第3話 前兆1

暗い重い雰囲気の漂う場所だった。暗めの灯がぽつぽつと灯る。すぐ隣や足下さえ見えにくい。むしろ意図してその空間を作っているようにも思える。換気窓さえない地下の1フロアは嗅ぐだけで酔ってしまいそうな、きついアルコールの臭いが、部屋中に蔓延している。その場にいる人々もなぜか重々しく、目は亡者の如く迫気がない。部屋自体が小さいせいもあって、この部屋はまるで牢獄のようだった。

 

一人その店のバーを陣どっている男は、やけに顔色よくなかった。暗い部屋も相まってか青白く、しきりに汗が頬を伝っている。彼はバーを挟んで反対にいる顔も覚束ないバーテンダーへ問い詰めた。


「あいつは……奴は来るのか。いつ……いつ!? 」


バーテンダーの青年は無言で客を見ている。普通の店ならまずありえない接客態度である。しかし青年の目はこの店に住み着く亡者達とは少し違っていた。彼の黒い目はどこまでも深く、目の前の男を見ていてもまるで違うところまで見据えているようだった。覇気があるのかといえば違う。ただただ冷静に目の前の男をモノとしてみているようだった。


その青年の瞳は全くと言っていいほど笑っていなかったが口だけはやけに不気味な笑顔を作ったままだった。その、何を考えているか分からない表情のまま彼は口を開く。


「そうですね……あと少しかもしれません」


「あと……少しだと」


客である男は青年のあまりにも曖昧な返事に顔を引きつらせる。同時に男にとって大切な期限があと僅かであることを知り、顔はさらに青白くなっていた。


その表情を見て青年はクスクスと笑う。顔を埋めて低く圧し殺したような笑い声が室内に響いた。周りがちらりとだけ目を動かすがすぐに戻る。


何が楽しいのか、と男は真っ青なまま怒鳴り付けようとしたがいやいやと顔をあげた青年が言葉を制止する。彼が怒ることも分かった上での行動だったのだ。主導権のない男は青年の自由奔放な態度に非を挙げることなどできなかった。拳を痛いほど握り返事を待つ。一頻り笑った青年は答えた。


「そうですね、あと5日ほどじゃないでしょうかね。だから、もうそろそろ準備しなければいけませんよ。何しろ敵はもう一歩進んでるみたいですし」


「な、なんだと。そんな馬鹿な」


「俺が言ったこと、信じられません? 」


男はびくっと震える。


彼の存在感。ただヘラヘラと自分勝手なことをいう青年。


――ただそれだけなのに、なぜこんなに体が震える?


男は恐ろしさのあまり分かった、と一言で言葉を切ると、そそくさと逃げるように店から出ていった。


青年はその後姿をただ眺めて見送る。元々話をする人間もまばらなバーに静寂が訪れる。周りの客ずっと変わらず酒を煽るだけ。もはやカウンターにいる青年の存在も眼中にないだろう。

 

青年はこれから起こるだろう事柄を酒を煽りつつ思案した。そうしてやはりクスリと笑う。


「楽しみだな……」


青年は呟く。誰に聞かせるでもなく、ただ不敵な笑みを浮かべて。


「今度はいったいどうするつもりなのかな? 氷雪のシニガミ」





「俺は二年前以前の記憶を何一つ持ってはいないんだ」


フェリスの一言で二人の間に長い沈黙がただよった。


夜も老け込み、外の呑む人たちも一頻り楽しんだ時間だ。周囲の音は少しばかりの笑い声や話し声くらいだったが、その声がいつもよりはっきり聴こえる中フェリスは一向に動かないセリアを見て心配そうに顔色を窺う。


「セ、セリア? 大丈夫……?」


セリアといえばさっきから口を開けたまま、視線もただ真っ直ぐ前を見つめたまま、そして呆然としているままであった。しかし、思考が停止しているわけではない。逆に頭だけはフル回転で働き続け、考え続けていた。頭の中を様々な言葉がよぎり、混じり、そして解釈していく。


記憶、消去、赤目、喪失、名前。


その言葉を一通り飲み込んだ後でセリアは何とか口を紡いだ。


「……つまり全然自分のこと分からないってこと? 」


しかしやっと口に出せた言葉は、長い間考えたにしては至極普通のことだった。もう少しまともな返答はなかったのか、とセリアは少し後悔する。


「うん」


フェリスは短く、しかしとてもすまなそうに頷く。自分に対して質問をしてきた相手に知らないで返したのだ。恩のある人間に返すにはあまりに理不尽で失礼ではないかとフェリスは深く首を垂れた。


セリアは現実を一つ一つ掬い上げるようにゆっくりと口を開く。


「記憶喪失ってことよね?」


「うん」


肯定しか返事はない。


「二年前以前の記憶は空っぽってことよね」


「うん」


嘘は言ってないと大きく頭を縦にふる。


「もしかして、自分の名前も忘れてます、とか」


「……うん」


セリアはそれだけ質問すると何もない机に突っ伏した。今までの期待がすべて音を立てて崩れ去るのを感じる。それと同時に急激に体の力が抜けていく。


やっと『手がかり』が見つかると思ったのだ。暑さといい、仕事といい、酒場で聴いた情報屋の話といい、何よりフェリスといい……


「あの……ごめん、セリア」


唐突に謝るフェリスに、彼女は渋々にも顔をあげる。


そこで、違和感。

なんで私、机に突っ伏せるのかしら、と。確か机にはさっきまでセリア自身の食べ物があったはずなのに。フェリスを見て、彼が持っているものに目が止まる。


彼が持っていたのはついさっきまで美味しそうな食べ物がぎっしり詰まっていた袋で、その中身は虚しくなるほど何もない、つまり空っぽだった。


「つい、美味しくて食べちゃったんだけど」


いつ食べたのだろう、という疑問を彼に投げ掛ける気力はない。丁度いい具合に彼女のお腹も悲鳴のように上がった。

 

「とりあえず、ついてないわ」

 

もう一度空虚な机にうつ伏せながらセリアは小さく呟いていた。その呟きは外の声にかき消されフェリスにも、もちろん他の誰にも届くことはなかった。


そうして夜も深くなる中、セリアはその日三度目の酒場へ出向き店主から散々笑われることになる。





「今すぐ我が兵を集めよ。寝ているならば、叩き起こせ。今すぐにだ」


日のでも近い早朝。帰って来てそうそう傍迷惑だと周りの誰もが思っただろう。


しかし、誰も言わない。

否、誰も言えないのだ。

ただ沈黙で答えるしか、彼らには許されていない。


更に男の金切り声に近い怒号は続く。


「今から我が兵に寝る間は存在しない。ただ来るべき時のためにその鈍った腕を鍛え上げろ。……なに、武器くらいならいくらでも用意してやる」


男は、狂っていた。


しかし、誰もその言葉に異議は唱えない。

否、誰も唱えようとはしなかった。

男の声が響く中、数人が同じことを呟いたのを誰が聴いていただろう。


彼らもまた、狂っているのかもしれない。

悪魔に、心を売り渡した者として。


「やっと……やっと……」


彼らは幸せそうに笑っていた。





セリアが目を覚ましたのはもはや朝日もすっかり出てしまっている頃だった。いつもならさっさと起きて朝食でも食べている時間である。仕事柄朝は早くから起きる習慣がある。朝一での武器の調達は彼女にとって日課のようなものだった。それが休暇中だろうと変わりはしないのだが、なにぶん昨日は頭の痛くなるような出来事が走馬灯のように過ぎ去ったせいか体が休息を求めているようだった。


日の光が窓から部屋に漏れて、彼女は眩しくて再び目を閉じる。今だ起きていない思考の中セリアはだんだんと昨日の記憶を鮮明に思い出していた。だが思い出すごとに彼女の顔はどんどん曇りを帯びていく。


