おまじない

 藤咲リネカが六歳の誕生日を迎える少し前のこと。

 イギリスのケンブリッジにある家にリネカと両親、彼女の祖父母の五人暮らしだった。


 藤咲家には夕食は全員揃って食べるというルールがありました。家族全員で食卓を囲みながら今日の出来事を話し合うのが日課でした。

『半年後日本に行くことになった』

 お父さまからそう告げられたのは、その食卓でのことでした。さっきまで賑やかだった空間が一気に静まり返りました。

「それは転勤ということか?」

「はい。今日急に告げられてしまったので、本当に申し訳ないですが私は日本に帰ろうと思います」

「いや、それは仕方のないことだ」

 お祖父さまはいつもと同じような態度でしたが、言葉の語尾に覇気はありませんでした。少し落ち込んでいるようでもありました。

「お前たちはどうする」

 お父さまの目線がお母さまと娘の私に移りました。お父さまの瞳が少し揺れていて、不安そうでした。

「もちろん私も行きますよ。あなただけを一人にするわけないじゃないですか」

「ありがとう。じゃあリネカもだね」

 さっきまで硬い表情だったお父さまの顔がほころびました。

 お父さまが何かに不安を感じていたことは小さな私にもわかりました。きっと家族と離れ離れになっちゃうかもしれないことが不安だったんだと思います。

 お父さまは私たちのことを愛していた、私もお父さまのことが大好きでした。離れて一緒に暮らすことなんて、そんな恐ろしいことは考えられませんでした。

 でも、私がお父さまとお母さまと一緒に日本に行ってしまったら、大好きなお祖父さまとお祖母さまはどうなるの。2人とは離れ離れになってしまいます。

 それはイヤだな。胸の中がモヤモヤとしましたが、最後までこのモヤモヤは誰にも言えませんでした。

 あっと言う間に過ぎて出発の日になりました。その日も胸のモヤモヤはあって、でも子供の私には取り除く方法を知らなかったのでどうすることもできませんでした。

 今更ここから離れたくないと言ったところで、どうにもならないことは分かっていました。

 家の前でお父さまとお母さまが空港に向かうために手配したタクシーに最低限の荷物を積み込んでいるところでした。大きな荷物は数日前にもう日本に送ったので本当に身の回りの荷物だけでした。

 お父さまとお祖父さまがトランクにキャリーケースやボストンバックを詰めるのを私はお祖母さまと手をつなぎながら眺めていました。祖父さまとお祖母さまとの別れなくてはいけない時間が刻々と迫っていました。

 お祖母さまは私の手を強く握りました。

「リネちゃん、日本でも元気でね」

「うん」

 本当に離れ離れになっちゃう哀しさを隠すように、簡素な返事しかできませんでした。

「病気にも気を付けるのよ。お友達とも仲良くするのよ」

「うん」

「ごめんね。本当だったら空港まで送ってあげたかったんだけど、お祖父さんに予定が入ってて」

 お祖母さまは私の頭を優しく撫でる。その手の重さと熱に心底安心して、離れることが寂しくて涙が流れてしまいました。私は必至に隠そうと目元を手で覆います。

「あら、リネちゃん。目をこすっちゃだめよ。赤くなっちゃうもの」

 それでも止まらない涙に、私は目をこすってしまいます。

「そんなに心配性なリネちゃんに私からおまじないをしてあげようかな」

「おまじない?」

 私は目をこするのをやめて顔を上げると、そこには笑顔のお祖母さまの顔がありました。

「そう、おまじない」

「『おまじない』って何?」

「リネちゃんが日本でも頑張れるように私が魔法をかけるの。そしたらリネちゃんは強くなってその涙もなくなっちゃうよ」

「ほんとに?」

「本当!」

 そして響く一回のリップノイズと軽く当たる柔らかい感触がおでこにありました。

「はい、これでリネちゃんは頑張れるよ」

 私は嬉しくてお祖母さまにも『おまじない』をやってあげたかったですけど、私と彼女の身長にはかなりの差があって、とてもおでこにキスはできませんでした。その代わりに私はお祖母さまの腰に腕を回し力一杯抱きしめました。お祖母さまも私の背中に手を回し抱きしめてくれました。

 それがとても気持ちよくてお祖母さまの言っていた通り、涙はとっくにどこかに消えていました

 そうして私は笑顔で家の門を潜り、飛行機に乗って日本に旅立ちました。

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