第135話 ミナ観測所
ミナ観測所は、ノスフェルを背中に乗せたメグ・ツェドとリーエンの間を隔てる氷河のすぐ手前に作られている。観測施設としてはリーエン国内でもそれなりの規模を誇っており、小規模の村程度の設備が整っているのが特徴だ。
そんな施設の一角に設けられた馬車乗り場で、薄汚れたコートの襟を立てた男が一人、ノスフェル行き乗合馬車の最終便を待っていた。
半年に一度の『氷流移動』が近く、今回のノスフェル行きは片道運行となるのは男と同じように乗合馬車を待つ面々も承知の上だ。一度ノスフェルに渡ってしまえば、一ヶ月の間はリーエンに戻ることも、連絡を取ることも出来ない。乗合馬車を待つ人々は、長期の滞在を想定してか大きめの荷物を携えている者が多い。反して男の方は、小さな鞄を一つ片手に下げているだけだ。
それは男がノスフェルに『行く』のではなく『帰る』ところであると端的に表しているのだが、そのくたびれた外見とは裏腹に、男の機嫌はすこぶる良い。鼻歌交じりに懐を撫でるのは、既に銀行に入金済みの『稼ぎ』のおかげで文字通りに懐を温める心地になっているからだろう。
(今回もなかなかの稼ぎだ。これだから、田舎者と貧乏人相手の商売はやめられねぇ)
男が知人に紹介されてこの『商売』に手を出し始めてから、二年ほどになる。
リーエン側のミナ観測所とソリュエの町、ノスフェル側のキタ観測所と雪原の町ヤホ。その四か所を中心に情報を集め、出稼ぎに来ている地方の農民や日雇いの仕事を受けている獣人が、金貨を手に入れたところですかさず声をかける。
特に狙い目なのは、馬車に乗って移動しようとしている相手だ。馬車の運賃は先払いと決まっているから、相手が運賃を払った後で声をかけ、親切顔で金貨の『両替』を持ち掛ける。ノスフェル出身の獣人達は
それでも獣人達が持っている金貨の量にはたかが知れていることもあり、大きな稼ぎとなっていなかったこの詐欺行為だったが、この半年ほどで、リーエンを取り巻く世情が大きく変化を遂げた。
代表的なものは当然ながら[無垢なる旅人]達の登場だ。
セントロに降り立った彼らは瞬く間に五大国家の各地に広がり、様々な活動を繰り広げている。当然ノスフェルにも彼らは到達していて、何が良いのかは分からないが、虐げられている獣人達の解放運動に力を入れているらしい。その一環として、獣人達が日雇いの仕事を得る機会が多くなった。特に、まだ未成年ではあるが家族を支える為に働きに出ている獣人の子供達などが雇われやすい。通常ノスフェル周辺では同じ仕事をしても、獣人に与えられる賃金は人間の半額近くになることが多いが、[無垢なる旅人]達は獣人達に対しても正規の賃金を支払う。そして無知な獣人達が得た金貨を巻き上げる男の手元に入ってくる金額も、うなぎ上りになるわけだ。
([無垢なる旅人]様様だな)
冒険者ギルドから、詐欺グループの摘発依頼が出ているのは分かっている。この詐欺手口を使っているのは彼だけではなく、同じ手口で獣人達から金貨を奪っている仲間が何人かいるのだ。彼らは同じ場所で犯罪を繰り返すようなことはせず、四つの町をランダムに移動して、目撃情報を錯綜させている。この手段も、獣人達に渡す『偽金貨』の準備も、彼らの元締めにあたる、とある組織の指示によるものだ。男達は儲けの中から一部を上納することで組織から情報を貰い、治安部隊や冒険者達の目を掻い潜っている。
しかし今回はノスフェルの『氷流移動』が予定よりもかなり早い時期に起きそうだと観測所から発表があったので、男はここ数カ月で荒稼ぎをしたソリュエとミナ観測所から一旦距離を置くために、ノスフェルに戻ることにした。一ヶ月の間はノスフェル近郊で身を潜め、それからまたキタ観測所やヤホの町を中心に荒稼ぎをする予定だ。
そんな男の視界に、さくさくと雪を踏みしめ、乗合馬車の待機所に現れた小さな影が入る。
「っ!」
なんとなく目を向けた先に佇んでいたのは、男が数日前に金貨を巻き上げた狐人族の少女だった。慌てて帽子を目深に被ろうとしたが、ぱっとこちらを見た少女と視線があってしまった。少女が目を丸くしたから、自分を認識したのは間違いない。証拠はないが、騒ぎ立てられると面倒だ。
男はすぐその場を離れようとしたが、何故かその少女から、予想外に好意的な声がかけられる。
「おじさん! この前は、ありがとうございました!」
「……あぁ?」
「おじさんのおかげで、無事に手袋を買えました。それに、家族にもお土産を貰えたんですよ」
ニコニコと笑いかけてくる少女からそれとなく話を聞き出せば、ホルダの『穴開き靴』通りで買い物をしようとしたら、店ではその金貨を使えないと言われた。しかし通りすがりの[無垢なる旅人]の冒険者が、手袋の代金を払ったうえで、彼女が持っていた金貨を本来の金貨と交換してくれたのだと言う。
「おじさんがくれた金貨は、もう古いから使えるところが少ないそうです。だからこっちの金貨を持っていきなさいって替えてくれて、あとは家族にあげなさいって、お土産とお小遣いも一緒にくれました」
少女が無防備に差し出してみせた鞄の中には、菓子の包みやハンカチなどに加えて、金貨の詰まった小さな袋も入っていた。
成るほどな、と男は考える。
ホルダの店で少女が金貨を使おうとした時に、[無垢なる旅人]がその場に居合わせたのだろう。そして少女が詐欺にあったことに気づいたが、騙された彼女が傷つかないように手袋の料金をたてかえ、更に彼女と家族の生活の為に、小遣いと称して金貨を分け与えたのだ。狐人族の少女は良く判っていないようだが、これだけの金貨があれば、狐人族の家族が半年は暮らしていける。少女を助けるつもりだったのだろうが、これは単なる施しにすぎない。
これからヤホの町近くにある自分達の村に帰るんです、と笑顔を見せる少女に、男は愛想笑いを浮かべて見せた。
「そうかそうか、良かったなぁ」
男の脳裏には既に、狐人族の少女からこの金貨を騙し取る計画が回り始めている。
「お嬢ちゃんは、このまま乗合馬車に乗るのかい?」
「はい。『氷流移動』が早く始まるって聞いたから……間に合って良かったです」
「そうかそうか。俺も馬車に乗るつもりだったんだが、少し用事を思い出したところでね。これから少し友人に会って、騎乗動物を借りて、ノスフェルに戻ろうと考えていたんだ。もしお嬢ちゃんが良ければ、俺と一緒に来るかい? 乗合馬車を使う料金を浮かせることができるよ」
「本当ですか!」
ぱっと表情を輝かせる狐人族の少女を促し、男は乗合馬車の待機所を離れ、ミナ観測所の中にある食堂に彼女を連れて行った。
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