第三章 紅葉の宴

「だだっ広いところですねえ。これが丸ごと、たった一人のために作られた庭だっていうんですか」

 杜陽は、はあっとため息をついた。広大な庭園を歩き回って疲れたためではない。故郷での自分や家族の暮らしとの次元の違いに、胸がいっぱいになってしまったのだ。

「なんだ、せっかく連れてきてやったのに、ため息ばかりついて。来る前までは楽しみにして、鬱陶しいほどそわそわしていたではないか」

 大きな日傘の下、畳に座る六花が、杜陽の後ろから不機嫌そうに声を上げた。

 幼い姫君は、濃い赤や灯色の着物を何枚も重ね、下ろした黒髪には紅葉の髪飾りをつけていた。赤い衣の裏地の浅緑がよく映える。

 六花と杜陽たちは、皇帝の庭園で開かれる紅葉の宴に参加していた。

 皇帝の庭園は、都の郊外にある。その広さといったら、天然の山が二つと湖が一つまるまる収まるほどであった。遠くまで開けたその庭が、一面もみじしているのである。

 遠くには、秋霞のたなびく淡い色合いの山。近くには、岸辺の木の葉の色を写し取った湖が、着飾った宮女たちの乗る小舟を浮かべている。湖に流れ込む小川には、赤や黄色の落ち葉が隙間なく浮いて、その鮮やかな錦の織物を、野鴨がすーっと切り裂いていった。

 宴の席は、湖を望む木立の前にしつらえてあった。もみじの絨毯の上には大きな茣蓙が敷き広げられ、漆塗りの膳が何列にも渡って並べられている。ここには大臣や官僚、帝お気に入りの宦官が座を占めるのだ。

 身分の高い人々は、膳の料理を口に運び、酒を酌み交わしつつ談笑している。茣蓙の後ろでは、木立の木々の間では、楽人たちが優雅な管弦の音で宴に興を添えていた。

 茣蓙の続いた先には、皇帝本人がくつろぐ豪華なテントが構えている。その正面の幕は大きく開かれ、椅子に座る人物とその側に侍る人々がわずかに伺えた。

 六花は、楽人たちにほど近い、木立からもさほど離れていない場所に座を占めていた。貴婦人たちは、男性官僚の社交の場から少し離れたところに席を取っているものが多い。

 湖から風が吹くたびに散り落ちるもみじのなか、女性たちが笑いさんざめき、はしゃぐ様子は、目の覚めるように美しい光景だった。

 杜陽は、雅やかな女性たちの晴れ着姿を見ることを、紅葉狩りの楽しみの大部分として来ていたのだが、いまはその華やかな景色も、田舎出の若者の肩身を狭くした。

 六花が、お気に入りの扇でぞんざいに、畳の上に置かれた膳を指し示した。

「ほら、お前の好きなうまい飯に酒だ。食え」

「おお、これは豪勢ですねえ!」

 漆塗りの椀に盛られた料理の豊かな彩りとおいしそうな匂いに、気を落としていた杜陽も思わず歓声をあげる。

「まったく、そのように甘くもないものをよくうまそうに飲めるものだ」

 早速、嬉しそうに酒の入った瓶子を傾ける杜陽を、六花は横目に見た。口から吐く言葉は大人でも、口から入れるものはそうはいかないらしいな、と杜陽は心の中で言い返す。杜陽は、六花の箸が、目の前の器から魚や野菜を巧妙によけるのを見逃さなかった。

 姫君の脇に控える翠薫が進言する。

「姫さま、魚や野菜も残らず食べませんと、十分な栄養が取れませんよ」

「鷹や獅子は、野菜など食べなくてもあれほど強いではないか。帝王は肉さえ食べておればよいのだ」

 六花は威張って、無茶苦茶な言い逃れをする。

志和は、六花の館にいる時と変わらないくつろいだ姿で、すぱすぱと長ギセルを吸っているし、翠薫も場慣れした様子で、聞こえてくる音楽に耳を傾けているので、杜陽はすっかり疎外感を覚えた。

「どうもおれには、やんごとない方々のいる場は居心地が悪いみたいです」

 杜陽が、ぽろりと弱音を吐く。六花は嘲笑をその紅い唇の端に乗せて、扇で宴席をぐるりと指してみせた。

「やんごとない者などどこにいる。ここにいる者は皆、いまの地位にしがみついている俗物ばかりだ。皇族とのたまう者どもだって、低脳の集まりだぞ」

「皇子や皇女は、どれくらいの人数がいるんです?」

 杜陽が問うと、先ほどから杯をゆるゆると傾けながら書物を繰っていた志和が、顔を上げて答えた。

「皇子皇女合わせて、十人じゃな。その中でも、有力な皇子は三方おられる。正妃である桓皇后の子で、皇太子である鶯鳴さま。蔡夫人の子である峰雲さま。そして、蕭夫人の子である皓月さま。峰雲さまはいま南方の楚に、皓月さまは西方の秦に封じられておいでじゃ」

 皇太子殿下はほらあそこに、と志和が手で皇帝のテントのほうを指し示した。

皇帝のテントの隣に、豪勢な絹張りの椅子が置かれていて、日傘の下に、若く体格のよい男が座っているのが知れた。十八の杜陽より一回りほど年上のように見える。楽人をそばに呼んで、何か話し込んでいる様子だった。

「皇太子鶯鳴は、まつりごとよりも音楽や詩に現実逃避する、軟弱な人間だ。楚王峰雲は計略を張りめぐらすのが好きでずる賢いが、一方で余の正体にも気づかない阿呆だ。秦王皓月は、幼い頃から剣術を極めるあまり、武道とやらを信仰している狂信者さ。自分の頭で考えるということを知らぬ」

 六花が、自分の兄弟たちを容赦なくこき下ろす。

「皇女の主だった方は、ほとんど諸侯に降嫁されて、城には残っておらぬ。ただ〈学花〉さまがおられるかぎりで」

 志和が説明を続けると、六花が表情を和らげた。

「姉上だけが、泥海に咲く清浄な蓮華だな」

 皇族に関して辛辣な批判しか口にしていなかった六花の思わぬ高評価に、杜陽は驚いた。

「第五皇女の白耀びゃくようさまは、弱冠十六歳にして学問を極められ、宮廷図書館を帝から任されておいでなのじゃ。宮廷の三百人の学者を一人で論破なさる、学問の神に愛された貴い姫君を、それがしたちは敬愛を込めて、学花さまとお呼びするのじゃよ」

 志和が力を込めて言った。杜陽は、本の山に囲まれて勉強する、猫背気味の青白い娘を思い描く。

「ところで杜陽。おぬしのつまらぬ大道芸を、宴席で披露しなくてよいのか」

「ええっ、おれですか?」

 六花からの唐突な指名に、杜陽は自分の顔を指差して目を丸くした。

 六花は、澄ました顔でうなずく。

「衆目の集まるよい機会ではないか。おぬしの皿投げが失敗すれば、皆の笑いの種として少しは宴に貢献できよう」

「そんなふうに焚きつけられて、誰が見世物をやろうと思いますか……」

 杜陽には、六花の魂胆が透けて読めた。皇帝をはじめ、朝廷の高位高官のいる場で杜陽に大恥をかかせようというのだろう。

「杜陽どの。ここで見事皿投げの腕前を見せることができれば、高貴なご婦人方の心を鷲づかみにすることは間違いなしじゃ」

「志和じいさん、何ニヤニヤしてるんだ。顔が下衆くなってるぞ。あんた、高潔な儒生なんだろ」

「杜陽どののためを思って、助言してやっておるのじゃ。それがしはもちろん、四書五経一筋である」

 志和が、いかめしい顔をつくってみせた。六花が、大きな黒い瞳を彼方へ転じる。

「実際に舞台に立つ前に、ほかのものを見て手本にしたらよかろう。ほら、誰か御前に進み出たぞ」

「だからおれはやりませんって」

「畏れ多くも、皇帝陛下に詩を献上させていただきたく存じます」

 凛とした声が、杜陽の耳を捉えた。水面を渡る鐘のような声があまりにもよく通るので、耳と目でそれぞれ測った声の主までの距離が一致するまでに、時間がかかった。

 声を発した人物は、杜陽たちのいる場所から遠く、官僚たちの茣蓙の中央に膝をついていた。皇帝のテントのほうを向いているので、杜陽からは人物の背中しか見えないが、遠くからでも特徴ははっきりとつかむことができる。

 頭が青く剃髪されている、香色の袈裟をまとった若い男である。

「ほお。あの男僧侶だな」

 六花がつぶやく。

 宴席の視線が、若い僧侶に集まる。彼は低くしていた頭を上げ、背を伸ばした。左右の音楽がやむ。僧侶は、息の長い朗々とした声で詩を吟じはじめた。

 もみじする林と湖には、いつのまにか黄昏の気配が帳のように立ちこめていた。


  永安に一片の月

  風は運ぶ 桂花の香

  道に迷いて女児に逢い

  疑うらくは是れ天来の花かと


 杜陽の聞いたことのない出だしだった。おそらくは、この僧侶が耳にした伝説をもとに創作した長詩なのだろう。

 詩に歌われているのは、こんな情景である。金色の小さな花の香りに満ちた都の夜を、月に誘われた一人の青年があてもなく歩いている。彼は、迷宮のごとき路地で、地上の花ではたとえようのない美しい娘に出会う。


  此の時より相親しむ

  仲秋正に三五

  円月の鏡の如く照るは

  桂葉もまた黄に変ずればなり

  白菊は君が為に開き

  銀漢は君が為に流る

  連理比翼となることあたうれば

  如何ぞ神仙を羨まん


 月の上には、桂という美しい木が生えているという。その木も黄葉しきったように金色の光を放つ月の下で、青年と美しい娘は愛を深めていく。しかし、満ちた月は必ずかけるものだ。


  悲風黄葉を散らし

  冬色西より来たる

  天子その容光を知り

  取りて匿す 七層の塔に

  塔影は滄洲に達し

  孤高は天宮に聳ゆ

  一群れの荊を踏み折りて

  磴道をめぐりて塔に登れど

  楼上には人影なく

  唯だ蕭々として月光あるのみ


 帝は、美しい娘を召し上げ、天に傷をつけるほど高い塔に隠してしまった。青年は、苦労の末に塔の天辺にたどり着くが、そこに娘の姿はない。


  悲嘆して血涙を流し

  思うに遠月に向かいて去ると

  た君が瞳を見ること無くんば

  星移り幾秋をわたれど

  天下に音曲絶え

  地上に歓楽無し

  冬月の千里なるを恨み

  白き息に変じて昇らんことを願う

  眺め下ろせば湖面の月は

  峨々たる玉顔の如し

  く水面の月に至れば

  相見えん 桂樹の下

  一身を虚空に投ずれば

  千里の道も須臾ならん


 きっと、娘は月面に咲く桂の花の精だったのだ。下界の無情さに絶望した娘は、月に帰っていってしまったのだ。青年は、娘と再びまみえることを願って、塔の下の湖に映る月に向かって飛び降りる。

 僧侶が口を閉じてからもしばらく、詩の余韻が残響とともに漂っていた。

 息を大きく吸う音がして、拍手が起きた。

 帝が合図をして、褒美を出す。僧侶は静かに頭を下げ、帝の前から下がった。

「面白い僧でしょう、六花」

 唐突に、笑みを含んだ娘の声がして、悲恋の詩の世界に半分捕らわれていた杜陽は、びくっと肩を震わせた。

 六花は、驚きをおくびにも出さずに、ゆっくりと後ろを振り返る。

「あの僧侶に詩を披露させたのは、姉上だったのか」

 そうよ、と軽やかに答えたのは、長い衣をまとった背の高い娘だった。

 細かく砕いた宝石の粒を縫い込んだように、深紅の衣がきらきらと光る。結い上げた黒髪に、鳳凰の髪飾りが舞っている。大きな二重まぶたの目と、褐色の肌が魅力的だった。

 だがしかし、声がでかい。とにかく声が馬鹿でかい。その可憐な見た目とは裏腹な、腹からの大声を出す。

「帝が悪役の悲恋物語を、ほかならぬ本物の帝の前で吟じるとは、命知らずだ。大馬鹿者と言いたいところだが、姉上の命であれば、計算された不敵さなのだろう」

「同じように傲岸不遜などこかの姫君なら気に入ると思ってね。でも、きちんと褒美をくださった陛下はお心が広いわ。詩の美しさを、正当に評価してくださったのね」

 娘が帝を賞賛する言葉を発した途端、六花の目がつり上がった。雪のように白い頬を染めた六花の唇から、激烈な一言がほとばしった。

「あの男のことなど褒めるな! 帝は何もわかってなどいない。余興を見る、褒美をやる、という決まった手順を無批判に繰り返しているだけだ!」

 その剣幕に杜陽は身を引き、志和と翠薫も幼い主人を見つめたが、怒りを受け止めた娘のほうは、顔色を微塵も変えなかった。

 六花は少し息をついて、今度は平静な声で続ける。

「姉上はてっきり、図書館に籠もって本でも読んでいるのかと思った」

「そうしたかったのだけれど、たまには華やかな場にも出なさいと丹華が言うものだから」

 後ろに控えた侍女を、背の高い娘はおどけて睨みつけてみせる。その様子からは、六花の先ほどの憤激を気にした色は見えない。

 娘は、六花の臣下とも顔見知りらしく、翠薫に向かって「こんばんは、翠薫」と親しげに微笑みかけた。翠薫は、黙って頭を下げる。

続いて娘は、志和の読んでいた本をひょい、と覗き込んだ。

「志和、ひさしぶりね。また天禄閣にもいらっしゃいよ。詩経の註釈について、志和と考えたい部分があるのよ」

「学花さまにそんな言葉をかけていただけるなど、老いた身に過ぎたる光栄でございます。宮廷図書館には、もちろん、近いうちにお邪魔いたしましょう」

 志和が、にこりと笑って低頭する。杜陽は、学花さま⁉︎ と目を丸くした。

「この方が?」

 声のでかい娘は、驚く杜陽に目を向けた。

「もしかして、不幸にもわたしの妹の新しいしもべになってしまった人かしら?」

「しもべとは、姉上らしくもなく言葉選びが悪い。まるでこいつがものの役に立つようではないか。矢除けで十分だ」

「そんなこと言ってると、深窓の姫君っていう化けの皮が剥がれるわよ」

 杜陽はどきりとした。白耀は、妹姫が実は男であることに気づいているのだろうか。

「じゃじゃ馬姫の噂を聞いた諸侯が、お嫁に迎えてくれなくなるわ」

「噂が届くほど近くにいる諸侯に嫁ぐ気などないからいいのだ。余は、この国で一生を終えるつもりなどない」

 どうやら、妹姫の正体を知っているわけではなさそうだ、と杜陽は判断した。そんなことを杜陽が心配する義理はないのだが。

「会う前の想像とわたしが、あまりにもかけ離れていたので驚いたのでしょう」

 白耀の明晰そうな黒い瞳が、こちらをまっすぐに見つめて図星をついてきたので、杜陽はどぎまぎした。

「連日徹夜で書物を読むためには、象並みの体力が必要なのよ。本って重いから、腕に筋肉だって付くし、百人が好き勝手に自分の学説をわあわあ主張している中で意見を言うのだから、声だって大きくなるわよ」

「それにしたって、姉上、また一段と声が大きくなったのではないか。一里先の者とでも会話しておるのか」

「また一段と美しくなった、って言うならともかく、声が大きくなったとは何よ」

 顔の前に風船でもあれば、触れずに割りかねないような大声で一喝されて、六花はため息をついた。

「姉上は、余くらいの年の頃に、行方不明になって城中が大騒ぎになったことがあるのだ。結局、どこで見つかったと思う?」

「書庫の隅っことかですか?」

 杜陽が凡庸な答えを返すと、六花は蔑むような視線を向けた。

「探してみればなんと、深い城の堀で気持ちよさそうに泳いでいたのだ」

「体を鍛えるためだったのよ。わたしの庭園の池では浅いし、小さすぎるんだもの」

 宮中三百人の学者を束ねる第五皇女のおてんばぶりに、杜陽は度肝を抜かれた。

「それで、姉上は余にあの僧侶を見せてどうするつもりなのだ」

 六花が話を戻す。白耀は、素早く片目をつぶった。

「まずは、本人に会ってもらいましょう」

 太陽が一日の最後に投げかける光線で光る湖を背にして、精悍な若き僧が、こちらに歩み寄ってくるのが見えた。

 風が出て、少し肌寒くなってきた。夕闇が済んだ湖を渡って、ひたひたと木立のほうに迫ってくる。少々早いが、方々でかがり火が焚かれはじめた。

湖の向こうの山からこちらを眺めたら、小さな星が瞬いているように見えるだろう、と杜陽は想像した。

楽斉がくせいと申します」

 僧侶は、先ほど帝に対してそうしたように、日傘の下に座る六花の前に膝をついた。

 切れ長の目が印象的だった。洗練さと野性味が、不思議な割合で同居している。主従をはっきりさせる姿勢をとっているのに、体と寸分違わぬ大きさの自負がぴたりと重なっていて、傲岸さを感じさせないかわりに、卑屈さも見られない。

 六花は、ちら、と僧侶の右肩にかけられた豪奢な衣に目をやった。

「俗世の財を捨てた僧の身でありながら、褒美はしっかり受け取ったようだな」

 香を薫きしめてある、山中の鹿が織り込まれた錦の衣は、見事な詩を献上したことに対する、帝からの下賜品である。

 楽斉は、皮肉めいた言葉にも眉ひとつ動かさず、

「衣を売って、得た金で孤児を養えば、お釈迦さまの御心にも叶うことでしょう」

と、さらりと言葉を返した。帝から賜った衣を売り払うなど、とんでもないことを口にする僧侶である。

「楽斉は大胆で、とても頭が切れるの。詩を作るのも上手いわ。それに、都一の大寺院である白虎寺でも並ぶ者のない、法力の強さで有名なのよ。この楽斉を、あなたのしもべの一人に加えなさいよ」

