第四章 神仙の羽衣

「冬の暁には、銀霜の花が美しく花開くものですね」

 楽斉が、詩を詠むような口振りで言った。一睡もしないで一晩を過ごしたとは思えないほど涼やかな目は、霜が薄く降りた庭を眺めている。

「なぜ初冬の明け方に、このように寒いところにおらねばならぬのだ。余の屋敷の庭なら、霜など一片だに降りぬものを」

 六花は、日付が変わったあたりからずっと、寒い眠いと駄々をこねている。やはりこういうところは普通の子供だな、と杜陽は少し安心する。

 六花の衣には、何かの物語の一場面だろうか、菊と雁と牛車が一面に描かれている。

 厚手の着物をぎゅっと引き寄せて、六花はだるま火鉢を抱え込む。火傷いたしますよ、と心配そうに注意する翠薫を無視して、幼い姫君は、ともすればとろんと閉じそうになる目をこじ開け、若い僧侶を睨みつけた。

「こうなったのもおぬしのせいだ」

「私自身は何もはたらきかけなくとも、自然とこの詩才が人の目に留まってしまうのです。闇夜の蛍が、口を利かぬでも人々の目を引くように」

 そう楽斉は飄々と応じた。

 僧侶は、庭に面した縁側の欄干に浅く腰掛けている。簡素な僧衣の飾り気のなさが、むしろ冬の朝方によく似合い、若い僧侶の清々しさを引き立てていた。

 そんな楽斉に、ひそやかに、時にあからさまに視線を送る女官たちを、六花はいらだたしげに振り返る。

「おぬしも僧侶なら、色めきたった女たちに、煩悩を払う説法でもしてやれ」

「このように風雅な場で説法とは、野暮でしょう」

「ていうかあんた、お上から身を隠してるんじゃなかったのか? こんなところで呑気に詩を詠んでていいのかよ」

「私が白虎寺から姿を消すのは、もう少し先です」

 杜陽が、多少のやっかみを込めて言っても、楽斉は涼しい顔をしている。

「まあまあ。女官たちの目当てはむしろ、詩の勝負よりも、楽斉どののお姿を間近で拝見することだったのでしょう。紅葉の宴で見事な詩を披露したことは、すでに宮中の語り草になっておりますから」

 穏やかに取りなした志和にも、六花は噛みついた。

「それがわかっていてなお、この話を取り持った志和、おぬしにも罪はあるのだぞ。寝不足と寒さで、おぬしの大事な主人が風邪でもひいたらどうするつもりなのだ」

「蔡夫人の侍女たちに、どうしてもと頼み込まれて断りきれなかったものですから」

 宮中に顔が広い志和は、長ギセルの吸い口から唇を離して、にこにこと笑う。

 篝火の置かれぬ庭に、夜明けの気配は遠い。そこかしこに、霜とまがえるような白菊の花が咲いていた。そのうちの一部は、花びらを奥ゆかしい紫色に変えている。昨日の夜にこの館を訪れた杜陽は、まだこの贅を凝らした庭の全容を知らなかった。この庭の女主人は、蔡夫人であった。二の皇子である楚王峰雲の母親である。

 杜陽は、両手を頭の後ろに組んだ。

「それにしても、こんな時期に詩の宴を開くなんて、宮中では普通のことなんですか? 蕭夫人が亡くなって、まだひと月も経っていないというのに」

「蔡夫人は、おっとりしていた蕭夫人とは真逆で、気の強い女だ。大方、宮中の皆が〈花嫁〉に怯えて目立った行動を慎むなか、一人宴を開いて、ほかの者の怯懦を笑おうという魂胆だろう」

 杜陽は、先ほどまで詩の宴に参加していた、蔡夫人の様子を思い返した。と言っても、蔡夫人は簾の奥におり、その姿を直接見ることはなかったのだが。

 蕭夫人の葬儀は済んでいた。

 その常とは異なる死因のためか、誰もが葬儀を早く終わらせたがっていて、異様な雰囲気であった。

「そういえば、翠薫は?」

 杜陽がきょろきょろする。

「余のために温かい飲み物をもらうと言って、館に入っていったぞ」

 六花が素っ気なく答える。そして、まったく脈絡なく両腕を腰に当て、胸を張った。

「魔物の城の〈花嫁〉も、期待はずれだな。六の姫君と蔡夫人がそろった、格好の機会を用意してやったのに、現れぬとは!」

「あなたが宴を主催したわけでもないでしょうが……」

「さあ、本当に風邪を引かぬうちに、それがしたちも部屋の中に入りましょうか。楽斉どの、杜陽どの。菊の花びらを浮かべた酒を用意してくださっているようじゃ。菊の朝露を垂らした酒は、長寿をもたらすという言い伝えがあるのじゃよ」

 志和が誘う。一同は、縁側と室内を隔てる障子戸に体を向けた。

 その障子戸の向こうから、女の叫び声が聞こえた。一同は、室内に一斉に視線を向けた。

「〈花嫁〉か!」

 六花が一番に戸を飛びつき、緩く開いていたそれを叩きつけるようにして開く。

「危ないですよ!」

 そのままの勢いで室内に足を踏み入れる六花を追って、杜陽も戸口に立つ。

 途端、目の前に大きな黒い何かが覆いかぶさってきて、杜陽は尻餅をついた。

 杜陽に襲いかかってきた黒いものは、一瞬まで杜陽の上半身があったところを撫でると、鈍い動きで室内に戻っていった。

「これは何なんだ……?」

 蝋燭の灯に薄ぼんやりと照らされて、半透明のぼよぼよと立体感のある影が動き回っていた。

 よく見れば、その影のそれぞれの輪郭はいくつかに別れていて、人の影のようだった。奇妙な影たちは、部屋を埋め尽くしている。そのねじれた腕や足を上げ、腰を曲げて、不気味な踊りを演じている。

 蔡夫人の女官たちは、一人残らず怯えきって、壁に背中を押しつけている。無秩序にさまよう影の手が近づくたびに、女官から悲鳴が上がった。しかし、影からはいかなる意思も感じられず、危害を加えるようには見えなかった。

