話し相手
その夜。酒に対するコストパフォーマンスが高い体を持つ僕は、風呂から上がるなり早い眠りについていた。枕元で大騒ぎするスマホのせいで目が開いた。歯がボロボロ抜けていくこと以外はちゃんと覚えていないがロクな夢を見ていなかった気がする。暗い部屋で煌々と存在をアピールするスマホの画面には、1時10分の時刻と嫌な番号が表示されていた。
「はい、もしもし」
「あ、夜分にすいません、二色辺病院ですが、中野先生ですか」
こんな夜中にかけてくるのは森田か病院かのどちらかでったが、今日に限ってはどちらでも最悪の知らせであった。何か緊急対応が必要である状況で研修医の手も借りたいほど人手がいる状況、つまり十中八九緊急手術の連絡だろう。
「そうですが、何かありましたか」
「安藤先生に代わりますね」
と言って電話口の女性から安藤先生に相手が移った。
「もしもし中野くん、アッペが来ちゃった。出てこれる?」
「はい、すぐ行きます」
「夜中にごめんね、堀先生と大竹先生も来てくれるって」
アッペというのは虫垂炎、俗にいう盲腸のことを指す。この場合は急性虫垂炎の患者が夜間救急を受診してオペが必要になった、ということだろう。安藤先生を夜中に呼び出したのは森田だろう。研修医は一人で当直することはなく、常に上級医誰かと一緒だ。ただその上級医が外科とは限らない。今日が誰だったのかは知らないが、安藤先生が呼び出されてるのだから内科の先生だったのだろう。その内科の先生と森田が協議をし急性虫垂炎と診断、外科の安藤先生が呼び出され、安藤先生が手術が必要だと判断した、という流れだ。電話を切ると、森田からよろしく、と一言だけの忌々しいメッセージが来ていた。
自慢ではないが僕はできるだけ働きたくない。緊急オペなどやりたくないし夜中に呼び出されるなんて言語道断である。しかし、出てこれる?と聞かれてNoと言えるほど肝が据わっているわけでもなかった。しぶしぶ部屋の電気をつけて着替え始める。お茶を一杯だけ飲んで家を出る。もともと量が飲めないので酒は残っていない。と思う。
病院についてKCに着替え救急外来に行ってみると、森田がいた。こちらに気づき、片手を顔の前に出してゴメン、と合図をした。森田が悪いわけではない、森田の引きが悪いのだ。電子カルテの前に安藤先生が座っていた。安藤先生もこちらに気づくと森田と同じようにゴメンのジェスチャーをした。
「早かったね」
「すぐ近くですから」
「CT、見てみて」
と席を譲ってくれた。なるほど虫垂周りに炎症所見が広がっている。これは自堕落研修医でもとりあえず外科の先生を呼ぼうと思うくらいには仕上がっている虫垂炎であった。
「けっこうな虫垂炎ですね」
「でしょ。これ回盲部切除になるかもね」
虫垂炎の手術は軽いものなら腸から伸びている虫垂を切離して終わりである。しかし、炎症が広がっていて重症の場合は、虫垂の周りの小腸・大腸を部分的に切除しなければならない時もある。今回の画像所見からは後者の可能性があるというのが安藤先生の見立てであった。回盲部切除となると3時間くらいかかるだろうか、考えるだけでげんなりした。意気消沈する僕とは対照的に、安藤先生はイキイキしているように見えた。
「とりあえず堀先生と大竹先生の到着待ちだね。オペ室と麻酔科の先生にも連絡したから、2人が来たらすぐ始められるようにしとかないと。その前に患者さん診ておいで」
夜中の緊急オペでアドレナリンが出るタイプの人は外科に進むべきなんだろうな、と強く思った。外科医とは不思議な生き物で、寝ていようが酒を飲んでいようが、緊急オペの連絡が入ると急にスイッチが入る。オペ室に入るころには昼間と変わらない顔つきになっているのだ。
救急外来のベッドには同い年くらいの男性が脂汗を流しながらおなかをおさえて横たわっていた。非常に心苦しいが、
「ここ痛いですか」
と右下腹部を手で押さえる。
「いっ」
