第二章 狙われた姫君
杜若が咲く池のほとりに立っている。
幼い姫君は、懐かしいその池のほとりに、自分以外の人間がたたずんでいることに気づいた。
杜若と同じ濃い紫色の衣を重ねた、ほっそりとした女性。姫君と同じ長い黒髪を、足元まで流している。その美しい顔はやつれて、深い嘆きに沈んでいる。
その人が悲しんでいると思うと、姫君は、どうしようもなく胸が痛んで、美しい人のもとに駆け寄らずにはいられなかった。
杜若の君は、はっとして姫君を見ると、ほろほろと泣き崩れた。
姫君は、杜若の君を抱きとめる。その人の衣から、奥ゆかしい花の香りがふわりと漂った。
「そなたまでもが命を狙われるのは、わたくしのせいです。ああ、そなたに申し訳ない……」
杜若の君は、わが身で守ろうとするように姫君を抱きしめる。しかしその腕の力は、振り払えば消えてしまう霞のように、か弱いのだった。
姫君は、はかない花のようにくずおれようとする杜若の君を支えて、高い声で叫んだ。
「母上のせいであるはずがありません! わたしは強くなります。強くなって、母上を守ります!」
「いいえ、そなたは強くなってはいけないのです。優しく、弱いままでありなさい。その優しさ、弱さが、何よりもそなたを守る鎧になるのですから……」
冬の夜空のような瞳が、黒々と濡れている。
いくら杜若の君がほっそりとした体つきだとはいえ、十に満たぬ子供が、いつまでも大人を支え続けることは不可能だった。姫君は、杜若の君もろとも庭に倒れこんだ。
姫君は、自らの手をぬるりと濡らすものに気づいて、悲鳴をあげる。
「母上!」
姫君の紅葉のような小さな手は、血で赤く染まっていた。
杜若の君の胸に、短刀が刺さっている。泣き崩れたように見えたのは、自ら胸を突いたからだったのだ。
「六花——」
杜若の君は、その先の言葉を唇に乗せることなく、息絶えた。
「母上、母上! 逝ってはいやです!」
姫君は、天の星を落とすような声で泣き叫んだ。
「ああ、もう少しだけ! もう少しだけ待っていてくだされば、余は、あなたを守れるだけの強さと賢さを手に入れましたのに——!」
それが、母を失った当時の叫びではなく、現在の思いであることを悟ると同時に、姫君は御簾の内に目覚めた。
生々しい両手の血の感触は、嘘のようにかき消えている。
あれほど鮮明だった杜若の紫も、幻のごとく消え去って、もう思い出せなかった。花が終わるのも待たずに埋められて、すでにない杜若の池。
「姫さま。お目覚めですか」
御簾の外の人影が動いた。姫君は、少し息を整えてから、答える。
「嫌な夢を見た。今日は鷹を見に行く。支度をしておけ」
「はい、姫さま」
御簾の外で、うなずく気配がした。
晩秋の朝の雨が、家々の瓦屋根を黒々と濡らしていた。細かい雨滴が冷たい空気に溶け込んで、重たくしっとりとした質感を与えていた。空気が重みを伴って気管や肺に入ってくる。
秋の終わりの雨は、山の木の葉を紅や黄に染め上げるという。時雨が降り重なるたび、都を囲む遠くの山々は美しい色に染まっていく。
傘では防ぎきれない雨を浴びて、草鞋履きの足が冷える。
杜陽は砂塵にまみれた体を洗い、故郷の家からただ一つ大事に持ってきた清潔な服に着替えていた。宿屋を出ると、通りの向こうは薄い靄に霞んでいる。
服が湿って形が崩れてしまわぬうちにと、杜陽は急ぎ足になった。
北に向かって大路を行く。雨のせいか人通りは少なかった。目を上げると、否応なしに視界に入るのは、天呪閣の禍々しい姿である。
今日の天呪閣は、灰色の雨の帳の中で、何千もの篝火を燃やしていた。雨にも消えない不思議な炎は、地獄の業火のもらい火のようだった。
宿屋で、水盤に張られた痛いほど冷たい水を顔に叩きつけると、昨夜の怪奇現象のせいで寝不足気味の頭も多少明瞭になってきた。はっきりしてきた分、昨夜動いた武将像がますます不可解に思われてくる。
肩に背負った袋がずっしりと重たかった。武将像が入っているのである。宿屋においてくるでもなく持ってきてきしまったのは、武将像を杜陽に残していったという、叔父に似た男の姿が、回り燈籠の映す影絵のように、繰り返し脳裏にちらつくからだった。
永安の鷹匠に弟子入りしていた叔父の宏渓には、幼い頃に遊んでもらった記憶がある。多分それは、一族の先祖の祭礼のために、宏渓が京師から帰ってきたときのことだったろう。
子供心にも、親、つまり杜陽の祖父の制止も聞かず、故郷を出奔して鷹匠の卵になった宏渓が、変わり者と噂されていることは知っていた。
宏渓は、永安から連れてきた鷹を、森に続く村はずれの野原で杜陽に見せてくれた。
宏渓が、肩までの分厚い手袋をはめた腕を後ろに引いてから勢いよく振ると、腕に鉤爪でつかまっていた鷹は、大きな翼を広げて空に舞い上がった。叔父の髪が、風にあおられて乱れる。
杜陽は、首を上にそらした。鷹はほとんどはばたくこともせず、その翼で空をつかんで、秋の空の住んだ高みを目指して飛んでいく。刷毛で描いたような薄い雲を切り裂くように旋回する鷹に、幼い杜陽は見とれた。
並んで立つ宏渓が、飛ぶ鷹を見上げながら、静かな熱を込めた口調で言った。
「鷹はいい。強くて美しい。ほかの鳥にまざることもなく、孤独だ。疲れを知らない翼で、どこまでも高く駆け上がっていく」
叔父と甥は、秋のはてなき天と野原の間で、舞い上る鷹をいつまでも見上げていた。
宏渓が故郷に帰ってこなくなったのはなぜだったろう。杜陽は首をかしげる。すぐにその問いの答えを探し当てて、彼は苦笑いした。杜陽の指は、自然と頰の長い傷跡をたどる。
