本
案の定朝から頭痛がする土曜日が幕を開けた。少し集合が遅いからとはいえ朝起きねばならないことに変わりはないのだが、なぜか前日は強気になって夜更かし、あるいは大目に酒を飲んでしまうものだ。こういうときのために常備している鎮痛薬を口に放り込んで病院へ向かうことにする。足取りは重い。
例のごとく昼間から飲むビールを楽しみにしていた堀先生と大竹先生は、回診が終わるとウキウキ帰っていった。僕と安藤先生はカルテを書きあげて解散という何の変哲もない土曜日。昼ご飯はどうしようなどと考えながら、もう習慣になっていた302号室を訪問した。
「お、来たね先生」
小沼さんはベッドの上でゆっくりと体を起こし、足を投げ出して座った。僕はいつも通り家族用の椅子に座る。
「あれ、先生今日なんか体調悪そうだね」
「いや、そんなことはないんだけど」
「あ、わかった。昨日飲みすぎたんでしょ、花金満喫してるなー」
小沼さんは本当に鋭い。頭痛は鎮痛薬のおかげでなんとかなっているが、全身からにじみ出る酒の残った倦怠感というのは彼女の前で隠せるものではなかったらしい。
「当たり。すごく久しぶりに同期と飲んでた」
「同期って、研修医の?」
「そう、森田と一番合戦」
「森田先生と、何?変わった名前の先生だね。知らないなぁ」
「一番合戦。僕も最初聞いたときはびっくりしたよ」
「イチバンガセ先生か、どんな先生なの」
「クールな女子だよ」
少なくとも病院に居るときは、そっけない。
「女医さん?へぇ、やるねえ中野先生」
「なにがやるんだ。森田は男だし、3人で飲んでただけだ」
「だろうね。色恋沙汰ならそんなになるまで飲まない」
理路整然とからかってくる、いつもの小沼さんのペースだ。
「一番合戦は『スライム』知ってるみたいだったぞ」
「マジ?お医者さんでもアニメ見る人は見るんだねー」
「別に医者だからとか関係ないだろ」
「確かに。中野先生もあんまりお医者さんっぽくないよね」
「それって褒めてるの?貶してるの?」
「褒めてる褒めてる。すごくフレンドリーじゃん、そういう意味で医者っぽくない」
「ありがとう。でも研修医なんてそんなもんだと思うよ。学生気分が抜けてないってよく怒られるもんな」
「6年も大学生やってるからだよ」
「そうかもね」
医学部は他の学部と違って4年制ではなく6年制だ。薬学部、歯学部なんかもそうらしい。他の学部より2年長くハッピーな学生生活を送れるのだから、学生気分が染みついても無理はないと思うのだ。といっても進級のハードルは高く、テストも多いので遊び惚けてばかりもいられないのだが。さりとて学生は学生、そこらの大学生と変わりない感性を持ち、飲み歩き、無責任な青春を謳歌した。
「大学生と言えば、昨日現役の大学生の友達が来たんだろ?」
「来た来た。楽しかったよ。彼氏自慢はウザかったけど、久々にキャンパスライフって感じだった」
「そっか、それはなによりだ」
「でもね。」
小沼さんの表情が少し曇った。
「もうこれで会えるのが最後なのかなって思うとね、やっぱちょっと寂しかったかな。もちろんそんなこと言えないけどね。心の底から明るく楽しく話せたとは思うけど、別れ際がどうしてもね。『退院したら温泉旅行に行こう』だって。」
悲しさを押し殺したような笑顔でそう言った。小沼さんの友達は彼女の余命を知らない。知らないからこその残酷な提案だった。僕が何を言うべきか迷っていると、小沼さんはぽつりとこぼした。
「先生、私、まだ死にたくないな」
小沼さんの頬を涙が伝った。いつも明るい笑顔だった彼女の姿は、そこにはなかった。初めて見る彼女の今にも砕けてしまいそうな姿を見て、僕は大きな勘違いをしていたことに気づいた。彼女は強くなんかなかった。どこにでもいる、普通の22歳の女の子だ。決して人より強いわけではなかった。ただただ、不安や恐怖を心の底にしまい込んでいただけだ。久しぶりに元気な友人と話して、その蓋が開けられてしまったのだろう。今まで一度もネガティブなことを言わなかった彼女が、初めて弱音を吐いたのだ。僕は自分の今までの楽天的な考えに嫌気がさした。彼女は普通の女の子だ。そんな普通の女の子が、目の前に迫った死の重圧に耐えながら、日々過ごし、日々笑っていたのだ。どれだけ辛かったろう。誰にも言えぬ心の内。さらけ出すことのできる相手などいない現状。今まで押し殺してきた感情が噴き出るように、彼女は嗚咽を漏らした。できることなら一緒に泣いてしまいたかったが、僕は彼女の担当医であり、彼女が弱音を吐く相手として選ばれた人間であったのだから、そんな真似はできない。かといって何か気の利いたことが言えるわけでもなかった。僕はただただ彼女の背中をさすって、大丈夫、大丈夫と根拠のない慰めをかけることしかできなかった。しばらく泣いた後、小沼さんは涙をぬぐって
「相変わらず、先生は嘘が下手だね」
と言って笑った。
土曜日の昼食だというのにのどを通らない。今頃堀先生や大竹先生は昼間のビールを楽しんでいるだろうか。
あのあと302号室を出て、安藤先生と話す機会があったので何があったかを説明した。
「なるほど。それは、中野くんがしっかり担当医としての信頼を得てる証拠だね。今の彼女の一番のよりどころは中野くんなのかもしれないよ。しっかり、最後までフォローしてあげてね」
そう言って安藤先生は僕の肩をポンポンと叩いた。今更ながら、安藤先生が言っていた勉強になる症例という意味がわかってきた気がする。医学の面だけでなく、患者とのかかわり方や、精神面の動きなど、小沼さんを診ていくうえで学ぶべきことはたくさんあった。これから先も僕にとっては初めての出来事をたくさん経験するのだろう。適切に対処できる自信はないが、上級医の力も借りつつ、最後までやり遂げることが、何より大切なことなんだろうという予感はしていた。
とはいえ、すぐにできることなど何もない。冷めたうどんをずるずるとすすりながら、「スライム」の続きを見ることが、小さくはあるが小沼さんのためになると信じていた。
土日の間に「スライム」を全話見終えたので、月曜日は朝一番に小沼さんに報告に行くことにした。いつものように302号室を訪ねると、酸素マスクをした小沼さんが居た。一瞬驚いたが、すぐに状況は理解できた。肺転移の影響で呼吸がしにくくなってきているのだろう。僕はあえてそのことには触れずに話を始めようと思った。なんだか一気に弱々しくなったように見える小沼さんは、体を起こさずにベッドに寝たままこっちを見てにこりと笑った。
「おはよう小沼さん、『スライム』、全部見たよ」
「どう、おもしろかったでしょ」
「そうだね。リーゼルが強くて、見てて爽快だった」
「先生リーゼル好きだね。私はライトニーが好きだったな」
「ああ、妖精か。途中で死んじゃったね」
「あの切ない途中退場がいいんだよー」
いつも通りの小沼さんだ。しかし、病状は着々と悪くなっている。僕にできるのは、いつも通り話し相手を務めることだけなのだろうか。一通り「スライム」について話した後に僕は切り出した。
「痛みはどう」
腰をさすりながら小沼さんは答える。
「んー、良くはなってないかな。でも薬飲んだらだいぶましなんだよ」
「そっか。もし痛みが強くなるようなら、遠慮せずに言うんだよ」
「ん、わかった、ありがとう先生」
「呼吸の方は、大丈夫?」
「ちょっと息苦しい、かな。ほら、酸素マスクつけてもらっちゃった。」
コツコツとマスクを指で叩きながら小沼さんは言う。
「いつから息苦しくなったの」
「土曜日、先生が帰ってからだんだんね。泣いたのがダメだったかな?」
少し恥ずかしそうに言った。病は気からとはよく言ったもので、心が折れると病気の進行が早まることはままある。もしかしたら友達と会ったことで、死がさらに現実味を帯びてしまったのかもしれない。
「わかった。息の方もつらくなったら言うんだよ」
「うん、そうする」
「それじゃ、また夕方に」
笑顔の小沼さんに手を振られながら病室を出た。本当に1ヶ月もつのだろうか。いくら経験の少ない研修医と言えど、小沼さんの様態が明らかに悪くなり続けているのはわかる。このペースでいけばあと1週間後には、などと悪い考えが巡る。今一度安藤先生と話し合う必要があるように感じられた。
朝回診を終え、オペに入る。予定通りにオペも終わり、夕方の回診前に安藤先生が僕に言った。
「小沼さん、ご飯食べられてないね」
僕もちょうどその記録を見ていたところだった。朝の時点では気づいていなかったが、土日もあまり食事をとれていないようだった。
「そうですね。この土日で状態はさらに悪くなっているように思います。」
実際悪くなっているのは火を見るよりも明らかだ。僕は正直に安藤先生に問いかけてみた。
「安藤先生、本当に1ヶ月ももつんでしょうか」
安藤先生は顔に手を当ててうーんと考えてから、ゆっくりと答えた。
「わからないけど、思っていたより早く進行してる感じはあるね。中野くんもそう思ったんだろう?」
「はい。」
「だよね。人ってのは、ご飯を食べられなくなると急激に弱るんだ。ここから先は坂道を転げ落ちるように病状が悪化することも考えられる。一度、家族さんとお話しする必要がありそうだね。中野くん、次いつ小沼さんの家族さんが来るか、聞いといてもらえる?」
「わかりました」
やっぱりそうか。嫌な予感は当たるものだ、というかこの短い期間にも医師としての経験が積まれたと考えるべきだろうか。不幸にも安藤先生も僕の考えと同じで、余命は1ヶ月よりも短いと考えているのだろう。家族とのムンテラは密に行うことが、のちのトラブルを防ぎ、現状を受け入れてもらう医は必要だ。また、辛い話をしなければならない。だが、必要なことなのだ。
夕方の回診を終え、小沼さんの病室に向かう。
「お、来たね先生」
いつもと変わらない笑顔で迎えてくれるが、やはり体を起こそうとはしなかった。
「小沼さん、ごはん、食べられそうにない?」
僕が問うと、小沼さんは困ったように笑った。
「あちゃー、やっぱりバレてた?」
「そりゃ担当医だからね、なんでもお見通しさ」
「なんでもかぁ、敵わないなぁ」
茶化すように小沼さんは言った。
「それで、どうなの」
「うん、息苦しいし、痛いし、食欲はないし。食べなきゃとは思うんだけどね、箸が進まなくて」
「そっか。僕としては、しっかり食べて元気になってほしいところなんだけどね」
だよねー、と小沼さんは力なく笑う。
「小沼さん、次お父さんとお母さん、いつ来る予定?」
小沼さんははっとして、そして何かを諦めたように答えた。
「明日、来るよ」
「わかった。少しまたお話ししようと思うから、そう伝えておいてくれる?」
「わかった」
小沼さんは察しが良い。きっと、良くないことを話すことを看破したんだろう。
「実は明日、お姉ちゃんも来るよ」
小沼さんは、大きな秘密を打ち明けるかのようにおおげさに言った。
「お姉さん、確か遠方にいたよね」
姉の存在自体はカルテのプロフィール欄に載っているから知っていた。もちろん遠くに住んでいることも。
「そうそう。その姉が出てくるんだから、まあだいたいの事情は私にだってわかるよ」
こちらの考えを見透かしているように言った。もとより必死になって隠しているわけではないのだが、現状を把握している僕らの脳内が筒抜けになっているかのように、彼女は的確に状況判断している。なんでもお見通しなのは、彼女の方なのだ。
「お姉さん、似てる?」
僕は話をそらすように要らぬ質問をした。
「似てるってよく言われるよ。自分じゃそうは思わないけど」
なら、きっと美人なんだろう。
「へー、期待してるよ」
「何を期待してるの、意味わかんない」
あははと小沼さんは笑う。この笑顔もあとどのくらい見られるのだろうか。できることなら苦痛に歪んだ顔の小沼さんなど見たくはない。そのために僕にできることは何だろうか。いつかそう遠くない未来に、確実に来るその時に備え、僕には何ができるのだろう。
「あ、そうそう先生、ちょっとこっち来て」
「なに」
「そこの扉開けて」
そう言って小沼さんは病室に備え付けの戸棚を指さした。言われるがままに扉を開けると、「スライム奮闘記」と書かれた分厚い本が何冊も積まれていた。
「それ、原作小説だよ。先生に貸してあげるから、持って行って」
「いや、患者さんから物を借りるのはちょっと」
「そう言わずにさ!おもしろいから、読んでみてよ。アニメ見てからだとなお面白いよ。」
「うーんそう言われても」
「いいじゃん、かわいい担当患者のわがままだよ、お願い!」
顔の前で手を合わせて、そう希う。僕が迷っていると追い打ちをかけてきた。
「それに、私が持ってても、もう仕方ないからさ。読める人に読まれた方が、本も幸せだと思うんだ」
もう自分には読む機会がないから、読む時間がないから、持っていても無駄だと、そう言うのだ。そこまで言われて断れるほど肝が据わってもいない、流されやすい僕であった。
「わかった、じゃあ借りていく。」
「返さなくても、いいからね」
小沼さんは少し悲しそうに言った。
「いや、返すよ。必ず返す。」
小沼さんの目を見てそう言うと、その目は嘘が下手だねと笑っているように見えた。
10冊の小説を抱えて研修医ルームに戻り、とりあえず自分の机に積んだ。その様子を見ていた一番合戦が怪訝な顔をして尋ねてきた。
「どうしたのそれ」
院内で仕事と無関係な本を山積みにしている研修医に対して至極当然の疑問であった。
「これ、前言ってた小沼さんに借りた」
「どこの世界に患者に原作全巻借りてくる担当医が居るのよ」
「いや、半ば強引に貸されて、断れなくって」
呆れた顔の一番合戦には事の顛末を説明しておくことにした。余命のない患者のわがままを聞き入れてしまったことを。
「ふーん、そういうこと。ならギリギリ理解できるわ。」
「ちなみに、これアニメってどこまでやったのか知ってる?」
「3巻までね」
「え、先長いな」
「読んで返せるといいわね」
「うん」
うん、と答えたが、正直無理だと思う。自慢ではないが僕は本を読むのが遅い。こんな本を10冊も読むには相当の時間がかかるだろう。それまで小沼さんが生きているとは、到底思えなかった。それくらい小沼さんの病状の悪化スピードは速いように感じられたのだ。積まれた本の山を見て、明日のムンテラがさらに憂鬱になった。
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