と顔をしかめる患者。CT画像という答えを見た後なので痛いのをわかっておなかを押さえ込む診察をする。本当に申し訳ないが、これも研修のため。
「痛かったですね、ごめんなさい。ではこれはどうですか」
教科書に載っている虫垂炎の身体所見があるかどうか1つ1つ確かめていくと、そのたび悲痛な呻き声を聞くことになる。おそらく森田と安藤先生にも同じようにされただろうが、
体の向きを変えたり押さえ込む場所を変えたりとあれやこれや診察する。こういう診察をするたびに自分のことを棚に上げて思うのだ。研修医が居る病院には行くまい、と。
「うーんどうだろうね、開けてみないとわからないけど、虫垂切除だけで終わらせてあげたいね」
タクシーで駆け付けた堀先生が言った。若い患者であることも加味して、なるべく切除範囲は抑えてあげたい。切除範囲が大きくなるとその分傷口も大きくあけなければならなくなる。虫垂切除だけなら切るだけだが、回盲部切除となると切って腸同士を繋ぐ過程が必要になってくる。だから手術時間が大幅に違うのだ。
「結構派手な画像に見えますけど、回盲部切除の可能性はどうでしょう」
安藤先生が問うた。
「もちろんなくはないけどね。若い人は画像が派手になることもあるから。開けてみたら意外と大したことないってこともある。とりあえずカメラで覗いてみて、いけそうならそのままラパロで取っちゃおう。」
堀先生が答えた。夜中だし早く終わるに越したことはないというのはさすがに共通認識だと思う。
大きなあくびをしながら大竹先生が到着し、メンツがそろったのでいよいよオペ室へ。手早く手洗いを済ませ、ガウンを着て臨戦態勢となる。患者はすでに全身麻酔で夢の中だ。夜中にわざわざ出てきてくれた麻酔科の先生にも感謝である。この先生も引きが悪いのだろうか。今回は堀先生もガウンに着替えている。執刀は安藤先生、2番手に大竹先生という布陣だ。
「堀江雄一さん、急性虫垂炎に対して虫垂切除術を行います。虫垂切除で終われば1時間、回盲部切除が必要なら3時間程度かと思います。出血は少量。お願いします。」
安藤先生の宣言をもってオペが始まった。臍を切開し腹腔鏡をおなかに入れる。虫垂のあたりを観察すると
「あ、これラッキーだ、すぐ取れるよ。帰ってビール飲めるね」
大竹先生が言った。こんな時間に帰っても飲む気なのか。それよりも虫垂だ。いい知らせだった。多少の癒着はあるがなんとか虫垂を切除するだけで終えられそうである。
「じゃあ俺の出番ないな。安藤先生よろしくね」
と言って堀先生は腕組みをしたまま見てるだけの態勢に入り、安藤先生は大きくフーっと息を吐いた。それからは助手の大竹先生の指導の下、安藤先生が手術をすすめていった。癒着の剥離に少し手間取りながらも、安藤先生は大竹先生にお取り上げされることなく執刀を完遂した。最後の皮膚縫合をしながら
「いいねー安藤、さすが。もう何でもできるね」
堀先生が嬉しそうに言った。
「いえ、大竹先生のおかげですよ」
安藤先生も嬉しそうだ。
「僕は口しか出してないよ。手を動かしたのは安藤だよ。中野くんのカメラも良かったし」
大竹先生もにこやかであり、終始和やかな雰囲気でオペは終了した。
「ありがとうございます、お疲れ様でした」
僕は早く終わったことに対して安堵している。オペは1時間半ほどで終了した。それでも時計は3時半を指している。この後のことを思うと最速でも帰宅は4時半頃か。帰って寝るか病院で寝るか悩ましいが、やはり病院のベッドより自宅のベッドだな、と帰宅の意志を固めながら手術着を脱いだ。
「じゃ、俺ら帰るわ、あとよろしく」
「おつかれさん」
と言って堀先生と大竹先生は速やかに帰っていった。安藤先生と僕で術後の病棟業務を片付けていく。とは言っても安藤先生が手早くカルテに入力しているのを眺めるのが大半の作業であった。
「ごめんね、早く帰るために今は僕がやっちゃうね」
