約束

 翌日の朝回診で、小沼さんは腰の痛みを訴えた。


「どんな痛みですか?」


安藤先生は聞いた。


「なんか鈍痛というか、じわじわ、ズキズキっていう感じです」


「寝転んでても痛いですか?」


「そうですね、あんまり変わらないです」


うーむ、と唸った後、安藤先生は


「ちょっと今日検査しましょうか」


と言った。小沼さんは珍しく不安そうな顔を僕に向けてきたのが、僕は愛想笑いを浮かべることしかできなかった。そういえば昨日から小沼さんは腰に手を当てていたようにも思う。昨日気づいてあげれればよかったのだが。


 部屋を出たあと安藤先生は僕に問うた。


「さあ、僕は何を思って何の検査をしようとしてるでしょうか」


まさに僕が疑問に思っていた内容であるが、その質問の答えとしては最悪の想定くらいはできていた。


「骨転移、を確認するためにMRIですか」


「正解。そうでないことを願いたいけどね、可能性は大いにある。」


何もなければそれでいいのだが、骨転移の場合はこれからどんどん痛みがひどくなる可能性がある。転移の有無を知ることで、やや治療が異なる。緩和医療とはいえ、痛みの緩和の方法についての考えや今後の心構えも変わってくる。僕は漠然と大丈夫だろうという願いを持っていたが、現実はそんなに甘くなかった。


 午後になってからMRIの検査結果が出た。腰椎に骨転移が確認された。無情にも彼女の病状は進行していた。昨日あんなに活き活きと話をした彼女の体は、着実に蝕まれているのだと、僕は知らしめられた。


「これはまた、家族さんと本人に話をしないといけないね」


安藤先生は言う。


「今日家族を呼びますか」


「転移があると知ったところで、とても緊急事態というわけでもないから、とりあえず次いつ小沼さんのご両親が来られるのか聞いといてもらおうかな」


「わかりました。本人さんには」


「中野くんから話してもらって構わないよ」


つらい話だ。昨日あれだけ楽しく話をしたのに、今日は絶望を突き付けるような、嫌な話をしなくてはならない。検査結果を告げるのは誰でも同じなのか、僕が適任なのか、よくわからなかったが、僕は自分が告げてあげたいと思った。なぜかはわからないがそう思った。


カルテの内容を頭に入れたあと、302号室に行くことにした。302号室のドアを開けると、小沼さんがいつもと同じようにベッドに座っていた。手は腰に当てられていた。


「先生、どうだった」


小沼さんはいつもと打って変わって、元気のない、不安げな顔で僕にそう尋ねた。僕はいつものように家族用の椅子にゆっくりと腰かけて、まっすぐに彼女の目を見て言った。


「腰の骨に癌の転移が見つかった。痛みの原因はそれだと思う。」


小沼さんは、そう、と小さく言って目をそらした。長い、長い沈黙が続いた。以前のムンテラの時にも味わったが、やはりやりきれない気持ちになる。いつ次の言葉を発したらいいのかわからない、重い空気が漂っていた。ことが重大過ぎて、大丈夫とか、気にすることはないとか、そういう安易なフォローもできるわけがない。何を言うべきか僕が迷っていると、小沼さんが口を開いた。


「治らないんだよね」


僕は黙って頷くことしかできなかった。それがどれだけ残酷なことか、彼女にとってどれだけ辛いことか、想像すらできなかった。しかし、彼女は顔を上げた。


「そっかぁ、そうだよね。そんなこったろうと思った」


彼女は笑った。昨日の笑顔とは違う、恐怖や悲しみを押さえ込んで、必死で作ったような笑顔であった。小沼さんは強い。今にでも泣きたい気持ちだろうに、感情を押し殺して笑って見せたのだ。


「お父さんとお母さんにも話してもらわないとね」


僕が言うべき内容を彼女が言った。事態を冷静に受け止めているのがよく伝わった。


「そうだね、僕らから詳しく説明するよ。次いつ来られる予定かな」


「今日の夕方には来てくれると思う。着替え持ってきてもらうんだ」


「そうなんだ。そしたら、今日少しお時間いただくことになると思う。伝えておいてくれるかな」


「わかった、言っとく。」


今日の夕方、彼女と彼女の両親に具体的に今後どうなるかも伝えなければならない。これから何度、こんなに重く辛い内容のムンテラをしなければならないのだろう。考えただけでも胸が痛む。


「とりあえず痛み止めは処方しておくから、痛みが強い時は遠慮なく飲んでね」


「わかった」


短い会話をして、部屋から出ようとした。いつものように笑顔で手を振る彼女の姿はなく、窓の外を見つめる後ろ姿を見ながら部屋を出た。


 安藤先生は待っていてくれた。


「今日の夕方に来られるみたいです。」


「わかった。今回は、君から話してもらおうかな。わからないことは今のうちに解消しておこう。」


それからしばらく、何を話すべきかの打ち合わせを安藤先生とした。どうやら僕が小沼さんの部屋にいる間に大竹先生と堀先生と打ち合わせしていたらしい。メモを見ながらムンテラするのはどうかと思ったので、打ち合わせ内容を必死で覚えた。家族から難しい質問があれば、後ろで待機している安藤先生が答えてくれる手はずになった。


 夕方の回診を終え、面談室に3人を招いた。僕は意を決して話し始めた。


「今日はお時間いただいてありがとうございます。聞いていただきたいお話があり、この場を設けさせていただきました。」


両親は落ち着かない様子で、しかし真剣な目で僕を見ていた。小沼さん本人は落ち着いているようだったが、うつむき気味であった。


「今朝、小沼さんから腰の痛みの訴えがあり、MRIを撮りました。」


パソコン上にMRI画像を表示して指をさした。


「ここ、腰椎と言って背骨の腰の部分なのですが、ここに影があります。これは、新たな癌の転移と考えています。これが原因で腰の痛みが出ているものと思われます。」


3人とも真剣に聞いていた。父親は大きなため息を一つついた。僕は説明を続ける。


「これから先、痛みがどんどん強くなる可能性があり、それに対して痛み止めを使用していきます。今使用している鎮痛剤で効果が得られないようになってくれば、麻薬を使うことも考えています。」


「麻薬、ですか」


父親が尋ねた。


「そうです、いわゆる医療麻薬と言われるものです。麻薬というと聞こえが悪いですが、きちんと管理して使えば中毒になったりすることはまずありませんので、それは安心してください。」


やはり麻薬という言葉を使うと、不安を与えてしまうのだろう、説明しても母親の表情は不安げである。


「もちろん必要でなければ使用しませんが、必要になった時に迅速に対応するために今回お話しさせていただきました。」


淡々と説明しているが、僕の心も痛いのである。ここ最近に限れば、両親よりも一緒にいた時間が長く、会話も多かったかもしれない。そんな彼女に苦痛が増していくことを宣告しなければならないのだから、かなり心苦しい。少しの沈黙の後、


「今回の説明は以上ですが、何か聞いておきたいことはありますか」


僕は言った。3人で顔を見合わせていたが、特に質問はないようであった。


「特にありませんか。それでは今回はこれで終わりにします。お時間いただいてありがとうございました。」


「こちらこそありがとうございました。娘をよろしくお願いします。」


父親はそう言って面談室を出ていき、母親も軽く会釈をして出ていった。小沼さん本人は出ていくときに


「よろしくね、先生」


といってウインクした。やはり彼女は強い。相当ショックだったろうに、もう乗り越えてしまったのだろうか。自分より意気消沈している両親を見て冷静になったのかもしれないが、それでも彼女の表情は昼よりもはるかに穏やかだった。


今回安藤先生に一言も話させることなくムンテラを終えることができた。安藤先生は


「おつかれさま、わかりやすい説明だったよ」


と僕の背中をポンと叩いた。ムンテラの内容をカルテにまとめながら、302号室のほうを見た。きっと家族3人で話をしているのだろう。どんな話をしているのかはわからないが、邪魔をせぬように今日は立ち寄らず帰ることにした。帰ってからはビールを開けた。お菓子をつまみながらテレビを見たが、今日は「スライム」を見る気にはなれなかった。




 次の日はオペが長引いた。ナースステーションに戻った時には21時を回っていて、みんなぐったりしていた。さすがの安藤先生も疲れている様子で


「もうやることやったら今日は解散にしよう、終わり終わり」


と言っていた。僕も病棟業務を終えカルテを書きあげて一息ついて、もはや日課になった302号室へ雑談しに行った。


「先生今日は遅かったね」


「オペが長引いてさ」


いつものように家族用の椅子にドカッと座った。


「それはお疲れさまでした。なんの手術?」


「守秘義務です」


「またそれかー、ケチだなー」


あははと小沼さんは笑った。いつも通りの小沼さんだ。僕は少し安心した。


「痛みはどう?」


「んー、さっき痛み止めもらったからだいぶまし。でもやっぱ夜は痛むねー」


小沼さんは恨めしそうに腰をさする。


「そっか。痛み強くなったら言ってね」


「ありがとう。それより続き見た?」


「3話だけ」


「なんでー!焦らすね先生」


「平日にそんなたくさん見れないよ」


「でもあと5話じゃん、今日中に見てよ」


「今日はもう遅いからまた今度にするよ」


「えー、じゃあ明日!明日見てよ」


「明日は、当直だからダメだな」


「当直ということは、一晩中話に来てくれるの?」


「いくらなんでもそれは」


「だよねー」


 長時間オペの疲れもあったからか、不思議と小沼さんと話をしている時間は心が安らいだ。何でもないことを言い合う、何でもない時間。いつのまにか毎日の楽しみになっていた。だが、この時間もいつまで続けられるのだろうか。小沼さんが入院してから今日で7日目。明日は木曜日だからちょうど1週間である。たった1週間だが、その間にも着実に病気は進行しているように思えた。もし宣告された通り余命が1ヶ月なら、あと3週間しかないのだ。僕にとってはなんてことない1週間であったが、彼女にとっては残された人生の4分の1なのだ。しかし彼女はそれを知らない。それでいいのだろうか。安藤先生が言っていた意味がだんだんわかってきたかもしれない。余命を知ることで、その中での計画が立てられる。何かしたいことがあれば、できる範囲ですることができるかもしれない。会いたい人が居れば、会えるかもしれない。しかし余命を知らないままでは、特別何をするでもなく、なんとなく日々を過ごすことになってしまうだろう。安藤先生が言いたかったのは、こういうことなのかもしれない。もしこのまま余命宣告しないままだとしたら、僕は彼女に何がしてあげられるだろうか。医療者として苦痛を取り除く医療行為は当然だが、それ以外の、担当医として、僕にしかできないことはないのだろうか。自堕落な研修医としては非常に珍しく、患者のため、彼女のために自分ができることはないか、真剣に考えていた。しかし答えは見つからない。毎日病室に通うくらいのことが関の山であった。


「じゃあ今日はもう遅いから、帰るね」


「そうだね、明日は当直なんでしょ?楽しみにしてるよ」


「一晩中は無理だからね」


「わかってるって」


いつもと同じように、笑顔で手を振って見送ってくれた。いつのまにかこれが当たり前になっていた。この当たり前が当たり前でなくなる日も、そう遠くはないのだろう。




 木曜日は暇を満喫する日だ。1週間ぶりの休憩日、と僕は認識している。朝の回診を終えれば夕方の回診まで何もない日だ。トラブルさえ起こらなければ研修医ルームで際限なくくつろぐことができる。


「じゃあ夕方の回診まで、フリーってことで。何かあったら呼ぶから」


朝回診を終えて安藤先生が言った。回診のカルテを書きあげ、研修医ルームに戻った。


 研修医ルームに戻ると磯沢がソファーでコーヒーを飲んでいた。


「おつかれ。Aチームも平和?」


「お疲れ様です。そうですね、平和なんで今日はフリーです」


僕もコーヒーを入れてソファーに腰かけた。


「そういえば、大学からの紹介患者って、何だったんですか?」


磯沢が尋ねてきた。


「あれね、末期がんで全身転移ありの、緩和医療で転院って感じだった」


「ああ、あの患者さんですか。なんでまたうちの病院に?」


「なんか本人の希望らしいよ。なんでかは知らないけど」


そういえば、なぜこの二色辺病院を選んだのか、まだ小沼さんに聞いたことはなかった。


「何か理由があるんですかね。」


「また聞いておくよ。どうせ今日も話すだろうし」


「そういえば、小沼さんでしたっけ、中野先生と話してる姿よく見ます。仲良いんですね」


小沼さんはリハビリもかねて病棟内を積極的にうろうろしていた。仕事が終わった後訪室以外にも、病棟で出くわしたときに立ち話をすることもちょくちょくあった。磯沢はそれを見ていたのだろう。


「あ、見られてた?すごい馴れ馴れしい感じの子でさ、退屈しのぎの話し相手係に任命されたんだよね」


「そうなんですか。それは馴れ馴れしいですね」


磯沢は笑った。笑った後少し真剣な表情をした。


「でもそれってかなり重要な役回りですよね。緩和医療ってことは、残り少ない時間でしょ。その中での話し相手係ってことは、もはや生活のウェイトの大部分を占めてるんじゃないですか?」


「そんなもんなんかねぇ」


「僕はそう思いますけどね。めんどくさいとか言ってた割に、ちゃんと仕事してるじゃないですか」


からかうように磯沢が言った。


「別にそんなつもりないけどなぁ」


僕はコーヒーをすすった。あの雑談が仕事、つまり医療なんだろうか。医療とは人を癒す仕事であると聞いたことがある。そういう意味ではあのくだらない話も医療に含まれるのだろうか。僕は、彼女を癒すことができているのだろうか。昨日のことを思い出すと、むしろ癒されているのは僕の方ではないのか。


 しばらく磯沢と雑談をした後、机に突っ伏して寝ることにした。寝ていると電話が鳴って昼食に呼ばれた。よだれの跡に細心の注意を払いながら食堂に向かった。


 昼食後も特にやることがなかったので研修医ルームにこもることにした。動画を見たり本を読んだり、まったりと時間が流れていく。そんな往復にも飽きて再びウトウトしてきたころに電話が鳴った。


「もしもし安藤です、なんか小沼さんが痛がってるみたいだから、診に行こうか」


「わかりました、すぐ行きます。」


 病棟に着くと安藤先生が待っていた。二人で302号室のドアをノックする。部屋に入ると看護師に腰をさすられている小沼さんが居た。安藤先生が僕の背中を押した。


「小沼さん、腰が痛いの?」


「そう、痛み止め飲んだんだけど、おさまらなくって、ナースコールした」


「わかった。他の痛み止め使ってみるよ。注射になるけど、よく効くと思う」


小沼さんは黙って頷いた。僕と安藤先生はナースステーションに戻った。


「さて、どうする中野先生」


「ペンタゾシンを使おうかと」


「いいと思う。それでもダメな場合は?」


「ダメなときは、麻薬の出番ですかね。経口から始めます」


「うん、いいと思う。それでいこう。じゃあ、あとよろしく」


スムーズに方針が決まり、安藤先生は戻っていった。慣れない手つきでペンタゾシンを処方する。薬剤部から病棟に届くまでの時間がもどかしかった。届けば看護師が注射してくれるので別に病棟で待っている必要はないのだが、なんとなくそわそわしてその場を離れられなかった。しばらくしてペンタゾシンが届いた。病室で注射されるのを見届けて


「これで大丈夫だと思う。効いてくるまでもう少し頑張って」


と小沼さんに声をかけた。小沼さんはまた頷いた。


 30分ほどして部屋を訪ねると、落ち着いた様子の小沼さんが居た。


「具合はどう?」


「先生、ありがとう。効いたみたい」


と笑顔を返してくれた。ホッとして家族用の椅子に腰かけた。


「とりあえず効いてよかった。ただあの薬は日に何度も使えるような薬じゃないから、何回も必要なようだったら前に言ってたように麻薬を使うよ」


「わかった、先生に任せる」


僕は大きく頷いた。小沼さんは意外にも不安そうではなかった。僕のことを信じてくれている、そんな目をしていた。


「じゃあ、僕は仕事に戻るから」


息を吐くように嘘をついてしまったが、小沼さんは笑顔で送り出してくれた。


仕事に戻ると言いつつ戻ってきたのは研修医ルームである。寝るも本を読むも自由だが、忘れないうちに安藤先生に連絡しておこう。


「もしもし安藤先生、中野ですが」


「はいはい、どうだった?」


「ペンタゾシン効いたみたいで、とりあえず落ち着きました」


「そっか、よかったね、ありがとう」


短い会話を終え、ソファーに座った。今回はペンタゾシンでなんとかなったが、やがては麻薬の導入をしないといけなくなるだろう。1週間後か、3日後なのかはわからないが、なるべく痛みが強くならないことを祈る。


 夕方の回診を終え、普段ならここで帰り支度のことを考えるのだが、今日は当直。何もない平和な夜を送りたいものだが、先週は森田の引きが悪かったことを思い出した。今日は平和であってくれ。できれば1度も電話が鳴ることなく熟睡させてくれ、と切に願う。


 当直というのは病院に居ることが仕事なので、それこそ何もなければ何をしてても問題はない。ただ時間外の外来に来る人が居るので適当な対処をしなくてはならないのだ。例えば、風邪を引いたから風邪薬が欲しいとか、そういう軽いのもあれば、意識がない状態で救急車で運ばれてきた人の対応に当たったりもする。研修医が当直する日は必ず誰か上級医も当直しているので、自分の手に負えないと思えば上級医の先生に助けを求めてよいことになっているが、やっぱり夜中に起こすのは気が引けるので極力自分一人で対応したいところだ。今日の上級医は消化器内科の奥村先生だ。奥村先生は1年目の時に消化器内科ローテでお世話になった先生で、優しいのでラッキーである。何かあったらすぐ連絡しよう。


 電話よ鳴るなという願いは儚い。6時にはもう1度目の電話が鳴った。内容はたいしたことのない病棟業務の残りのようなものであったが、次はこれ、次はこれと小さい仕事をいくつかこなす羽目になった。一通り片付けたあと当直弁当を食べ終わってぼーっとしていたが、9時を回ったあたりで外来にまた患者が来ていると呼び出され、重い腰を上げ外来へ向かう。何人か咳や発熱で来ていたが、症状は軽く風邪薬程度の処方で切り抜けた。そうこうしていると今度は救急車が来るというので救急外来へ。こちらもたいしたことはない一過性の意識消失であったため一人で対応はできた。しかし時間はかかるもので結局11時前になってしまった。研修医ルームに戻ってソファーに寝転がり、スマホをいじる。もう電話よ鳴るなとまた願いながら、そろそろ当直室に移動する。当直室にはテレビとベッドがあるが、電波が弱いのが欠点であった。寝れるときに寝ておこうと思いベッドで横になると、電話が鳴った。


「もしもし当直の中野です」


「中野先生、小沼さんが痛がってます、一度診ていただけませんか」


「わかりました、行きます」


また痛いのか。僕は体を起こして病棟に向かった。302号室に入ると小沼さんは腰に手を当てて座っていた。


「昼間と同じ感じの痛み?」


「そう、痛い」


「わかった」


痛み止めの効果が切れてきたのだろう、よくもったほうだ。僕は再びペンタゾシンを処方した。


「昼間と同じ薬だけど、効くと思う。今夜はこれでなんとかしのごう」


「うん、お願いします」


30分ほどしてから再び訪室すると、小沼さんはベッドに横たわっていた。


「具合はどう」


「だいぶましになった、ありがとう先生」


「よかった。明日からはちょっと薬も考えようか」


またしても僕の考えは甘かったのかもしれない。麻薬への移行は明日、いや日付をまたいだのでもはや今日から始めてもいいのかもしれない。1週間なんて余裕はないだろうし、痛みが弱まることもないだろう。


「眠くないから、ちょっと話してよ」


小沼さんは体を起こしてそう言った。


「真夜中だよ、良い子は寝る時間だ」


「だって中野先生、今日はいつもの時間に来てくれなかったじゃん」


「当直には当直の仕事があってね、これでも忙しかったんだよ」


「それはそれは、お疲れさまでした」


小沼さんは大げさに深々と頭を下げた。僕はまたいつものように家族用の椅子に腰かけ、どうせ話をするなら疑問に思っていたことを聞いてみることにした。


「小沼さんは、どうして二色辺病院を選んだの?」


「ああ、そのこと。」


小沼さんは窓の方を見て言った。


「花火、見えるでしょ。私昔から二色辺の花火が好きで、見えるところがよかったんだ」


嬉しそうな横顔だった。確かに二色辺では毎年7月末に花火大会をやっている。去年も病棟から見えた。仕事もないのに残って看護師さんたちと花火を見ていた覚えがある。


「そっか、花火か。確かに見えるね。」


小沼さんは何も言わずに、何か思いつめたような表情で窓の外を見ていた。月明かりに照らされた小沼さんの横顔は儚げで、どこか悲しげで、とても美しかった。しばらく見とれていると、小沼さんが口を開いた。


「先生、私、もう長くは生きられないんでしょ」


僕は心臓を握りつぶされたような気がして、一瞬息が止まった。何を言えばいい、なんて答えればいい。その一瞬の動揺を小沼さんはしっかりと見ていたらしい。


「先生って相変わらず正直だね。浮気できないタイプだ」


ふふふ、と小沼さんは笑っていた。僕は何も言っていないのに簡単に看破された。突然のことに狼狽し、何も言えないでいると、小沼さんが大きくため息を吐いた。


「やっぱりね、そうだと思ってたんだ。だってね、ここに転院してきた日からお父さんとお母さんの様子おかしかったもん。うちの親も先生と同じで隠し事苦手なタイプだからね、これは先生との話で何かきついこと言われたんだなと思った」


小沼さんは幸か不幸か、察しが良い。転院してきた日の家族へのムンテラのあとから、自分の余命が長くないことを悟っていたようだ。もしかしたら、疑念が確信に変わったのがその日だっただけの話で、本当はもっと前からそう思っていたのかもしれない。


「花火ね、小さいころから毎年見てたんだ。特に何の変哲もない花火大会だけど、毎年見てるとさ、愛着がわいちゃって。家族で見たり、友達と見たり。好きな人と見たこともあったかな。だから、ちょっと思い入れがあるんだよ、二色辺の花火には」


僕は何も言わずに彼女の話を聞いていた。そんな思いでこの病院を選んだのか。故郷の花火大会を見たい。取るに足らない小さな願いではあるが、彼女にとって今年は叶えることが難しいかもしれない。小沼さんは続ける。


「いつまで生きれるのか聞いたりしないけどさ、もう今年は花火見られるかわからないんだね、きっと。」


僕は息を飲んだ。彼女の読みは僕らの読みと大きく外れていない。小沼さんは強い。だから小沼さんは、逃げも隠れもせずに現実を正面から受けとめたのだろう。僕は絞り出すように言った。


「きっと見れるよ。ここからはよく見える」


嘘とも本当ともつかない、誰にもわからない答え。気休めにもならないだろうが、僕にはそれ以上何とも言えなかった。小沼さんはそれを聞いてニコリと笑い、言った。


「そう?じゃあ先生、一緒に見ようね」


「わかった。僕でよければ、約束する」


「約束だよ」


「約束だ」


できない約束はしない主義だ。きっと果たせる、そう自分に言い聞かせた。


「あ、あと『スライム』も早く見てよ!ほかにも薦めたいのあるんだから」


いつもの小沼さんに戻って、あっけらかんと言った。


「わかったよ、後日見ておきます」


「後日じゃなくて、早急にね」


部屋を出ようとして振り返ると、笑顔の小沼さんがいつものように手を振っていた。


 当直室に戻ってベッドに横たわる。小沼さんの痛みは強いみたいだ。朝一番に安藤先生と相談して、麻薬を始める算段を立てないといけない。経口投与から始めるのが一般的なので、それを提案して、本人にも副作用の説明をして、とやることがたくさんありそうだ。そんなことを考えながら眠りについた。幸いにも朝まで電話が鳴ることはなく、平和に眠ることができた。

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