花束はいらない

猫宮たまこ

花束はいらない



ちらちらと白い雪が降る一月の半ば、気合いの入ったいくつかの運動部以外はほとんど人のいない放課後に、帰宅部のわたしは先生を探して廊下を歩いていた。気づかないうちに歩調がはやくなっていて、ときどき上靴がキュッと音を鳴らす。


目指すのは、めったに使わない旧校舎の講義室の隣、小さくて埃っぽい準備室。ざわざわとした職員室が苦手で大抵そこにいることは、いつかのホームルームで本人が言っていたからずいぶん前に知ったけれど、ひとりで訪ねたことはあまりない。


むしろ、特に用事を頼まれてもいない今日みたいなときにこの古びた扉をノックするのは初めてだ。



「失礼します。二年四組の南里です。斉藤先生、いらっしゃいますか?」


先生がこの部屋にいることは職員室でさっき確認済みだ。コンコンと軽く音を立てて、一応形だけは問いかける。


緊張で強ばった肩を落ち着けるために大きく息を吸うと、それを吐ききる前に扉の向こうから返事が聞こえてきた。


「はい、いますよ。どうぞ入ってください」


いつものやわらかくて丁寧な声が耳に飛び込んできた瞬間、泣きたくなるくらい心臓が痛んだ。普段どおりの先生だ。わたしだけが焦っている。あたりまえのことを確認しただけで、なんだか少し落ち着いた。


もう後には戻れない。判決を待つ罪人みたいな心地で、そっとドアノブを回す。





部屋の中は、前にクラスメイトの課題を集めて提出しに来たときとあまり変わってないように見えた。


棚に入りきらなくて机や床に積み上げられたたくさんの本。壁際にはなにに使うかよくわからない埃をかぶった謎の教材や畳んだダンボールがたてかけられている。


机の上の本をかき分けて作った小さなスペースでパソコンのギーボードを叩いていた先生は、わたしが部屋に入るとキィと椅子を鳴らして振り返った。


「南里さんが私を訪ねてくるなんて珍しいですね。なにか困ったことでもありましたか?」


黒縁の眼鏡の奥で、切れ長の目が心配そうに細まる。姿勢のいいひと。毎日シワひとつない白いシャツを着て、短い黒髪のセットは流行りに合わせてときどき小さく変えている。宮沢賢治オタクの国語科教師。二年四組の担任。すきな食べものはカレーライスで、愛猫の名前はわさび。


斎藤光先生。わたしの、すきなひと。





「南里さん? 大丈夫ですか?」


「あっ、大丈夫です! 本当に。特に、何かあるわけじゃないんです」


口を開かないわたしを見かねて立ち上がった先生の椅子がギィと大きく音をたてたおかげで、内側に向いていた気持ちが先生の方へと戻る。


レンズの向こうのやさしい目に、思い出したように心臓がまた騒がしくなって、耐えきれずにシャツの襟元を見つめてしまう。



ここまで来たのだから、もう選択肢はひとつだった。



「あの、大したことじゃないんですけど、」


嘘つき。大したことのくせに。ここまで急いで訪ねてきてしまうくらいに。



「ちょっと聞きたいことがあって」


声が震える。先生がちいさく首を傾げたのが、気配でわかった。どこまでもやさしいその仕草に背中を押されて、ゆっくりと顔を上げる。目が合う。



「先生、あの」


困らせるとわかっていて、それでも聞かずにはいられなかった。気がついたら足が勝手にこの部屋に向かっていた。確かめたい、今すぐに。クラスの目立つグループの女の子たちのうわさ話。ねえねえ、さっき職員室の前通ったら聞こえちゃったんだけど、



聞いてしまったら、終わりだ。




「先生、結婚するって本当ですか」




ひかる先生、結婚するらしいよ。







先生の眉毛がぴんっと上がって、すとんと元通りになるところを眺めている間、この時間がずっと続くのかと思った。続けばいいのに、かもしれない。自分で聞きに来たくせに、永遠に答えてほしくなかった。


眉毛がおりたあとの微笑みで、ぜんぶ、わかってしまったから。



「はい、本当です」


短く、はっきりと、笑って先生は言った。はじめて見る笑いかたのせいで、目の前にいるのに、どこか遠くに行ってしまったみたいに思えた。


なにも言葉が出てこない。自分が今、どんな顔をしているのかもわからない。



「四組のみんなにはもう少ししてから話す予定だったのですが、もう知られてしまったみたいですね」



うっすらと困った顔をした先生が、どこで聞いたのか、と尋ねてこないことがありがたかった。なにを聞かれてもたぶん、まともな返事ができないから。



その代わりにまっすぐに目を見て、なんとか一言だけ、体の奥底から引っ張り出すようにして伝える。この部屋に来るまでの間にさんざん練習した、これだけは。



「おめでとう、ございます」



声と一緒に、握りしめた手も震えた。笑え、笑え、笑え。がんばれわたし。愛想笑いで鍛えた表情筋、これまでの人生でいちばん、ここぞという使い時だ。ぜったいに、泣いちゃだめ。



「ありがとう、南里さん」



きりっとした眉毛が少し下がって、目がなくなるくらいにっこりと笑って、先生が告げる。涙がこぼれないように、目に焼きつけるように、その笑顔をじっと見つめた。





叶うはずのない想いだったから、毎日見つめているだけで十分だった。宮沢賢治の作品の中ではやまなしがいちばんすきなことや、家に帰ると愛猫がクッションで丸まっているのがかわいいこと。そういう、時折ホームルームでこぼれるひとつひとつを大切に集めるだけでよかった。


だけどたぶん、先生と結婚するひとは、カレーライスは甘口派なのか辛口派なのか知っていて、どうして猫の名前をわさびにしたのか知っていて、なにより、そのひとと話すときの先生は、わたしたちの先生ではないのだ。



ひとりでこの部屋を訪ねられないわたしは、この恋の結末を、ずっと知っていた。






「タイミングは予想外でしたが、祝ってもらえてうれしいです。本当にありがとう」



誰にも知られなかったこの気持ちの終わりが、こんなに幸せそうな声なことが苦しくて苦しくて痛いのに、こんな風に笑う先生を一瞬でもひとりじめできたことが、すこしだけうれしい。


うれしいことが、とても痛い。




これから先もきっと、わたし一人だけが知っている恋だから。このくらいのわがままは、伝えても許されるだろうか。


「先生、結婚式には呼んでください」



おいしいごはんも綺麗なブーケもいらないけれど、幸せになるあなたの姿を、ちゃんと自分の目で見たい。


それから、できれば、お祝いしてくれたいい生徒の南里さんとして、先生のどこかにしばらくひっそりと住まわせてもらえたら、いいなあと思う。




先生のウェディングドレス姿が楽しみです、と伝えるとき、今まででいちばん上手に笑えた気がした。





「ベリーショートの花嫁さんっておかしくないかしら」


「そんなことないですよ。先生なら、きっととても素敵です」






『花束はいらない』Fin.


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