腕に帰ってきた鷹に、宏渓は肉の切れ端をやった。肉を飲み込む鷹の背に、幼い杜陽はそろそろと手を伸ばした。
宏渓がはっとしたときには、もう遅かった。鷹は鋭い怒りの声を上げ、電光石火の速さでそのよく研がれた鉤爪を無礼者の顔に突き立てた。
爪が危うく目をそれたのは、不幸中の幸いだった。かすりでもしたら失明していただろう。それでも、杜陽の幼い顔には不似合いな長い切り傷が刻まれた。杜陽は、そのときに受けた痛みと恐怖で鷹はもちろんのこと、鳥類一般に近づくことができなくなった。
その事件のせいで、親戚一同から白い目で見られるようになった宏渓は、永安に逃げ戻って、故郷を再び訪ねてくることはなかった。城のお抱えの鷹匠として、多忙になったことも関係しているだろうが。
杜陽の顔の傷の状態が落ち着くと、宏渓は部屋で休む甥を見舞った。
部屋の寝台に腰掛ける杜陽の、包帯で覆われた顔の半分を、宏渓は痛ましそうに見た。
「ごめんな、杜陽。俺と同じで、女にもてない顔にしちまったな」
宏渓の顔にも、鷹に引っかかれてできたという古傷があった。杜陽と反対側の左頬。鷹匠の修行のはじめの頃に負ったものだという。
杜陽は、「どうして怪我をしたときに鷹を嫌いにならなかったの」と尋ねた。宏渓は、自分の心の深い湖底を探るようにしてゆっくりと言葉を返した。
「正直、永安に上ったときには、鷹にそこまで思い入れがあったわけじゃない。そのときは、虎とか蛇とか、もっと恐ろしげなものに惹かれていたんだ。だけど、最初に世話をした鷹になすすべもなく大怪我を負わされて、そこで初めて鷹を美しいと思った」
「……?」
「人に痛みを与える存在でなければ、美しいとは言えない。俺を動揺させ、傷つけ、心に深手を負わせるようなものでなければ、俺は美と呼びたくないんだ。心を震わせる美しさとは、そういうものだと思っている」
その叔父が都で死んだという知らせが故郷に届いたのが、一ヶ月前である。訃報を知らせたのと同じ書簡に、遺体はすでに焼いたと記されていた。
一族と絶縁状態とはいえ、一応は都で出世した人間である。形見の一つでも受け取ってやり、世話になった人々に挨拶でもしてこいというわけで、本家の末席たる杜陽が永安に遣わされたのだった。
叔父のことを思い出しながら北に進むうちに、天呪閣は徐々に大きくなっていった。
杜陽は、昨日もくぐり抜けた巨大な楼門に行きついた。皇城の入り口である。
昨日は非常時で、衛兵たちも皆、〈花嫁〉行列を前に逃げ隠れてしまっていたが、平常は人の出入りを監視する門番がいる。
杜陽は、門に入る順番待ちをしている胡人の商人たちの後ろについた。
胡人は、オアシスの道や草原の道を通って、大夏帝国に西方の珍しい品々を運んでくる。天竺の薬、北方の騎馬国家の金の装身具、雪の頂に囲まれた敬虔な仏教国のラピスラズリ、そして西方の砂漠の国の香木には、屋敷が建つほどの値がついた。
杜陽の前で、自分たちの言葉で談笑する胡の商人は、詩にうたわれるような紫の髭と緑の目を持ってはいなかったが、彫りの深い目立つ風貌だった。上質な紙を荷車に積んでいるようである。彼らの故郷のオアシスは、絹のように美しく丈夫な紙を特産とする、天より青いタイルの町だという。
胡の商人が皇城の中に入っていくと、杜陽は門番の前に立った。北方系の顔立ちをした大男の門番に杜陽が差し出したのは、宏渓の死を知らせる都からの手紙である。
遺品を受け取りにきた、と告げると、門番は手紙に押された鷹匠の役所の印を確認してから、入れ、という風に右手を振った。
官庁街である皇城には、百以上の役所が並んでいる。皇帝の命令を起草する省庁から外国の使節をもてなす部署、皇帝の行う祭祀を司る部門までさまざまある。
杜陽は、広大な敷地を埋める数百の建物群を前にして、はたと足をとめた。右頬の傷を撫でる。弱った、と思った。鷹匠のいる役所がどこにあるか、実は皆目知らないのである。
官位を示す冠をかぶった役人たちは、誰も行き場所ありげに急ぎ足で、振り返っても、門番の前には入門待ちの長い行列ができている。道を尋ねるのはためらわれる。
杜陽は、何を目印にしたらよいかもわからないまま、建物の間をさまよいだした。
叔父は、こんなところで生きていたのだ、と杜陽は思った。ここでは、何もかもが立派に造られていて、洗練され、組織だっていて、故郷の村とはまるで違う。この巨大な通りを宏渓は日々歩き、すれ違う知り合いに挨拶し、高貴な人々のために鷹を飛ばせていたのだ。
とてつもなく巨大で複雑な大永安城に惹かれる気持ちが、杜陽の心の奥にもあった。都で当たり前のように呼吸し、漠然としか思い描くことはできないような、大きな仕事をしてみたい。
けれど、憧れの思いが強まるにつれて、双子のように恐れが育っていくのもまた事実なのだ。杜陽は、自分が特別大きな才能を持っているとは思っていない。都という大質量の滝を注ごうとすれば、小さな器はかえって割れてしまうだろう。
だが、叔父の宏渓は、谷川のわずかな水をすくっているだけでは満足できない器を持つ人だった。雨漏りの滴を受けて虚ろな音を響かせる空洞に、満たすべき何かをいつも探していた。
秋の空の高みを、円を描いて飛ぶ鷹を眺めていた宏渓の遠い眼差しが、ふと胸に去来する。いつだって、自らの器に罅を入れ、ばらばらに砕いてしまうような圧倒的な存在を、乾いたように追いかけている人だった。
大永安城の混沌は、宏渓のうろを満たしたのだろうか。宏渓がすでに死んだ以上、それは永遠にわからない。
杜陽が歩く道の斜め方向から、ざわめきが耳に届いた。何か胸に引っかかるものを感じて、杜陽はそちらに足を向ける。嘴が、頭の片隅をつついた。
(嘴?)
