第五章 南郊祭天

 杜陽の目は、いくら無遠慮と取られてでも、男の下半身を何度も往復しないではおれなかった。

 それも道理である。なぜなら男は、六花が剣士だと紹介する通り、筋肉が盛り上がるほどの上半身を持ちながら、下半身はといえば、俊敏な足さばきを可能にする両足を欠いていたのだから。

「私は班仲はんちゅうと申します。ひと月ほど前まで衛兵隊長の任を預かっておりました。六の姫君から、至急参上するようにとのお達しを承りましたが、一体いかなるご用でございましょうか」

 班仲は、年のころは三十ほどである。若白髪の目立つ髪を後ろで一つに束ねている。前髪の下から相手を見上げる強い眼光は、皇女を前にしても衰えることがない。

 班仲の口ぶりからすると、この武人にもまだ、六花がなぜ自分をここに呼び寄せたのかわかっていないようだった。

 楽斉が、班仲の下半身に目を走らせた。

「私は、楽斉と申す僧侶でございます。いまは訳あって六花さまにお仕えしております。班仲どの、あなたは、突然人が雲に乗って空から降りてきても、冷静を保っておられることからして、大変豪胆な方とお見受けいたします。失礼ながらお尋ねしますが、そのような方がどうしたわけで、両足を失う次第となったのでしょうか」

 班仲は、両の拳で体を支え、落ち着いた声で答えた。

「ひと月前に、〈花嫁〉行列が、衛兵をなぎ倒して宮城に続く門を突破したことを覚えておられますか」

「おお。では、そのときに足を負傷なさったのですね」

 杜陽も、件の現場で、足が馬の体の下敷きになった衛兵隊長がいたことを思い出した。

「はい。部下には死んだ者もいるので、命が助かっただけでも幸いとすべきなのですが」

 班仲の物言いには抑制がきいていたが、予期せず剣士としての生命を絶たれたことへの言いようのない憤懣は、無精ひげの伸びた頬の痙攣から察せられた。

 六花が、地面に座り込む班仲に歩み寄った。

「剣を振るうことのできなくなったおぬしは、すぐさま衛兵隊長の任を下ろされたというわけだ。迅雷の剣士として名を馳せたことも帰らぬ過去となり、いまは日陰の役所で書類に埋もれて、不遇をかこつ身と聞く」

 姫君は、うなだれた班仲の肩を閉じた扇でぴたぴたと叩いた。

「余が、おぬしをもう一度戦場で戦える体にしてやると言ったら、どうする」

 班仲は、勢いよく顔を上げた。

「それはまことですか?」

「そのかわり、おぬしは剣士としての働きを、余のためにのみ捧げるのだぞ」

 班仲は、ぐっと頭を引き下げた。そして、叫ぶようにこう言った。

「この班仲、これまでの年月、ただ大夏帝国のために剣を振るうことのみを考えて生きてまいりました。足を失い、死んだも同然の私を生き返らせてくださるというのなら、姫さまは命の恩人でございます。どうぞ、この命をお好きにお使いください」

「よくぞ言ってくれた」

 六花は、幼いとは思えないほど艶然として微笑んだ。思わず杜陽は、身震いする。

「一体いかなる方法で、私に再び剣を取らせてくださろうというのですか」

「碧翠雲!」

 六花は、高らかによばう。それまで、人間の事情など知らぬという体で、庭をぷかぷか浮いていた雲が、すううと班仲の足元に移動した。

「楽斉、杜陽。班仲が碧翠雲に乗るのを手伝ってやれ」

 杜陽は命じられたとおりにする。男二人がかりでも持ち上げるのに苦労する班仲の巨体を軽々と乗せて、雲は音もなく中空に浮き上がった。

 さすが元衛兵隊長は、これほどの不思議の真っただ中にあっても腰を抜かさない。しかし、興奮は血の色となって頬に表れた。

「この高さから周囲を見晴らすのは、ずいぶんとひさしぶりでございます。いや、地面にはいつくばって日を暮らすというのは自然と、人を卑屈にいたしますからなあ」

 誰も何も教えなかったが、班仲は持ち前のセンスの良さから、雲の操縦の仕方を見つけて、右に左に前に後ろに、ふよふよと飛び回りはじめた。

「ほうきでかまいません。私に何か、長いものをお貸しください」

 すぐに翠薫が、自前の剣を届けた。この根っからの剣士は、早速足さばきならぬ雲さばきを練習しようというのである。

「班仲どの。さすがは剣の鬼と呼ばれた衛兵隊長。早くも新しい両足をものにしておられますな」

「足を失ってからも、毎日腕のみの素振りは欠かしませんでしたからな」

 志和に受け答えしながらも、剣さばきの稽古はやめない。先ほどまで、仙人の物見遊山のための乗り物だった碧翠雲の動きが、重く鋭い鉞を振り下ろすような速さに変わっている。

「志和どの、貴殿が私のことを六花さまのお耳に入れてくださったのですね。恩に着ますぞ」

 班仲の口振りは、その潔い人柄と同様に爽やかである。

「さて、おぬしはついさっき、もう一度おぬしに生きる機会をやった余に対して、身命を賭して忠誠を捧げると約束したな」

 六花が、腹黒い笑みを浮かべて言った。

「はっ、間違いございません」

「おぬしの両足は〈花嫁〉に潰されたようなもの。あの魔物に、返してやらねば収まりのつかぬ借りがたっぷりあろうな」

「はっ、おっしゃる通りでございます」

 この時点で、六花が何をもくろんでいるかすっかり見通した杜陽は、班仲に心の中で合唱した。

 姫君は笑みを深める。

「余の首を〈花嫁〉が狙っていることは、もちろん知っておろう?」

「はっ」

「余は、化け物などにむざむざと殺されるつもりはない。ついては班仲、おぬしを余の護衛将軍に任命する」

 班仲は、神威に打たれたように姿勢を正した。

応答する声は、はちきれんばかりの気概に満ちていた。

「謹んで拝命いたします。私の命が終わるそのときまで、私の忠誠は姫さまのものでございます」

 六花は、班仲から目を離して、臣下一同に順繰りに視線を向けた。

「〈花嫁〉の言う、余の首を差し出す期限は年明けだ。あらたまの年が立ち返るまで、まだひと月残っている。それまでに、かの化け物を倒す計画を立てる必要がある」

 幼い姫君は、そこで言葉を切って皮肉っぽく微笑した。闇色の目が黒々と光る。

「まあ、こちらにゆっくり作戦を考えさせてくれるほど、あの化け物がおとなしくしているとは思われぬが」


 新しい年を迎える前に、永安には大きな行事が一つある。

 南郊祭天である。

 冬至の夜明け前に、帝は永安の南の郊外の、天を祀る巨大な祭壇で祭祀を行う。祖霊や五穀の神を祀るのは帝の重要な仕事である。特に、天地日月の祭祀は、天下で唯一皇帝のみに許されることであった。

 一段と冷え込みが厳しい朝に、杜陽は、これはそのうち雪が降るな、と考えながら、いつも六花が過ごしている座敷に足を踏み入れた。

杜陽は、そこでぎくりと足を止める。座敷の奥に、見慣れぬ女人の姿を見つけたからである。

 皇族か貴族の女房、といったいでたちのその女人は、上品な紫色の衣を何枚か羽織って、星の間の夜空のような黒髪を背中に流している。書見台に書物を広げて読みふけっているようだった。いずれにせよ、美しい人である。

一年に一度の儀式であるからには、六花も常より凝った服装をするだろう。姫君の支度のために、臨時で手伝いに来た女房なのだろうか、と杜陽は予想した。

 冬至の前日のこの日、皇帝をはじめとした宮廷の人々は、行列を組んで南郊に出発する。各省庁の長官から後宮の宮女、数え切れない召使いたちが、正装で行列に付き従う。当然、六花たちも行列に加わることになっていた。