カタカタとカルテと手術記録を作り上げていく安藤先生。僕はその横で一息ついていると、夜中の病棟を徘徊する小沼さんに見つかった。
「あれ、先生夜中なのに居るじゃん」
「緊急手術呼ばれたんだよ」
疲れからか、うっかり砕けたトーンで話してしまった。
「うわあ大変だ、お疲れ様です」
「まあ仕事のうちだから」
途中から丁寧語に戻すのも変だと思い、もうそのままの口調でいくことにした。
「ところで小沼さんこそ何してるのさこんな時間に」
「あ、レディーにそんなこと聞く?」
「なんだトイレか」
「違うよ、デリカシーがないなぁ。なんだか騒がしかったからちょっと様子見にね」
よく考えたら彼女はトイレ付きの個室に入院しているのだった。確かにデリカシーのないことを言ってしまったかもしれないが、夜中の手術終わりで疲れてるんだからご容赦願いたい。
「あれ、そんなにうるさかったかな」
「そうでもないけど」
環境が変わって初日の夜だ、きっと眠れなかったのだろう。
「ねぇ、何の手術?」
「守秘義務があるので言えません」
「なんだよケチ。」
「ケチって、あのなあ」
呆れつつも反論しようとしたが、安藤先生の仕事が終わったようで声がかかった。
「さーて解散にしよう中野くん、帰って寝よう。小沼さんも、自室にお戻りください」
小沼さんはハーイと不服そうに部屋に戻っていった。302号室の扉が閉まるのを確認してから安藤先生が言った。
「ずいぶん打ち解けたようだね?」
「いや、なんか年が近いからか結構最初からあんな感じですよ」
「ふーん。まあ病院生活なんて退屈だろうから、話し相手の確保って感じなのかな」
「それって仕事に入りますか」
「もちろん」
安藤先生はカラカラと笑った。手術の時はあんなに真剣そうだったのに、本当にスイッチがあるのかと思うくらいに別人のようだった。
「じゃ、おつかれ」
「お疲れ様です」
着替えに研修医ルームに戻ると、森田が居た。ソファーに寝転んでスマホをいじっている。
「引いてくれるじゃないか」
「あ、終わったんだ、おつかれ。意外と早かったね」
「虫垂切るだけで済んだからな。」
「実はもう1件腹痛の患者が来てるんだけど」
「マジ?」
「冗談だよ。」
「なんだよマジでドキッとしたぞ」
1件でもこんなに疲労感があるのに、夜中に2件連続で緊急オペなんて冗談じゃない。
「じゃあ帰るから」
着替え終わって研修医ルームを出ようとする。
「あ、俺も寝よっかな。電気消しといて」
「ソファーで寝るのか?」
「うん、もう動くのめんどくさくなっちゃった」
じゃあね、と電気を消して部屋を出た。
家に帰ると歯磨きだけしてすぐにベッドにもぐりこんだ。3時間くらいは寝れるだろうか。
「3時間か…」
はあ、と大きなため息をついて目覚ましを確認し、目を瞑った。疲れていたので僕はすぐに眠りに落ちた。小沼さんはあの後眠れたのだろうか。
翌日は、というかその数時間後のことであるが、非常に強い眠気と共に出勤することになった。体を引きずるようにしながら朝回診に向かう。
「おはよう中野くん、遅刻してなくてえらいね」
安藤先生はいつもと変わらない様子であった。鉄人か。
「おはようございます。安藤先生は眠くないんですか」
「眠くないことはないけど、それはそれ、これはこれ、かな」
ちょっと言っている意味がわからなかったが、元気そうなのはすごいと思った。それに対し大竹先生は眠そうだった。どうやらオペの後帰ってから少し飲んだらしい。少しというのは自己申告なのでどの程度の量なのかはわからないが。幸い今日は金曜日でAチームのオペ日だ。Bチームは病棟係なのでトラブルがなければフリーである。回診自体もスムーズであり、オペ後の患者も特に問題ない様子であった。昨日のアッペの患者も傷口の痛み以外は訴えもなく経過は良好。小沼さんは眠そうにおはようございますとベッドで言っただけだった。
「昨夜のオペおつかれさん。今日はこれで夕方の回診まで解散!」
回診が終わると堀先生が言った。カルテだけ書き上げたら研修医ルームで寝ようと決めた。熱心な研修医ならばオペの見学にでも行くのだろうが、僕には無理だ。カルテを書きながら寝落ちしてもおかしくないくらい抗いがたい睡魔に襲われている。一刻も早く仕事を終え研修医ルームに引きこもりたかっので、回診カルテを端的に書いて席を立った。
研修医ルームのソファーに寝転ぶ。至福の瞬間であった。体の力を抜きだらんと寝転んでくつろぐ。今日は特に何もやることがないし、何か呼び出しがあるまではこうしてだらだらくつろぐのが最善の選択である。電話が鳴らないこと祈りつつ僕は再び眠りに落ちた。
どのくらい眠っていただろうか。まだ昼食タイムの呼び出しの電話がないところをみると午前中なのだろう。ふと目を覚ますと、向かいのソファーに一番合戦が座って本を読んでいた。僕は重い体をむくりと起こし、時計を見た。11時半。結構長い間眠っていたようだ。一番合戦はいつからいたのだろう。僕が起きたのを気にも留めず本を読んでいる。例の赤い本だ。
「おはよう」
「おはよう、よく眠っていたわね」
「そうみたいだね」
「寝るくらいなら教科書でも読んだら」
「夜中に緊オペだったんだよ」
「そう、それはお疲れ様」
眠そうな僕を一瞥し、なるほどねとまた読書に戻った。
「今日も当直?」
「いいえ。今日は自学自習の日だから読んでるの」
自学自習の日ってなんだ。それはやることが特にないフリーの日で、僕で言うところの暇を満喫する日ではないのか。勤勉な奴だ。ちょっとは寝ようとかそういう発想にはならないものか。そういえば一番合戦はいつみても本を読んでいるイメージだ。休日とか何をしているのだろう。大して興味があるわけでもないが、彼女については知らないことが多い。もっとも寡黙でクールな一番合戦とは話す機会があまりないから当然ではあるのだが。
「一番合戦は今何科回ってるの」
「放射線科。」
「自学自習の日なんてあるのか」
「今日はオーベンがお休みなのよ」
「ああ、なるほど」
だったら放射線科の教科書でも読んだらとは思ったが、口には出さないでおこう。放射線科は楽と聞いていたが、オーベンが休みだと自学自習の日になるのか。
「一番合戦って休みの日も家で勉強とかしてるの?」
「そんなことないわよ」
「じゃあ何してるの」
「何って、家にいるときはゲームとかアニメとか見てるわ」
「へえ意外だな。ずっと教科書読んでるのかと思ってたよ」
「私をなんだと思ってるの?」
キッと鋭い目で睨まれた。それにしても意外だな。そういう俗世の娯楽に関わるイメージはなかったので、一番合戦の口からゲームとかアニメの話題が出るとは思わなかった。
「インドアだな」
「家にいるときはって言ったでしょ。友達と遊びに行ったりもするわよ」
一番合戦って友達いたのか。
「あのねぇ、友達くらいいるわ」
「何も言ってないだろ」
「顔に出てたわよ、失礼な奴ね」
口に出てたのかと思ったが、そんなに意外そうな顔をしていたのか。もしかして自分は顔に出やすいタイプなのかもしれない、気をつけねば。憎たらしそうにじっと見られていると電話が鳴った。お昼ご飯タイムの連絡。すぐ行きます、と言って研修医ルームを出た。
昼からは特にやることがなく、病棟トラブルもなかったのでフリー状態であった。自分の机で寝たり起きたり、本を読んだり動画を見たりして悠々自適な昼下がりを過ごすことができた。夕方回診の時間になり、病棟にBチームが揃った。術後の患者のガーゼ交換を行って、最後に号室に顔を見に行く。変わらず元気そうな小沼さんがベッドに座っていた。問題なさそうだったので部屋を出ようとすると
「中野先生、ちょっと」
と小沼さんに呼び止められた。ちょいちょいと手招きしているのでベッドのそばまで行き何か用かと聞いた。
「先生、寝てたでしょ?よだれの跡ついてるよ」
と言われた。思わず手で顎のあたりを触ると
「あ、冗談だったんだけど、ほんとに寝てたんだ」