音の源は、壁の上半分が鉄格子になった小屋だった。バサバサ、と翼を打ち震わせる音、チキチキという高い鳴き声。
杜陽は、踵を上げて、鉄格子にこわごわ顔を近づけた。むっとするにおいが鼻をつく。
猛禽の鋭い瞳が、鼻先にあった。
「うっわっ」
反射的に上半身を大きく後ろに引き、少し遅れて腰から下もそれに従う。背中が柔らかい壁に勢いよくぶつかった。
心臓を高鳴らせながら振り返ると、そこには白いものの混ざる眉をしかめた初老の男が、よろめく一歩手前の体勢で立っていた。
「すいません、大丈夫ですか」
焦って声をかけながら、杜陽の脳裏に、偉い役人だったらどうしよう、という心配がよぎる。
「いや、問題ない」
初老の男は無愛想に言って、体勢を立て直した。短く硬い髪の半分が白いその男は、杜陽をじろじろと見た。
「あんたは、鷹舎を覗き込んで何をしていた」
そのうさんくさそうな顔つきと言葉遣いは、鷹の盗人だろうと言わんばかりである。杜陽は、ぱたぱたと手を振った。
「あの、宏渓という鷹匠を知りませんか。こちらに勤めていて、先ごろ死んだのですが」
私は、宏渓の甥です、と付け加える。
初老の男は、細い目をわずかに見開いたように見えた。
「知っている。そうか。宏渓の甥が来たか」
そのまま体の向きを変えると二、三歩進み、こっちへ、とさし招いた。その武骨な手の甲には、長短の古い切り傷が走っていた。
初老の男が入っていったのは、鷹舎の隣に立つ建物だった。深緑のタイルが貼られた二階建てである。建物の一階は、壁のない大きな部屋になっていて、衝立でいくつかの空間に区切られている。
初老の男は、杜陽を一番奥の空間に案内すると、自分は階段を上がっていった。
杜陽の通された場所には、硬い背もたれのついた椅子が二つと、一本足の簡素な円卓が置かれていた。杜陽は少し迷ってから、入り口に近いほうの椅子に浅く腰掛ける。雨に濡れた衣が気になった。
衝立で隔てられたほかの空間には、ほとんど人の気配がない。
ほどなくして足音が近づいてきて、初老の男がもう一度姿を見せた。
向かいの椅子に腰を下ろした途端、男が口火を切る。話し始める前の居心地の悪い時間を経験せずに済んだことに、杜陽はほっとした。
「宏渓の故郷は、確か隴西であったな。歩きの旅で来たのなら、さぞかし難儀しただろう。私は、宮廷の鷹を管理している岳甫だ。知っての通り、皇帝の一族にとって鷹は神の使いでもある。ここで世話されている鷹は、狩猟のほかに祭祀でも使われるから、このように鷹匠専門の役所が設置されているのだ」
「私は杜陽といいます。生前の叔父がお世話になりました。叔父の両親と兄弟に代わって挨拶に来ました」
「宏渓は、鷹匠として優秀な男だった。皇族の方にも目をかけられていた」
「叔父は、どういう最後だったんですか?」
「宏渓は病で死んだ」
岳甫は、無表情のまま断定的に告げた。まるで、どこかに死亡診断書があって、それを読み上げたようだった。宏渓、鷹匠、死因病死。
「どんな病で……?」
「急に熱を出して、勤務中に倒れた。三日三晩熱が下がらず、四日目に息絶えた。たちの悪い流感だったのだろう」
「そうですか……、葬儀までこちらでやってもらってすみませんでした。同僚の方にもお礼を言いたいのですが、どちらに?」
「皆出払っている。礼なら私が伝えておこう」
「せめて墓参りだけでもしたいのですが、埋葬した場所を教えてもらえますか」
「都のずっと郊外だ。案内したいが、いまは人手が足りない」
「じゃあどうすれば……」
「宏渓が長く過ごした隣の鷹舎で、冥福を祈ってやってくれ」
はあ、と杜陽は困惑した返事をした。岳甫のにべも無い返答に、思わず講談ばりの妄想を抱きそうになる。
(まさか、叔父さんは、城の外の人間には漏らせない事情で死んだんじゃ? 血で血を洗う皇位継承者争いに巻き込まれた? それとも、大臣の不正に気づいてしまって口封じに?)