「おはようございまあす」

 杜陽は、愛想笑いを浮かべて女房に挨拶する。書物から目を離し、こちらを肩越しに振り返ったその顔を目にして、杜陽は一瞬にして息が止まった。

「おはようございます。今朝は寒いですね」

 いつものように謎めいた笑みを浮かべて、挨拶を返してきたのは、楽斉だったのだ。

「は⁉︎」

 驚きのあまり口をあんぐりと開けた杜陽を見て、楽斉は、ようやく自分がいまどんな格好をしているか思い出したらしい。「おっと」と言って、艶やかな長い黒髪に手を触れた。

「ちょっと楽斉、何してんの?」

「驚かせてしまい、申し訳ありません。これは変装なのです。白虎寺を出奔した私は、ここにいてはいけないことになっている人間です。南郊祭天のような公式行事に参加するときは、見た目を変える必要があるのです」

「それにしたって、作り込みすぎなんじゃないか……」

 若い僧侶は、おしろいを塗り、唇には紅までのせている。しかも、切れ長の澄んだ瞳と相まって、妖艶な雰囲気さえ漂っているのである。

「宮廷図書館である天禄閣にも、この姿で行くのですが、先日の夜、天禄閣の役人に女と間違われて、誘われました」

 楽斉は、薄い笑みを浮かべてとんでもないことを言う。

「それでどうしたんだ」

「その役人が宿直をしている夜に、宿直部屋に忍んで行きました。部屋の外から低い声で般若心経を読んでやったら、煩悩は滅された様子でしたね。頭まで布団をかぶって震えながら寝てしまいましたから」

「報復の仕方が怖えよ!」

 杜陽は、その役人に同情した。

 ぱたぱたと軽い足音が近づいてきて、座敷の障子に小さな影が差した。

 楽斉が、流れるような仕草で平伏する。

「おはようございます。姫君におかれましては、春忘れの君と呼ぶにふさわしい、晴れやかなお姿ですね」

 翠薫を伴って座敷に入ってきたのは、南郊祭天に向けて装束を整えた六花だった。

 杜陽は、楽斉の言葉に首をひねる。

「春忘れの君って?」

「若草が萌え出る野に、色とりどりの花は咲き乱れ、娘たちの衣の裾のように薄い花弁に、胡蝶は羽を休める。吹くそよ風の薫る春の美しさも、六花さまの光輝を前にしては色あせてしまうではありませんか」

 楽斉は、大仰な台詞と身振りで姫君を指し示した。

 六花は、何枚かの青や黄色のあわせを重ね、一番上に長めの表着をふわりと羽織っている。その表着は、一つの城が買えるほど見事なもので、真珠の粉をまぶしたような雪色の布に、金の糸で花蔓草の文様が縫い取られている。髪や胸元を飾る金剛石の装身具が、永遠に解けない氷の粒のようにきらめく。

 とりわけ大きな金剛石の粒にもまして、六花の頰は白く輝く。その瞳は、どんな陰惨な夜が生み出す闇よりも深い漆黒をたたえていた。それは、生き物の命を奪う、凍てつく雪原の美しさだった。

 しかし、当人の挙動は、捧げられたせっかくの賛辞も台無しにしていた。

「春忘れの君か。悪くないな」

 六花は、螺鈿の脇息にだらしなく体を預け、脇の足付き皿に盛られた饅頭を頬張る。

「そのような姿勢でおやつを召し上がりますと、消化に悪いですよ」

と、翠薫が心配するが、

「楽な姿勢でものを食う。二倍の安息が得られて結構ではないか」

などと屁理屈を言って、てんで取り合わない。

「今日は一日、ばかばかしい行列に参加しなければならぬのだ。いまのうちにしっかり休息を取っておかねば」

 そう言って、六花はまた饅頭の山に手を伸ばす。

「行事があろうとなかろうと、あなたはいつでも休息を取ってばかりじゃないですか。翠薫、風邪を引いてるんだから、奥に引き取って休んだ方がいいんじゃないか?」

 杜陽が、ごほごほと苦しそうに咳き込んでいる翠薫を慮って声をかけた。翠薫は、起きたときから頭が痛いと言っていたのだ。

 娘は、額に手を当てて申し訳なさそうに頷く。

「そうさせていただきます。肝心な時にお役に立てなくて申し訳ありません。皆さん、どうかお気をつけて」

 志和が長ギセルの煙をふっと吹いて、口を開いた。

「〈花嫁〉は、今日の行列に姿を現わすじゃろうか」

「当然現れるでしょうね。これまでの〈花嫁〉の行動法則を鑑みるに、怪異を起こすのにこれほど絶好の機会もありますまい」

 楽斉が、静かな確信を持って応じる。

 杜陽は、こそこそと袖の中を探った。彼は例によって雑用を押し付けられて、六花の軽食の用意をしたのだが、そのとき饅頭を一つ二つくすねておいたのだ。しかし、袂の中に饅頭はなかった。

 狐につままれたような顔をした杜陽に、うひゃひゃひゃひゃという調子っぱずれの嘲笑が浴びせられる。見れば、座敷の籐椅子にふんぞり返った芳樹仙が、腹を抱えて笑い転げていた。その手には、半分以上が食われた饅頭が握りしめられている。

 杜陽は、かっとなって叫んだ。

「おれの饅頭盗りやがったな! 仙人は霞でも食ってろ!」

 班仲が、剣術で鍛えた太い腕を組む。

「〈花嫁〉が来るとなれば、危ぶまれるのは桓皇后のお命ですな」

「そのことだが班仲、おぬしは碧翠雲に乗り、桓皇后の輿の上空から目を光らせておれ」

「はっ、仰せのままに」

 六花の命令に、忠実な護衛将軍は頭を下げる。

 姫君は、愛用の扇で顔をひとあおぎして、飄々とうそぶいた。

「桓皇后が殺されるのは一向に構わぬが、下手人の正体をはっきり突き止めておきたい。妃たちを惨殺したのが〈花嫁〉でなかった場合、その者は帝までをも手にかけて、この国を乗っ取ろうともくろんでおるやもしれぬ。この国を滅ぼすのは余だ。わが計画を妨げる者は、何人たりとも許さぬ」

 南郊祭天の行列は、昼前に出発した。

 六花は、杜陽と初めて出会ったときと同じ黒塗りの牛車に乗っている。臣下たちは徒歩かちである。気まぐれな神仙は、空を飛ぶならともかく、足で歩くなどばかばかしいと言って、六花の館に残った。

 この数日降り続いていた雨もやんで、空はさっぱりと晴れ渡っていた。透明な水色のタイルを敷いたような空が、どこまでも続いている。

 宮中総出の一万人の大行列である。地べたをぺたぺた歩いている杜陽の視線の高さでは、行列の全容を伺うべくもない。長い列のちょうど中程に位置する杜陽たちは、すでに官庁街の大門をくぐり抜けて市中を歩いているが、最後尾はまだ宮城を出てもいないだろう。

 杜陽たちの前を行くのは、後宮の宮女たちである。あでやかに化粧をして重たいほど宝石を身につけた美女たちは、侍女に絹の日傘を差させて、ひらりひらりと歩を進める。一方、牛車に乗った宮女たちの、後ろの簾から垂れる長い衣の裾も華やかである。

 行列は、都の目抜き通りの中心を通る。端から端まで走ったら疲れ果ててしまいそうなほど、広い横幅を持つ大通りには、宮廷人の行列を見物しようとする市井の人々が詰めかけている。