と言って笑っている。カマをかけられたのだ、まったく油断も隙も無い。寝ていたのは事実だが寝る以外にもいろいろしてたんだ。そう、いろいろ。僕はため息をつき、
「元気みたいで何よりです」
と言って部屋を出ようとした。
「あとで時間あったら話しにきてよー、退屈してるんだ」
小沼さんは言う。僕はハイハイと生返事をしながら部屋を出た。
夕方回診が終わり、堀先生の解散宣言が出た後は、回診内容をカルテにまとめる仕事がある。これが終われば帰れる。いわゆる花金だが特に予定もないし、そもそも明日も午前中は出勤だ。土曜日に関しては研修医は来ても来なくてもどっちでもいいよと言われているが、要らぬ忖度をしてしまうのが僕の悪い癖であった。どっちでもいいよと言われると、来いと言われているような気がして落ち着いて休めない。そういう性分なのだ。だから金曜の晩といえど予定がなければ家でだらだらするのを良しとしていた。もちろん何か食べに、少し飲みに、飲食店へ行くこともあったが、家で動画を見ながら晩御飯を食べることが多かった。
カルテを書き終え、さあ帰ろうかと思ったとき、小沼さんの言葉を思い出した。はぐらかして帰るも良かったが、彼女の境遇を考えると、退屈しのぎに付き合うのも吝かではないと思った。もしかしたら彼女自身もどこかでもう長くはないことを感じているのかもしれない、と思うと彼女の些細な願いを無碍にするのはいささか後味の悪いものだ。特にトーク力に自信があるわけでもないし、共通の話題も思いつかないが、小さな願いを叶えるために僕は302号室のドアをノックした。
「どうぞー」
中から声がした。ドアを開けて入るとベッドに寝転んだ小沼さんが居た。
「ほんとに来てくれたんだー」
にやりと笑いながら彼女は言う。あまり期待していなかったのだろうか、嬉しそうにゆっくりと体を起こした。
「退屈そうにしてたから」
僕は家族用の椅子に腰かけ、ふうと一息ついた。
「今日も一日お疲れさまでしたー。」
「ありがとう」
「あ、でもお昼寝してたくらいだから、そんなに疲れてないのかな」
「あれは、昼休憩に少しウトウトしただけで」
「なに焦ってるの、責めてないよ別に」
小沼さんはあははと笑った。なんとも完全に小沼さんのペースで会話が進んでいっている気がする。
「昨日の夜は緊急で呼び出されたから、さすがに眠かったんだ」
「そうだそうだ、そうだった。それは本当にお疲れさまでした」
「そういう呼び出しがあるから、空いた時間にウトウトしててもご容赦願いたいもんだね」
「だから、別に責めてないってば。でも外科の先生でも眠いことってあるんだ」
「僕らをなんだと思ってるんだ。それに僕は外科の先生じゃなくて、研修医」
「今外科の先生たちと一緒にいるから将来外科に進むんだと思ってた、違うの?」
「まだわからないよ。今はローテーションでたまたま外科にいるだけ」
「ローテーション?」
「研修医はね、いろんなことを学ぶために、いろんな科を巡って研修するんだ」
「へーそうなんだ。じゃあ私がいる間に他の科に変わっちゃうことになるの?」
答えに詰まる質問だ。僕の外科ローテは6,7月。あと1ヶ月半ほど残っている。小沼さんが言う“私がいる間”というのが認識のズレを想像させる。“私がいる間”の終わりは、彼女は退院を、僕らは彼女の死を考えるからだ。だから、曖昧にしか答えられない。
「そうなるかもしれないね」
「なんだー。せっかく話しやすい先生が担当についてくれたのに。ねえねえ、科が変わっても話に来てよ」
「考えとくよ」
「約束だからね?だって安藤先生も他の先生もいい人そうだけどさー、大人じゃん?」
約束、か。科が変わっても、つまり8月になっても彼女が今のように話ができる状態なら来てあげたいものだが、現実的ではない。できない約束は、しないほうがよい。
「僕も君も大人だと思うんだけどな」
「年齢的にはそうだけどさー、先生は自分のこと大人だと思ってるの?」
「いや…、微妙かな」