「お妃さま! お妃さまはご無事でございますか!」

 気骨のある一人の女官が、声を上げて立ち上がった。這うように、蔡夫人のいる簾に近づこうとする。

 そのとき、女官の前で志和が胸を鷲づかみにしてくずおれた。

「ああ! 心臓が……!」

 苦しそうに顔をゆがめている。

「じいさんの心臓が、刺激に耐えられなかったんだ!」

 杜陽が、額に冷や汗を浮かべて叫ぶ。

「志和さま⁉︎」

 女官は、志和と顔見知りらしい。目の前で倒れこむ志和に駆け寄った。

「しっかりしてください!」

 ジジ、と蝋燭の芯の燃える音がした。簾の向こうがぱっと明るくなる。

 杜陽は、心の中であっと叫んだ。

 簾には、蔡夫人らしき座りこむ影と、その側に立つ何者かの影が映ったのだ。正体不明の影が構えているのは、あれは、剥き身の刀ではないだろうか。

「ぎゃああああああっ」

 簾の向こうから、度を逸した女の叫び声がした。立っている女が刀を振りかぶり、素早く横になぐ。

 蔡夫人の頭部の影が消える。ごとん、と何か重い物が落ちる音を、切られた首が立てた物音だとは、杜陽は思いたくなかった。

 間欠泉のように勢いよく血飛沫が吹き出して、簾を染めた。首を失った胴体が、仰向けに倒れる。

 蝋燭の火が消えて、蔡夫人を殺した者の影は消えた。

「お妃さま!」

 志和を腕に抱えていた女官は、簾に駆け寄ろうとして、寸の間ためらった。

 その隙をついて、天井に頭を擦りつけるほど大きな白蛇が出現した。女官の行く手を阻むように、鎌首をもたげる。

 巨大な光る二つの目玉は、金剛石のようだ。雲母に似た光沢を放つ白い鱗は、ぬめりと濡れている。

 大蛇は、豪速で首を伸ばすと、黒い影に牙を立てた。わらわらと逃げ惑う、ふやふやした半透明の人影を、圧倒的な力を見せつけるように食い荒らす。

 瞬く間に影を平らげると、大蛇は、志和を抱きかかえた女官を見下ろした。逃げることもできず、女官は大蛇を見上げたまますくむ。

 首を振り下ろすために、大蛇は頭を最高点に上げて一瞬静止した。

 一本の矢が空を切り裂いて、大蛇の輝く片目に突き立った。

 かと思うと、大蛇はふっとかき消えて、矢は背後の壁にビン、と突き刺さった。

 はっと振り向くとそこには、どこから取り出したものか弓を手にした楽斉が立っていた。

 しゃらしゃら、ばらばらと音を立てて、白蛇の鱗だけが床に落ちる。床の上の大きな鱗が、真珠のような淡い光を放った。

「お妃さま! 蔡夫人さま!」

 女官が、簾の奥を覗き込もうとするのを手で制して、楽斉が簾に大股で歩み寄った。

 凄惨な血の海になっているであろう簾の向こう側を確認しても、楽斉は表情を変えなかった。簾のこちら側にいる六花に向かって、静かに顎を引いてみせる。

 杜陽はもう、蔡夫人の死体を見る気にはならなかった。

 故郷の家で、家畜として飼っていた鶏の首を、兄が切ったときのことを思い出す。

 兄が手を休めずに包丁を動かし、鶏の首が胴体から完全に離れる。首のない鶏の体は、羽をばたばたと動かしてしばらく暴れた。血はそれほど出なかったと記憶している。

 人間は暴れたりしないんだな。

 そう思って、蔡夫人と鶏の殺害のイメージが重なることに吐き気を覚えた。

 物凄いほどの血のにおいが室内に充満してきたので、杜陽は庭に近い位置まで後退した。

 何人かの女官が、目に涙を浮かべていた。

 志和を抱き起こしていた女官が、両手で顔を覆ったので、志和の頭が床に落ちる。

 痛っ、と声を上げて志和が正気に返る。杜陽は老人の横に膝をついて、背中を支えてやった。

「大丈夫かよじいさん。姫さまは無事だから、無理しないで横になってな」

「蔡夫人は?」

「死んだよ」

「……そうか」

 志和は、がくりと頭を落とした。しかし、先ほど死にかけていたにしては、老人は存外けろりとしていた。

 廊下側の戸口に、翠薫が現れた。

「騒ぎが聞こえました。まさか……」

 杜陽が蔡夫人の死を伝えると、翠薫は無言で軽く目をつむった。詩の宴の最中には身にまとっていなかった、鮮やかな紅の長い上着を羽織っている。寒いのか、前をかき寄せていた。

 楽斉の腕に弓があるのを見て、杜陽は尋ねた。

「そうだ、楽斉。あの矢は一体……?」

「破魔矢です。あらゆる邪なものを追い払う念を込めてあります」

 楽斉が、力を込めて壁の矢を引き抜いた。その矢羽には、何やら細かい文字が記されている。

「しかし、犯人の標的が、単に皇族なら誰でもいいというわけではなく、帝の妃たちであるらしいということがはっきりしましたね。紅葉の宴のときは皇太子や帝が、今回も六花さまが同席していたというのに手も出さず、妃だけを殺していったのですから」

 楽斉が顎をつまむ。志和が反論した。

「いや、まだわかりませぬぞ。〈花嫁〉は、美しく高貴な女性を一人ずつ餌食にしておるのかもしれぬ。奴なら神通力で、姫さまが実は、皇子であることを知っておるかもしれませぬぞ」

「ということは次は、桓皇后か白耀さまが危ないっていうことになるのか?」

 杜陽は、紅葉の宴で知り合った快活で聡明な姫君のことが心配になった。

 楽斉は何事か気がかりな様子で、さらに深く考え込む。

「……本当に、〈花嫁〉が手を下しているのでしょうか?」

 楽斉の目線と六花のそれが、ばちりと交錯した。姫君は、ゆっくりと口を開く。

「このような怪異を、〈花嫁〉以外の者が起こせるとでも?」

「いいえ、怪異は間違いなく〈花嫁〉によるものだと思います。しかし殺害のほうは、〈花嫁〉の怪異に乗じた誰かほかの者の手によるのではないでしょうか」

「なぜそう考えるのだ」

「一連の事件の背後には、面白半分に事を起こす化け物ではなく、深謀を尽くした人間の意志が働いているように思えてならぬのです」

 楽斉は腕を組み、澄んだ目で障子の向こうの庭先を見つめた。

 まだ暗い空から、息の長いとんびの声が聞こえてくる。もうすぐ、雀やほかの鳥の声が庭を賑やかにするのだろう。

 山の端が赤と黄色に染まり、天頂も青く澄んでくる。やがて、朝焼けの赤色が空全体に広まっていく。地面に広がる霜が、目に痛いばかりにきらきらと輝き出していた。


 強く賢く美しく、完璧に見える楽斉にも、一つ理解しがたい困った点がある。

「キエエエエエエッ」

 楽斉の、素早い回し蹴りが虚空に炸裂する。と思ったら、腕や足をくねくねさせて踊りはじめる。

「……何をしてるんだ?」

 杜陽は、茫然としてつぶやいた。

 楽斉の緩急つけた身振りは、彼が何らかの武術を練習していると勘付かせるに足るものだったが、東西の武術に通暁した翠薫をしても首を捻らせた。

 あたかも、大夏帝国全域の武術をすべて混ぜて、子供がでたらめに作った拳法のようだ。

「ヒヨオオオオオオオオッ」

 張りつめた声とは裏腹に、ゆっくりとしたくねくね踊りを楽斉はやめない。

「あの、姫さま、この奇怪な踊りは一体何なんです?」

 縁側の日だまりに座し、六花はゆったりと笑みを浮かべて、楽斉の不可思議な踊りを眺めていた。

 蔡夫人の死という衝撃的な結末で詩の宴が幕を閉じ、六花たちは早朝に帰ってきた。それから午後遅くまでぐっすり眠り、十分な睡眠を取ったので、六花は機嫌がよいのである。姫君は悠々と答える。