 今日一日で、一体どれだけの財布が持ち主の懐から闇へと消えるのだろうか。大永安のスリにとっては、一年に一度の稼ぎどきだろう。

押し合いへし合いをしてにぎやかな混雑の中に、異国風な一団が見えることに杜陽は気づいた。

「あそこにいる連中は?」

 高下駄を履いてしずしずと傍らを歩く楽斉は、ちら、と目をやって答えた。

「大和国からの使節団でしょう。新年を賀する儀式が近いので、外国からの朝貢使節が到着しはじめているのです。南郊祭天の盛大な行列は、大夏帝国の威信を見せつけるための示威行動パフォーマンスでもあります。大夏に衰微の影がないか、目を皿のようにしている観客を前にしたこの舞台で、帝は、化け物の跳梁を許すわけにはいかないのです」

 女に化けた楽斉は日傘をつと上げて、前方を指した。そこには、桓皇后が乗る黒檀の牛車と、その周りを十重二十重に取り囲んで、厳重な警備を敷く衛兵たちの姿がある。

 見上げれば、青空に溶けるようにして、翡翠色の雲がたなびいている。言うまでもなく班仲である。

 これだけの監視状態の中で、一体どうやって桓皇后を殺害することができるというだろう。異常な力を持たない仙丹売りはもとより、妖術を操る〈花嫁〉さえ、容易には手を出せないような状況である。

 牛車の小窓を通して、六花が皮肉っぽく言った。

「しかし、蕭夫人、蔡夫人殺しと続いて、桓皇后ひとりが何事もなかったら、疑惑が濃厚になるな。疑いを逃れるために、自作自演で何か起こすやもしれぬ」

 タタンッ、タタンッと律動的な蹄の音が近づいてきて、六花の牛車に並んだ。金の馬具を身につけた馬の持ち主は、若く凛々しい将軍のようである。と見えたのは間違いだった。

「白耀さま!」

 志和の驚きの叫びに応えて、騎乗の学花は、陽光のごとき明るい笑顔を、妹姫の臣下たちに向けた。

 皇女である白耀は、もちろん六花と同様に牛車に乗っていると思っていた。杜陽は、驚くやらあきれるやらで、どんな表情を取ったらいいかわからぬまま、

「なぜそんなお姿を?」

と尋ねる。

 白耀は、白く長い衣の下にズボンを履いていた。上には、花木に歌う鶯を精緻に描いた袖なしの胴着チョッキをまとい、北方遊牧民風の帽子までかぶっている。六花がまばゆい冬だとしたら、白耀は、薫風とともに駆けてくる軽やかな春だ。

 白耀は、にこにことして杜陽に答えた。

「〈花嫁〉の怪異が見たいの。これなら、どこで怪異が始まっても、馬で乗りつけられるでしょう」

 白耀の声が、無闇に大きいことを忘れていた。杜陽は、耳をさりげなく白耀からそらし、手で覆う。

「姉上、危ないことはやめるのだ」

 六花が、とうとう牛車の小窓から顔を覗かせて、渋い表情を作る。白耀は、ちっとも意に介さずに笑った。

「大丈夫よ。わたしには無敵の将軍霍広がついているもの。でも、あら、霍広ったらどこに行ったのかしら」

 不思議そうに自分の後ろを振り返る白耀を、志和が、白い眉を下げて見た。六花は、表情を見せないようにして、牛車の奥に引っ込んでしまう。

 窓の格子越しに、ぶっきらぼうな声が届いた。

「霍広なら、今日は留守番だろう。衛兵が、誰も彼も晴れの行列に並びたがって、宮廷は空っぽだ。責任感の強い霍広であれば、残っているはずだ」

「そうだったかしら。六花が言うなら、きっとそうね。なぜだか最近、記憶のはっきりしないことがよくあるのよ。何かとても大切なことを、忘れている気がするの」

 童女のように無心に考え込む白耀に、杜陽は胸が痛くなった。

「まあいっか」

と白耀は能天気に笑って、牛車の小窓の内側に声をかけた。

「六花。話したいことがあるの。南郊から帰ったら、わたしの館に来てちょうだい」

 それだけ言うと、白耀は馬を駆って、行列の前方に走り去ってしまった。

 その後ろ姿に追いすがるようにして、大きな雲の影が地上にすう、と差した。ぱらぱらと頰に降りかかるものがある。雨だ。

 冬の空から、きらきらと天気雨が降り注ぐ。幾千の銀の糸に見える雨滴は、天からの祝福のようだ。しばし見とれた杜陽だったが、その光景の意味することに気づいて、大声を出した。天気雨といえば、都に着いたその日に経験した〈花嫁〉行列である。

「〈花嫁〉だ!」

 パッと、立派な楼閣と壮麗な宮殿を持つ城郭都市が、空中に出現した。頭上の巨大な城郭都市は、ところどころ揺らめいて、遠近感がはっきりしない。噂に聞く海上の蜃気楼のようだった。

 長い白亜の階段を持つ宮殿を、百官が上り下りしている。彫刻で飾られた楼閣の窓の一つひとつや人々が歩くさままで、つぶさに見て取ることができる。

 誰もが口を開けて、不思議な幻に見入るなか、近衛兵の指揮官らしい男の声が飛ぶ。

「おい、ぼさっとするな! 〈花嫁〉は、派手な怪異でこちらの注意をそらして、桓皇后を狙うつもりだぞ!」

 近衛兵たちが、慌ただしく牛車を取り囲んで槍を構える。

 一方、城郭都市の幻像は、一陣の風が吹くと、現れたときと同様にさっとかき消えてしまった。

 蜃気楼が吹き払われて雲散霧消するのと同時に、青空のどこかから、何百人もの人の声を合わせたような笑い声と、馬のいななきやドタバタと走り回るような足音が響く。それもじきにやんで、いつのまにか再び晴れ渡っていた空から、太陽が日差しを投げかけていた。

 怪異が終わったことを知って、杜陽はほっと息をつく。

 桓皇后の牛車に張り付いた将軍が、何か叫んでいる。杜陽の耳は、その声を明瞭に捉えた。

「桓皇后は、ご無事であらせられる!」

 わっと歓声が上がる。周りの近衛兵の表情から、桓皇后を守りきることができた安堵と誇らしさが察せられた。

 喜びの花が咲く中で、ただ楽斉だけが浮かぬ顔をしている。

「どうしたんだよ?」

 杜陽が問うと、若い僧侶は、紅をのせた唇に長い指を当てた。

「何か釈然としないのです。私たちは本当に、桓皇后を守りおおせることができたのでしょうか」

 そう、楽斉が懸念する通り、桓皇后は同時刻、すでに首無し死体と成り果てていたのである。

 行列から数里離れた、宮中におけることであった。


「桓皇后は二人いたということですね」

 楽斉は、長い袈裟をきれいに床に広げて胡座をかいた。若い僧侶は、桓皇后は殺されたとの知らせを聞いたとき、目を大きく見開いて、しくじったという顔をしたが、いまはその苦々しい引きつりも消えて、波紋も立たない水面のような面持ちを取り戻している。

「桓皇后が、一方では行列の輿の中で無事におり、一方では宮中で殺されるなどということが、あってよいはずがありません。行列の牛車の中にいたのは、桓皇后の影武者だったということですね」

「その通りだ。皇后は用心深く、非情な女だ。侍女の一人を身代わりに立てて、自分は館の几帳の奥に隠れているとは、いかにもあの女のやりそうなことだ」

 六花は、床から一段高い繧繝縁の畳の上で、脇息に腕をのせた。

「私が警護していたのは、皇后さまではなく全くの別人であったということですか」

 行列の上空で見張り役を務めていた班仲が、拳でどん、と膝を打って悔しがった。しかし、すべては後の祭りである。

 一同は、桓皇后の訃報を聞いて、すぐに宮中に戻ってきていた。

皇后の死のことはまだ限られた人間しか知らされていない。官吏や宮女たちのほとんどは、何も知らずに行列に加わっている。皇帝は、国家の存続を天に願う、非常に重要な儀式である南郊祭天を続行していた。一部の大臣と高級官僚だけが、皇后殺害の事実を隠蔽するために狂奔している。新年の儀も済んで、各国の使節も祖国へ帰路に就く頃、病死としてひっそりと公表されることになるだろう。

