プロローグ(3/3) 泣かない男の10年

 結局、彩美あみはインタビューを打ち切らざるを得なかった。

 広報担当者に肩を抱えられながらロッカールームに引き上げる隆司たかしの背中をただ黙って眺めることしかできなかった。

 でも、どうしても気になる。

 何があったのか。

 なぜ隆司が泣き出したのか。

 だから、スタジアムにとどまっていた。


 試合が終わって30分ほどたってから、彩美は隆司のチームの関係者に呼び出された。

 あんなひどいインタビューをしたから、文句の一つでも言われるのかと身構えていたが、指定された場所に現れたのは、隆司だった。


「あのっ、すいません。私のせいで変なことになっちゃって」


 彩美はいまだに状況が飲み込めていなかったが、とりあえず謝るしかないと、頭を下げる。


「いや、君は悪くないんだ。あんなことになってしまって、俺の方こそ悪かった」


 隆司も腰を折り曲げて丁寧に謝る。


「いえいえ、そんな頭を下げないでください」


 慌てて彩美は顔の前で手をブンブンと振って、隆司に顔を上げるように促した。


「……聞いてもいいですか? 何を思い出したのか?」


 再び視線を合わせてくれた隆司に、恐る恐る尋ねた。


「そうだな、どこから言えばいいのか分からないから、少し長くなるかもしれないけどいいかな?」


 そう言う隆司の顔は、少しすっきりしているように見えた。


「はい、お願いします」


 真剣な目で見つめてくる彩美に、隆司は小さくうなずく。


「10年前のことだ。俺たちの高校は、このスタジアムで選手権の地区予選を戦うことになっていたんだ」


 彩美は10年前という言葉にどこか引っかかる気はしたのだけれど、すぐには思い至らず黙って隆司の言葉を待つ。


「覚えてないかな? コロナが流行った年だよ」

「あっ」


 ようやく彩美も思い出した。春から猛威を振るったウイルスのせいで、ほとんどのスポーツが中止された年だった。

 当時中学1年だった彩美はサッカー部のマネージャーをしていた。3年生は最後の大会もないまま引退していったのを覚えている。でも、ほとんどの生徒は高校でもサッカーを続けることになっていたから、残念がりはしたけど「高校で頑張るよ」と、どこか前向きでいられたんだと思う。


「インターハイが中止になってさ、他の部活の連中に言われたんだよ。『サッカー部は冬の選手権があるからいいな』とか『俺たちの分も頑張ってくれよ』って。だから、夏前に部活を再開できた時は、それまで以上に気合を入れたんだ。でも……」


 いったん口を閉じた隆司の言葉を彩美が引き取る。


「秋にまたコロナが流行りだして、選手権も中止になったんでしたね」

「そうだ。あの年は本当にいいチームができてたんだよ。県予選も絶対勝てるし、全国では国立にまで行けるって思ってた。でも……挑戦すらできなかった」

「辛かったですね」


 軽々しく言っていいことではないと思ったが、彩美には他に掛けるべき言葉が見つけられなかった。


「いや、俺はまだいいんだよ。こうしてプロとして、サッカーを続けられてるんだから」


 隆司は浅く唇をかむ。


「チームメートにはさ、高校でサッカーをやめる奴が大勢いたんだよ。だから……俺はずっと、自分だけがサッカーを続けているのが申し訳なかったんだ。サッカーをすることを楽しんじゃいけないんだって、自分に言い聞かせてたんだ。だから――俺は感情を殺した。絶対に喜ばなかったし、絶対に泣かなかった」

「そんなっ、なんで、ですか?」

「たぶん、自分だけサッカーを続けられるって特権を与えられた気になって、それが申し訳ないと思ってた、のかもな」

「思ってたということは、今は違うんですか?」

「そうだな。……インタビューを受けてる時にさ、スタンドから叫んできた奴がいただろ?」

「はい。知ってる方なんですか?」

「高校の時のチームメートなんだよ。俺さ、プロになってから当時のチームメートとも連絡を取らないようにしてたんだよ。どうしても後ろめたくて。だから、応援してくれてるって聞いて、それでやっと、あぁ、俺はサッカーをやってていいんだなって思えるようになったんだよ」

「そう、なんですね。……あのっ、もう一つだけ聞いてもいいですか?」

「いいよ」


 こんなことを聞いても意味はないのは分かっている。けれど、彩美にはやっと泣けるようになったこの男に聞いてみたいことがあった。


「もし、10年前の自分に声を掛けられるとしたら、どんなことを言いたいですか?」

「なかなか難しいな」


 隆司は人差し指で頬をかく。少し考え「うん」とうなずく。


「泣きたけりゃ泣け、って言うだろうな。みっともなくてもいい、情けなくてもいい、心の赴くままに涙を流せって」

「どうしてですか?」

「泣きたい時に泣けないってのは、結構辛いんだよ。だから、今日はすっきりした。君のおかげだよ。ありがとう」

「そんなっ。お礼を言われることなんて、私はしてませんよ」

「それでもいいんだ」


 隆司は白い歯を覗かせて笑う。

 ちょうどその笑い声を合図にしたかのように、チーム関係者が隆司を呼びに来て彩美は別れを告げた。



「まさか本当にあいつを泣かせるなんて思ってなかったよ」


 隆司と別れた後もその場を動けずにいた彩美に声を掛けたのは、カメラマンだった。


「はい。自分でもびっくりしました」

「で、何が食べたい?」

「はい?」

「あいつを泣かせたら何かおごってやるって言っただろ?」

「あっ、そうでしたねー」


 彩美は身に染みついた湿っぽい空気を振り払うかのように、大きく伸びをする。


「忘れてたのかよ。黙ってりゃ良かったな」

「もう遅いですよー」

「分かったよ。で、どうする? 鳥? 豚? 牛?」

「えっとー」


 彩美は唇に人差し指を当てる。

 フフっと、笑ってから口を開く。


「全部がいいでーす」

「全部って、そんなに欲張るなよ?」

「嫌でーす。私まだ若いですから。若いうちは欲張りでいようって思ってまーす」


 そう言うと、彩美は「さぁ張り切って行きましょー」と、右手を突き上げ歩き出した。

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