故郷での杜陽の最大の楽しみは、勧善懲悪の講談であった。
しかしその前に、と岳甫は懐に手を入れた。
「宏渓の遺品を渡さなければならんな」
岳甫の話の進め方は、やはり強引に思える。埒も無い妄想の嵐に頭をかき乱された杜陽だったが、岳甫が取り出したものに目を吸い寄せられた。
固い音を立てて円卓の上に転がったそれは、青く染められた平たいガラスだった。大きなおはじきに似ている。表面には不思議な模様が描かれていた。外側から円状に、白、水色、黒に塗られているのだ。化け物の目玉のようにも見えて、少々不気味である。
「これは何ですか?」
「宏渓は、異国のお守りだと言っていた。故郷に持ち帰ってやってくれ」
「はあ」
杜陽の知らない神に関係したまじないの道具なのだろうか。都では、異国から伝わってきた神々も数多く祀られている。
紐を持って、奇妙なお守りをぶら下げると、窓からのわずかな光がガラスを通して、円卓に青いしみが映る。杜陽は、お守りの紐を護身用の短剣の柄に結びつけた。
「さて、鷹舎に戻ろう」
岳甫がさっさと立ち上がるので、杜陽も慌てて椅子を後ろに引いた。
二階建ての建物を出ると、鷹舎の横に、先ほどまではなかった牛車が停まっていた。艶やかな黒漆が塗られ、金の飾りのついた見事な牛車である。
その牛車を目にした途端、岳甫の顔色が変わった。
鷹舎の扉に飛びつくと、息急き切って開けた。抑えた声で中に呼びかける。
「姫さま! いつのまに来ておられたのですか。鷹がご覧になりたいのなら、私どもの方からお伺いすると申し上げているではありませんか!」
姫、という単語を聞き取って、杜陽の心臓は跳ね上がった。姫といえば、皇帝の娘である。一体何番目の姫君だろう。皇帝の娘は何人もいる。そのうち年長の数人は、すでに諸国の大名に降嫁しているはずだ。
中にいる姫君が、何かいらえたようだった。
「そんなことをおっしゃっても、最後にはお気に入りの鷹をお持ち帰りされるではありませんか。慣れた場所を離れたら鷹がかわいそうだなどと、本当にお思いではないのでしょう?」
岳甫の男の遠慮のない言い様に、杜陽は驚いた。
好奇心をこらえがたくなって、杜陽は鷹舎の中をそっと覗き込んだ。
小屋の中は意外と広々としている。壁の両脇に据えられた檻には、枝に止まった鷹たちの鋭く黄色い目が覗いている。
格子窓から差し込む光で、屋内の上半分の空間だけが、ぽっかりと明るい。その光に上半身だけ照らされた、一人の麗人があった。
その美しい娘は、丈の長い薄紫色のワンピースを身にまとい、杜陽のほうに半身を向けて立っていた。何本もの三つ編みにした褐色の髪が、ほっそりとした肩に垂れている。頭には、刺繍入りの平たい帽子が載っていた。
若い娘は、棒立ちと平伏の間の、何とも中途半端な格好のまま固まっている杜陽に、緑の瞳をめぐらせた。
「おや? 見慣れない方。新しく城に来た鷹匠ですか?」
「あ、いや、私は違います。姫君」
いきなり声をかけられた杜陽は、狼狽して顔を赤くした。岳甫が落ち着いて答える。
「いいえ、この者は、先日死にました宏渓の身内でございます」
娘は、心の内面を読み取らせない眼差しを、杜陽に向けた。
「わたしは姫ではありません。六の姫君である六花さまは、わたしの主人です」
よく見れば、娘の鼻は中原の人間よりも高く、色白で、西方の民であるようだった。
前にしているのが、姫の側仕えの娘だったから、岳甫はずけずけとものを言えたわけだ。杜陽は合点がいった。
「
か細い声に呼ばれて、娘は格子窓に顔を寄せた。鷹舎の壁ぎりぎりのところに、黒塗りの牛車が停めてある。その中に、皇女本人がいるのだろうと杜陽は想像した。
六の姫君の六花といえば、その首を〈花嫁〉に望まれているという噂のお方である。
「姫さまはお帰りになられます。岳甫さま。〈五芒〉を借りていきますよ」
「〈百和〉がいなくなったいま、五芒も聖上お気に入りの大切な鷹でございます。——いつこちらにお返しくださるのでしょうか?」
「わが主人がご満足なさいましたら」
岳甫はため息をついた。
いましかない、と心を決めて、杜陽は床に膝をつき、頭を低く下げた。何事かと色をなす岳甫に構わず、杜陽は娘と、牛車の御簾の向こうにいる姫君に向かって声を張り上げた。
「私は杜陽と申します。鷹は操りませぬが、この杜陽、命なき皿や玉を、あたかも生きているかのように操ることができます。恐れ多いことですが、姫君がもし一目ご覧になれば、必ずやお気に召すことと存じます」
語尾が震えないようにするのが精一杯だった。すでに両膝はがくがくしている。
六の姫君を〈花嫁〉の魔の手から守ろうなどと、本気で考えてはいなかった。しかし、噂の渦中の人の近づけば、何がしか活躍の機会が訪れるのではないかと、ただ漠然と思ったのである。
側仕えの娘は読めない表情のまま、美しい顔をまた格子窓に寄せたが、すぐに主人の言葉を、向こう見ずな若者に伝えた。
「姫さまは、あなたの技をご覧になりたいと仰せです」
杜陽は、むしろ姫君がはねのけてくれればよかったのに、と思った。
皇帝が政務を執る殿閣の、そのさらに奥が、皇子や皇女、皇族たちの暮らす宮殿である。
宮殿の内奥へと導く廊下は豪奢な造りで、杜陽はその一々に目を見張った。
太い柱や梁には木彫りの龍が絡みついて、その小さな宝石の目で闖入者を睨んでいる。木の扉に施された吉祥の装飾の中の鳥や蝶は、いまにもはばたきそう、草花は、歩く杜陽たちの起こす風に応えてそよぐかに見えた。
見上げれば、天井は升目に区切られて、その一つひとつの中に動物や植物、虫などが精緻に描きこまれている。巻物の博物誌を勢いよく巻き伸ばしたようだった。
しかし、何より杜陽の目を驚かせ、喜ばせたのは、渡り廊下の左右に広がるいくつもの庭園だった。
赤や緑に彩色された低い欄干越しに見える数々の庭園は、渡り廊下から建物へ、そしてまた次の渡り廊下に移るたびに、千変万化する。
ひらひらした白い花をいっぱいに咲かせた林があり、南方の大きな湖の底から産出するという穴の開いた奇岩があった。白いタイルの貼られた吹き上げがあり、異国の伝説の動物をかたどった石像に守られた、蔦の絡まる東屋があった。
気づけば、杜陽の歩く廊下は、蓮の葉の浮く緑の池の上を渡っているのだった。
美しい娘は杜陽を、池のほとりの屋敷へと導いた。屋敷の玄関の前には、先ほどの黒塗りの牛車が泊まっている。姫君は、一足先に館に戻っているようだった。
案内された座敷には、真っ赤な絨毯が広げてある。娘は、下座に座るように杜陽に言うと、自分は壁際に下がった。
杜陽は、そろそろと首をめぐらした。
杜陽の正面には、この館の主人の姿を隠すための絹の幕が下げられている。その奥の空気は、ひそとも動かない。虎の描かれた屏風が、絹の幕の横に立っている。