「替え玉を立てても〈花嫁〉を欺くことはできなかったな。化け物め、行列にいるのは身代わりだということを、蜃気楼を出して示したのだ。ここにいるのは虚像で、本物ははるか遠くにいるとな」

 六花の口調は、苦々しいというよりも、どちらかというと〈花嫁〉の趣向に感心しているように聞こえる。

「桓皇后が殺されたとき、屋敷では何か怪異が起こったんですか?」

 杜陽が問うと、情報通の志和がひげをしごきながら答えた。

「不思議なことは、特に起こっていないようじゃ。ただ、女が一人訪ねてきたというな」

「女だって」

「ベールをかぶった女が、皇后の侍女の一人に会いに来たと。その女は、自分は下女の誰それだと名乗った。女の名前が、侍女の一人と懇意にしている下女のものだったので、女は屋敷の中に通されたのじゃ。しかし、同僚のところへ来客を告げに行った侍女が戻ったとき、女を待たせていた部屋はもぬけの殻だった。おかしいと思った直後、けたたましい悲鳴が上がったというわけじゃ」

「つまり、その正体不明の女が、一番疑わしいということだな」

 六花が腕を組む。

 杜陽は、部屋から蒸発してしまったという、女のベールの下の顔を想像して、身震いを覚えた。布の下には、血の染み込んだようにどす黒い縄の織物で覆った顔と、網目から飛び出した、黒光りする鋭い嘴しか思い描くことができなかったのだ。

「その女は、人間だったのでしょうか、魔性の者だったのでしょうか」

 楽斉の口から、するりとそんな問いが滑り出る。杜陽は、吐き出すように言った。

「こんなに惨たらしく妃たちを殺しても平気なんだ。その女がたとえ人間だったとしても、心は虎狼を食らう魔物さ」

「しかし、怪しい者に屋敷への侵入を許したとはいえ、桓皇后の部屋には、さすがに屈強な番人を置いていたのでしょうね。どうしてみすみす皇后を殺されてしまったのでしょうか」

 楽斉が問うた。これに対しても、志和が応答する。

「屈強なものがいたにはいたのじゃが、『番人』とは呼べなくてな」

「どういうことです?」

「桓皇后を守っていたのは、二頭の大虎だったのじゃ。二頭とも獰猛なことにかけては比がなく、侵入者に容赦なく襲いかかったのじゃが、返り討ちにされてしまっての。命は取り留めたが、何せ獣であるから、暗殺者の風体を証言することもできぬ」

「桓皇后という女は、人間を信用していなかったからな。どれほど手練れの兵士を使っても、そいつが敵前逃亡することを恐れたのだろう」

 六花は、嘲るように笑った。

 広間の扉の方でガタン、と音がして、寝巻き姿の娘がよろめくように入ってきた。よろよろと畳の上に座り込んだのは、翠薫だった。

 顔面は蒼白なのに、瞬きも忘れたように茫然と開いた目のふちだけが赤い。髪も乱れていて、一目で体調が悪いとわかる様子だった。

 杜陽が腰を浮かして、座り込む翠薫に声をかける。

「翠薫。めちゃくちゃ風邪が悪化してるじゃないか。奥で休んでなきゃ駄目だろ」

「桓皇后が……」

 翠薫の声は、息を吸い込みながら悲鳴を出すように苦しげである。

「ああ。殺されてしまったんだ」

 翠薫が、高熱のためか焦点の定まらない目を杜陽に向ける。杜陽は、目を合わせてはいけない何かと目を合わせてしまったような気がした。

 娘は、まるでそのまま皮を剥ぎ取ろうとするかのように、顔に強く両手を押し当てた。

 杜陽の傍らの楽斉が、さっと風を起こして立ち上がり、翠薫のそばに歩み寄る。横に膝をつくと、娘の手を顔から優しく外してやった。

若い僧侶は、あらわになった翠薫の顔を覗き込む。

「翠薫。あなたは熱があって、ひどく取り乱しているのです。大丈夫。深く眠って目覚めたときには、気持ちも落ち着いていますよ」

 小さな子をあやすように、楽斉はいたわりに満ちた声で説く。僧侶の顔を見た途端、翠薫の目に、絶望の闇が墨汁のように一瞬にして広がり尽くすのを、杜陽は見た。

「わたしは、わたしは……っ」

 血をはくように叫びかけた翠薫を、六花がいらだたしげに遮った。

「翠薫! いいから寝床に戻れ!」

 背中を木の勺で容赦なく叩くような厳しい声に、翠薫はびくっと身を震わせた。少し自分を取り戻して、額を床にこすりつけて平伏する。

「……お見苦しいところを。申し訳ありませんでした」

 消え入りそうな声で言うと、誰とも目を合わせずにうつむいて、広間を退出した。

 翠薫が、どうしてあれほどまでに動揺して、ほとんど恐怖に心を蝕まれてさえいたのか、杜陽にはわからなかった。

 六花が、何事もなかったかのような口調で言った。

「さて、そろそろ姉上も帰っている頃合いだろう。約束どおり訪ねてみようではないか」

 翠薫のおかしな様子をいぶかしく思いつつも、杜陽は立ち上がった。

「白耀さまは、こんなときに一体何のご用なんでしょうね」

「さあな。どうせいつもの気まぐれで、たいしたことではないのだろう」

 六花が、気が無さそうに言ったとき、屋敷の奥のほうからがたんばたん、と何かが暴れているような大きな音が聞こえた。


 一同が駆け込んでみると、納戸は、空き巣に入られたように荒らされていた。繊細な細工を施された姿見が倒れ、くすんだ古代ガラスの杯やら、染付の大皿やらが、棚から落ちて粉々になっている。

 漢方薬を収めたガラス瓶も軒並み割れたのか、納戸には異様なにおいが立ち込めている。

その床で、まだ暴れたりないと主張するかのごとくのたうちまわっているのは、杜陽が持ってきた、例の木彫りの武人像だった。

「私がかけた封印が、すべて力任せに破られています」

 納戸に足を踏み入れた楽斉が、床に散らばった紙の切れ端を拾い上げた。切れ端には、楽斉が書いた「封」の字の、「土」の部分だけが残っている。

 楽斉は、六花と出会った紅葉の宴のあと、屋敷にやってきて、「強い妖気を感じます」と言うと、たちどころにこの納戸にたどり着いた。そして、木彫りの武人像を見るやいなや眉をひそめ、「烏賊墨を煮込んだよりもまだ黒い呪いが、込められているようです」と告げた。

 すぐさま法力を飛ばして正体を暴こうとしたが、込められた術の束縛が強すぎて成功しない。反対にまじないの札で武人像を封じ、納戸に結界をめぐらして、武将像にかけられた呪いが、六花たちに害をなさないように対策を講じたのだった。

 楽斉が満を持してかけた封印も解いて、武将像が暴れ出した。いまに館が消し飛ぶか、自分たちが血反吐を吐いて倒れるかと一同は緊張したが、特段何事もない。武将像は、床でごとごとと、落ち着きなく寝返りを打っているばかりである。

 「はっ」と、楽斉が、人差し指と中指をそろえて念力を飛ばすと、武将像は、透明な万力で押さえつけられたように、じりじりと振動するだけになった。楽斉は、恐れげもなくすいすいと武将像に近づくと、袂から取り出した護符付きの荒縄で、手際よく木像を縛り上げる。

