冷酷な選択
翌日の朝、回診を終えて安藤先生が言う。
「小沼さん、やっぱりご飯食べられないみたいだね」
昨日の夕食もほとんど食べられなかったようだ。
「このまま食べられないようなら、PICCの適応ですか」
僕は珍しく自分から治療指針を提案した。PICC留置とは二の腕の静脈から心臓の近くまでカテーテルと呼ばれる管の留置を指す。食事の代わりになる高カロリーな輸液など、濃度の高い点滴は普通の血管から入れると血管炎を起こすことがあるので、太い静脈に直接注げるようにそのようなカテーテルを留置するのだ。
「うーん、してもいいけど、それは緩和治療よりは積極的な治療になるから、方針としては少しブレるかもね」
緩和治療は死ぬまでに起こり得る苦痛を取り除く治療であるから、取れなくなった栄養を補充するのは緩和治療とは言えない、というのが安藤先生の見解であった。
「じゃあ末梢から普通の点滴を続けるのが正解ですか」
「正解不正解という言い方はどうかわからないけど、僕ならそうするかな。」
低侵襲とはいえ、PICC挿入は局所麻酔を用いて行う手技なので、少しは負担になる。そのあたりも加味して結局PICCは無しの方針になった。もうひとつ、今日のムンテラのことも相談したいと思っていたので聞いてみた。
「今日、家族さんに話す内容なんですけど」
「あ、それね、ちょっとシビアな内容になるから、今日は僕が話すよ。」
と、今日は安藤先生に任せることになった。内心ほっとしたのだが、やはりかなりきつい内容になるのは間違いなかった。
昼食を終えて研修医ルームでコーヒーを飲んでいると電話が鳴った。
「はい、中野です」
「安藤です。小沼さんの家族さん来たみたいだから、話をしに行こうか。」
「わかりました、すぐ行きます」
電話を切って、ふーっと大きく息を吐いた。気が重い。どうにかいい方向に話が進まないものかと無理な願いをしながら腰を上げた。
安藤先生は面談室に居て、カルテを見ていた。僕が到着したのに気づくと声をかけた。
「じゃあ、家族さんを呼んできてもらおうかな」
僕は言われた通り家族を呼びに302号室を訪ねた。いつもの両親に加え、すらりとした細身の女性が居た。なるほど、小沼さんに似ていて、目鼻立ちがくっきりした美人だ。年は僕と同じくらいか、少し上くらいの感じであった。軽く挨拶を済ませ、3人を面談室に招いた。小沼さんは少し悲しそうに手を振ってくれた。
「貴重なお時間をいただいてありがとうございます。えっと、お姉さんは初めましてですね、担当医の安藤です。こちらは中野です。」
安藤先生が自己紹介し、僕は軽く会釈をした。
「初めまして、唯の姉の舞です。妹がお世話になっています。」
「よろしくお願いします。今日は唯さんの現状についてお話しできればと思います。」
安藤先生は澱みなく話し始めた。
「唯さんですが、思っていたよりも病状の進行が速いです。今は酸素マスクが必要なほどにまで呼吸状態も悪くなってきています。そしてそれに伴って食事もとれなくなってきています。痛み止めについては今はある程度効果があるようですが、少しずつ増量している状態です。」
淡々と述べられる現状について、3人は真剣に聞き入っていた。
「このままのペースだと、そう遠くないうちにもっと呼吸が苦しくなると考えられます。そうなったときに、呼吸をしようと頑張らせる脳の機能自体を落とすために、モルヒネを使っていくことになるでしょう」
「呼吸を抑制するんですか。それで良くなるんですか」
父親が質問し、安藤先生が答える。
「良くなる、というのは少し違います。呼吸ができなくて苦しいという感覚をマヒさせる、というのが近いかもしれません。なので、酸素の取り込み自体は悪くなることが多いです」
結果、死期を早めることになろうとも、本人の苦痛を少しでも和らげる、というのが緩和治療の目的だ。それをきちんと理解しなければ、このモルヒネの使用という治療は受け入れ難いかもしれない。
「良くなることは、ないんですね…」
父親が落胆した様子でそう言った。母親は黙って聞いている。安藤先生は続けた。
