第76話 魔導書マトリ

 掌に乗せた『帰還石』を強く握り締めると、一瞬の視界の暗転の後に、俺の身体はホルダ聖門の前に降り立っていた。


「……よし」


 門兵に軽く頭を下げ、フードのついたコートの裾を軽く指先で払ってホルダの街中に歩き出す。今日の目的地は、お馴染みの冒険者ギルドだ。斜めがけにした鞄の中には、大金貨が詰まった小袋を一つ入れて来ている。

 大通りに所狭しと並んでいる商店のショーウィンドゥに映りこむ俺の姿は、黒髪に褐色の肌、蜂蜜色の瞳を持つ青年のものだ。今日の俺は、[シオン]ではなく、[カラ]だ。

 前回のスタンピードの直前に、俺は冒険者ギルドを介して手に入れた魔導書グリモワール[マトリ]の修復を、書籍鑑定士のヨハンに託していた。修復にはある程度の時間がかかるだろうと言われていたが、あれからそろそろ一ヶ月以上が経っている。しかしこちら側への連絡手段を残していない以上、ことの経過はどうしても[カラ]自身で確認に行くしかない。


 相変わらず人で溢れているホルダの大通りを歩き続け、俺は冒険者ギルドに辿り着く前に商業区に入り、各種の魔道具マジックアイテムを取り扱っている店に立ち寄った。ちなみに目当ては、先ほど使った『帰還石』だ。『帰還石』は自分のホームポイントか登録しておいた聖門のどちらかにテレポートできる効果を持っていて、錬金術の一環で作成可能なマジックアイテムになっている。最初だけはプレイヤーボーナスで10個貰えたのだが、仮面を隠すために聖門を繰り返し使えば、その数はあっという間に減ってしまった。

 当然ながら、冒険者達には言うに及ばず、一般人のNPC達にもかなり人気のアイテムだ。しかし『帰還石』は高位の錬金術師にならないと作り出せないものらしく、人気商品と言えども常に品薄で、値段はあまりお安くない。錬金術を極めていくと、この『帰還石』製作か高練度のポーション製作でひと財産築けるって話だ。だけどまずはそこまで極めること自体に相当の費用と時間が掛かるらしいから、世知辛い話だよな。

 店の中をぐるりと見まわすと、カウンター横の目立つ場所に、帰還石が並べて置いてあった。値札に書かれた価格は、1つ3金ルキと高めだ。確かに、頻繁に利用できる値段ではないが、どれだけ遠方に居ようと一瞬で戻ってこれる効果を考えたら、安い方なのかもしれない。それにまとめ買いをすると多少割引をしてくれるらしく、50個まとめて買うと150金が130金に、100個まとめて買うと300金のところが250金で購入可能と書いてある。これは、クラン単位でまとめ買いしたりする為のものだろうな。リピーターを見越しての割引価格ってやつだ。まぁ、俺もありがたく利用させてもらうけど。

 俺は店主に声をかけ、鞄の中から大金貨を取り出して『帰還石』のまとめ買いを依頼した。カウンターの上に積み上げた大金貨に笑顔を浮かべた店主は、いそいそと100個の『帰還石』が詰められた袋を準備してくれた。『帰還石』そのものは碁石を一回り大きくした程度のサイズだが、買った数が数だけに、それなりにかさばる。

 受け取った袋を鞄に入れて店から出るとすぐに、誰かがひたひたと後をつけてくる気配があった。何処のクラン所属かも冒険者かどうかすらも判らない俺が、護衛もつけずに大金を持ち歩いていたから、目をつけられたかな?

 俺は衣類店にふらりと立ち寄り、軒先にずらりと吊るされた服の間に身体を滑り込ませつつ、【気配遮断】のスキルを使う。店の奥に入ったところで棚の影にそっと身を潜ませると、人相の悪い男が服のカーテンを掻き分けて荒々しい足音を立てて現れた。男の立てた大きな足音に、店の中にいた俺以外の客の視線は、自然と集まってしまう。一斉に注目を浴びてしまった男は小さく舌打ちをして、棚の裏に隠れた俺に気づかず、そのまま外に出て行った。

 うーん……買い物する時は注意が必要だな。通販とかあったら便利なのに。

 隠れ蓑に使わせてもらったお詫びに衣類店でちょっとお高めのストールを購入し、それも鞄に突っ込んで、俺は今度こそ冒険者ギルドに向かうことにした。


「……うわ。今日も、めっちゃ人多いな」


 居住区に戻り、通りから一歩足を踏み入れた冒険者ギルドの中は、今日も今日とて、人でいっぱいだ。冒険者ギルドは居住区の中でも、商業区から続く商店街と並ぶような位置に本部の建物を構えていて、移動や流通の面でも便利な場所だ。依頼を受けたり出したりの冒険者達と依頼者は勿論のこと、先日のスタンピードのような状況下は別として、通常時は常にロビーは開放してあるから、冒険者以外のNPC達が待ち合わせ場所に利用することも多いらしい。