「おや、その人形の持つ魔力、何やら覚えがあるな」

 そんなことを言って、納戸の戸口にひょいと顔を出したのは芳樹仙である。六花が、じろりとねめつける。

「一体どこをほっつき歩いていたのだ。余は、南郊祭天の間、館でおとなしくしていろと命じたはずだ。羽衣を焚き火にくべる準備は、いつでもできているのだぞ」

「宮中の散策をしておっただけじゃ。そうかりかりしなさんな」

と、芳樹仙は、両耳の穴に指を突っ込んでから、

「おお、そうじゃそうじゃ、魔物の城に棲む、例の化け物の魔力に似ておるのじゃ」

「何だって?」

 杜陽と班仲が大声を上げた。杜陽は、自分がとんでもないものを持ち込んでしまったと知って、ひどく青ざめる。

 そのときパシッと鋭い音がして、楽斉が短く驚きの声を発した。武将像の戒めの縄が切れて、像がまたごとごとと暴れている。

 楽斉が、悩む表情を見せた。

「私の術では、これ以上封じようがありません」

「まったく、仕様のない人間どもじゃ。一つわしが手本を見せてくれるわ」

 指に唾をつけてあごひげを整えてから、芳樹仙が前に進み出る。老仙は、複雑な形に指を組み、おもむろに何かむにゃむにゃと唱えはじめた。

「急急にして律令の如くせよ!」

 芳樹仙が、剣のように鋭く指先をそろえた手を武将像に向けると、見る間に新たな細縄が、像をがんじがらめにした。

「お見事!」

 志和が、ゆっくりと手を打つ。芳樹仙は、お得意の体で、高くはない鼻を上に向けた。

「まあ、わしくらい高位の神仙ともなれば、これしきのこと食後の腹ごなしにもならぬわ」

 急に、楽斉が芳樹仙の足元にひれ伏した。

「芳樹仙さま、お願いがございます。どうか私を、あなたさまの弟子にしてくださいませ」

「楽斉、やめとけ。こんなじじいに弟子入りしたところで、こき使われるのがおちだ」

 杜陽の忠告も耳に留めず、楽斉は仙人を見上げ、澄んだ瞳で言う。

「私は、法力も十分な強さに到達しておらず、ご覧の通り、魔性のものを調伏することすら満足にできぬ有様です。どうか芳樹仙さま、私に仙術をお授けください。芳樹仙さまのような力を身につけなければ、私は天守閣に棲む悪しき魔物に太刀打ちできますまい」

 驚くことに、仙人はあっさりと首肯した。

「よかろう」

「ありがとうございます」

「その代わり、おぬしには厳しい修行が待っておるぞ。まず、夜明け前に起きてわしのために、顔を洗うためのお湯を汲んでくるのじゃ。それから、わしが疲れたと言えば背に負い、汗をかいたと言えば体を流す。わしが寝っ転がれば、快適にくつろげるように、扇で絶えずあおぎ、おやつとして点心を持ってくるのじゃ!」

「やっぱり、ただの小間使いじゃねえか」

 杜陽はぼそりとつぶやいた。しかし、楽斉はまっすぐな眼差しを芳樹仙に向けている。

「わかりました、お師匠さま」

「期待しておるぞ、楽斉よ」

 老仙はかか、と笑い、

「この木偶人形は、わしが強固に封じたとはいえ警戒するに越したことはない。おぬしが肌身離さず持っておれ」

と、縄でぐるぐる巻きになった武将像を、楽斉の腕に押し付けた。

 一体どんな目論見を持って、〈花嫁〉はこのような人形を寄越したのだろうか。そもそも、杜陽のもとに武将像が現れたということは、〈花嫁〉は、杜陽が六花に出会うという未来を予知していたとでもいうのだろうか。

 冷たい空気が風呂場の床を伝うように、恐ろしさが杜陽の胸をひたひたと侵食した。


「桓皇后が殺されるなんて、痛ましいことだわ。殺人者の刃が、皇帝陛下に向かなければいいけど」

 白耀は、美しい眉の間にしわを寄せた。

 その卓越した頭脳には当然、連続貴妃殺しに関する推理が浮かんでいるはずだが、白耀は自分の考えをあえて語ろうとはしなかった。

 六花の南国の庭がびっくり箱だとしたら、白耀の庭は、小さな宝箱だろう。

 緑陰をつくる大樹の下に、春になれば美しい花を咲かすだろう草木が、丁寧に植えられている。半ば茂みに埋もれるようにして、東屋や石造りの椅子が配置されている。いかにも、読書や気分転換の散歩に向きそうな庭だった。池のほとりに、三層の塔がそびえている。

 翻って邸内に目を戻せば、床には書物が足の踏み場もなく散乱している。うっかり袖が触れようものなら、なおざりにまとめられた巻物が、どこまでも広がっていってしまいそうだ。

 螺鈿細工の施された書見台を脇に追いやって、白耀は、集まった妹姫とその臣下に笑みを向ける。

「散らかったところでごめんなさいね」

「わたくしどもは、常日頃から片付けようとしているではありませんか。そのたびに、姫さまがお叱りになって、ちっとも整頓が進まないのです」

 白耀の侍女の丹華が、ここぞとばかりに抗議の声を上げる。対して、白耀はすねるように言った。

「でも丹華、簡単には片付けられないわ。床に広げた書物は、体系的に並んでるんですからね。書籍の配置がそのまま、思索の覚え書きなんだもの」

「またそのように言い訳をなさって」

「だって、本当のことだもの」

 白耀は、丹華の文句を避けるように、初対面の班仲に話を向けた。

「衛兵隊長だった頃のあなたの噂は、わたしの館でも聞いていたわ。あなたがいかに勇猛で、公正で、そして機敏であるかを、いつも侍女たちが噂していたの。その美徳は、いまのあなたになっても失われていないとわかります。それはきっと、あなたが自分を変えまいと努力した結果なのね。智勇を兼ね備え、岩のように強固な精神を持ったあなたなら、きっと六花を〈花嫁〉の魔の手から守り通してくださるでしょう」

「私に新たな命を与えてくださった六花さまのために、身を捨てる覚悟で働く所存でございます」

 班仲は、背筋を伸ばして表情を固く引き締めた。

「神仙さまは——ああ、お休みになっていらっしゃるのね」

 白耀が次に声をかけようとした相手は、綴じた書物を枕に、高いびきをかいていた。六花が足を出して、げしっと蹴り飛ばす。

「姉上の前で不遜だぞ!」

「こら六花、お年寄りをないがしろに扱っちゃいけません。仙界のこと、仙術のこと、たくさんお尋ねしたいことはあるけれど、またの機会にしましょう。翠薫と志和は?」

「翠薫は風邪を引いたので、屋敷で休ませているのだ。志和に看病させている」

 六花は、言葉少なに答える。

「確かに翠薫は、南郊祭天の行列にも参加していなかったものね」

「ああ。このような非常時に体調を崩して寝込むなど、情けないものだ」

「いつもはあんなに体力があって、風邪の神も寄り付けないくらいだっていうのにね」

「ここのところ、冷え込むからな」

 妹姫の目を、白耀は、黒曜石のように光る目でじっと見つめた。六花は、無表情に話を変える。

「それで、姉上の話とは何なのだ」

「悪いけれど、姉妹水入らずで話したいから、みんな席を外してくれるかしら」

 白耀の言葉に、杜陽は驚いた。白耀の表情が、普段よりも鋭いものに変わっている。宮中三千人の学者を束ねる学花としてのこの姫君の姿を、垣間見たような気がした。何だかわからないが、白耀は六花に大変なことを話そうとしているのだ。