「これほど有名な踊りを、おぬし知らないのか。永安の誇る、楽斉のくらげ踊りだ」

「は、はあ」

「六花さま。ご冗談はよしてくださいませ。これは白虎寺に代々伝わる、白虎寺拳法の準備体操です。寺では毎朝、出家したばかりの小坊主から、悪霊調伏で名の知れた老僧まで、みな庭に出てこの体操をいたします」

「うむ。それは壮観であろうな」

「いやいやいや。ということは、この奇妙な踊りを、楽斉がこの屋敷にきてからもやってたってことなのか? 毎日?」

「はい。寺の規則ですので」

「杜陽の阿呆は、朝寝坊だから知らないのも当たり前だがな」

「おれは夜明け前に起きて、廊下掃除とかさせられているからでしょう! あなたの命令で!」

「杜陽どのもご一緒しませんか。毎朝三十分、一週間続けるだけで、健康長寿、精神充実、法力全開! が約束されます」

「うさんくさい……」

 都随一の大寺の奇妙な慣習に、杜陽はげっそりした。

「朝っぱらから毎日、こんな奇っ怪な叫び声を聞かされていたら、頭がおかしくなりませんか」

「王者たるもの、臣下の短所を受け入れ、長所をうまく利用するものだ」

 六花は腕を組み、したり顔に言う。

 ともにおかしいと声を上げてくれるものはいないかと、杜陽は左右を見回す。しかし、志和は「ぼけ防止によさそうじゃの」と、嬉しそうに見よう見まねで手を動かしはじめるし、翠薫は翠薫で、楽斉の一挙一動を真面目な顔で見つめていた。

「舞の動きに使ってみようかしら」

「悪いことは言わない。それはやめとけ」

 杜陽は、真剣な声音で言った。

 志和が、帝の意向を報告する。

「今朝方に起こった蔡夫人の殺害ですが、陛下は公にしないおつもりのようでございます」

「やはりな。先の蕭夫人の死も、病死としているのだ。日をおかず妃がまた死ねば、王朝滅亡の兆ありと、民が騒ぎ出すだろう」

 六花は、自分の予想が当たったことに満足そうだった。

「ほんと、じいさんは宮中の噂を聞きつけるのが早いなあ」

と、杜陽が感心すると、

「なに、人より少し本を多く読んだだけのじじいが、宮中の者に助言を請われて、おこがましくも相談に乗っているだけじゃ。一度相談に乗った者は、挨拶がわりにいろんな話をしてくれるでの。宮中の奥の事情でも」

と、志和は好々爺然とした笑みを浮かべた。

「楽斉。おぬしが、妃たちの殺害が〈花嫁〉以外による者だと考える根拠を聞こうではないか」

 楽斉は、三点倒立で上げていた足をそっと地面に下ろし、言葉をまとめるために沈黙を置いた。

「犯人の標的が、妃に限られていることに違和感を覚えるのです。〈花嫁〉の目的はただ、皇帝を恐怖に陥れ、永安を混乱させることであるはずです。それなら、殺害する人物は、必ずしも妃でなくともよいのではありますまいか。むしろ、宰相や大臣の首をはねたほうが、効果的であるように思います」

「それでは楽斉は、どのような人間が、二人の妃を殺したと考える?」

「蔡夫人と蕭夫人に、個人的な恨みや憎しみを抱く人物——桓皇后の影が浮かびあがりますな」

 楽斉は、不敬罪として処刑されてもおかしくないことをさらりと口にした。

「帝の寵愛の醜い取り合いか。いや、妃たちが奪い合っているのは、自身の権威か?」

 六花は、口元に冷笑を浮かべた。

 寵愛をめぐる後宮の殺人など、まるで故郷でよく聞いた講談の世界だ、と講談好きの杜陽は、心の中で興奮する。

「確かに桓皇后は、犯人の疑いのある者の一覧に入れてもよいな。ほかに可能性が考えられる者は?」

「それがしは、仙丹売りを挙げます」

 志和が、思いきったように言った。

「きゃつは陛下に取り入り、近頃では政にも口を出しておるとか。お妃さま方はそれを面白くなく思い、仙丹売りを身辺から遠ざけてほしい旨を陛下に上奏していたと、聞き及んでおりますぞ」

「確かにあいつら怪しいですよ。薬の材料にするために、人殺しにも慣れてそうですし。人の目玉とか、内臓の乾燥したやつとか」

 杜陽が、すかさず援護射撃をした。紅葉の宴の夜、〈花嫁〉の金魚の群れが現れたあとで、金魚の血を小瓶に集める仙丹売りの、強烈な印象がよみがえったのである。

「しかし、人間が妃を殺したというなら、問題が一つある。〈花嫁〉が気まぐれに起こす怪異に、どうやって殺人のタイミングを合わせているのか、だ」

 六花の正確な指摘に、一同は黙り込んだ。

「宴やら式典やら、あの化け物が、華やかな行事を選んで怪異を起こす傾向があることは予想がつく。紅葉の宴には、もちろん桓皇后や仙丹売りも出席していたから、〈花嫁〉の仕業に見せかけるため、怪異の直後に殺害を行うことは可能だろう。だが、蔡夫人の主催した詩の宴にはどちらも招待されていなかったのだぞ。どうして怪異の起きる頃合いを見計らって、蔡夫人を殺すことができよう」

「蔡夫人の召使いに、桓皇后か仙丹売りの内通者が潜んでいたのではありませんか」

「ばか。ただ情報を流させるだけの内通者であれば、金を握らせていくらでも作れようが、蕭夫人の首を切り落としたのは、あれはかなりの手練れの仕事だ。日頃活発に運動しない侍女連中に紛れていられるはずがない」

「うーん。では、内通者が、怪異の発生だけを武術に長けた協力者に伝えて、その協力者が犯行に及んだ、ということは?」

「その協力者というのは、犯行まで一体どこに隠れていたのだ」

「屋敷の中にも外にも、招かれていない者が立ち入ることはできませんでした。廊下にも屋敷の周りにも、等間隔に衛士が並んで、随分厳重に警護しておりましたから」

 楽斉が、杜陽の説を否定した。

「蔡夫人は、挑戦的で気が強いが、同時に異常なほど用心深い女でもあったからな」

「むしろ、衛士の中に密偵者がいたのではございませんか。〈花嫁〉の怪異に皆が気を取られた隙に、そやつは部屋に忍び込む。犯人は、まんまと凶行をやり遂げます。殺人活劇をそれがしたちにたっぷりと見せつけたあと、大蛇に注目が集まった隙に、犯人がするりと逃げ出すのは容易でございます」

 志和が推理を披露した。六花が問う。

「それでは、紅葉の宴で蕭夫人を殺したのも〈花嫁〉ではなく、おぬしの言い分では仙丹売りということなのだな?」

「さようにございます。紅葉の宴では、殺人はさらにたやすかったことでしょう。王族、貴族、大臣、官吏ならびにその召使いたちが始終行ったり来たりしていたのでございますから。仙丹売りの息のかかった暗殺者は、宴の間じゅう、蕭夫人のいるテントをひそかにうかがっていたのでしょう。そして、突然現れた金魚の群れに誰もが目を奪われていたところ、哀れな蕭夫人をテントの裏手に引き込んで、悲鳴も上げさせぬうちに、首をはねたのでございます」

 杜陽はふむう、と唸り、腕を組む。

「やっぱり、人間が殺したと考えると、からくりが面倒くさいですね。〈花嫁〉が不思議な妖術で殺してくれたほうが、考えるのが楽でいいです」

「この低脳め」

 六花が罵る。楽斉が、話を最初の地点に戻す。

「しかし、繰り返しますが、〈花嫁〉に妃たちが狙われる必然性が見えてきません。妃を殺す動機を持った人間が関わっていると考えるほうが妥当でしょう」

「だけど、殺されたのはまだ二人だぜ。たまたま帝の妃が連続しただけかもしれないじゃないか」

「つまり、妃殺しの犯人をこれと決めるには、殺人がこれからも続かなければならないというわけだな」

 六花は、にやりと笑った。


「人殺しに魔物の怪異なんかが続いて、楽斉もおちおち修行していられないな」

 杜陽は、少し前を歩く楽斉に声をかけた。

 若い僧侶は、腕に手拭いをかけている。奇妙な体操をたっぷり一時間続けたあと、楽斉が庭園の泉で身を清めると言うので、杜陽も水を浴びるためについてきたのである。

 水を汲むと言って桶を捧げた翠薫も、黙って後ろを歩いている。

 楽斉は肩越しに少し振り返って、ちらりと笑みを見せた。

「ところがそうでもありません。僧侶としては不謹慎なことに、一連の刺激的な事件に胸を躍らせている私がいるのです」

 タイルの道は何度も折れ曲り、秘密めいた庭の奥へと杜陽たちをいざなう。ときどき道の両側に、腰丈ほどの昔の役人風の石人像が対になって並んで、一行を出迎えた。

 楽斉は、白い小さな花を咲かせた木を低い塀のようにめぐらせた一画に入り込んだ。ほのかに爽やかで甘い花の匂いが漂っている。若い僧侶は、澄んだ目で杜陽を見つめた。

「私は勤行に明け暮れる僧侶ですが、美しいものを心のままに詠うことを好む、一人の詩人でもあります。自由に感動し、憂いに心を蝕まれる詩人の心は、感情をみだりに動かすことをよしとせず、あらゆるものへの執着を断ち切るように進める僧侶の心と、時に反するものでした。だからこそ私は、天竺への仏典を求める旅を決意したのです。この身に宿る二つの心に折り合いをつけるために」

 いつもためらいなく仏道修行に見えた楽斉に、そんな迷いがあったとは。杜陽は、楽斉の意外な一面を知って、これまでよりも好感を抱いた。

「楽斉は普段、小難しいお経を読む間にも、さらさらっと詩を書きつけたりしてるよな。この前こっそり見たんだが、学のない俺なんかにも意味がわかりやすかったぜ」

 楽斉は、にこりと笑った。

「ありがとうございます」

「わたしも読みましたが、感動しました」

 翠薫も同意する。杜陽は、ふと、六花がいないこの隙に、翠薫へのかねてよりの疑問を晴らしたくなった。

「翠薫は、どうして姫さまに仕えてるんだ?」

 翠薫はふっと顔をうつ向けて、少し黙った。それから、白い花に触れながら静かな声で語り出した。

「わたしは、三年前、姫さまに拾っていただいたのです。見ての通り、わたしは見た目も西域風なら、身につけている技能も西域のものです。踊りも歌も……そして暗殺術も。わたしはもともと、姫さまを殺そうとした暗殺者だったのです」

 息を呑む杜陽のほうを、翠薫は見なかった。

「わたしは小さい頃、永安の胡人街に暮らしていました。両親のないわたしを引き取ったのは、胡人街の料亭の主人でした。わたしは、料亭の座敷で夜ごとに開かれる宴席の踊り子として育てられたのです。料亭の主人は、裏では暗殺を請け負っていました。料亭の二階のきらびやかな宴席は、ときに血なまぐさい暗殺の現場に変わりました。そして、十分に酔っ払わせた標的の胸を短剣で一突きするのは、いつもわたしの仕事だったのです。

 姫さまはある夜、お忍びで料亭にお越しになられました。あの方はそのとき、たった八歳でございました。官吏の一年分の俸給を注ぎ込んだあの一夜の宴席で、わたしは舞を披露するよう指図されました。そしていつもの通り、舞の最後には、あの方の薄い胸を刺し貫くことをも、命令されていたのです。

 かくも幼くあどけない姫君を、亡き者にせよと命じられても、わたしの心は微塵も揺らぎませんでした。

 いいえきっと、心というものがなかったのです。その頃のわたしは、窓のないがらんどうの塔のようなものでした。暗殺の命令が天辺から投げ入れられれば、虚ろな反響を繰り返しながら、どこまでも暗いはるかな下のほうへ、そのまま落ちていったのです。

 料理と、趣向を凝らした遊びと出し物。まさか、八歳の子供を酒に酔わせるわけにはいきませんでしたが、わたしの出番になる頃には夜も更けて、姫さまは、うとうとと眠りかけておいででした。

 しかし、楽人が弦楽器で伴奏を始めると、姫さまは目を覚まされました。胡の踊りは、中原の踊りのように、ゆったりしたものではありません。激しく律動的な踊りです。わたしは、砕いた宝石をあしらった短剣を道具にして、素早く何度も旋回しました。短剣はもうまもなく、その宝石の輝きにふさわしい貴人の胸に、吸い込まれるはずでした。

 舞が果てたあと、姫さまは、わたしをお近くにお呼びになりました。わたしは、内心好都合だと思いました。もともと、次の曲の途中で、不自然にならないように近づくつもりだったのです。

 わたしは、抜き身の短剣を持ったまま、姫さまの前にひざまずきました。そのときあの方は、思いもよらぬことをおっしゃったのです。自分の専属の踊り子にならないか、と。

 その言葉が、あまりにも思ってもみないものだったので、わたしは、暗殺の前に初めて迷いました。『おぬしの舞は、わたしの心を晴れ晴れとさせてくれる』という言葉が、わたしをさらに混乱させました。

 それまで、自分の踊りを、誰かを喜ばせるためのものだなどと考えたことはなかったのです。わたしにとっての踊りや歌は、殺意を隠すための手段でした。それまででも、料亭の客は確かに、わたしの踊りを見て、笑顔で手を叩いてくれました。けれど、その客たちをわたしは、いつも最後には自らの手で殺したのです。わたしは何度も何度も、客たちの楽しげな表情を、恐怖と苦痛のそれに変えてきたのでした。

 そう気づいて、わたしはやにわに短剣を振り上げることもできず、ぎこちなく固まってしまいました。ここで、はい、と答えさえすれば、料亭を出て宮中に行くことができる。そうすればもう、わたしの舞に喜んでくれる人を手にかけなくていいのでした。

 わたしの人生を、まるごとどこかへ連れ去ってしまうような選択肢に、わたしの心は頼りなく震えました。自分の存在価値は、暗殺術にしかないのだと思って生きてきたけれど、お前の踊りが好きだと、姫さまは初めて明言してくださったのです。

 その一瞬、わたしは、踊りの伴奏をつけてくれる、仲間の楽人たちとともに暮らした日々を忘れました。育ててくれた料亭の主人の恩を忘れました。

 わたしは、空を飛ぶために脳をほんの少ししか持たない、あの小鳥のように、お仕えします、と叫びました。

 宮中に暮らすようになってしばらくして、わたしのいた料亭が、憲兵によって摘発されたことを知りました。料亭の者たちはみな、主人も楽人も踊り子も残らず、斬首されたそうです。

 お上は、あの夜には料亭の裏の顔をとっくに知っていたのです。姫さまの暗殺を茶屋の主人に命じたのは、ほかならぬ宮中の者でした。それは、わたしたちに対する罠だったのです。わたしがあの宴席で、少しでも短剣を振り上げる素振りを見せていたなら、その場で憲兵に斬り殺されていたでしょう。姫さまがわたしをお気に召したおかげで、料亭の一党の中でわたしばかりがこの世に残されたのです。

 どうして、六花さまのような幼い皇女が、暗殺請負人検挙のおとりとして赴くことになったのか。それは、桓皇后、蔡夫人、蕭夫人が共謀して、仕組んだことだったのです。その頃はまだ、姫さまのお母上がご存命でしたから、帝に寵愛を受けていることに嫉妬した三人の妃が、たった一人のお子である姫さまを、危険な目に合わせてやろう、運悪く賊に殺されればなおいいと考えたことは、不思議でもなんでもありません。

 それからすぐに、お母上はお亡くなりになり、姫さまは後ろ盾を失いました。そのあとは、妃たちも、姫さまに構わなくなったようです。

 あの方は、ご自分の死が望まれていることをすべて了解しながら、あえて料亭に赴かれたのです。姫さまは、他者の謀略が作り出した死地に飛び込み、生きて再び帰ってくることを、自信の源にしておられます。わたしが出会った頃の姫さまは、妃や皇子たちの企みにかかって死なないために、生きておられました。あの方の母君が、世を去るまでは。

 わたしはやがて、狂ったように一つのことが気にかかりはじめました。わたしの舞を褒める姫さまの言葉は、本心から出たものだったのでしょうか。それとも、姫さまが必要としていたのは、わたしの暗殺技能だったのでしょうか。

 姫さまは、わたしに武術の師範役をお命じになりました。けれどこれまで、政敵の暗殺をお申しつけになったことは、一度もありませんでした。姫さまに仕えるようになってから、人殺しをしたことはなかったのです。そして、姫さまはときどき、わたしに舞を舞わせました。

 いまもわたしには、確かなことはわかりません。姫さまのあの夜の言葉は、はたして真実だったのかどうか。しかし、あの言葉がまるっきりの嘘だったとして、姫さまの求めているものが、わたしの暗殺技術だけだったとしても、わたしにはもう、帰るべき料亭はありません。

 死ぬはずだった、死ぬべきだった命を、救っていただいた。だからわたしは姫さまにお仕えしているのです」

 翠薫は最後まで淡々と、身の上を語った。杜陽は、娘の過去の凄絶さに圧倒されて、声も出なかった。

 六花が、自分に望んでいるのが暗殺技術だけであったとしてもかまわない、と翠薫は言った。六花が自分の救い手だから、姫君に身を捨てて仕えるのだと。

 しかし杜陽には、どうしてもそれが誤ったあり方のように思えてならなかった。杜陽の脳裏に、紅葉の宴のときに見た、翠薫の舞がよみがえった。偽りの商店街の、きっと本物よりも高価なランプに照らされ、あのときの翠薫は無心に踊っていた。