 俺は少し考えてから、結局無難に、依頼受付カウンターに並ぶことにした。

 待ち時間の間に依頼掲示板に張り出されている目を通してみていると、何故か【水運び募集】の文字が目立つ。……水運びって、何だろうな? ホルダには水道こそないが井戸はどの地域にも多めに用意されているし、そもそも旱魃が起こりにくい地域だ。汚水に対しても専用の排水路があって、国営の汚水処理場がちゃんと処理をしてから川に戻している。

 よくよく依頼書を読んでみると、この任務、水の運搬先がほぼ南国のサウザラになっている。サウザラはリーエンの中でも南側に位置する土地であって、熱帯雨林みたいな地域も多いって聞いてたんだけど……何で水が必要なんだろう。


 首を捻っているうちに、俺にも受付の順番が回ってきた。

 カウンターに立っていた受付嬢にヨハンから預かっていた控書を出しつつ用件を告げると、「少し待ってください」と奥に引っ込んですぐに、ギルドマスターと別の女性職員を一人連れて再び現れた。


「これはカラ様! ようこそおいで下さいました」


 大袈裟な笑顔を浮かべて挨拶をしてくるブライトを他所に、俺は少し眉を顰める。ギルドマスターが丁寧な言葉で頭を下げた相手には、多少なりとも注目が集まるものだ。そうやって、誰かから俺の情報を集めようって魂胆だろう。しかし残念ながら[カラ]の知り合いになる人間ヒューマンは、ユズ姫と五十嵐しか居なかったりするんだ。そしてその二人は、俺と炎狼が『ハロエリス』のクランハウスで軟禁されている間に何とか目標レベルに達し、ホクトと一緒にイーシェナに戻っているらしい。

 つまりは、ギルドマスターの作戦は高確率で徒労となる可能性が高い。

 でもまぁ、当然ながら忠告をする義理はないので、そっと黙っておく。


「……あぁ、久しぶりだな。ヨハンに頼んでいた件がどうなっているか、確かめに来ただけなんだが」

「マトリの修復は既に完了していると聞いております。すぐにヨハンを呼びますので、どうぞ奥の部屋でお待ちください。……キユ、お客様を来賓室にお連れしてくれ」

「はい、分かりました」


 キユと呼ばれた女性に促され、先日精霊石を売った時と同じ部屋に通される。ソファに腰掛けて用意してもらった紅茶を飲みつつヨハンの到着を待つこと数十分。「失礼するぞ」の言葉と軽いノックの後に、片手に魔導書グリモワールを抱えたヨハンがブライトと一緒に来賓室の中に入ってきた。


「これはカラ様、お久しぶりですじゃ」


 ソファに腰掛ける俺を見つけ、眦を下げて会釈してくるヨハンは今日も好々爺と言った雰囲気だ。これが凄腕の書籍鑑定士だというのだから、不思議だ。


「久しぶりだなヨハン。なかなか確認に来れずにすまない」

「いえいえ、こちらが最初にゆっくりとした時間が必要だとお願いしましたところですしの。これを機会に、じっくりと修復させて頂きました」


 ヨハンは俺の対面に置かれたソファに腰掛け、携えていた魔導書グリモワールマトリをローテーブルの上に置き、俺の方にゆっくり押しやった。

 

「へぇ」


 残念ながら俺は魔法系の素養を取っていないのではっきりとは分かりづらいが、マトリが嬉しそうな気配を漂わせているのは、何となく理解できる。ヨハン曰く、それはマトリの所有権が俺にあるからだということだったが、実はそれよりも先に、左耳から思いっきりマトリの声が聞こえていたりもする。


『マスター……僕を助けてくださって、本当にありがとうございます。次にお会いしたら、マスターには聞こえなくても、一番にお礼を言うって、決めてました。マスターのお力になれるように、僕、頑張ります』


 おぉ……。うん、普通にいい子だ。

 俺はローテーブルから膝の上に拾い上げたマトリの表紙を指先で軽く撫でてから、コートの内ポケットから小さな布袋を取り出し、中身を掌の上に広げる。


「……っ!」

「カラ様、それは……」


 キユとブライトが目を丸くするそれは、俺の手元に残っていた三つの精霊石だ。黒と白と赤が一つずつ。スタンピード前にここで取引をした後で、自分なりに色々と調べた結果では、黒と白、いわゆる闇属性と聖属性の精霊石は他の精霊石よりも貴重になるみたいだ。そして、それが万が一にでも高純度の代物だったりしたら、もうオークション云々ではなく、国王召し上げか何かに成りかねない。

 俺はそれを敢えて無造作に掌の上に転がして見せてから、赤の精霊石だけを摘み上げ、残りは再び袋に収めてコートの内ポケットに入れる。


「……カラ殿、まさか!」


 俺の思惑にいち早く気づいたヨハンが驚きの声をあげているが、その、まさかなんだよな。


『……! マスター……!?』


 慌てた声で俺を呼ぶ魔導書グリモワールの表紙を開けば、そこには精霊石を納めるための特殊な金具がついたホールが、三角形のそれぞれの頂点と、その中心位置とで合わせて4つ、開けられている。


 俺はその一番中央のホールに、掌に残していた炎の高純度精霊石を、躊躇いなく嵌め込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る