「ほらー。私は全然大人になった自覚なんてないよ。大学生なんてまだまだ親のすねかじってる子供だと思ってる」
「そういう意味では僕は働いてる分だけ大人ってことになるのかな」
「確かにそうかもしれないけどさ、他の先生よりはこうやって話しやすいじゃん」
「だから小沼さんの退屈しのぎ担当に抜擢されたわけね」
「意地悪な言い方だなあ。そんなんじゃモテないよ」
「大きなお世話だ」
実際退屈だろうとは思う。日々のやることと言えば、足のリハビリくらいで、そのほかはだいたいベッドにいるのだろう。
「でも退屈だろうとは思うよ。日中は何してるの?」
「えとね、リハビリ以外の時間は、だいたい本読んでるかな」
「へぇ、どんな本」
「今読んでるのはこれ、『スライム奮闘記』ってやつ。ちょっと前にアニメがあって、面白かったから原作を一気に買ったんだ」
「あー、アニメがやってたのは知ってるけど見てないな。おもしろいの?」
「私は好きだなー。先生はアニメとか見るの?」
「ん、ときどきね。話題になってるのとかは見る」
「えー、話題になってたと思うけどなぁ『スライム』。今度見てみてよ」
「暇なときにね」
「それで先が気になったら、原作貸してあげるね」
「僕は小説よりも漫画派なんだけどな」
「読みやすいから大丈夫だよきっと」
それから30分ほどだろうか、他愛のない雑談をした。気候のこととか、ニュースのこととか。これで彼女の気分が晴れるなら、仕事としては易いもんだ。
「じゃ、そろそろ帰るね」
「うん、わかった。先生、ありがとう」
手を振って部屋を出た。ありがとう、か。医者という仕事はありがとうと言われることは多い。それはたいてい治療に対してのものだ。例えば、今は外科だから首尾よく手術をしてくれてありがとう、というのが一番多いだろう。でもそれは執刀医の先生と助手の先生が頑張った結果であって、僕の力は微々たるものである。だから感謝を述べられても、自分に言われてると感じることは少なかった。だが、今日の小沼さんは僕一人に対してありがとうと言ってくれたのだ。普段聞き流している感謝の言葉だが、一人で受け止めるのはなかなか悪い気はしなかった。大竹先生ではないが、今日は旨いビールが飲めそうだ。
研修医ルームに戻ると一番合戦がまだ本を読んでいた。そういえばアニメ見るって言ってたな。
「なあ一番合戦、『スライム奮闘記』って知ってる?」
「なによいきなり、知ってるけど」
「面白いの?」
「まあまあ。ありきたりな展開だけど、よく言えば王道だから大外れではないと思うわ。急にどうしたの」
きっちり視聴済みだったか。意外とどっぷりアニメ見てるんじゃないのか、こいつ。
「いや、担当患者さんとその話になってさ。見てみてよって言われちゃって」
「そう。たしかプライムで見れるんじゃないかしら」
「そうなんだ、ありがとう。」
一番合戦は医療のことだけでなくサブカルについても頼りになる存在であることがわかった。小沼さんもアニメは好きそうな口ぶりだったから、今後彼女との会話で出てきたわからないことは一番合戦に聞いてみるのがいいかもしれない。つんけんしてるように見えて、質問すると意外にも親切に教えてくれるようだし。ともあれ、「スライム」については小沼さんもどっぷりはまり込んでいるようだったので、少しだけでも見ておくか。梅雨の土日なんて暇なもんだし、遊びに行く予定もないし。
家に帰ると簡単なつまみを作って、ビールを飲んだ。テレビのクイズ番組にあれやこれやと一人で突っ込みを入れながら晩酌し、気分よく眠ることができた。
土曜日の朝は少しゆっくりめである。基本的に休日扱いであるから、普段より集合時間が遅めなのだ。といっても朝9時には集合し回診が始まる。術後の患者のガーゼ交換や必要な処置を行う。もちろん小沼さんの顔も見に行く。ベッドに座ったままではあるが変わらず元気そうだ。そして今日もまた僕に向かって手招きした。あとで、と目で合図して部屋を出た。
「さて今日は解散かな。また月曜日に」
堀先生の解散宣言が出た。
「昼間からビールが飲める休日は最高だねぇ」
大竹先生はそういって伸びをした。僕と安藤先生はカルテ仕事を片付けてから解散した。
解散してから302号室に向かう。ノックをすると中からどうぞーと返事が来た。ドアを開けるとベッドに座っている小沼さんが笑っていた。
「今日は何かな」
「先生午前中で帰っちゃう日でしょ?なら今日は今しかないじゃん」
「今日はって、これ毎日続けるの?」
「そうだよ。退屈しのぎ、付き合ってくれるんでしょ?」
そう言ってニコッと笑った彼女に反論できるほど僕は我が強くない。
「わかった、でも明日は来ないよ」
「うん、さすがに病院に来てる日だけでいいよ。帰りにちょっと寄ってくれるだけでいい。」
安請け合いをしたもんだ。でも彼女にとっては重大なことなのかもしれない。僕は体験したことがないが、入院中に誰とも話をしなければ気が狂ってしまいそうなことは想像できた。
「でさ、『スライム』、見た?」
「まだ見てないよ、昨日の今日じゃないか」
「なんだーつまんない、早く見てよ、話したいじゃんか」
「今日帰って見るよ、それでいいだろ」
「絶対だよ?あー、でも明日来ないのか。じゃあ土日で全話見てきてよ!」
「全話って、何話」
「26話」
「多いな。おもしろかったら、善処するよ」
「絶対面白いから」
小沼さんは全力で推してきた。共通の話題が欲しいのだろう。僕としても共通の話題があった方が日々の話には花が咲かせそうではあったので、今日は帰ってしっかり見てみることにしよう。
また30分ほど雑談をした後で、小沼さんとは別れた。最後にも絶対見てねと念を押された。研修医ルームで着替えてから病院を出る。今日の昼ごはんは久しぶりにハンバーガーでも食べたくなったので、駅前まで足をのばしてセットをテイクアウトしよう。土曜日の昼とあってなかなか混雑はしていたが、何とかお目当てのものをゲットできた。これでも食べながら例のアニメを見ようという算段である。ビールかコーラかで迷ったが、今日はコーラにした。ビールを飲みながらアニメを見て寝落ちというのは避けたかったからである。誰もいない6畳間の部屋の机で動画を見る準備をし、テイクアウトしてきたセットを並べた。普段と同じ休日の風景であり、家でゆっくりだらだらするときのカスタマイズである。椅子に座ってグーッと伸びをして、食べ始める前に動画を検索する。人気の作品であったのか、プライムの上位にサムネイルがあった。
「これか、人気なんだな」
サムネイルをクリックするとあらすじが表示される。僕のポリシーとして見る前にあらすじを読むようなことはしたくなかったので、できるだけ目をそらしながら第1話を再生するボタンを探した。動画が再生され、僕はゆっくりとテイクアウトしてきたハンバーガーに手を付けた。昼食は1話の半分くらいで食べ終えてしまったが、なかなか楽しめる内容だったので続けて3話見てしまった。いったん休憩だ、と椅子の上で伸びをする。とはいえ今日はほかにやることもないし、「スライム」もおもしろい。小沼さんが自信をもって薦めてくるだけのことはあるし、一番合戦が王道だと言っていた意味もよくわかる。ベタな展開ではあるが安心して見てられるアニメだ。のそのそと立ち上がり、キッチンでお湯を沸かす。コーヒーをいれたら続きを見よう。
結局土日は家事以外にすることがなかったので、だらだら寝たり起きたりしていた。起きている間に「スライム」を鑑賞もしていたので、結局18話までこの土日で見てしまった。小沼さんには全話見て来いと言われたが、26話中18話見たなら及第点であろう。これで共通の話題は確保できたし、小沼さんにも喜んでもらえることだろう。
月曜日の朝はつらい。土曜日後半と日曜日をしっかりだらけた者にとって、早起きが苦痛で仕方ない。今週も一週間がんばりましょうという朝のニュース番組をつけっぱなしにしながら支度をする。朝ごはんのパンとコーヒー牛乳を流し込み、誰もいない部屋に小さい声でいってきますと言ってドアを閉めた。
朝の研修医ルームでは一番合戦が朝練でもするかのようにまた本を読んでいた。
「おはよう、『スライム』みたよ、半分くらい」
僕が声をかけると、一番合戦は顔を上げた
「そう、楽しめた?」
「おもしろいね」
よかったね、と言って本に視線を戻した。彼女にとっては大した興味のない話だったようだ。もともと小沼さんとの話のために見たのだから別にいいのだが。
朝の回診前にナースステーションでカルテをチェックしていると、部屋から小沼さんが出てくるのが見えた。小沼さんは僕を見つけるとゆっくり近寄ってきて、ナースステーションのカウンター越しに僕に声をかけた。
「おはよう先生、見た?」
宿題のチェックをしに来たかのように、腰に手を当ててそう言った。
「半分くらいね」
「全部じゃないじゃん。まあでもほんとに半分見たならよしとするか。どの辺まで見たの?」
「ドラゴンの女の子が街にやってくるあたり」
「あー、リーゼルね!あの子好きだわー」
「わかるけど続きはまた夕方ね」
「放課後みたいだね。わかった」
それだけ話して満足そうに部屋に戻っていった。よっぽど楽しみにしてくれていたらしい。あんなにいい笑顔をしてくれるのであれば見てきたかいもあったというものだ。
朝の回診を終え、オペに入る。今日も今日とてカメラを握ってできるだけ怒られないように立ち回り、そして多少怒られながらオペを終えた。夕方の回診も問題なく終了し、堀先生の解散宣言が出たころには18時になっていた。17時までに帰りたいのが本心だが、オペ時間と病棟業務の兼ね合いで毎日そういうわけにはいかないのだ。回診カルテを書きあげ、約束通り302号室の小沼さんに会いに行くことにした。
「ふぉ、へんへぇ」
小沼さんは歯を磨いていた。18時に夕食が出てくるので、食後の歯磨きだろう。泡だらけの口で何か喋ろうとしていたが、よくわからなかった。
「あ、タイミング悪かったね、出直そうか?」
小沼さんは手で待って、のジェスチャーをして、腰に手を当ててうがいをした。そのままベッドに座ってふうと息をついた。
「おまたせ先生、ごめんね」
「いや全然」
僕はいつも通り家族用の椅子に腰かけた。
「どう?『スライム』おもしろいでしょ?」
「おもしろいね、思ったより面白かった。土日でせいぜい5話くらいしか見れないと思ったけど、ついつい続きが気になって見ちゃった。」
「でしょー!てゆうか全然全話見る気じゃなかったんじゃん!5話って」
「いやどんなアニメかわかんないしさ、そこまで乗り気じゃなかったんだけど」
「乗り気じゃなかったの?私がお願いしたのに?」
小沼さんはぷーっと頬を膨らませていた。
「まあでもほら、結果的には結構見たから」
「全話じゃないけどね。まあいいでしょう!」
「あ、先に言っておくけどネタバレは無しの方向でお願いします。」
「わかってるよ」
小沼さんはすごく楽しそうに話した。好きなキャラクターの話や、好きなシーンの話、アニメでは割愛された原作における設定内容を教えてくれたりもした。今までにないくらい活き活きと話す小沼さんを見ていると、末期の癌患者であることが本当に信じられない思いであった。話してる最中はそんなことも忘れ、僕も心底楽しく会話していた。
「じゃあ今日はこの辺で」
僕は適当な時間で切り上げた。
「うん、明日までに全話見てきてよ」
「もうちょっとかかると思うけど」
ばいばーいと手を振る小沼さんを背に部屋を出た。オペ疲れもあったが、帰ってから続きを見てしまった。小沼さんとの話のネタにと思って見始めたけど、けっこうハマってるんじゃないか僕は。小沼さんの思うつぼだな、と思いながら結局この日は3話見た。
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