 白耀は、こちらが思っても見ないことを口にする。

「それは願ってもない申し出だ。杜陽などよりよっぽど役に立ちそうだ。しかしどうして? 姉上のことだから、何か企みがあるのだろう」

「企みとは、言葉の誤用も甚だしいわね。仏も驚く深謀遠慮と言ってほしいわ」

 学花と僧侶は、共犯者めいた視線を交わした。楽斉が、薄い唇を開く。

「私は、これから秘密裏に白虎寺を抜け出して、天竺に仏法を求めに行きます。六花さまには、白虎寺を出て天竺への旅に発つまでの間、私をかくまっていただきたいのです」

 六花は唇をなめる。

「これから国禁を犯すと宣言する犯罪者を、余にかくまえと? 密出国は大罪だぞ」

 国禁だって、と杜陽は慄く。春まで楽斉を、あなたの元に置いてほしいの、と白耀は頼んだ。志和が問う。

「四ヶ月間身を隠す意味は何でございましょう」

「楽斉が、仏法を求めに天竺行きを熱望していたことは、白虎寺では周知の事実なの。その楽斉が急に白虎寺から消えれば、旅立ったってことは子供だってわかるわ。西方砂漠の入り口である玉門関の警戒が解けるまで、気長に待とうって作戦よ」

 白耀が真面目な顔で口にする、作戦、という言葉がやけに幼稚に響いた。

「六花のところは、志和と翠薫、それと杜陽がいるだけでしょう。わたしのところは、人の出入りが激しくて、秘密を保っておくのは難しいのよ」

 六花が、突然顔を伏せた。くっくっくという音がする。幼い姫君は笑っているのである。

「面白い。姉上の言う通り、この僧は余が預かろう。ちょうど近々、天竺から都にやってきた者を訪ねようとしていたところなのだ。その者にいろいろと尋ねるとよい」

「六花さまはお人が悪い。その者というのは、天呪閣の化け物のことでございましょう」

 楽斉が、表情を変えずに言う。六花は、くくと笑って、白耀に問いかけた。

「しかし、なぜ姉上がこの僧を援助するのだ?」

 学花は、歯を見せて笑った。

「楽斉は、天竺からたくさんの書籍を持ち帰ってくるわ。仏典だけじゃない、天竺の動植物や社会、そして名高い哲学に関する本を。そうしたら、白虎寺に独占なんてさせない。宮廷の学者総出で翻訳して、知識を共有の財産にしたいの」

 白耀の瞳が大きく見開かれ、生き生きと輝いた。

 六花が、高貴な姫君にあるまじき所作で、鼻を鳴らした。

「そのように立派なことを言って、本当は、姉上が誰より天竺の書物を読みたいのだろう?」

「あら、ばれた?」

 白耀は、晴れやかに笑う。

「姉上は頭がいいのに、単純だ。姉上のことなら余はなんでもお見通しだ」

「あら、怖いなあ。まるで千里眼」

「千里眼などであるものか。余の誕生にあたっては、白亀も麒麟も鳳凰も、河図洛書も出なかった。産屋が赤い光にまばゆく包まれることもなかったのだぞ」

「いやね、そんなに膨れないでよ。あなたは帝王にでもなるつもりなの」

「白い亀に……、赤い光?」

 杜陽が、あっけに取られた顔をする。楽斉が説明した。

「白亀、麒麟、鳳凰は、徳のある皇帝のもとに現れる神獣です。民をよく治める聖天子がこの世に出るとき、黄河や洛水から現れた神聖な動物が書物を運ぶと言われます」

「新しい王朝を立てる皇帝は、生まれるとき、昼間のように部屋が明るく輝くそうじゃ」

 志和が説明を引き継ぐ。白耀は、大きな瞳で妹姫を見つめた。

 この二人の姫君は、同じ黒い瞳をもっているというのに、印象は正反対である。

六花の瞳が春の闇を思わせる、見る人を妖しく吸い込むような、薫りたつ黒であるのに対して、白耀の瞳は、銀河の流れる夏の夜空のようだ。

「聖王を寿ぐ瑞兆は、王朝を正当化するために、その王朝自身が作り出すものよ」

 学花は、やや表情を引き締めた。

「あるいは、その皇帝の時代を、優れた治世だったと考えた後世の人が生み出すものね。覚えておきなさい、六花。皇帝の政治がよいものであったか、悪しきものであったかの判定を下し、瑞兆を授けるのは、天ではなく後の世の人なのよ」

 六花の面差しに光が差す。幼い姫君は、拳を握りしめた。

「余に天の助けなどいらぬ。おのが力で道を切り開き、瑞兆など後から歴史書に書き加えさせればよい。そういうことだな、姉上!」

「全然違うわよ。近頃の子供には国語力がないわね……」

 白耀は苦笑する。六花のきらきらした瞳を見て、まあいいか、とつぶやいた。

 杜陽は、こんなことを放言して、早晩六花の正体がばれるのではないかと、額に手を当てた。

 六花は、豪華な膳にかなりの野菜やら魚やらを残して、持参してきた袋から金平糖を取り出して、ぽりぽりと食べ始めた。

「姫さま、甘い物を召し上がってはお食事が進みませんよ」

「もう余に食べられるものは膳に残っておらぬ」

 翠薫の注意に対して、好き嫌いの多い姫君はすげなく返す。

 白耀がため息をついた。

「本当なら、僧侶や学者の一団を組織して、西域に向かわせたほうが確実に決まっているわ。けれど、皇帝陛下は、不老不死の秘薬を求めることに夢中で、いまは学術に国庫の財貨を割いてくださらない。学芸を愛する皇太子殿下の御代になれば、事態は変わるのでしょうけど……」

 天竺への学者団派遣を公然と行えないのには訳があった。わずか数十年前に中原民族の王朝を放逐して、自らの王朝打ち立てた大夏の宮廷には、いまだ色濃く西方異民族の雰囲気が残っていた。一部の皇族が、中原民族の伝統的な学知を熱心に学んでいるとはいえ、現在の皇帝が、中原民族の学術伝統に冷淡であるとは、市井におけるもっぱらの評判であった。