 六花の顔には、どんな感情も浮かんでいない。

 姉妹二人のただならぬ様子を気にしながらも、芳樹仙の頭をひっぱたいて起こし、杜陽、楽斉、班仲は、退出するために腰を浮かす。

そのとき、ひゅるひゅるひゅると長く尾をひく高い音がして、何事かと考える暇もなく、どおんと一発、腹に響くような大きな音が空をとよもした。

「花火?」

 半腰の杜陽が、あぜんとしてつぶやく。彼の言う通り、威勢のいい音とともに打ち上がったのは、美しい大輪の日の花だった。

 一体、桓皇后の喪に服すべきこのときに、花火を上げようなどというばか者はどこの誰だろう。

 あっけに取られた一同の顔を、連続して咲いた幾重もの光の輪が照らす。中心の花を離れた無数の火の粉が、頭上の暗闇に金のかき傷をつくった。すぐ真上で花開く花火は、天蓋のように己に覆いかぶさってくるように感じられる。

「あんちくしょう、この屋敷の庭から花火を上げてやがる」

 班仲が、荒くれ兵士たちを束ねていた頃の口調で口走った。

 次々と打ち上がる火の花を凝然と見上げて、杜陽が独り言のように言う。

「これはもしかして、怪異なのか?」

 そのつぶやきが漏れた途端、地中の黄金を掘り出したように、庭園の草木の根元が光りはじめた。黄色の光はゆっくりと上昇し、次第に分化し、空に昇ってゆく。

 それは、数十にも及ぶかと思われる、火を入れた提灯なのだった。極めて薄い紙を貼った提灯の中の空気が、蝋燭の火に暖められて宙に浮かぶ力を得たのだ。

 とつ追いつ、しかし決して急がず、暗い空を数十の光が昇っていく光景は、安らかな魂が昇天する場面を思わせた。

 広間にいる一同は、怪異の恐ろしさも忘れて、幻想的な光の群れに見とれた。

 白耀がすっと立ち上がり、夢見るような表情でつぶやく。

「なんてきれい……」

 上昇する提灯には、視線とともにおとがいを上げ、無防備に白い首をさらさせる意図があったに違いない。

 庭園の茂みから、空を切り裂く音を立てて、銀の光が飛来した。

「危ない!」

 六花が白耀に飛びかかり、床に押し倒した。銀の光はドン、と向こうの壁に突き刺さり、一筋の広い刃を持つ剣へと姿を収束させた。

「何者だ!」

 班仲が雷のごとき声で叫び、両腕を床に降ろして弾みをつけ、躊躇なく庭に飛び降りた。体が地面に叩きつけられる前に、「碧翠雲!」と大声で呼ばわる。仙雲は音もなく現れて、足を持たない剣士を乗せて庭の奥に突進した。

 次なる攻撃を待って、一同は床に身を伏せたが、一分たち、五分たっても何も起きない。そのうち、碧翠雲に乗った班仲が、険しい顔つきで舞い戻ってきた。

「賊には逃げられたようです」

 一同は、そこでやっと体を起こした。

「皆さんは、庭に降りんほうがよろしいでしょう。地面のそこここに、花火を打ち上げるために使ったらしい筒が転がっていて、私のような者でないと、危なくてしようがありません」

 班仲は、自分の乗る雲を指差した。

「六花さま、白耀さま、お怪我はありませんか?」

 楽斉が、姫君たちの安否を確認する。

「まさか、妃のみならず白耀さまの命まで狙うとは」

「六花」

 白耀は、表情を硬直させて、自分の体に覆いかぶさる妹姫を見つめた。黒曜石の瞳の光が、消える直前の蝋燭の火のようにゆらゆらと揺れる。

「姉上、大事ないか」

 六花に声をかけられると、はっとしたように、白耀の瞳の揺れは収まった。妹姫を助け起こす。

「助けてくれてありがとう。でもこんな無茶しちゃだめよ」

 白耀に飛びついた拍子にずれた宝石の髪飾りを、きちんと直してやる。そのまま、六花の絹のような髪をすっとなでながら、白耀は憂いを含んだため息をついた。

「まったく、こんなときにどうして霍広はいないのかしら。霍広がいれば、六花が危ない目に遭うまでもなかったのにね」

「いい加減になさってください!」

 耳をつんざくような金切り声が、場を凍りつかせた。

 侍女の丹華が肩で息をして、主人をにらみつけていた。白耀があっけに取られる。丹華が、あとにどんな言葉を続けようとしているか素早く察して、楽斉が止めようとした。

「丹華どの、お待ちください——」

「どうしたの、丹華。どうしてそんな顔をしているの?」

 白耀が、びっくりして声をかけた。

丹華は胸に手を置いて、目に見えない幕を声で切って落とそうとするように、思い切って叫んだ。

「霍広さまは、亡くなってしまわれたのですよ! 天呪閣に上って〈花嫁〉を倒しなさいと、姫さまがお命じになったのではありませんか!」

 白耀の顔が蒼白になった。まるで崖の際に突然、突き飛ばされた人のようだ。

別人のような声色で口にした言葉は震えていた。

「……わたしが……、なんて?」

「どうかお許しください! お許しください、姫さま……」

 丹華は両手で顔を覆い、床に打ち伏してしまった。白耀は、その様子を信じられない、と言う目で見て、必死に周囲の人々を見回した。そして、自身の望み通りの答えをそこに探そうとした。

「どうしてみんな何も言わないの? なぜそんなに悲しい顔をするの……?」

「——姉上」

 六花の呼びかけを無視し、白耀は声を張り上げて、「霍広!」と、臣下の名前を呼んだ。喉が張り裂けても構わないと言わんばかりの大声で、

「霍広、いるんでしょう!」

と、虚空に問いかけた。

「大声で呼べば、必ず駆けつけるって約束したじゃないの。たとえ千里の外にいても、わたしが名前を呼ぶかぎり、命が尽きるそのときまでは、って——」

 白耀は、黒い瞳をいっぱいに見開いた。

 開けるにはひどく痛い思いをしなければならない箱を押さえつけようとして、白耀は失敗した。崖下に転落した姫君の細い体を、大きな杭が貫いた。

 あ、あ、あ——!

 世界にたった一つしかない、何より大切にしていたガラスの宝石を取り落としてしまった人の声で、白耀は叫んだ。これから先生きていくことになる世界からは、かけがえのない宝物がもう失われていることの絶望に、身を曲げる。それは、周りの人間まで心を引き裂く思いに駆られるほど、悲痛な声だった。

 誰が制止する暇もなかった。姫君は、裸足のまま庭に飛び降りて、池のふちの塔に駆け込んだ。重い扉を閉め、中から嬢を下ろす音が、ガチャン、と響く。

「申し訳ありません、申し訳ありません! わたくしが、思わず口を滑らせてしまったばかりに……」

 丹華が泣き出した。六花は、唇を噛む。

「こうなってしまっては、もはや責めても仕様が無い。姉上を一人にするな」

 楽斉、杜陽、班仲は、塔に駆け寄った。

白耀の名を呼びながら、一同は塔の分厚い扉を叩く。不意に、楽斉が「痛っ」と叫んで、背中に手を回した。楽斉の背負う風呂敷包みが、彼の背中を力いっぱい叩いていた。謎の武将像を入れた風呂敷である。

