、話が違ってくるだろう。
「ふむ……一旦、街道側に戻るのはどうだ?」
乗合馬車はもうないけれど、出来れば街道を進む方が、迷う確率が低い。俺の提案に、今度は九九が首を振る。
「それも考えたんだけど、ここが『ルーダの森』なら、オデットに乗って飛んでる間にこの峡谷を超えてるはずなの」
彼女が地図の上で指さしたのは、街道とルーダの森の間に横たわる、長い峡谷。
あの時は、氷流移動の余波と氷の飛礫とかから逃げるのに必死で、あんまり方角とか見てなかったもんな。
「この峡谷に橋がかかってるかどうか分からないし、もし橋が見つからなかったら、凄く遠回りすることになっちゃう」
「あーー……なるほどなぁ」
その可能性を加味すると、確かにここは、山越えを考えた方がいいか。
「まぁ、どちらにしても、行動は明日の朝からだ。今は身体を休めよう」
「そうだね」
「分かったわ」
頷く二人と火の番をする順番を決めて、俺達は交替で身体を休めつつ、朝が来るのを待った。
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