交換日記から始めたい。

圭琴子

あたし(1)

 いつからだろう。開店前に来る、トラックのエンジン音を心待ちにするようになったのは。


 配送のお兄さんは仏頂面で、はじめはそれをちょっと恐そうだなんて思ったけれど、おはようございますとよく通るバリトンで言う時、口角が少し上がっているのに気が付いて、「可愛い」と思ってしまった。


 あたしはミカ。二十三歳。短大を卒業して大手商社に就職し、順風満帆だった。「可愛い」で、人生の道を踏み外すまでは。


 課長は仕事中いつも眉間に縦じわを刻んでいたけれど、ひとり残業でため息をついていたあの日、不意に缶コーヒーをうなじに当てられた。冷たさに思わず声を上げると、面白そうに課長は笑う。「可愛い」。そう思った。


 そのあとふたりで食事に行って、距離はすぐに縮まった。人生で一番の恋をしている。そう自覚してからだった。課長に奥さんが居るのを知ったのは。


 引き返せなかった。何度か食事をして、吞みにも行って、妻とは上手くいっていないと初めて奥さんの話題が出た日、あたしは課長のものになった。


 あたしは課長のものだけど、課長はあたしのものじゃない。そんな当たり前のことに気が付く前に、あたしたちは燃えるような恋をした。でもそれは、線香花火みたいな恋だった。いっとき激しく火花を散らしても、種火が落ちてしまえば一瞬で消える恋。


 妻とは別れるという言葉を信じて二年が経ったある日、課長に初めての子どもが生まれたことを知った。


 泣いた。あたしは泣いて、身体中の水分が抜けてしまうんじゃないかと思うほど泣いて泣いて、課長と別れる決意をした。会社を辞め、課長との思い出のない街で、花屋のバイトを始めた。


 人生で一番の恋は終わりを告げた。きっともう、恋なんかしないんじゃないかと思えたのに。


 あたしはまた、配送のお兄さんを「可愛い」と思っている。毎朝ひと言ふた言交わすだけで、初恋みたいに舞い上がって。


 でも軍手をつけていたから薬指の指輪は確認出来なくて――何より、一年前に終わったばかりの課長との恋を引きずって、あたしはまだ新しい恋をする気にはなれなかった。

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