「このようなときに……」

 楽斉は、歯を食いしばった。

「強力な封印の術には、時間が必要です。いまは白耀さまを優先しましょう」

「皆さん、碧翠雲に乗ってください」

 班仲が「広がれ!」と命じると、翡翠色の雲は、大人数人が乗り合わせることができるほどの大きさに広がった。

 楽斉、杜陽、六花が乗り込んだ途端、雲は地上とつながっていた糸を切り離したように、ぴゅーっと加速した。

「目を離すと、すぐに人間は死んでいこうとするな」

 肩口から声がしたので、のけぞった杜陽は、危うく仙雲から落ちそうになった。

「じじい! やっと起きたか! てか、あの姫君が死のうとしてるって言いてえのか!」

「たとえ身は滅びずとも、白耀さまの心は——」

 楽斉が唇を噛む。

「姉上は、それほど弱くない」

 六花が、確信を込めた口調で断言した。


「かくこう、かくこう!」

「そんなか細い声では聞こえませんぞ」

「かくこう!」

「それくらいの大声でないと」

 小さな姫君の前に膝をついて、霍広はにかっと白い歯を見せた。

 家臣である霍広を、白耀はいつも見上げていた。偉丈夫の霍広との距離が、幼い頃はなおさら遠くて、少しでもその距離を縮めようと大声で話すようになった。

 白耀が大声で霍広の名を呼ぶたびに、敵からも味方からも恐れられる将軍の顔は、戦場での彼を知る者が見れば驚くほど、優しく綻んだ。

 宮城の堀で泳いでいる白耀を見つけたとき、霍広は、ほかの侍女たちのように、白耀の言い分を聞かずに怒ったりはしなかった。体を鍛えたいというなら、拙者に一言相談してくださいませ、と言ってから、丹華たちにひどい剣幕で怒られて、さすがにしゅんとしている白耀の頭をなでた。

「姫さまは、もし一人の兵として生まれていても、きっとひとかどの人物になられたことでしょうなあ。しかし拙者としては、姫さまが姫さまであってくださってよかった。戦場とはひどいものです」

「だけど、大夏帝国に戦を挑もうなどという国は、もうないのでしょう? わたしたちの国は安全なのよね」

 真夏の白百合が咲く庭で、白耀は霍広を見上げた。

「姫さま。未来永劫平和な国というものはございません。いま安泰に見える国境も、いつ戦場になるかわからないのです。拙者もまた、戦に駆り出されることがあるかもしれません」

 霍広は、白耀の頭に手を乗せたまま、目線を遠くに飛ばした。白耀の生まれる前、若い頃に馬で駆けた戦場の、屍の重なる風景を思い浮かべているのかもしれない。白耀には、いままでになく霍広が遠く思われた。

「霍広!」

 一層大きな声で呼ぶと、霍広は幼い姫君に顔を向けた。そして、不安そうに腕にしがみついてくる白耀に向かって、安心させるように笑った。

「ご安心ください。たとえ玉門関のはるか彼方、万里の先の戦場で戦っていても、姫さまがそのように大きな声で呼ぶなら、拙者は必ず駆けつけましょう。約束いたします。この命が尽きるそのときまでは」

「じゃあわたしも、霍広に約束する。いつか霍広が遠くに行ってしまっても、聞こえるくらい大きな声で名前を呼ぶ。霍広がまた、ここに帰ってこられるように。帰り道がわからなくなっても、わたしの居場所が見つけられるように」

 白耀が、霍広を見上げてはっきりと言うと、将軍は顔をくしゃくしゃにして笑った。


 碧翠雲に乗った杜陽たちは、瞬く間に塔の窓の中を覗き込んでいた。

「白耀さま?」

 杜陽が、恐る恐る声をかける。

 月の光に照らされて、石の床の上に白耀が座り込んでいた。

「みんな知っていたの?」

 塔内から聞こえてきた声が、案外理性的だったので、杜陽は胸をなでおろした。六花が表情を変えずに答える。

「ああ。霍広のことを知らなかったのは姉上だけだ」

「なんてこと。『学花』が聞いてあきれるわね」

 白耀は、ふうとため息をつく。

「周りのみんなには、気を遣わせてしまったわね。六花や志和、丹華にも迷惑をかけてしまった」

「姉上のためなら、誰が迷惑と思うだろうか」

 六花の言葉に、白耀はつらそうな表情をした。

「霍広を、わたしが殺したのね。無敵の将軍なら〈花嫁〉だって倒せるだろうと、軽い気持ちで送り出したばっかりに、大切な人を失ってしまったのね。わたし、霍広が生きているときには、ちっとも思いやってあげなかった。いつもわがままで困らせて、どこにでも霍広がお伴することをうとましいとさえ思っていたの。ただ一言、守ってくれてありがとうと伝えればよかった」

 そこで初めて、白耀は泣き始めた。漆黒の瞳から涙が落ちて月の光に輝くのを、雲上の四人は声もなく見つめた。

「霍広を弔ってやろう、姉上。姉上に知られてはならなかったから、まだ葬式も挙げていないのだ」

 六花が、雲から窓に飛び移って、塔の中にぺたりと降り立った。白耀の傍らに立つと、冷たい床についていた姉姫の手を、自らの小さな手ですくい上げる。

 白耀の目から、涙が一粒ぽろりとこぼれた。

「そうね。きちんと送り出してあげなきゃね」

 白耀が涙を振り払うようにそう言い切るやいなや、楽斉が「あっ」と叫んだ。杜陽は、武人像を入れた風呂敷包みを、楽斉が背中から引き剥がすのを見た。

「伏せてください! 武将像の放つ魔力が、爆発的に強くなったのです!」

 宙に浮かぶ芳樹仙が、ちっと舌打ちをした。

「やれやれ、弟子の出来が悪いと師は苦労するのう」

「あんた、まだ何も教えてねえだろ」

 杜陽が突っ込む。

「何も教えずとも、弟子は師の背中を見て勝手に学ぶものじゃ。仕方がない。どれ、お師匠さまがすぱっとさくっと封印してやろう」

 老仙は、そう言って懐を探り出した。護符やら巻物やら砂の詰まった小瓶やらが次々と引き出されては、脚下の池に吸い込まれていく。

「おっかしいのう。確かここに入れたはずじゃが」

「お師匠さま! もう限界です!」

 楽斉は、武将像を眼下の池に放り投げようとする。楽斉の手を武将像が離れた、と思う間に、ぴか、と白い光が走って杜陽は何も見えなくなった。

 数秒間、もどかしい思いで視界が戻るのを待った杜陽は、塔の内部に見慣れぬ初老の偉丈夫が出現しているのを見出した。

 杜陽たちに横顔を見せて白耀の前に立つ男の身長は、優に六尺を超えるだろう。古代の巨人の子孫のようにがっしりとした体を、甲冑になんとか収めている。

 いや、見慣れないと思ったのは勘違いで、杜陽はその偉丈夫を何度も目にしたことがあった。何分の一という小ささの木像の形で。

 のけぞった姿勢で固まった白耀が、幽霊を見るような表情でつぶやいた。

「霍広……?」

 男は、木彫りの武将像が振りかぶっていたのと同じ大剣を鞘にしまうと、ゆっくりとひざまずいた。

「いつもの元気はどこに行ったのです。そんな小さな震え声では、天呪閣まで聞こえませんよ、姫さま」

「霍広!」

 白耀は、偉丈夫の太い首に飛びついた。幼い子供のようにしっかりとしがみつきながら、姫君は泣きじゃくる。

「霍広、本当にあなたなのね? わたしの幻じゃないのね?」

 偉丈夫は、姫君を受け止めてやりながら、安心させるように笑いかけた。

「そうです。確かに姫さまの忠実な臣下ですよ」

「わたし、あなたが死んじゃったんだと思ったわ」

「そうだ、なぜ木彫りの人形などに姿を変えていたのだ」

 さすがの六花も仰天した様子で、霍広を問い詰めた。

「はい。あの忌まわしい〈花嫁〉にかけられた我が身の呪いを解くには、拙者が死んだことにならなければならなかったのです」

「一体どういうこと?」

〈花嫁〉に殺されたはずだった武人は、数奇な冒険譚を語り始めた。

「拙者が天呪閣の天辺にたどり着くと、そこは皇帝の玉座が置かれていてもおかしくない豪華な部屋でした。その真ん中の、絵柄が絶えず移り変わる絨毯の上に、あの化け物は一角の獣を従えて、悠然と座っておったのです。