 さすがのおてんばの白耀も、それ以上は口にしなかった。聞くものが聞けば、いまの言葉さえ反逆罪にあたっただろう。

「では六花、楽斉のこと頼んだわよ。楽斉も妹のことよろしくね。皆さまご機嫌うるわしゅう」

と白耀は、衣の裾を返して歩いていこうとした。

 立ち去り際に一度だけ振り向いて、白耀は六花に尋ねた。

「あのね六花、霍広が見当たらないの。あなた、今日見ていない?」

 白耀は、妹姫に問いかけるように美しい笑顔を見せる。白耀の後ろに控える侍女の丹華が、はっとした。

六花は少しの間沈黙して、感情の読み取りにくい声で答えた。

「この宴では見ていない」

「そう。霍広ったらどこに行ったのかしら。もう、わたしのそばにいなきゃだめじゃないの」

 白耀は一度肩をすくめて、篝火に照らされた赤く滴るようなもみじの下を去っていった。

「楽斉、おぬしが余に仕える前に、伝えることがある。近う寄れ」

 六花が、長い袖を振って楽斉に何事か耳打ちした。杜陽には、姫君が自らの正体を打ち明けたのだと察しがついた。

 何が起こっても視線一つ揺らさないこの若い僧侶が、人並みに目を丸くするのを目撃したのは、後にも先にもこの一度きりだった。

「余が男だということが露見すれば、臣下のおぬしも、ほかの皇子や妃たちにどのような目に遭わされるかわからぬ。それでも余に仕えるか? どうする」

 楽斉は、地面に膝をついた。

「出家者は、自分自身に仕えるものでございます。ですが、小さな御身に壮大な望みを秘める、美しく貴きお方にお力添えをいたすことは、私の喜びとするところ」

 六花に向けて上げた顔は、謎めいた淡い笑みを浮かべていた。

「お仕えいたします、姫君。詩人としての私が、あなたさまに千の詩を捧げましょう」

「凡百の詩ならいらぬ。余を称えた、千年歌い継がれる詩を一つ作ればよい」

 墨を流したような初冬の夜空を瞳に映して、六花は機嫌よさそうに笑った。

「白耀さまは、たいしたお方です。六花さまのお力になれるように、上手く私を動かしたのですから」

 自分よりも随分年下の娘に操られたと言いながら、楽斉は少しも悔しそうではなかった。

「しかし、白耀さまはいつも霍広というものをお探しなのです。私は、一度も会ったことがないのですが。白耀さまのそばの者たちに尋ねても、首を振るばかりで」

 志和と翠薫が、顔を見合わせた。六花は無造作に口を開いた。

「霍広は、この世にはおらぬ」

「どういう意味です?」

「あの男は、ふた月前に姉上の命で天呪閣に上っていった。それきり帰ってこない」

 杜陽と楽斉は、はっと視線を合わせた。

「霍広とは、何者なのですか?」

「姉上の護衛の将軍だ。姉上が生まれたときからそばにいるから、姉上との付き合いは、余よりも長いことになるな」

志和が、痛ましげな顔をする。

「霍広どのは、白耀さまにわが身を捧げるほどの忠義を尽くし、白耀さまもまた、かの将軍を臣下以上に遇しておられた」

「霍広どのが天呪閣に上ったのが、白耀さまのお言いつけというのは、どういうことなのですか?」

「余の首をもらい受けるという脅迫が、〈花嫁〉からもたらされたからだ。あの魔物に打ち克つほどの実力を持つ武人は、姉上の知るかぎりでは、いや、事実、この城には霍広ただ一人だったのだ」

 志和が説明を引き継いだ。

「しかし、三日たち、一週間が過ぎ、半月が過ぎても、霍広どのは帰ってこなかった。そのうち、側仕えの者たちは、白耀さまの様子がおかしいことに気づいたのじゃ。大事にしていた臣下が、おそらくは死んでしまったというのに、お優しいはずの姫君が、泣きもしないし取り乱しもなさらぬ」

「白耀さまの頭の中の記憶が、作りかえられてしまったのですね」

 楽斉が話を先取りすると、悲痛な表情で志和は頷いた。

「そうじゃ。白耀さまの頭の中では、霍広は天呪閣に上ってはおらぬ。白耀さまは、大切な臣下を自ら死地に送り込んだりしておらぬのじゃ……」

「姉上が先走って霍広を遣わさずとも、時が満ちれば余の力で、〈花嫁〉などきゅう、とひねってやれたのだ」

 六花が、唇をとがらせる。楽斉が、静かな眼差しを幼い姫君に向ける。

「白耀さまの思い込みを解かなくてよいのですか。このまま、永遠に現れない待ち人を待たせたままで」

「姉上が望むなら、それでよいではないか。この世の誰も、同じものを見ているはずでも、同じ見方などしてはおらぬ。皆別々の世界を見ているなら、姉上の世界では、霍広が生きていてもよいではないか」

 六花は、年に似合わず大人びた目をして、

「これから、姉上が記憶を取り戻すことがあるやもしれぬ。そのときのために、余らは天呪閣に転がる霍広の骨を拾っておいてやればよい」

と、口調だけは突き放すように言った。


 軒下のランプに、次々と灯が入れられていった。繁華街の中央には浅い川が流れており、その両側には道が通っている。道には、二階建ての店舗が隙間なく軒を連ねていた。

 客引きの声が元気よく響く。店は二階の窓まで残らず灯が点され、料亭からは、三味線と客が賑やかに騒ぐ声が降ってくる。店の灯は華やかに川面に映り、そぞろ歩く人々は途切れることを知らない。

 そんな夢のような風景の中を、杜陽は、泥海に沈んで行くように落ち込んだ気持ちで、ふらふらと漂っていた。

(どうしておれに、帝の前で座興をやらせたりしたんだよ、あの姫君……)

 白耀が探している霍広は、〈花嫁〉に殺されていると告げたあと、六花は急に意地が悪くなり、帝の御前で大道芸を見せろ、と杜陽に強要したのだった。渋々従った杜陽は、四つの皿を同時に投げては受け取る技に挑戦し、無様に失敗した。

 帝のテントの正面に立ったときのことを思い出すと、足がわなわなと震えてくる。

 豪華なテントの中で、帝が杯を手にしながら椅子に座っていた。緊張で顔は覚えていない。帝の左右に、桓皇后と蔡夫人、蕭夫人といった三人の女性が控えていた。この三人の貴婦人は、それぞれ皇太子鶯鳴、峰雲、皓月の母親である。茣蓙に座る官僚と貴族たち、その周囲の後宮の女性たちの視線が、杜陽を囲んでいた。

 高そうな漆塗りの椀を渡されたとき、頭の中が真っ白になった。得意の口上も出てはこず、ただ深く一礼だけして、椀をめくらめっぽうに高く放り投げた。

強張る手が受けとめ損なって、椀は茣蓙に叩きつけられる。つやめいた椀の表面には、深い傷がついていた。

 地面に額をつけて平謝りに謝り、そのまま六花のもとへは帰らず、宴の場から逃れ出てきたのだ。

 六花から芸を披露せよと命じられたとき、嫌々承服する反面、もしかしてこのまま皇帝に気に入られたりしないかと、幻想を抱いた。そんな自分を覚えているから余計に、気分は泥海に深く沈んでいく。

 どこか暗い裏路地にでも身を隠したい気持ちだったが、居並ぶ店はぴったりと身を寄せ合っていて、うらぶれた心の杜陽を受け入れてくれる場所などどこにもない。まばゆい通りは、光り輝く槍衾のように杜陽を締め出して、際限なく続くように見える。

 市井の猥雑な空気に満ちたこの繁華街もまた、皇帝の庭園の中にある。先の皇帝は、皇太子の頃に南方へ視察の旅をした。

 南方の生命力あふれる美しい風景に、若い皇太子は夢中になった。特に、商店街や繁華街はお気に入りで、身分を隠して出会った市井の人々と時を忘れて遊んだという。再び皇帝が南方を訪れることはなかったが、即位してから庭園に、昔遊んだ繁華街を再現させた。庭園に赴くときは、店に品物を置き、宮中の者に店員役をさせたという。

 繁華街をまるごと作り出せる力を持っていても、若い頃に見た南方の夜の懐かしい灯を、この華やかな通りに見つけ出すことは二度となかっただろう。帝の孤独を想像して、杜陽は、心に秋風が吹くような気分になった。

(もういっそ、このまま姫の元には帰らないでしまおうか)

 六花は、一度恥をかいたくらいであの弱虫、とでも嘲るだろうが、それでも構わない。武術の心得も知恵も胆力もない杜陽のことなど、六花はすぐに忘れてしまうのだろう。

 誰にも相手にされないということにひどくほっとして、同時に胸が締めつけられるように惨めだった。

 行く手にかかる石橋の上に踊る娘を見たとき、幻が現れたのかと思った。

 杜陽は夢遊病者のような足取りで、柳の枝の垂れかかる橋のたもとに近づいた。

 額を覆う、月と星とその光芒をモチーフにした金の飾りが通りの灯りを反射して、まばゆく目を射る。その娘は、見間違えようもない、翠薫だった。

 何本もの長い褐色の三つ編みと、真紅のスカートを広げて、娘はくるくると旋回する。ビーズの耳飾りと大きな翠の瞳が美しく輝く。衣装に縫い込まれた光沢のある糸や、手足と首につけた宝石の装身具が生み出す不思議なきらめきが、翠薫を包んでいた。

 遠い西方の踊りを踊っているのだ。音楽はきっと、娘の体の中で高らかになっている。テンポの速い太鼓の音が、杜陽にも聞こえてくるようだ。

 祖先が暮らしていたはずの、はるかな故郷の時間の中で踊っているのだと思った。

 なぜ翠薫がここで踊っているのだろうか。杜陽と同じく、皇帝の前で舞を奉じることを六花から命じられ、ここで体をほぐしているのだろうか。

 杜陽は、気づけば、それまで抱いていた鬱屈も忘れて、通りの雑貨屋で花を買い求めていた。

花弁の大きな白い一輪の花を、杜陽は踊る娘に差し出した。

 翠薫は、旋回の速度を緩めていき、ついには自然に止まる。

「杜陽さん?」

娘は、目の前にいる杜陽を驚いたように見つめたが、杜陽の捧げる花を遠慮がちに受け取った。

そしてその花を胸に抱いて、とても嬉しそうに、にこりと笑った。

杜陽の心は熱くなり、気球が大空に昇るように舞い上がった。翠薫は、花を髪に差す。

 遠くで大きなどよめきが上がり、杜陽と翠薫はそちらに顔を向けた。宴席がしつらえてある湖のほうである。

 翠薫が、長いスカートを翻して繁華街を駆け出したので、杜陽は慌ててその背中を追った。並走して顔を覗き込むと、晴れやかだった娘の表情は、厳しく引き締まっていた。


 湖と木立の間の宴席にたどり着くと、高級官僚も召使いも総立ちの状態だった。

 杜陽は荒い息をつく。風のように足の速い翠薫は、先ほど見失っていた。

 宴席の人々は皆同じ方向に視線を向けて、何かひそひそと言葉を交わしている。その視線の先には帝のテントがあった。

 杜陽は、テントのすぐそばに六花の姿を見つけて走り寄った。六花の脇には志和と楽斉もいる。

 杜陽が駆けつけると、真っ先に志和が笑みを浮かべて、

「杜陽どの、やっと戻ってこられましたな」

と言った。

「遅い」と、六花が一喝する。

「待ちくたびれた」

 ちょっと宴の外の空気を吸いに、と杜陽は小さな声で言った。

「何が起こったんですか」

 六花が、無言でテントの中を指し示す。杜陽は息を飲んだ。

 そこには、猫ほどもある巨大な金魚が十数匹、ランプに照らされたテントの内部を自在に泳ぎ回っていたのである。

 赤、白、黒、金。色さまざまな金魚が、透けるように薄いひれをゆらゆらと揺らして、天井や床付近を行き違う。

 目玉がボールのように飛び出したもの、筒状になって天井を向いているもの。尾びれが胡蝶のように四つに分かれているもの。体が鞠のようにぱんぱんに膨れたもの。鱗をてらてらと光らせて宙に浮かぶ様子は、さながら色ガラスのランプのようだ。

