第112話 アマデウス

『母さん、母さん……』


 ぐったりとしている精霊蛇の身体を揺さぶり、懸命に呼びかけ続ける大蛇の鼻先に、ミケが飛びのった。


『あ……』


 さすがに驚いたのか一瞬行動が止まった蛇の鼻の上で、ミケはちょんちょんと鼻の上に並ぶ鱗を肉球で撫でてから、ゴロゴロと喉を鳴らす。


『蛇さん、おちついて』

『……こねこ』

『お母さん、あんまり揺らしたら、だめです』

『……母さん』


 大蛇が少し落ち着いた間に、俺は精霊蛇の身体の上を乗り越え、プール型の円を描いている胴体の一端に乗せられた頭の近くまで駆け寄った。大きな胴体の内側は自分で付けたのだろうけど傷だらけで、そこから流れる血液が少しずつ血だまりの中に注がれて、卵を乾燥から守っている。でもそんな捨て身すぎる方法では身体が弱っていくのは当然で、今も血を流しすぎたためか、精霊蛇は意識を失ってしまっているみたいだ。それでも顔の近くでは呼吸音が聞こえているのだから、まだ手遅れってことはない、と信じたい。

 精霊蛇の状態を確かめる俺の近くにミケを頭に乗せた大蛇もやってきて、心配そうに母親の顔を覗き込む。


『母さん。あの壁は、壊してもらえた。もう少しだけ、待って。湖に、水が戻る。お願い、がんばって』


 瞳を閉じた精霊蛇の頭と首の境目付近に、大蛇がそっと頭を摺り寄せている。


「ユージェン!」


 俺は蛇の身体に登ったまま、まだ卵の欠片が散乱した湖の底に立っているユージェンに声を掛けた。じっと目を閉じて何かの気配を感じ取っていたユージェンは、俺の呼びかけに顔を上げ、静かに首を振る。


「まだ、水は到着しそうにない?」

「ダメですね。この地底湖は、貯水池から水が戻されつつある水脈と繋がっているのは間違いありませんが、かなり奥に位置しています。それこそ、地底に無数に空いた水脈の『穴』が全て水で満たされて初めて、この湖に水が戻るという配置です。おそらくこの様子だと、水が戻ってくるのに、数日はかかるかと」

『そんな……』

「それじゃあ、間に合わないよ!」


 大蛇の悲痛な声と俺の叫びに、彼は静かに頷き返す。


「分かっています。だからこそ、僕が来たんです。……アマデウス」


 片手で魔導書グリモワールを開いたユージェンが、もう片方の手で、軽く宙を払う仕草を見せる。中空に不思議な文様が現れて、それはふわりと浮き上がってユージェンの頭上に光の円を象った。円はそのまま足元に落ち、彼の身体を中心に、大きな魔法陣が地面に描かれる。


『あぁ、いいともユージェン。奏でよう、僕らの五重奏クインテットを!』


 魔法陣が青白く光り、ユージェンの足元に散らばっていた卵の欠片が、ふわりと浮き上がる。彼が身に着けているローブの裾も、魔法陣を中心に高まる魔力の流れに煽られて舞い遊ぶ。


「――五音で謳え、アマデウス!」

『【我が詩に】【応え響け】【鯨波ウォークライ】【来たれ】【絶海の巨濤】』


 魔導書グリモワールに嵌め込まれた五つの精霊石が、ユージェンの魔力とアマデウスの詩歌に呼応して、光り輝く。同時に遠くから、地響きのようなが次第に近づいてくる。


『あれは!』

「うわ、凄い!」


 ユージェンの魔法に呼び寄せられ、四方八方から押し寄せた大量の水が、枯れた湖の縁を乗り越えて、すり鉢状になった地形の中に流れ込んできた。呪文を唱え終わったユージェンが魔導書グリモワールを閉じてこちらに駆け寄ってきたので、俺は精霊蛇の身体を駆け下り、魔導士の彼が大きな胴体の上によじ登るのを手伝う。


『水が……水が、来た』


 涙ぐむ大蛇の声と重なるように、少しずつ、湖の水位が上がって行く。卵を守り続けている精霊蛇の身体も、次第に水に覆われて来た。


『……う、ん……?』


 長く眠りから覚めたような、戸惑いの声。大蛇が嬉しそうな声を上げ、鎌首を擡げ、彼女の顔を覗き込む。


『母さん!』


 乾いた鱗を撫でる水の気配に覚醒を促された精霊蛇が、ゆっくりと、大きな瞳を開いた。

 

 


 




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