杜陽は、同じ室内にいる人に気づいて、肩を緊張させた。
虎の屏風を背に、恰幅のよい、妙にふくふくした老人が座っていた。傍らにはキセル箱が置かれ、老人は長ギセルをすぱすぱと吸っては、ふう、と煙を吐く。
杜陽と目が合うと、老人はにこりと微笑んで会釈をした。二重顎がたぷたぷと揺れる。
「あなたは変わった技を見せてくださるとか。楽しみですなあ。わが主人も喜びますわい」
杜陽は、へらへらとした笑みを浮かべ、へつらいの言葉を返すことにした。しかし、そのへつらいは、若者の普段の言葉と同様、少々ずれていた。
「六の姫君は、鷹がお好きなのでございますね。どんなに美しい小鳥を手に入れることも望むままでしょうに、姫君は勇ましいお方なのでございますね。皇子であらせられたなら、さぞかし狩りで御名を上げられたことでしょう。いいえ、きっといまでも十分、ほかの皇子さまがた顔負けのご活躍をなさっているのでございましょうね」
杜陽の言葉が終わるか終わらないかのうちに、絹の幕の向こうから、氷の槍のような冷たい声が飛んできた。
「翠薫、そのものを殺せ」
え、と声をあげる暇もなく、側仕えの娘が、夜風のように杜陽の背中に立っていた。
白く細い腕が、蛇のようになまめかしく、杜陽の肩から胸に絡みつく。気づけば杜陽は、わずかも身動きが取れなくなっていた。死の抱擁。杜陽を後ろから抱きすくめるのと反対の手はいつのまにか短剣を握っていて、その鋭い切っ先はまっすぐ杜陽の喉元に向いているのだった。
杜陽は、ぎゅっと目をつぶる途中の半目の状態で凍りついた。短剣の刃がきらりと白く光る。
絹の幕の向こうで、誰かが立ち上がる気配がした。まさか、すでに姫君が垂れ幕の裏に鎮座していたとは、と杜陽は血の気が引いた。
「皇子であらせられたなら、か。いまでも十分、ほかの皇子顔負け、とな」
「申し訳ございません! よもや姫君のご機嫌を損じようとは思わなかったのでございます! どうか、命だけは!」
杜陽は半泣きで叫んだ。
「貴様はその言葉のあと、こう続けたかったのではないか?」
冷たい声の持ち主は、自らの手で重い幕をしゅるるる、と開けた。
「『姫君は本当は、皇子なのでございましょう?』とな」
絹の幕が完全に開ききる。その陰影のついた襞を背にして、十二歳を過ぎているようには見えない子供が立っていた。
氷原を切り取ったように白い衣を着る、美しい子供だった。
貝殻で何度も打ったのだろうか、布には淡い光沢がさらさらと走る。動くたびに、雪の粉が衣の上を滑り落ちるようだ。銀に見える上衣の下には、深い藍色の単をまとっている。
花を模した銀の髪飾りをつけた長い黒髪。氷に閉ざされた北の海の底のような闇色の瞳に見据えられて、杜陽は心臓から凍ってしまいそうだった。
「どういう……ことでしょう?」
「とぼけるな。この六花が男だと知った三皇子の誰かに、暗殺を命じられたのだろう?」
(この美しい姫君が、男だって?)
杜陽は、ひどく混乱した。
「白昼堂々、単身で乗り込んでくるとは、この六花も見くびられたものだ」
殺せ、と姫君はもう一度言い放った。胸に向けられた短剣を握る娘の手に、力がこもる。杜陽はのけぞった。
「殺す前に、誰に暗殺を命じられたのか、その者から聞き出してはいかがでございますか」
穏やかな声が、突き出される寸前の短剣を止めた。杜陽が、恐怖のあまり閉じた目を恐る恐る開けると、老人が和やかな笑みを浮かべていた。
弁解の余地ができた、と思った杜陽は、声を裏返しながら必死に叫んだ。
「誤解でございます! 私があなたさまを暗殺しようとしていたなんて、とんでもございません!」
「あくまで白を切るつもりだな」
杜陽の見間違いでなければ、幼い姫君の闇色の目が、冬天の青白い星のように一瞬輝いた。
「翠薫、その者を痛めつけて、首謀者を吐かせろ」
娘の白い手の持つ短剣が、胸からそれて、目の位置まで上がった。刹那、磨き込まれた白刃に、ためらいも曇りもない娘の緑の瞳が映る。杜陽は、眼球をえぐられる、と原始的な恐怖を覚えた。
「お待ちください! 首謀者などおりません!」
「
杜陽の懇願をどこか楽しげにさえ聞きながら、姫君は老人に命じた。老人は、厚い座布団からよっこらしょ、と立ち上がると、杜陽が床の上に置いていた風呂敷包みの中身をざらりとあける。
「おやまあ」
老人は、旅に汚れた着物と武将の置物の間から、守り刀を拾い上げた。その柄から、宏渓の形見である青いガラスがぶら下がる。
「それは、余が宏渓にくれてやったお守りではないか。貴様は、宏渓の血縁と偽って、この城に潜り込んだというわけだな」
「私は本当に、宏渓の甥です! 嫌だ、やめてくれ、目をえぐらないでくれ!」
杜陽は渾身の力を振るったが、娘の細腕に拘束された体は、万力で押さえつけられたようにびくとも動かない。心臓だけどこか冷たい箱の中に隔離されてしまったのかと感じるほど、自分のものではないかのようにばくばくとのたうっていた。
ふと、杜陽の頭の後ろから声がした。
「姫さま。この若者は殺し屋ではないので、姫さまに有益な情報をもたらすことはないと思いますが、それでも拷問いたしますか?」
鈴を振るような声の主は、側仕えの娘だった。
「姫さまのお気に触れたこの者を、惨たらしく殺してしまいたいとおっしゃるのなら、無論のこと、そのようにいたしますが」
なんてことを言うんだ、と杜陽は娘が付け加えた言葉に目をむいた。
「殺し屋ではないとなぜわかる」
と、姫君は美しい眉をひそめる。娘は、短剣の切っ先を杜陽の顔から離さないまま説明した。
「この若者の身のこなしは、武術をさわりでも習った者のそれとは思えません。訓練の経験を隠している様子もありません」
「加えて、この刀ではとても人の命を奪うことなどできそうもございませんな。手入れをした痕跡が毛ほども見えません。田舎の農家の蔵の中で死蔵されていたもののようです」
老人が、杜陽の守り刀をさやから抜いて、ぼろぼろの刀身をまじまじと観察した。
「何だ、余の命を狙う暗殺者ではないのか」
小さな姫君は、失望したように口を尖らせた。
「無駄に数だけはいるのだから、誰か一人くらい余が男だと気づかぬものか。あのぼんくら皇子どもめ」
高くかわいらしい声で、皇子たちを罵る。
「刺客ではなかったのですから、この者は放してやってもよいのではございませんか」
老人のセリフに、杜陽は内心拍手喝采を送った。しかし万雷の拍手を、姫君のえーっという不満げな声がかき消す。
「それでは、この者を残虐に殺すことができないではないか」
「しかし、無実の者を殺すというのは、経書の教えにも反します」
「だが、この者は余の秘密を知ったのだぞ」
姫君は、闇色の瞳を楽しそうにひらめかせた。
「このまま生かして帰すわけにはいくまい?」
かわいいくせにとんでもない姫君だ、と杜陽はぞっとした。
(いや、皇子なのか?)
杜陽は、可動範囲の限られた体が許す限り低く頭を下げた。
「どうか、命だけはお助けください! 姫君の正体は誰にも話しません。城を出たらすぐに忘れます!」
「そのような口約束、信用できるわけがなかろう」
「それではこうしてはいかがでしょう、姫さま」
と、老人が口を挟んだ。
「この者をここに留めおいて、姫さまに仕えさせるのです」
「しかしこの者は、武術も習っておらぬのだろう? このようにひ弱な穀潰し、余にはいらぬ」
「そうおっしゃいますな。もし逃げようとしたり、姫さまの秘密を漏らしたりした暁には——」
「わかった、魚肉のように切り刻んでよいのだな!」
姫君が、ぱっと顔を明るくした。その無心の笑みは、雲を払う太陽のようである。事情を知らぬ者ならば、どんな貴族の子弟でも、見とれずにはいられないだろう。しかしその極上の笑顔も、杜陽の背筋をますます寒くさせる要因以外の何物でもなかった。
老人の掲示した選択肢は、姫君の残虐を好む本性を知ってしまった杜陽にとって、それこそぞっとするものだった。いつなんどき、姫の気まぐれで死を宣告されるかわからない。しかしいまの杜陽には、その選択肢にすがるしか道は残されていなかった。
「まあ、この先本当に刺客が現れたときの盾ぐらいにはなるだろう」
姫君の無情きわまりない言葉に、杜陽は、内心情けない悲鳴をあげる。
姫君は、長い衣の袖に埋もれかねない片手に、扇をぱっと広げた。ふふ、と笑みをこぼす。
「杜陽よ。余に服従すると誓うか?」
ははあっ、と杜陽は泣きそうな気持ちで平伏した。
「余の母は、正妃を差し置いて帝の寵愛を一身に受ける女官だったのだ」
杜陽が、「姫さまが男だというのは、まことなのですか?」と尋ねると、氷雪のように白い衣をまとった姫君は、杜陽をじろっと見て、「本当に知らなかったのだな」と言った。
「後宮一の寵姫の生んだ子を、帝はきっと皇太子に選ぶだろう。帝の本意はどうであれ、周囲はそう考える。いまの立場を失うのではないかと戦々恐々とした正妃やほかの夫人、皇子たちが、暗殺などという妙な気を起こさぬように、母は余を姫と偽って育てた」
「どれくらいの人間が、本当のことを知っているのですか?」
「ここにいる志和と翠薫だけだ」
帝も知らない、と六花が平然と言うのを聞いて、杜陽は唖然とした。
六花は、座敷の上座で、脇息に肘を預けて胡座をかいている。志和と呼ばれる老人は、ふかふかした座布団の上に戻っていた。
侍女の翠薫は、先ほど杜陽を殺しかけたことなどおくびにも出さずに、若者のすぐそばに座った。翠薫が、薄紫の絹のスカートを広げて慎ましく座っている様子は、さながら菫の精に見える。しかし杜陽は、娘の袖口からいまにも短剣が滑りだすのではないかと、はらはらした。
座敷の片側の壁は、全面引き戸になっており、いまは大きく開け放たれている。濡れ縁越しには、広い中庭が見えた。人工の山や谷が造られ、蛇行して流れる川に何本もの小さな石橋が架かっている。小川沿いやいくつもの小島の上に茂るのは、南国の不思議な植物だ。人の顔ほどの大きな濃緑の葉や、腕の太さの蔓の合間から、石灯籠が覗いている。色鮮やかな鳥が飛び回り、苔むした石の仏像の肩でさえずっていた。
冬も間近に迫るこの季節に、常夏の風景を作り出しているからくりは、どうやら庭を流れる水にあるようだった。こんこんと池に湧き出す澄んだ水からは、わずかに蒸気が立ち上っている。この水は温水なのだ。そのおかげで、庭に面した部屋もほのかに暖かい。
雨はいつのまにかやんで、晴れ間が覗いている。砂塵が洗い流されて澄んだ空気と、滴る雨の滴が、庭の緑を美しく見せていた。
しかし、南国の庭に暮らす姫君の気性は、吹雪よりの激しく、冷たい。
「母君は?」
と杜陽が尋ねると、死んだ、と言う乾いた返事が返ってきた。こっそり表情を伺ったが、六花の顔色には何の変化も読み取れない。
「帝も秘密を知らないのなら、姫さまが次の帝として即位なさることはないのですね」
杜陽は、内心安堵した。十二に満たずしてこの残虐ぶりである。皇帝にでもなった日には、どんな悪童天子になるやらわかったものではない。
六花は唇を開いた。
「順当に行けば、余はあと数年で、隣接諸国のどこかの王家に嫁ぐだろう」
「しかしそうすれば、あなたが女でないことがばれてしまいます」
問題ない、と幼い姫君は、首を傾げてあどけない笑みを見せた。
「余は、すぐに夫を殺してその国の実権を握るゆえ。そしてこの大夏帝国を攻め滅ぼし、中原を我がものとするのだ」
そうしたら、お前に都市を百ほど任せてやってもよいぞ、と六花は笑った。
杜陽は、子供の戯言、と思おうとしたが、六花の人生設計とその実行過程の想像が、恐ろしい勢いで膨らむのを抑えることができなかった。
六花が野望に向かって突き進もうとするかぎり、杜陽の命運も危ういことは疑いを入れない。杜陽は、早くも故郷に帰りたくなった。
「順当に行けば……って、あなたは〈花嫁〉に命を狙われていますよね?」
杜陽は、そのことを今更ながらに思い出して大声を出した。
縁側ににじり寄って、空を見上げる。
空の半分を覆い尽くすように異様な存在感を示して、天呪閣が浮かんでいた。千の甍が、雨に濡れて黒々と光っている。