 天辺にたどり着くまでに通ったいくつのも部屋や階段でも、数多くの化け物どもに襲われたのですが、拙者の敵ではありませんでした。一つ目の獅子や巨大な龍よりも、いくら襖を開けても終わらない千畳敷や、途中で分岐し、時に途切れている急な階段が拙者を疲弊させました。

 蛇の尾を持つ怪鳥を斬り伏せて最後の階段を駆け上がった先で、緋色の布の海の中に腰を下ろす〈花嫁〉と顔を合わせたのです。壁にも天井にも緋色の布が張り張りめぐらされた最上階の部屋で、奴がしなだれかかるように寄り添っているものがありました。それは、紅水晶でできた小卓で、上に何か丸いものが載っているようなのですが、布がかぶせられていて見えません。

 拙者は、部屋の入り口に立って〈花嫁〉に向かって怒鳴りました。

『化け物め! いますぐ成敗してくれるわ!』

 すると、唸り声を上げる一角の獣をなだめながら、奴は笑いました。都中の赤ん坊の心臓を止めてしまうような、身の毛もよだつ笑い声なのです。顔の半分はベールで隠されているので、毒々しい真っ赤な唇が見えるばかりです。

『人間ごときがわれを倒そうなど、笑止。しかし、ここまでたどり着いたのは大したものだ。この城を上り詰めてわれに対面することができたのは、そなたでようやく二人めだからな。褒美に、わが君との謁見を許してやろう』

 そのような内容のことを言って、〈花嫁〉は長い爪を生やした手で拙者を招きました。すると、不思議なことに体が自分の意思のままに動かなくなり、ずるずると〈花嫁〉のほうへ引き寄せられていくのです。

 拙者が、心臓に冷や汗をかく思いで否応無しに引きずられていく一方、あの化け物は、小卓の上の布をかけられた何かに優しく語りかけていました。

『わが殿、お休みのところ申し訳ありませんが、わが殿の城を汚した武人にお顔を見せてやってくださいまし』

 〈花嫁〉が布の端を引くと、絹の布はしゅるりと落ちました。

 拙者がそのとき感じた恐怖と嫌悪は、おそらく誰も想像できないでしょう。

 拙者は、男の生首と顔を見合わせていました。紅水晶の卓に据えられた生首は、血も拭き取られて腐敗の兆しも見えず、まったくきれいなものでした。ただ、目だけは皿のようにかっ開いて、二つの大きな金剛石がぎらぎらと燃えているみたいでしたよ。もう二十年も前、初陣で敵の前に立ったときだって、あれほど身の凍る思いはしませんでした。

 兵士に広まった怪談話として話半分に聞いていた、〈花嫁〉と男の生首の話を思い出しました。奴が、恋い焦がれた末に命を奪ったという男の首。目の前の生首が、この化け物の妖力の源なのだと、拙者は直感したのです。愛していた男の生首に対する妄執こそが、〈花嫁〉に魔物の命を与えたのだと。

 生首を前に声も出ない拙者に、〈花嫁〉は、耳に毒の蜜を注ぎ込むような口調で言いました。

『われの城に上ってくるほどの勇者ならば、さぞ首も生きのいいことであろうな?』

 拙者がぞっとして顔を引きつらせると、あの化け物は嘲笑いました。

『安心せよ。醜男の首など欲しゅうない。われが廂を貸してやっている皇帝の、六番目の姫はたぐいまれなる美しさと聞くがの』

『下賎な化け物ごときの陳列棚に、気品ある六花姫の御首が加わることは、永遠にない!』

 拙者が激昂して斬りかかるのを、〈花嫁〉は立ち上がりもせず軽く袖で止めて、

『これほどの武者を、殺してしまうのも残念だ』

というが早いか、拙者は、体が硬くなるのを感じ、目線がどんどん低くなっていったのです。

『うむ、なかなかの出来栄えだ。皇帝の幼き娘の首と並べてめでてやってもよい』

 木偶人形と化した拙者を拾い上げてあの女が笑ったとき、拙者はもう、怒りを声に出すことすらできなくなっていました。

 体そのものが拘束の鎖となり、激しい屈辱を感じていると、それまで〈花嫁〉しかいないと思っていたあの広間に、男の声が響きました。

『まことに見事な出来栄えでございます。あなたさまがもし許してくださるなら、その武人像をわたくしにいただけませんでしょうか』

 すると〈花嫁〉は、男をしげしげと見つめました。

『そなたがわれに物をねだるとは珍しい。まあよい。くれてやる』

 拙者を受け取ったのは、四十代くらいの男でした。その辺の市場を歩いていそうな、普通の人間に見えました。ただ一つ変わったところといえば、ほら、杜陽どののように、片頬に長い傷が刻まれていたことです。その男は、〈花嫁〉に尋ねました。

『この武人は、これから永遠に木彫りの像の姿なのでございますか?』

 拙者が必死に耳を澄ますなか、〈花嫁〉は答えました。

『そうだな、それでは面白くない。この者の死を、この者を知る者すべてが認めたとき、再び人の身に戻ることができるとしよう』

 拙者を受け取った男は、拙者を連れて町に降りました。そして、とある宿に置き去りにされた拙者の次の持ち主となったのが、杜陽どのです。それからのことは、皆さんの知るとおりです」

 長い話を語り終えて、霍広は、まだ自分の腕を握っている白耀に微笑を向けた。

「元に戻ることのできる条件を聞いたとき、快哉を叫びました。拙者の死を認めることなど、なんてたやすいことだろうと思ったからです。しかし、姫さまときたら……」

 白耀は、顔を赤くして子供のようにそっぽを向いた。

「聡い、賢い、と言われるわたしなのに、なんて聞き分けのないことだと思っているのでしょう?」

「いいえ。お心の優しい姫さまの臣下であることが、幸せだと思っているのです」

 白耀は、耳まで赤くなる。

 その様子を見ながら、杜陽は、霍広の話の中で気がかりに思ったことを口にした。

「天呪閣に〈花嫁〉と一緒にいて、木彫りの像に変えられた霍広さんをおれのところに連れてきた男のことだけど、それはやっぱり、おれの叔父なんですかね……?」

 宏渓のことを知らない白耀と霍広に事情を説明すると、霍広は丸太のような腕を組んだ。

「拙者は宏渓どのと会ったことはないが、確かに男は、杜陽どのに容貌が幾分似ておった気がしますな」

「叔父はなんで、〈花嫁〉に殺されてないんでしょう」

 杜陽が言うと、楽斉も続いて疑問点を並べた。

「その男が杜陽どのの叔父上であると確かに決まったわけではありませんが、天呪閣の外に出られるにも関わらず、そのまま逃げないのは不思議です」

「拙者が数日間、〈花嫁〉とその男の会話を聞いていたかぎり、その男が〈花嫁〉を恐れたり怖がったりしている様子はありませんでした。むしろ、男は奴に忠実に仕えているようでした」

 霍広が補足説明をする。楽斉が話をまとめた。

「なぜ、霍広どのを杜陽どのに届けさせたのかもわかりません。実際に天呪閣に上り、自分の目で確かめるしかなさそうですね。その男が六花さまの敵か味方かも、そのときにはっきりいたしましょう」

 一同がうなずく。

「あのね、霍広。今度はきちんと言えるわ」

 白耀が、思い切ったように顔を霍広に向けた。そして、忠実なる臣下をまっすぐ見つめて口を開いた。

「帰ってきてくれてありがとう。いつもわたしのそばにいてくれることに、とても感謝しているのよ」

 霍広は、巨体を折り曲げて、白耀に向けて丁寧に一礼した。

「もったいないお言葉でございます、姫さま」


第六章 高貴な大罪人 に続く

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