昨日は、体力的にも精神的にも彼女はほぼ限界だった。


――特に精神的に、であるが。


疲れていたのだ、とセリアは仕方ないの一言で終わらせた。これで全て夢オチならどんなにいいだろうか、と夢見がちに昨日を振り返ってみるが……いやないだろう、夢ならだいぶ現実的な悪夢である。


その時ガチャリ、と音を立てて扉が開いた。入ってきた人物を見て一瞬でも現実逃避をした自分を恨む。


「あ、起きた? おはようセリア。さっき下に降りたら朝食だって宿主さんがくれたよ。俺の分まで作ってくれたみたいでありがたい」


そこにいたのは紛れもなく赤目の青年。彼は昨日と同じほんわかと陽だまりのような笑みを浮かべ、嬉しそうに朝食のサンドイッチを部屋のテーブルへ運んだ。今日のサンドはハムとチーズ、レタスのシンプルなものだったが、丁度いいくらいに焼けたパンの匂いと溶けたチーズの匂いにつられてセリアは虚しくも彼の持ってきた朝食と一緒に椅子に座る。


昨日の弊害か体を動かすたびに頭が少し痛む。


昨日おおよそ大男二人前の夕食を平らげひたすら謝るフェリスと、その日三度目の酒屋へ行く羽目になったセリアは店の店主にまたも商売人の満面笑顔で出迎えられて、悲しさやら恥ずかしさのあまりヤケ酒をしたのだ。


もちろん当の元凶たるフェリスは大人しく彼女の飲みっぷりを見ていたわけなのだが、そんな客をみすみす逃すほど店の店主も優しくない。


セリアが酒で机に潰れている間に一体どんなことがあったかは彼女自身が一番に知りたいことだったが、後に残された請求書の金額と店主の満足気な表情がその全てを物語っていた為、彼女はその場で言及することを諦めた。あれだけ飲んで二日酔にならなかったことだけが、不幸中の幸いである。

 

「それで? あなたはこれからどうするのかしらねぇ。まさかこれでお礼言ってさよならとかはないはよね? 」


フェリスの持ってきたパンを囓りながらセリアの口から冷たく棘のある言葉が放たれる。案の定、フェリスは冷や汗を大量にかきながら彼女から目を逸らした。一応、申し訳ないという気持ちはあるようだった。


「……えっと。俺が食べた分のお金は必死に働いて返す所存です」


見ると昨日から謝りっぱなしでだいぶんしょげているフェリスがいて、それがセリアには少し可哀想に思えた。道で倒れるくらいにはまともな食事もしていなかったのだ。目の前にご飯があれば食欲を抑えることはできないだろうし、さすがに酷な話だともセリアは思う。


強く言い過ぎたかしら、と少し考え反省するもすぐに請求書のことを思い出して首を振る。


セリアの一ヶ月分の生活費に相当するあの金額は、日頃金に携わることが多い彼女でもあいた口が塞がらない程だった。簡単に許せるほど彼女の心も財布も広くはない。


だからと言ってそのまま放置というのもあまりに鬼畜とも考えていた。記憶喪失が本当ならば、仕事にありつけるかということからまず怪しい。仕事にありつけたとしてもすぐに切り捨てられるか、理不尽な働き方をさせられるかである。兵士が仕事にあぶれるこの国でフェリスが働くにはだいぶ厳しいとセリアは思う。


その上、この悲惨を通り越す身なりである。服自体は白いシャツに白のズボンと清潔そうな印象を与えるものの、最初荷物と間違えるくらいには薄汚れていた。ところどころ破れてもいる。髪も伸び放題でせっかくの綺麗な金髪も宝の持ち腐れだった。


項垂れたフェリスをチラリと見つつ彼女は朝早くで虚ろな頭を動かし考えるが……案は一つしか思い浮かばなかった。あまり気乗りがせずはあ、と溜息をついて、セリアはフェリスへ口を開く。


「提案よ。ただしこの提案に乗るかはあなたが決めるといいわ。確実に私への借金は帳消しにしてあげるけど肉体労働ばかりだし、きついわよ」


フェリスは項垂れた首を持ち上げる。だいぶ脅しのように提案したが彼は即答で「乗るよ」と答える。


「俺はこの通り一文無しだし事情が事情だから。恩を返せるなら願ったりだしね。それに体力には自信があるし」


仕事内容を聞かずに即答したことにセリアは眉を潜める。少しは警戒してほしい。昨夜会ったばかりだというのに。


だが、昨夜あったばかりの相手……それも赤目の人間にこんなことを頼む自分もどうかしているだろうかとも思った。否、これは監視のためだと踵を返す。フェリスが本当に記憶喪失なのか確かめるために。


セリアは少し微笑を含ませた顔で話を進める。


「提案といっても仕事内容は簡単よ。私がこの町に滞在する間、私の助手件護衛として同行してもらう。荷物運びでもよし、依頼人の貴族の家で賃仕事をもらうもよし。……ついでに衣食住も少しなら補償してあげる。どうかしら? 」


フェリスはじっとセリアを見る。

意図的に目があってセリアは不自然に目を逸らしてしまった。はっと逸らした後に後悔しても、今更後の祭りである。 


目を逸らされたことには気づかなかったのかフェリスは疑問といったようにセリアに尋ねる。


「その提案、俺にとっては嬉しい限りだけどセリアにとってはなんの得にはならないんじゃない? 」


「あら、そんなこともないわよ」


セリアは逸らした目を何気なくサンドイッチに向け、一口頬張りながら話を返す。


「武器屋をしてるといったでしょう。休暇中だけど仕事が入ってね。力自慢の助っ人を探していたのよ。それに相手によっては危険も含む仕事だし護衛がいても別段困りはしないわ。そもそも丁度よさそうな男を見つけたから拾っただけしね、恩を返して貰おうとは思ってないわ」


フェリス自身を知りたいことは伏せた。そこまで話すほど彼との信頼はありはしないのだった。


フェリスから返答がなく不思議に思ったセリアは、少し目線を上げ彼の目をもう一度見る。しかし、ただその瞬間見えたのは純粋な憎しみも怒りもない穏やかな陽だまりのような顔だった。


「ありがとう。でも恩は返すよ。命に変えても。君はどんな理由であれ俺の命の恩人だからね」


セリアは面食らい言葉を詰まらせる。一応、毒のある言い方をしたつもりだったし、自分の言葉に対してこんな返答を期待したわけではなかった。

本当になんというか……


「調子が狂う」


つい思った言葉が口から溢れ落ちる。


「なんか言った?」


溢れた言葉はフェリスには聴こえていなかったようだ。


「なんでもない」


そう素っ気なく返す。聞き返されるのも面倒なので残り半分のサンドイッチを黙々と食べることにした。フェリスは先ほどと同様に首を少し傾げたが、空腹の方が優っていたのか同じように口に残ったパンを頬張った。


正直というか、素直だというか。まるで純粋無垢な子供のようにもセリアは感じていた。だが、ただ純粋なだけではない、何を考えているか分からない怖さもフェリスにはあるのだ。武器屋としてセリアはメルシア全土を旅して、様々なヒトとなりを見てきた。だからこそ疑問に思う。兵士としてあの大戦を戦ってきたのならば、普通はフェリスのようにはならない。そう言い切れるくらいには戦争は非日常的であり、人を狂わせるものであるとセリアは考えていた。


ーーあながち記憶喪失も嘘ではなさそうね。


どうせこの町では行動を共にするのだ。未だ昨日から止まることのない焦りを含んだ鼓動を、息を吐いて落ち着かせながら朝食を平らげたフェリスに声をかける。


「じゃあ方針も決まったところで行きましょうか。まずは買い出しからかしらね」


「買い出し? 何で」


フェリスの全く必然性を感じていないと分かる言動を聴いて、やっぱりどこかずれていると感じる。セリアは飽きれたようにフェリスの体をさっと見直して、


「まさか、その格好で仕事できるわけないでしょう? 」


「…………あっ」


フェリスは少し考えて、ようやく自分の格好の悲惨さと、その重要性に気づいのだった。

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