「皇女の身が危ないというわりには、護衛が貧弱なのでは? 侍女の翠薫の体術の腕前が大したものなのは、身をもって知りましたが、あとの味方はそこのじいさんだけなのでしょう? それとも、じいさんも実は、百戦錬磨も老将軍だとか?」
志和は鷹揚に笑って、ひらひらと手を振った。
「いやいや、まさか。それがしは、ただの本の虫じゃよ。長く四書五経の文字の上を行ったり来たりしたまま、蝶に身を変えてはばたくことの叶わなかった芋虫に過ぎぬ」
「志和さんは、学者さまなのです」
説明を加えたのは翠薫である。杜陽に短剣を向けていたとき一瞬見た、気高い豹のように鋭い表情は息を潜めて、代わりに老齢の同僚に向けた生き生きとした尊敬が、その緑の瞳に浮かんでいる。
「学者などとは呼べぬ、一介の書生じゃよ。十七のときから官吏任用試験に落第し続けて、つい先頃、名誉合格者などという名ばかりの肩書きをいただいた、不甲斐ない身じゃ。かたじけなくもお情けをいただいて、姫さまの学問の師範を務めておる」
中原の国で官吏になるには、学問の知識と応用力を問う、厳しい試験をいくつもくぐり抜けなければならないのだった。人生のすべてを経書の暗記に捧げてきた受験生の中には、試験中やその直前に発狂する者も少なくないという。
「それではなおさら、警備が手薄ですね。本当なら、衛兵の一連隊や二連隊、この屋敷を取り巻いていてもおかしくないんじゃないですか」
「〈花嫁〉は、帝自身に娘を献上させたいのだ。中原の支配者として振舞っている帝が、自分に対して膝を屈するところを見たいのだ。だから〈花嫁〉自ら余を襲うことはない」
「それにしたって、六花さまを本物の姫君だと信じ込んでいる帝が、お付きのものをこれだけしか与えないなど……」
「帝は、余のことを愛してなどおらぬ」
はっきりとした声でセリフを遮られて、杜陽ははっとした。座敷の上座に目をやると、絹のクッションに囲まれてそこに座る六花は、予想に反して、眉一筋動かさぬ平静な顔をしていた。
「帝がこの世で唯一愛していたのは、余の母だけだ。余のことなど眼中にない。帝が余を〈花嫁〉に差し出すことを渋る理由は、魔物に屈することで権威を失うのを厭う、ただその一点のみなのだ」
杜陽は言葉を失った。
「だから、〈花嫁〉が王朝に害をなすのを他の手段で止められないと判断したら、ためらいなく余の首を掻き切らせ、金銀細工の箱に収めて、天呪閣に届けることだろう」
「じゃあ、その決定が下ったら、姫さまにはなすすべがない……」
「と、喜ぶのはまだ早い」
沈痛な面持ちを装いながら、内心喝采を叫んでいた杜陽は、心のうちを見透かされてぎくりとした。
六花はちらりと天呪閣に目をやって、その紅い唇の端を好戦的に上げた。
「この六花の首を欲しがるような身の程知らずの化け物は、余が退治してくれよう」
「一体どうやって」
姫君は、ふむ、とその形のよい頤に手を当てて、わざとらしく考え込む素振りを見せた。
「おぬしの首を身代わりにして、〈花嫁〉がそれに気を取られている隙にやっつける、というのはどうか」
「姫さま、ご、ご冗談を」
杜陽は声をうわずらせた。
六花はにやりと人の悪い笑みを浮かべ、お気に入りの扇でそよそよと顔をあおいだ。
「まあ、〈花嫁〉が指定した期限である年明けまでは、まだ日がある。その間にまずは、手下を集めるとしよう。お前のような穀潰しではなく、優秀な者をな」
杜陽は、ぐっと唇の端を引き下げた表情を隠すためにうつむいた。守り刀につけている青い目玉のようなお守りが目に入る。先ほど六花は、これを自分が与えたものだと言っていた。
「ところで、叔父をかわいがってくれた皇族というのは、姫さまのことだったのですね」
次の言葉は、自然と探るような口調になった。宏渓の死の真相についてのめくるめく妄想絵巻が、脳内にもう一度展開する。
「叔父が死んだときの詳しい事情をご存知ないでしょうか」
六花は、大きな目をくりくりさせて、あっけらかんと言い放った。
「ああ、宏渓は殺されたのだ。外部には病で死んだと説明することになっているのだがな。鷹匠の岳甫の態度がおかしかっただろう?」
杜陽は一瞬言葉に詰まったが、息急き切って質問を繰り出した。
「え、誰に? どうして殺されたんですか?」
「もちろん〈花嫁〉にだ。帝の命令で天呪閣に登らされたのだ。それきり宏渓を見たものはいない」
六花は、話の内容と釣り合わないのんびりとした調子で、不幸な鷹匠が、魑魅魍魎の蠢く魔窟の階段に足をかけるに至った経緯を語った。
「宏渓が病気で倒れて死んだとされていたのは、ひと月ほど前のことだろう。その頃、帝が狩りに出かけたのだ。当然、宏渓もついていった。その帰り、城のすぐ近くまで帝の一行が戻ってきたとき、天呪閣の天辺近くに、輝くような白鷺が見えた。帝は、宏渓に『あの鷺を取れ』と命じた。宏渓は、帝のお気に入りの鷹である百和を放ったが、鷹は天呪閣に吸い込まれるように消えて、見えなくなった。それを、あの吝嗇の帝らしい、宏渓に『鷹を取り戻してこい』と命令したのだ」
「なぜ、病で死んだという嘘をついたんですか」
「帝は卑小な人間だからな。他の者に自分がどう思われるか、ひどく気にするのだ。宏渓が天呪閣を下りてこないと気づいてから、自分の振る舞いが、周りに暴君的に映っていると悟ったのだろう」
余は、暴君などという呼称、痛くも痒くもないが、と六花は涼しい顔でのたまう。杜陽は、帝の半分でもいいから気にしてくれ、と思った。
「それでは、都の郊外に叔父の墓があるというのも嘘だったのですか」
「死体がないのだから、墓のあろうはずもない。宏渓の体が見つかるとしても、大極殿の瓦屋根に散らばる、千切れて腐りかけた手足の山の中だろうな」
杜陽は、気分が悪くなってきた。六花は、杜陽の守り刀につけられた青いガラスに目を留めた。
「その異教のお守りは、宏渓が天呪閣に上る直前に余が渡したものだ。余も狩りに参加していたのでな。宏渓は、それを受け取ったまま天呪閣に行ったはずだが」
「この場にそのお守りがあるはずがないわけですな」
志和が口を挟む。杜陽は、なんとなく薄気味悪くなり、刀を動かして、手を触れないように青いガラスを裏返したり表返したりした。
「そもそも、これはどういう由来のものなんですか」
姫君は、顎をくいっと上げた。
「見せてやる。こちらへ来い」
その部屋の扉を開けた途端、薬のようなかびのような強烈なにおいが、厚い壁のように鼻先に立ちはだかっていたので、杜陽はむせかえった。
そこは、窓のない納戸のような部屋で、埃がちで、しかも恐ろしく狭かった。いや、無計画に詰め込まれた品々が洪水のように溢れて、部屋を小さく見せているのだ。
天井まで届くような金色の仏像が、六本の腕を広げて仁王立ちしている。壁の一面を覆う大きな箪笥の、百は下らない小さな引き出しからは、読めない文字が墨で書き殴られた和紙の束や、小動物のしゃれこうべを連ねた首飾りが飛び出していた。
引き出しつきの箪笥の反対の壁には陳列棚があり、扉にはまった汚れたガラスを通して、どろどろの液体の入った色ガラスの瓶や、干からびた蛇などが見える。天井からは、束ねた鳥の足やとうもろこしが下がり、壁を異教の神の描かれたタペストリーやお札が埋め尽くしていた。布の袋が破れて、詰められていた香草の粉末が、空中に飛散している。
杜陽は、大きなくしゃみをしてから尋ねた。
「ここは一体?」
「すべて〈花嫁〉除けのまじないの品だ。城の外の人間には、余が帝に愛されていると思われているようだな。永安中の大寺や道観、回教寺院が、余に魔除けの呪具を送りつけてくる。近頃は、帝に挨拶に来る近隣諸国の使節までもが、聖水やら龍の骨やら、怪しげな品物をこぞって献上する始末だ」
六花は苦々しげな表情を浮かべた。
「じゃあ、この目玉みたいなお守りも?」
「それは、西方からの絨毯商人が持ってきたものだ。邪視を避けるらしい。折に触れて知己にくれてやっているのだが、一向に減らぬ」
「知り合い相手に、怪しげなお守りの在庫処分をしないでくださいよ」
「まったく、がらくたばかりが増えて困る」
「でも、この純銀製の燭台なんか、とてもきれいですよ」
「どうしておぬしはそう、ごてごてした悪趣味なものを選ぶのだ」
杜陽が取り上げようとしたのは、長い牙とぎらぎらする目を持つ獣の燭台である。
部屋に一歩足を踏み入れた杜陽は、頰に何かさわさわと触れるものを感じて、ぎゃっと悲鳴を上げた。即座に身を引くと、顔を撫でていたのは、柱に吊る下がった乾燥した女の髪の毛である。六花が杜陽の怯えきった顔を見て、愉快そうに笑い声を上げる。お宝を掘り出す気力をすっかり喪失して、杜陽はすごすごと引き下がった。
「しかし、これだけ呪具が集められていると、大きな魔力でも蓄えられていそうですね」
杜陽がそうつぶやいたとき、手に持ったままだった自分の荷物の中で大きなものがごそごそと動いたので、肝を潰した。
持っているものが何かを忘れて思わず手を離すと、それは杜陽の足の甲に落下した。
「いったっ……、……っ」
床に転がって悶絶する杜陽には目もくれず、六花は、落ちてからもごとごとと振動し続ける物体に視線を注いだ。
それはやはり、武将を彫った木の置物だった。まるで、中に何者かが入っていて、外に出たがっているような暴れようだった。
「おい、この置物も、宏渓の形見か?」
六花が、足元に伸びている杜陽の脇腹を爪先でつつく。
杜陽は涙目のままなんとか身を起こし、昨日宿を訪ねてきた宏渓似の男のこと、その男が武将の置物を残して消えてしまったことを、かくかくしかじかと説明した。
「いわくのある品であることは間違いないな。この部屋のまじないの気に反応しているのか……」
この部屋の呪具で囲んでおけば、そのうち化けの皮が剥がれて尻尾を出すやもしれぬ、と六花は言った。
「しかし、この置物を持っていた人物が、宏渓どのに似ていたというのは、どうにも気にかかりますな」
志和が腕を組む。翠薫が、目に武将像を映したままつぶやく。
「もしかして、宏渓さまはいまも生きているのでしょうか」
「でも、天呪閣に上って生きて帰った奴はいないんだろう?」
「わからぬぞ」
杜陽が翠薫に反論すると、六花がゆったりと笑みを浮かべた。
「生きて下界に帰ってきた者はおらずとも、あの呪われた城に上ったまま生きている者はおるかもしれぬ。——いずれにせよ、おぬしは天呪閣に踏み入って、事の真相を確かめなければならぬわけだな」
余とともに。そう言って幼い姫君は、頭を抱える杜陽に艶然と微笑んだ。
第三章 紅葉の宴 に続く
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます