同期

 朝起きてすぐ奥村先生から電話が入った。


「おはよう、何もなかった?」


「外来数名と救急車がきましたけど、特に問題なく対応できました」


「ありがとう、あとでカルテだけ見ておくよ。お疲れ様」


お疲れ様です、と言って電話を切り、売店で朝食を買った。研修医ルームにコーヒーはあるのでサンドイッチを買うことにしている。眠くないと言うと嘘になるが、そうも言っていられない。しかし朝食くらいはゆっくり食べてもバチは当たらないだろう。


研修医ルームに入ると、一番合戦がもう来て本を読んでいた。お早いご出勤だ。


「おはよう、早いね」


「おはよう、中野くんこそ早いわね」


「いや、僕は当直明け」


「ああ、なるほど」


コーヒーを入れながら短い挨拶をして向かいのソファーに座った。いつもこんな早くからきて本を読んでいるのか。感心を通り越して少し不気味ですらある。サンドイッチを食べながらなんとなく話してみた。


「なあ一番合戦、NSAIDsもペンタゾシンも効かなくなった緩和治療の患者に、次に使う痛み止めって何?」


一番合戦は本から目を離さずにそっけなく答えてくれた。


「経口オピオイド」


「やっぱりそうだよな、ありがとう」


オピオイド、いわゆる医療用麻薬の一種である。僕の見解と一致していて、やはりもう麻薬を使う段階まで来ているんだなと再認識させられた。今日は安藤先生に会ったら昨晩のことの報告に加えてオピオイドの提案もしなくては。それと回診前に少しだけ小沼さんの様子も見に行っておくか。あまり味のしないサンドイッチを掻き込んで病棟へ向かった。結局ゆっくりした朝食とは程遠いものになってしまった。


 302号室をノックして入ると、小沼さんはまだベッドに寝ていた。


「あ、おはよう先生、今日は早いね」


小沼さんは体を起こそうとしたが、途中でやめてしまった。


「痛むならそのままでいいよ」


僕が言うと小沼さんはこくんと頷き、また横たわった。


「痛み止めが一時しのぎにしかなってないみたいだね。何か新しい手を考えるよ。」


「ありがとう先生」


無理に作ったような笑顔でそう言った小沼さんは、僕が部屋を出ていくとき横たわったまま手を振ってくれた。


 朝の回診が終わると安藤先生を呼び止めた。昨晩の小沼さんの様子と、痛み止めが不十分であることを伝えた。


「なるほどね、回診の時も痛そうにしてたね。じゃあ次の手が必要だ。中野くんはどうするつもりだい」


「経口オピオイドを始めてもいいんじゃないかと思います」


「うん、なるほど。開始のタイミングの見極めって正解はないから、よく診察している中野くんがそう言うなら、今がそのタイミングなんだろうね。それでいこう。」


あっさりと僕の提案が通った。それから教科書を見ながら投与量を決めていく。安藤先生と相談して投与量が決まった。いよいよ今日から麻薬による鎮痛が始まるのだ、それは終わりに向かって大きな一歩を踏み出したように僕には感じられた。あとは小沼さん本人に説明しなければならないのだが、気が重い。


 「今日から麻薬使うの?えー、ちょっと楽しみ」


小沼さんに伝えた時の反応は僕の予想のはるか外側であり、驚いた。


「た、楽しみなの?」


「だってそう何回も経験できることじゃないし、合法的に麻薬使うってなんかワクワクする


「あくまで薬として、痛み止めとして使うんだよ」


「わかってるよ。でもさ、先も短いんだし楽しみが多い方がいいじゃん」


小沼さんには敵わないな。痛みが強くなってきているから薬を変更するという話なのに、そこまでプラス思考に受け取られると緊張して話した自分が馬鹿みたいに思えた。


「でも副作用がないわけじゃないから、もし何か問題があったら教えてね」


「副作用あるんだ。やっぱり痛みだけ止まるようなうまい話はないんだね」


それでも麻薬はどんなものか楽しみという感情は漏れ出ていた。自分が同じ状況に置かれたときに同じことを考えられるかというと、到底無理に思えた。自分なら、ああついにこの時が来てしまったか、と気を落とすのが目に見えている。やはり小沼さんは強い。


「あ、そうだ。今日は友達が来てくれることになってるんだ」


「そうなんだ、いいね。じゃあ今日は僕はお役御免だね。」


「女子大生だよ、会っていかなくていいの?」


「いいよ、当直明けだし、早く帰って寝る」


女子大生の響きは魅力的だが。


「なんだ、残念」


「じゃあ仕事に戻るから。痛み止め、遠慮せずに言ってね」


「ありがとう。お仕事ガンバ」


「どうも」


僕は302号室をあとにした。


 仕事に戻ると言っても、今日はAチームのオペ日で、Bチームは病棟当番、つまり特にやることがない日であった。午前のカルテを書き終えた僕は研修医ルームに戻ってのんびり過ごすことにした。お昼ご飯の集合まで当直疲れを癒すようにゆっくりと休憩したが、お昼ご飯の時に大竹先生に


「中野くん、当直明けなんだろ?今日はもう帰っていいよ」


と言われた。研修医の特権というべきか、当直明けの日は特に何もなければ昼までで解散にしてくれる場合があった。もっとも、当直をした後普通に日勤する方がおかしいのだ、と僕は思う。夜が平和ならまだしも、忙しい夜を終えてへろへろになった状態の医者に診察や手術はされたくないものだと僕は思う。医者は体力が要ると世間一般に言われるのはそういうところが理由なんだろう。研修医でなくたって、当直明けは帰れるなら早く帰るべきだと僕は思っている。


「本当ですか、ではお言葉に甘えていいですか」


「いいよ、お疲れさま」


お昼ご飯を食べ終えて退勤になった。午後からは何をしようとかそういう明るい気持ちよりも、早く帰って寝てやりたいという気持ちが強い。さほど過酷な夜ではなかったが、深夜に起こされるというのはやはり体調にはよくないことなのだ。家に帰るとベッドにダイブしそのまま昼寝をしてしまった。起きたら夕方5時であり、何をするにももはや中途半端な時間になっていた。


おおよそ僕には関係ないと思っていた花金であるが、早く帰ってきたしせっかくだから飲みにでも行きたい気分である。小沼さんも今頃友達と楽しく団欒している頃だろうか。森田でも誘って飲みに行ってみるか、お互いどうせ一人暮らしなのだからフットワークも軽いはずだ。森田は軽すぎて逆に捕まらない場合があるにはあるが、連絡してみよう。メッセージを送ってしばらくすると返事が来た。麻酔科は手術が早く終われば早く帰れるので遅くならない日も多い。軽い調子で決定した飲み会まで部屋でごろごろして時間をつぶす。


森田は病院から直接飲み屋に来た。半袖半パン、ほとんど手ぶらみたいなものだったので家に帰る必要もなかったのだろう。


「珍しいな、中野から飲みに行こうだなんて」


「たまには花金を満喫しようかと思ってね」


「男二人でか?」


「その方が気を使わなくていいだろ」


確かに男二人で花金飲み会は少し寂しい感じもする。できることなら女の子と、とも思うが、実際そうなると気を使ってしまう部分もあり疲れるのだ。まあたまには二人でもいいじゃないか、とビールを頼んだ。


「おつかれ」


「おつかれさん」


二人で乾杯してグイっとのどに流し込む。苦みと炭酸が心地よい。いつからこんな飲み物を好むようになったのだろう。冷えたビールの一口目ほど美味いものもなかなかないと思うようになってしまった。これが大人になるということだろうか。


本当にどうでもいいことを話しながら飲んだ。あの看護師が怖いとか、あの上級医は優しいとか。いつの時代もどのような世界でも話すことは似たり寄ったりだと思う。外科病棟の看護師で誰が一番かわいいか、などという下世話な話が終わったところで、森田が言った。


「せっかくだし一番合戦も呼んでみないか。あんまりないだろ一緒に飲むこと」


「別にいいけど、来てくれるか?あんまり飲み会好きそうなイメージはないんだが」


「声をかけるだけならタダさ」


森田は澱みない手つきでメッセージを送った。しばらくすると意外にも参加の返事が来たらしい。


「一番合戦、来るってさ」


「へぇ、意外だな。呼んで何の話をするのさ」


「そんなこと考えてるわけないだろ。ノリさノリ」


森田らしい答えだ。まあ飲み会なんてそんなもんだろう、来て飲んでれば自ずと話題が出てくるものだ。女子がいないところですべきトークはもう済ませていたので安心して彼女を迎えられる。森田はすでにジョッキ3杯を飲み干していたが、僕はそんなハイペースで飲むとすぐに沈没してしまうので2杯目に口をつけたところである。森田がビールの追加を注文しようとしたときに一番合戦がやってきた。そういえば私服姿の一番合戦を見るのはすごく珍しいことだ。スカートをはいている一番合戦なんて初めて見たかもしれない。


「お、おつかれー」


森田が陽気に手招きして迎え入れた。


「二人とも赤いわね、何杯飲んだの」


「次4杯目」


「僕はまだこれが2杯目」


「あんたたち仕事前にお酒とか飲めないタイプね、顔に出すぎ」


「結衣ちゃん厳しい~」


誰が見ても森田は酔っている。というか、ユイ?


「一番合戦もユイっていうのか」


「も、ってなによ」


「僕が今持ってる患者にもユイって子がいてさ」


「へぇ、どんな子?あ、私もビールね」


はいよーと森田が注文してくれている間に、一番合戦は席に座った。


「どんな子って、明るい子」


「違うわよ、子っていうからには若いんでしょ?どんな症例なのかってことよ」


ビールを飲んでいて助かった。こんな恥ずかしい見当違いな答えをしたら、素面ならきっと顔が真っ赤になっていて二重に恥ずかしかっただろう。幸いもともと顔は真っ赤である。


「ああ、そういうこと。22歳の肝臓癌、全身転移で緩和」


「え、なにそれ」


「ああ、それ前に言ってた子か」


森田が納得した顔で言った。


「森田くんは知ってるの?」


「や、前に中野から話をちょっと聞いただけだよ。どえらい患者持たされてるって」


「たしかに結構重い感じよね」


「かわいいの?」


「やめてよ、無粋ね」


一番合戦が森田の肩をはたいた。森田はごめんごめんと言いながらビールを飲んだ。


「家族には余命宣告したんだけど、本人にもどうやら見透かされてるみたいで、『もう私って長くは生きられないんでしょ』って言われちゃってさ」


「つらいわね。そういう子ってなぜか聡いのよね。死期が迫るとわかるもんなのかしら」


一番合戦が悲しそうに言った。こんなに親身に話を聞いてくれる彼女も新鮮そのものであった。普段は読んでる本から目を離さないほど、あんなにそっけないのに。


「だから結衣ちゃん、ヨシヨシしてあげて」


「ヨシヨシはしないけど、大変だとは思うわ」


「うん、まあ、大変、なのかな。お話相手に任命されちゃってるみたいでさ。毎日仕事が終わったら病室まで適当に雑談しに行くんだ」


「毎日?」


「そう毎日。」


「そんなに通い詰めてたら、情が移っちゃいそうね。あんまり深入りすると、別れるときに辛くなるわよ」


「肝に銘じておくよ」


深入りしないように、か。患者に対して親身になるのは悪いことじゃないとは思うが、確かに先の短い患者と親密になりすぎても、後々自分の首を絞めることになりかねない。そう考えると患者との距離感というのは非常に難しいもんだな、と考えていると森田が口を開いた。


「でもさあ、中野がそんなにマメだったとは知らなかったよ」


「マメ?」


「だって毎日雑談しに通ってるんだろ?申し訳ないけど、中野がそこまで患者に対して熱心に接するイメージがなかったもんでさ」


「同感ね。私も中野くんはどちらかというとサボりたい側の人間だと思ってたわ」


「まあぶっちゃけその通りだよ。小沼さんのペースに巻き込まれてるだけかも」


「でも最近の中野は割と一生懸命に見えるよ」


「いやまぁ、余命1ヶ月の患者に話し相手になってって言われるとさ、何かしてあげられることないかなって思っちゃうよ」


「……なんか、意外ね。中野くんってそんなに親身な人だったかしら?」


「あの自堕落を具現化したような中野がねぇ」


「ひどい言われようだな」


実際ふたりの評価は的を射ていたので強く言い返せなかった。


「で、中野は何かしてあげられそうなわけ?」


「とりあえず話し相手。薦められたアニメ見たりしてる。」


「共通の話題作りってわけか」


「そうそう、『スライム奮闘記』ってやつ、早く見ろって言われてる」


「ああ、それでこの間私に」


「そうそう、その節はどうも」


「なにそれ、おもしろいの」


「まあ、それなりに。この土日で全部見てしまおうかと」


「勤勉だな」


「早く見てしまわないと、話ができる時間も短いからね」


そう、小沼さんの余命は1ヶ月ほど。話題作りのアニメ鑑賞に時間をかけていては本末転倒になりかねない。


「もう一度言うけど、あんまりその患者にのめり込まないことよ。適度な距離感を保ちなさい」


「わかってます」


「本当かなぁ、中野は女子に弱いからなぁ」


酔った森田は余計なことを言う。


「あら、私にももっと優しくしてくれてもいいのよ、中野くん」


珍しく一番合戦がいたずらな笑顔を浮かべている。


「考えとく」


「なによそれ」


「結衣ちゃんには俺がいるでしょ」


「うわ、森田くんウザいわね」


 それからは他愛ない内容を3人でぐだぐだと語り合い、日付を回ったころに解散になった。一番合戦は僕らとは違う賃貸だったが近くなのは同じだったので終電も気にせず飲んでしまった。


「送っていこうか?」


「あら、優しさの実践?でも近くだからいいわ、ありがとう。森田くんをよろしく」


「頑張るよ。じゃあ気を付けて」


あーーと謎のうめき声をあげている森田を連れて帰らねばならない僕を見て、笑いながら一番合戦は帰っていった。僕だって酔っているのに、理不尽な世の中だ。結局どれくらい飲んだかわからないが、結構飲んだ気がする。帰って風呂に入ったら即就寝コースだな、と思いながら森田を半分抱えた状態で歩き始めた。それにしても一番合戦はプライベートでは意外とよく喋るんだな。普段は不愛想でそっけないイメージの彼女だったので、これは新しい発見だ。少し、一番合戦との距離が縮まった気がした。これが飲みュニケーションというやつか。

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