 心の底にぶくぶくと湧き上がる大粒のあぶくを、苦労して言葉にまとめ、杜陽は口を開いた。

「翠薫の踊りは、すごくきれいだよ。紅葉の宴で、あんなに落ち込んでたおれに元気をくれた。認めるのがおれなんかじゃ、全然意味ないかもしれないけどさ」

「……いいえ、そんなことありません。ありがとうございます」

 翠薫はぎこちなく言って、一等星が光を放つように微笑んだ。

「姫さまと杜陽どのが、そんなにまで心動かされる舞なら、私もぜひ見てみたいものです」

 楽斉が笑みを浮かべて、道の先に進む素振りを見せた。

 丈高い樹林に囲まれた泉が見えたとき、変わったものがそのそばにあることに最初に気づいたのは、杜陽だった。

「あれ、誰か先に水浴びしてるな。脇の木の枝に着物が掛けてある」

 六花に断りなく庭の泉を使うものが、姫君の屋敷にいるはずもない。知らない人物が侵入していると知って、翠薫の目が鋭くなった。

しかし、殺気を放つ翠薫の隣で、杜陽は暢気に色めきたった。

「んん⁉ あの着物の美しさといったらないな。天山の霧のように真白く、虹の光沢が走っているじゃないか。只人の持ち物とも見えない。まさか、天女の羽衣じゃないか⁉」

「天女がときたま人界に降りて、澄んだ泉で身をすすぐとは、確かに古歌にもありますね」

 楽斉が、数珠を手繰り寄せながら応じる。

 杜陽は、足音を盗んで泉に近づくと、枝にかけられていた羽衣をさっとひったくってこちらに戻ってきた。あ、と楽斉が止めるのも間に合わないほどの早業だった。

 杜陽は、羽衣を広げてつくづくと見入る。

「ほんとにきれいだ。軽くて薄いのに、透明な結晶みたいに奥行きがあるように見える、不思議な布だな」

「杜陽どの、それが天女の持ち物だとしても、普通のご婦人のものだとしても、いますぐ元の場所に戻したほうがいいのではありませんか。水浴びをしているのが普通のご婦人であれば、着物がなくて困りますし、天女だとしたら、羽衣がなければ天界に帰れなくなってしまうはずです」

 楽斉が、泉のほうを気づかわしげにうかがいながら、ひそひそと意見すると、杜陽は同じようにひそひそ声で返した。

「この衣は絶対、ただの人間の女のもんじゃないぜ。泉にいるのは、間違いなく天女だ。楽斉、天女のすべすべした白い背中を、ちらりとでも拝みたくないのかよ」

「私は、とうに色欲を捨てておりますので」

「くそまじめ坊主のあんたは、お呼びじゃないんだよ。詩人の楽斉は、見たいだろ。泉にいるのは、数々の名詩に詠われてきた天女なんだぜ」

「……」

 杜陽と楽斉は、驚くべき身のこなしで木の陰に身を隠した。翠薫は、泉にいるのは不審な侵入者だと早くも決めてしまって、すでに物陰から様子をうかがっている。三人は息を殺した。

 ぴちゃん——。

 薄く張った水晶の上に落ちた水滴のような音が、静かな樹間に吸い込まれる。

 ぱしゃぱしゃ、ぱしゃん。

 三人は、目と目を合わせた。茂みの向こうの人物が、泉から上がったのだ。

 先ほど衣をかけていたはずの枝に手を伸ばすも、そこに天衣はない。はっとかすかに息をのむ音。

 三人は、樹々の先に目を凝らした。もうすぐそこに、天より来たる乙女の凝脂のごとき裸身が、魚が泳ぐように優雅に、姿を見せるはずだ。

「わしの衣を盗んだ馬鹿者は、いったいどこのどいつじゃー!」

 しわがれた叫び声とともに、泉のほとりの岩の上に躍り出たのは、枯れ木のような体を真っ赤にほてらせた、全裸の老人だった。

 鶴髪を乱した老人が目の前に飛び出してきたので、杜陽は、おわわと悲鳴を上げてそのまま転んだ。座り込んだ杜陽と、仁王立ちする全裸の老人の目線が、ばちりと合う。

 老人は、自分の着物が盗られたことがよほど頭にきたものか、ふさふさした白い眉の下の三白眼を血走らせている。

 とにかく背が低い。尻餅をついた杜陽と立ち上がった老人の視線が、ぴったり水平に重なるほどだ。

 老人は、ほとんど骨ばかりの腕を振り上げて、金切り声で叫んだ。

「わしの衣を盗ったのは貴様か!」

 そして、見た目からは想像もできぬほどの素早さで、杜陽の腕にある羽衣に飛びかかった。

「ぐふっ」

 次の瞬間、息の詰まったような声を上げて悶絶したのは、杜陽ではなかった。

 危険を察知した翠薫の強烈な蹴りが、正確に老人の脇腹に入った。老人は、軽い体を吹っ飛ばされ、腹を押さえて地面をのたうち回る。

 翠薫は、老人の脇にふわりと立つと、自分の服のリボンをほどいて、見る間に手際よく老人をぐるぐる巻きに縛り上げた。

「何をするんじゃ! 放せ! そして羽衣を返せ!」

「何なんだ、この血圧高めなじいさんは」

 蓑虫のように身動きを封じられても、老人はきいきいとめいた。杜陽は、失望のあまり頭痛がしたように、手を額に当てる。

「おれの嫁さんになってくれる天女は……?」

 楽斉が、場を仕切りなおすように咳払いした。

「とにかく、このご老人を姫さまの前に連れていきましょう」


「おぬし、誰に許されて余の池で水浴をしていたのだ?」

 六花は目を光らせて、後ろ手に縛られた老人を問いただした。

 老人には、さすがに腰に巻くための布を与えてある。枝にかけてあった衣は、まだ杜陽が持っていた。

 老人は、そっぽを向いて答える。

「わしがどこで水浴びをしようと、誰に許可を求める必要もありはせん。わしは好きな場所に行き、自由に食べ、眠るのじゃ。誰の干渉も受けぬ。今日は、雲で気ままに空の散歩を楽しんでおったところ、たまたまあったかそうな泉を見つけたので、降りてまいっただけじゃ」

 六花の庭に流れる水は、温泉である。

「この庭が、大夏帝国六の姫君六花のものだと知っての行いか?」

「知るわけがなかろう。大体、これが、老人を扱う礼儀作法か。まったく、最近の若いもんには敬老精神というものが足りておらん。親の顔が見たいわい」

「あいにくと、わが父親の所業を見て育つと、老人への尊敬の念などすっかりすり減るものでな」

 処遇にぶつくさと不満をこぼす老人に対して、六花の返す言葉は冷たい。

 しかし、目の前の子供が大夏の姫君と知ってなお、態度を変えないこの老人はただ者ではない。はたして、次の瞬間老人は、このようなことを口走ったのである。

「人間が、神仙に対してかくも無礼な行いに及ぶとは、いまにきっと天帝の罰が下るであろう!」

「神仙⁉」

 一同は、声をそろえて叫んだ。

「いかにも。芳樹仙ほうじゅせんとでも呼ぶがいい」

と、あばらの浮き出た胸を張る老人には、しかし神仙の風格など風格など一向にない。長いあごひげは、地面に転んだときの枯葉を巻き込んで薄汚れているし、白髪のぼうぼうたることやまあらしのごとくである。神仙というよりいっそ、貧乏神といったほうがふさわしい。

「仙人というと、不老不死で、空を飛べちゃったりするのか?」

 杜陽は、芳樹仙と名乗る老人に尋ねた。老人は、偉そうにふん、と鼻を鳴らす。

「泰山で三十八年修業を積んで羽化登仙し、仙人になってからは、仙界の西王母の下で五百年間暮らした。空を飛ぶことなど造作もない、星座の位置を変え、彗星を流し、海の水を飲み干してしまうことも思いのままじゃ。もちろん、仙界ではかなりの階位を持っておったのじゃぞ」

「じゃあ、この純白の衣も本物の羽衣で、着ればおれでも空を飛べちゃったりするのか?」

 杜陽の手の中の衣は、足跡のない新雪のように白銀に輝いて、縫い目の一つも見えない。その軽さはといえば、本当にまだ腕にかけているのか、数秒ごとに目を戻して確認せずにはおれないほどである。

 杜陽は、霜が朝日を反射するようにまばゆい光輝を放つ羽衣を、自らの腕に通そうとした。

「やめておけい。その羽衣を着れば、おぬしがおぬしでなくなるぞ」

 芳樹仙の言葉に、杜陽は一切の動作をぴたりと止めた。するすると心地よく肌に吸いつこうとする羽衣を引きはがして、杜陽は大声で問い返す。

「おれがおれでなくなるって、どういうことだ?」

「その羽衣を着れば、おぬしの記憶のすべては消し飛ぶ。自分の名前が何で、周りの者が誰であるかはおろか、その者固有の筆跡、親しんでいた楽器の演奏の仕方や舞の振り付けまで、その者を構成しておった記憶と身体動作が、残らず消え去ってしまうのじゃ」

 芳樹仙は、事も無げに言う。杜陽はぞっとして、羽衣をなるべく身から離した。

「であるから、その羽衣を早いところわしに返せ。人間が持っていてよいものではないのだ」

 芳樹仙が、拘束された体を催促するように上下に揺する。六花が、闇色の瞳をきらめかせて、杜陽に命じた。

「杜陽、絶対にその衣を離すでないぞ。このじいさんは、羽衣なしでは帰れん。もし、衣をじいさんに渡したりしたら、余がおぬしをおぬしでなくさせてやるからな、物理的に」

「御意!」

 「物理的に」って、一体何をする気だ、たまったもんじゃない、と思いながら、杜陽は必死に羽衣を腕に抱え込んだ。芳樹仙が、身をよじってわめく。

「何を企んでおるのじゃ! さっさと羽衣を返さんととんでもないことになるぞ! 黄河が滝となって、屋敷の上に流れ落ちる!」

「それならとっくに落ちてきていてもおかしくない頃合いではないか。それなのに何事もないのは、こやつが、羽衣なしでは本来の力をまともに振るえないからではないか? つまり、羽衣をこちらで握っている限り、神仙を手なずけることができるというわけだ」

「おのれ、言わせておけば!」

 芳樹仙は、乱杭歯で歯ぎしりして、満身に力を込めた。神仙の体の上を、踊るように金色の電光がちらつく。

 一同ははっと身構えたが、芳樹仙を覆う小さな稲妻はあっけなく消えてしまった。

 はっはっは、と六花は、気に障るほど遠慮のない高笑いを上げる。芳樹仙は、姫君を穴のあくほどにらみつけた。

「見ておれ、この拘束さえなければ、手足さえ自由なら、このようにちっぽけな屋敷など、ひと呼吸の間にぺしゃんこにしてくれるのだぞ」

「不満だというのなら、すぐにでも縄を解いてやってもいいが、そのかわり、羽衣はいつでもぼろ雑巾のように切り裂くことができるのだぞ?」

 幼い姫君のほしいままな物言いに、白髪の老仙はぐぐう、とうなり声をあげた。

 芳樹仙は、今度は気持ち悪いほどの猫なで声で説得を始める。

「羽衣を返してくれるのなら、おぬしを仙界に連れて行ってやろう。普通の人間は、死んでも行くことのできぬところじゃぞ。竜の棲む霧深い池を見物して、西王母の桃園で珍しい桃をたらふく食わせてやるぞ」

「取引を持ち掛けようというのか。あいにくだが、千の庭園の都と呼ばれるこの永安が、その庭園の美しさから『空の上に天界あり、空の下に永安あり』と詠われているのを知らないのか。珍しいだけの風景なら間に合っている」

「この出不精めが。それでは、仙界にある不思議な品物をなんでもくれてやろう。定刻になるとひとりでに花弁を開いて、妙なる音楽と芳香を流す蓮の花、額に角を持つ従順な海馬、酒を注ぐたびに絵柄の変わる杯。いかなる魔法の品物も、おぬしの望むままじゃ」

 杜陽は、つらつらと並べられる仙界の品々の形容を聞いているだけで、喉が鳴った。しかし、六花はそれをもはねのける。

「そのようなものが、何の役に立つというのだ。余は、これから〈花嫁〉を討伐しようとしておるのだぞ。百発百中の矢や、豆腐のようにやすやすと敵を切りさばく剣ならともかく、宝物ではどうしようもない。それなら、羽衣を盾におぬしを意のままに操ったほうが、ずっと戦力になりそうだ」

「弓矢やら剣やらといったものもあるにはあるが、仙界の武器庫の管理は厳しいのじゃ」

「話にならぬな」

 六花に冷たくあしらわれても、芳樹仙はしつこく食い下がる。

「えい、おぬしの言う通りの効き目を持つ薬を調合してやると言ったらどうじゃ。若返りの薬に子授けの妙薬などは人気商品じゃな」

「おぬしは一体何を考えておるのだ。ただでさえ若い余に、若返りやら子授けやらの薬を飲ませて、どうしようというのだ。そもそも余は男だ。子ははらまぬ」

「なんじゃと? いまなら特典として、不老不死の秘薬をつけてやってもよいぞ」

 六花は、柳のような眉の間にしわを寄せ、

「不老不死か」

とつぶやいた。いままでどのような餌をぶら下げても、鉄仮面のごとく表情を変えなかった六花が関心を示したものだから、芳樹仙の三白眼がきらりと光った。

「ほう、姫さまは不老不死にご興味がおありか。さすがお目が高い。ほんのひとさじ飲み込めば、雪間にのぞく水仙のように可憐なその美貌を、永遠にとどめておけるぞ。そんな薬をどれ、わしが調合してしんぜよう」

 だが、六花は冷めた声で芳樹仙の提案を一蹴した。

「何がお目が高いだ。死期の差し迫ったおいぼれが、仙丹に恋い焦がれる醜さを見てみよ。しかし、山をならし海を野にする帝でも、それだけは手に入れられぬ」

 六花は、小さな顎に手をやって、あどけなく小首をかしげた。

「おぬしが、また城中のいい加減な池で水浴びをし、帝の太鼓持ちなぞにあっさり捕らえられても厄介だ。あの男が不死を得るなど、考えるだにぞっとする。ここはやはり、羽衣を余が預かり、おぬしを虜囚としてわが屋敷にとどめておくのがよかろうな」

「神仙というなら、不思議な仙術もいろいろと使います。姫さまのご計画に、必ずやお役に立ちましょう」

 楽斉が追従する。不老不死など持ち出したばかりに、墓穴を掘ってしまった芳樹仙は、スープに小虫が入っていたのを気づかずに飲んでしまったような顔になった。

「そういえばおぬしさっき、雲に乗って散歩をしていたとか言っていたな。雲を操ることができるのか」

 六花が問いかけても、すっかりつむじを曲げてしまったのか、老仙はあらぬ方向を向いて、ちっとも答えない。

「おい、姫さまに返事をしろ」

 相手が、両手を縛られて反撃できないのをいいことに、杜陽は権高に老仙を肘でつついた。素早く芳樹仙の体に、黄金色の稲妻が走る。びりりとやられた杜陽は、うぎゃっと悲鳴を上げた。

 六花が、躊躇なく命令を発する。

「翠薫、羽衣をずたずたにしてしまえ」

「承知いたしました」

「待て待て待て! 呼ぶ! いま雲を呼んでやる!」

「話が早い」

 六花は、翠薫に合図して短剣を収めさせた。

 一方芳樹仙は、強く目をつぶり、心の中で念じたようだった。突然、かっと目を見開く。

「来たれ! 碧翠雲!」

 瞬きする間もなく、そこに翡翠色の雲が浮かんでいた。杜陽は、突如目の前に出現した仙人の乗り物に、驚いてのけぞる。

「杜陽、ちょっとその雲に触れてみよ」

 六花に命じられて、杜陽はおっかなびっくり、新緑にも似た爽やかな香気を放つ翠雲に手を伸ばした。

 予想に違わず、雲はひんやりしている。しかし、指をこすり合わせても湿り気はなかった。

「鮫の歯を並べた大口の化け物に食いつかれるとでも思っているのか。怯えてないでしっかり調べろ」

 六花の声に手荒く背中を押されて、杜陽は雲のさらに奥まで手を伸ばした。指先に何か固いものが触れる。まじないのかかった剣か、はたまた蛇の精でも入れた小箱か。思わず手を引きかけたが、即座に六花の圧力を感じて、杜陽は思い切ってその物体を引き出した。

「酒瓶?」

 生じたての朝霧ばかりを集めて作ったような雲から出てきたのは、釉薬も灰色にくすんだ、陶製の酒瓶であった。中からこぼれ出した酒で、外側がべたべたしている。強烈な酒の匂いが漂った。

「おっと、そんなところまで探るんじゃない」

 芳樹仙はなぜか、帯でぐるぐる巻きにされた体をよじり、乙女のように頰を赤らめて恥じらう。

 なおも雲の内部の探索を続けた杜陽は、不思議なことに気がついた。てのひらで雲の底に近い部分を押すと、そのまま突き抜けてしまわずに、固く締まった感触が返ってくるのだ。

 志和が、芳樹仙に尋ねた。

「芳樹仙さま。この雲には、仙骨を持たぬ人間でも乗ることができるのでございますか?」

 芳樹仙は、丁寧に呼びかけられたことが嬉しかったと見えて、不機嫌な表情を少し緩めた。

「そうじゃな。それ、そこの若造、ひとつ乗り込んでみよ」

「え、おれがか?」

 いきなりの指名に、杜陽は若干たじろいだが、六花の圧力的な視線に負けて、ふよふよと蒸気を発散しながら浮かんでいる、翡翠色の雲に片足をかけた。

「よし、雲の上で姿勢を安定させたか? よいか、心の中で『碧翠雲よ、飛べ!』と念じるのじゃ」

 杜陽は、言われた通りの言葉を心の中で唱えた。『飛べ!』のとの字を思い浮かべたときには、杜陽を乗せた碧翠雲は高く舞い上がっていた。

「うわああああああああ!」

 大砲で打ち上げられたような急速な上昇に、杜陽は度を失った叫び声をあげる。雲の縁に必死にしがみつこうとするが、つかんでいるのかつかんでいないのか、感触がはっきりしないから怖くてたまらない。杜陽は、体をできる限り雲の底に密着させようとした。

 碧翠雲は、怯える乗り手にかまわずぐんぐん空を駆け上がっていく。内臓をすべて地上に置き忘れてしまったように、腹の中がすうすうと頼りない。

 きつく目をつぶっていた杜陽は、やがて雲の上昇が止まったことに気づいた。おそるおそる目を開けると、雲は上るのをやめて、同じ場所を旋回している。

 及び腰で雲の端から頭を出して、眼下を見下ろすと、六花の館が真下に見えた。庭に出た六花や翠薫が空を仰いでいるのも、小さく目に入る。館の脇の池が、きらきらと光を反射した。

 杜陽は、地上と己とのあまりの懸隔に、くらくらと眩暈を覚える。

 上空からは、いくつもの建物から成る広大な宮殿が一望できた。宮廷を訪れる者を威圧せずにはおかない、黄色の甍を乗せた大極殿。皇帝以外の男子が足を踏み入れることを禁じられた後宮の庭に、仙女のような宮女たちが遊んでいる様子も、とくと眺めることができた。

 へっぴり腰で下界の様子をちらちら眺めていた杜陽の目が、次第に輝きはじめる。若者は、快活な口調で雲に命じた。

「碧翠雲よ、都をぐるりと一周しろ!」

 雲は、好奇心という酒に心を酔わせた乗り手の命じるままに、夕霞たなびく都の上空を滑り出した。

 中原王朝の伝統通り、もともと碁盤の目状に区画された都は、多年に渡り人が暮らしたことによって、廂の連なる狭い路地を増やし、込み入った様相を呈している。樹木に屋根を覆わせて点在しているのは、文人や官僚の邸宅の庭だ。杜陽が風のように上を行き過ぎれば、それらの庭の、奇岩で飾り立てられた池が、まつげの長い佳人の瞳のように若者を見返した。

 地上のあらゆるくびきから解き放たれたように自由な心持で、都の上空をあちらこちら飛び回った杜陽が、六花の屋敷の庭に帰り着いたのは、一時間ほどのちのことだった。

 名残惜しい気持ちで碧翠雲から地上に足を下ろしたとき、六花や芳樹仙といった面々に加えて、見慣れぬ男が庭に控えていることに杜陽は気づいた。

「紹介しよう。〈花嫁〉討伐に加わる新たな剣士だ」

 赤い唇に微笑を乗せ、六花ははらりと袖を返して男を指し示す。

 しかし、杜陽が何度見直しても、筋骨隆々としたその男には、両足の膝から下がなかった。


第五章 南郊祭天 に続く

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