 金魚は、貴族や豪商のみが楽しむことのできる高価な魚である。杜陽も、これまで着物の柄や掛軸の題材としてしか見たことがなかった。

 何だかちらちらとまばゆいと思ったのは、室内の明かりではなく、金魚の体を流れる流星のような光なのだ。それは鱗に沿って走り、つうう、しゃんしゃん、と空中に解き放たれて弾けて消える。さながら音のない花火であった。

 タペストリーの下がったテントの幕に、大小の水の波紋が静かに広がっている。まるで澄んだ水の底にいるように、どこからかぽちゃぽちゃという水音が聞こえた。 

 テントの隅のほうに、立派な衣をまとった初老の男と、数人の女性たちが幕に身を寄せて立っていた。帝と妃たちである。

 杜陽は、六花の父親であるその人をしっかりと目に焼きつけた。

 若い頃の頑健な肉体の名残をまだわずかに留めてはいるものの、肩は細く、頬はこけてきている。目の色が薄く、緑内障を発症しはじめているようだった。

 唇の端が引き下がっている。眼球は上を向くよりも、自分の足元に平伏する者を見下ろすことに慣れているようである。

「つい先ほど、突然金魚の群れが上空に現れて、帝のテントの中に列をなして入っていったのです」

 目の前の異常現象にも動じず、楽斉が落ち着いた態度で説明した。

「いったいどういうことなんだ……?」

 しかし、それはとても美しい光景だった。ありえない現象を誰もが恐れながらも、目を奪われていた。

 一人の官吏が、美女の薄衣の裾のような尾びれの揺れに誘われて、金魚に手を伸ばした。ひれの先に指が触れたと思った瞬間。

 バンッ。ビチャッ、ビチャチャッ。

 風船のように金魚が膨らんで、破裂した。

 金魚は血と内臓の爆弾のように飛び散って、床や天井を赤く汚した。金魚に触れようとした官吏もはらわたにまみれている。

 茫然とする人々の頭上で、空中を遊泳していた金魚十数匹が一斉に膨張して、弾け飛んだ。

 豪勢なテントの内部が、一瞬にして凄惨な血の沼に変わった。濃厚ななまぐさいにおいにむせ返る。

血の異臭が塊となって、鼻から口から体内を満たそうと襲いかかる。強烈なにおいに囲まれることは水中にいるのと同じで、人を溺れさせるものだと知った。

『〈花嫁〉から大夏帝国皇帝への贈り物!』

 どこかから鈴を振るような美しい女の声がして、高笑いがあとに続いた。

 皇帝のそばの武人たちが、一斉に顔色を失う。

 妃のうち一人が倒れ、ほかの女性も真っ青な顔でよろめきつつテントを駆け出していく。

 さしもの六花も、顔から血の気が引かせて、血みどろのテントから目をそらしている。杜陽はそのときにはもちろん、目の前に手をかざして視界を遮り、こみ上げる吐き気を必死に抑えていた。

 側仕えの召使いに抱えられるようにしてテントから離れた帝は、顔にべったりと付いた金魚の血をぐっと袖で拭った。こけた頰を怒りに震わせて、吐き捨てるように命令する。

「辺りを見て回れ。ほかにも異変が起きていないか確認せよ」

 はっ、と返事をして、武人たちが足早に去っていく。

「〈花嫁〉が宮廷の真上に巣食ってから、こうしたことはたびたび起こるのですか」

 楽斉が、整った眉をひそめながら尋ねる。

 この腹立たしいほどものに動じない僧侶は、人によっては精神に深い傷を受けてもおかしくないほど衝撃的な現場に居合わせながら、静かに落ち着いている。どれだけ肝の据わった男なんだ、と杜陽は、脳裏に焼き付いて離れない、金魚爆発の瞬間の記憶を振り払おうとしながら思った。

 志和が、袂から出した布で鼻と口を覆いながら、楽斉の問いに答える。

「陛下が政をなさる広間の扉から、山ほどもある巨人の一つ眼が覗いていたことや、城から見えるかぎりの月と星が、みな夜空から落ちてしまったこともありましたな。陛下やお妃方が、管弦や詩の宴を催されるときは、特に怪異がよく起こるとか。この老いぼれにとっては、何とも心臓に悪いことじゃ」

「何を覇気のないことを。このような怪異が、たびたび起きてでもくれなければ、宮廷暮らしなど退屈で仕方ないではないか」

 姫君の闇色の瞳が、愉快そうに光る。

 ほとんどの者が、血まみれのテントから逃れ出て、顔や装束、ところかまわず飛び散った金魚の血を拭い取ろうと悪戦苦闘していた。その中で杜陽の目は、テントの中に残っている異様な人物を見つけた。

「あそこにいるのは誰ですか?」

「仙丹売りだ」

 杜陽が尋ねると、六花はテントの内部へちらりと鋭い視線を向けた。

「仙丹っていうと、飲めば不老不死が手に入るっていう薬じゃありませんか。そんな大層なものが、本当にこの世にあるんですか」

「『三つの駝鳥の卵を二本の手で持てる』なら、あるいは存在するかもしれぬな」

 六花は、不可能なことを言うときによく使われる言い回しを用いて答えた。

「つまり、いんちきってことですね」

「あいつらの売り歩くものといえば、堕胎した胎児のミイラに、毒竜の鉤爪、百年寝かせた蜘蛛の巣の束だ」

 うげええ、と杜陽は顔をしかめる。

「そのようなものを仙丹と信じて喜んで飲むのは、ばかな帝くらいだ」

「帝は、仙丹売りにまんまと鴨にされているんですか、かわいそうに」

「田舎のぼけ老人ならかわいそうですむが、あやつは一国の皇帝だ。効果がないならまだいいが、かえって身の毒になるような薬のために、仙丹売りに莫大な金を積んでいるのだぞ。自ら毒を飲んでくれるのだから、余にとっては願ってもない話だがな」

「仙丹売りは、不老不死の薬を鼻先にぶら下げて、帝に取り入ってるんですね」

「奴らの薬ときたら、飲んだ途端に指の先からかびはじめるそうだぞ」

「ということは、あれは『仙丹』の材料集めですか?」

 気味悪そうに眉をひそめて、杜陽はテントの中を顎でしゃくった。

 テントの中の仙丹売りは、宴席に招かれた大商人に勝るとも劣らぬ、質のよい服を着ている。いまはその上質な衣を朱に染め、金魚の血や肉の破片をかき集めているところだった。

「掃除をしているわけじゃ……ないですよね?」

「〈花嫁〉のしもべの化け物金魚の血だ。陸に上がっても平気な生命力、などとうたえば欲しがる者もあろう。老い先短い老人貴族に、束の間の不死の夢を抱かせてやっているのだから、慈善とすら言える」

 六花の口調は、氷よりも鋭く冷たい。

「姫さま! お怪我はございませんか」

 真紅のスカートを翻して、翠薫が六花のもとへ駆け寄ってきた。髪には、先ほど杜陽の差し出した花が差さっている。テントのランプの下に娘が入ると、その花の滴るような赤さが映えた。

 杜陽は、娘に問いかけた。

「翠薫、どこに行ってたんだ? おれより先に走っていったのに、遅かったじゃないか」

「姫さまは、ほかの女性たちと一緒に避難されたものと思い、宴席から離れたところを探していたのです」

 翠薫は、血の池と化したテントの中を覗き込んだが、わずかに眉をひそめただけだった。

「これは一体」

「天呪閣のあの女の仕業さ。しかし、〈花嫁〉もこちらの一人や二人、死体にして帰ればいいものを。厚化粧の妃でもぶち殺してくれれば、おしろいでむせ返るような宮中の空気も少しは清浄になろうぞ」

 誰かに聞かれればただでは済まないようなことを言い放ち、六花は高らかに笑う。

 その笑い声が消えないうちに、

「衛兵ーっ」

と、尋常でない大音声で呼ばう男の声が上がった。六花の黒々とした瞳が、きらりと光る。

「行ってみるぞ!」

「こ、今度は何事です?」

 杜陽は目を白黒させて、否応なく六花に従った。

 叫び声がしたのは、皇帝のテントの裏だった。

 六花を先頭にして、翠薫、楽斉、杜陽、少し遅れて志和が駆け込む。そこで五人が目にしたのは、こちらに背を向けて立ち尽くす一人の武人だった。

 杜陽たちのほうを振り向いた、極端に目を大きく見開いた顔を見て、杜陽は彼が、先ほど帝に周囲の見回りを命じられた武人の一人だと気づいた。

「何があったのですか?」

 楽斉が武人に問う。武人はそれでようやく我に返って、後ろにある何かを指差そうとしたが、駆けつけてきた者の中に六花がいるのを見つけて、ためらうような素振りを見せた。

「姫さまは、ご覧にならないほうがよろしいかと……」

 その冷血にして大胆な本性を知らないものが見た六花の姿は、豪奢な髪飾りを重そうに頭に乗せた、華奢でか弱い少女である。

「余のことなら案ずるに足りない。こうしているから」

 かわいらしく扇で顔を覆う六花を見て、杜陽はげっそりした。

 意を決したように武人は、後方を指し示した。

「亡くなっておられたのです」

 武人に言われるまでもなく、テントの裏の暗がりに倒れている人物が死んでいるのは一目瞭然だった。美しい絹のドレスを身にまとったその体には、首がなかった。

 うっ、と杜陽は手を口に当てる。六花はというと、もちろん扇を下にずらして首無し死体をしっかりと目に収めていた。

「首が、そちらのほうに」

 胴体から少し離れて、髪を振り乱した女の頭部がこちらを睨んでいた。美しかったであろうその化粧した顔は、無残にも驚愕と恐怖という二本のナイフですっかり作り変えられてしまっている。

「亡くなっておられた、とおっしゃいましたね。この方はどなたなのですか」

 楽斉が、死体のそばに膝をつきながら訊いた。武人には、この死体が誰なのかわかっているのだ。知らない者ならば、ただ「死んでいた」とだけ言うだろう。

「蕭夫人です」

「何と!」

 志和が声を上げた。蕭夫人は、三の皇子である秦王皓月の実母である。

 杜陽はかがみこみ、極力声を殺して六花にささやきかけた。

「あなたがあんな不謹慎なことをおっしゃるから、現実になってしまったじゃありませんか!」

「余の言葉のほうが先とは限るまい!」

 六花が言い返した通り、死体を調べていた翠薫が報告した。

「血の乾き具合からすると、蕭夫人が殺されたのは、それなりに前のようです。少なくとも、金魚の騒動の頃には遡るでしょう」

「となると、これも〈花嫁〉の仕業であろうな……」

 志和の手が髭をしごく。

「これまでに〈花嫁〉が、宮中の人をこんなふうに殺したことはあるのか、じいさん?」

「それがしの知るかぎりでは、〈花嫁〉が天呪閣から下りてきて、宮中の者を手にかけたことはなかったはずじゃ。〈花嫁〉が餌食にしたのは、命知らずにも奴の根城に上っていった者のみ」

「とすれば、此度の殺人は珍しい事態ということができますね」

 楽斉が、死体から顔を上げた。幼い姫君は、酷薄な笑みを赤い唇にのせる。

「これからは、日常茶飯事になるかもしれないがな」


  悲風黄葉を散らし

  冬色西より来たる


 杜陽の胸の内に、楽斉の詩の一節がよみがえった。不意の肌寒さに身震いし、腕を抱える。

 晩秋と呼ぶには冷たすぎる風が、一同と宴の席を乱暴になぶって吹き過ぎた。

紅葉の宴における六花の不吉な予言は、遠からず当たることとなった。

 蔡夫人が、またも〈花嫁〉の怪異の起こった後に殺されたのだ。


第四章 神仙の羽衣 に続く

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