「今回はもう1歩踏み入った話をしなければなりません。前回余命は1ヶ月と言いましたが、予想以上に進行が早く、もっと早くに亡くなられるかもしれません。今後状態が急変した場合に、延命処置をするか否かという問題が出てきます」
「その、延命処置というのは、具体的に何をするんでしょうか」
また父親が質問し、安藤先生が答える。
「心臓マッサージや気管挿管し人工呼吸器につなぐなどの処置を指します。いずれも侵襲、つまり本人の身体への負担が非常に大きい処置です。万が一心臓が止まった場合にこれらの処置を行うと、蘇生させることができる可能性があります。」
両親は顔を見合わせた。安藤先生は淡々と続ける。
「ただし、僕個人の意見としては、唯さんに対してはあまりオススメできる処置ではありません。というのも、唯さんの場合は処置で一命をとりとめたとしても、本質的な解決にはなりません。病状が病状ですので、すぐにまた心停止に陥ってしまうでしょう。」
ここまで説明したところで、お姉さんが口を開いた。
「私、延命処置は希望しません」
「舞!」
やや驚いた顔で母親が言った。お姉さんは意に介さず続ける。
「私、実は看護師なんです。そうやって延命できた人を何人も見てきました。人工呼吸器につながれ、意思疎通も叶わず、ただ死を待つだけの人たちを。本人も家族もかわいそうで、見ていられませんでした。妹にはそんな最期を迎えてほしくないんです」
母親はなにかを言いかけて、やめた。父親はそれを聞いてまた質問した。
「意思疎通ができないというのはどういうことでしょうか」
安藤先生が答える。
「お姉さんの言う通り、人工呼吸器をつなぐと意思疎通ができなくなります。というのも、気管挿管というのは、息をさせるためにのどにある空気の通り道に無理やり管を挿し込むことになるので、強い苦痛を伴います。経験があると思いますが、水分が少し気道に入るだけで咳が出てむせますよね。その気道に管を入れるのですから、起きている状態ではとても耐えられません。なので、鎮静剤で常に眠った状態にさせます」
「なるほど。生きてはいるけど、眠ったままの状態になると」
「そういうことです。一度気管挿管をして人工呼吸器をつないでしまうと、法律上、二度と外すことはできません。もちろん状態が改善すれば人工呼吸器を外すこともできますが、その希望は薄いでしょう。」
「そうなんですね…わかりました」
目に見えて落胆する父親の肩を母親が支えた。少しの沈黙の後、お姉さんが言う。
「お父さん、お母さん、つらい選択だと思う。私もつらい。でも、延命して、人工呼吸器につながれた唯の姿は、私、見たくないんだ。ボロボロになって、自分で息もできなくなってるのに、まだ生かされるなんて、唯もきっと望んでないと思う。」
実際本気で心臓マッサージをすると、胸の骨が折れてしまうことはよくある。心臓マッサージをするような生きるか死ぬかの状況下では、骨折など二の次だ、ということである。小沼さんの華奢な体に心臓マッサージをするなんて、想像するだけで痛々しいものだ。
「病院で働いている舞がそう言うんなら、そうなんだろうな」
父親が自分に言い聞かせるようにそう言った。母親も黙って頷いた。
「それでは、急変時には延命処置はしない、という方針でよろしいでしょうか。」
安藤先生の問いかけに、3人は黙って頷いた。安藤先生は続ける。
「もちろん本人の意志というのが最優先ですので、一度唯さんともお話をなさってください。もし延命処置を希望する方針に変わるようなことがあれば教えてください。」
自分の死ぬときの延命処置について家族と話し合うなんて、どんな気持ちになるんだろうか。不思議と僕の脳内には、そんなのいらないよ、とあっさり言う小沼さんが浮かんだ。
「先生、最後に一つ。唯は、本当に残り2週間も生きられるんでしょうか。私の見立てだと今週か来週には、という感じがするんですが」
お姉さんが言った。両親は目を見開いてお姉さんの方を見た後、縋るように安藤先生を見た。
「申し上げにくいですが、今のペースを見ているとお姉さんの仰る通りかと思います。」
「そうですか。わかりました」
毅然とした態度でお姉さんは頷いた。その横でうなだれた両親の目は潤んでいた。
面談を終え、ナースステーションに戻り安藤先生は言った。
「お姉さん、看護師さんだったんだね。思ったよりずいぶん話が早くまとまったよ」
「なんというか、とても落ち着き払っていましたね」
「そう見えたけどね、本心はどうかわからないよ、実の妹だからね」
確かにそうだ。いくら看護師で場慣れしているとはいえ、肉親の延命処置について考えるなんて初めてだろう。そう遠くない未来に訪れるその時のことを考えながら、僕はカルテに「急変時延命処置無し」と記載した。
その日の夕方回診で302号室を訪ねた時にもまだ家族そろっていたので、今日の話し相手係はお休みだ。あと何回会えるかわからない家族との会話を大切にしてほしい。
僕にも妹がいる。今は大学生で、何も考えず遊び惚けている、と僕は思っている。家を出てからしばらく会う機会が少なくなっているが、実家でぬくぬくと生活しているのはまず間違いないだろう。もし妹が小沼さんと同じ状況であったら、舞さんと同じように延命処置は希望しないと思う。本人もつらいだろうが、家族もつらい。一切話せず、機械につながれたまま、生き永らえている妹を、ただただ死ぬまで見届けねばならないというのは、なんと残酷なことだろうか。僕には到底耐えられそうにない。特段仲のいい妹というわけでもないが、それでもだ。現状、延命するというのは誰にとっても不幸な気がしてならなかった。
結局その日はそれ以降家族からの話は何もなかったので、本人も延命は要らないと言ったのだろう。
翌日の夕方、オペを終えた僕はいつもと同じように小沼さんの病室へ向かった。部屋に入るとこっちを見てにこりと笑ういつもの小沼さんが居た。しかし、いつもと違って今日は少し息苦しそうだ。時折咳もしている。
「先生、昨日は、来てくれなかったね」
少し言葉を途切れさせながら小沼さんは言った。
「昨日は家族水入らずで話してたからね、邪魔しちゃ悪いと思って」
僕は家族用の椅子に腰かけた。酸素マスクに流れる酸素の量は昨日より多くなっていた。
「お気遣いありがとう、ございます。あと何回、会えるかな」
コホコホと咳をしながら、そんなことを言う。明らかに昨日より具合が悪そうだ。本当に日に日に病状が悪化している。僕が何も言えずにいると、小沼さんは言った。
「あ、そうだ。先生、私、延命、要らないから」
「そっか。わかった。」
「お姉ちゃんに、教えてもらった。人工呼吸器の、話とか。そんなの、私要らないよ」
聞いているこちらまで息苦しくなるような、途切れ途切れの会話。毎日会っているから気づくのが遅くなったが、少し痩せたようだ。世の女性が羨むような、健康的な痩せ方ではない。入院してきたときの、明るく元気なイメージの小沼さんとは程遠い、病魔に蝕まれた女性が、そこに横たわっている。
「わかったよ。あんまり喋ると、体に響くよ。」
「だって、家族よりも、一番よく話すの、先生だから」
「そうかもしれないね」
「家族よりも、家族みたいだね」
ふふっと力なく笑う小沼さんは、どことなく安心しているようだった。僕は、彼女の力になれているのだろうか。
「僕はただの話し相手係だよ」
「先生が、担当で、よかった。毎日、ありがとう、先生」
そんな死ぬ間際みたいな言い回しは聞きたくないものだ。
「どうしたのそんなに改まって」
「だって、もう、いつ言えなくなるか、わからないから」
気づくと僕は必死で涙をこらえていた。そんなことを言わないでくれ。明日も明後日も、僕はここで小沼さんと話す。それでいいじゃないか。そうに決まっている。
「なに言ってるの。3月まではこの病院で研修してるし、それまでずっと話に来るよ」
「相変わらず、嘘、下手くそだね」
あははと小沼さんは弱々しく笑った。
「花火、見るんだろ」
「そう、だったね。頑張るよ」
小さくファイティングポーズをした小沼さんも、嘘が下手くそだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます