小沼唯
平日毎日オペがあるわけではない。月水金はオペ日、火木土はオペがない日である。もちろんオペのない日に緊急オペなどが入る場合もあるが、予定手術はないという意味である。今日は木曜日でオペのない日であった。朝夕の回診はあるが、オペがなくてかつトラブルがない時の外科医というのは暇である。でも誤解しないでほしい。医者が暇ということは患者が元気ということであり、看護師などコメディカルの仕事も増えることなく、みんな幸せな環境なのだ。だから堂々と暇していられる。ただあまりにも堂々と暇をしているところを上級医に見つかるのはよくない。暇なら勉強しろというのが正論だからだ。いかにして人知れず暇を堪能するか、そこに熱き情熱を注ぐ。医局というところは先生個別の机が並んでいる、いわば医師の隠れ家であると思っている。空いた時間にそこで自習したり論文を書いたり、調べ物をする。要は待機場所であった。僕たち研修医の机は研修医ルームにあった。研修医以外の先生の机は別の医局に会ったので、基本的には研修医ルームの机でさぼり、もとい自学自習を行うことにしていた。
「よし朝回診終わり、今日は夕方の回診まで特にやらなくちゃいけないこともないかな」
安藤先生が言う。ナースステーションに戻ってパソコンの前に座ると、今日は何をして暇をつぶそうかと心躍らせた。しかし、普段ないことを安藤先生が言った。
「あ、そうそうやることあった。今日、大学病院から患者が一人転院して来るんだよ。」
「大学からの転院ですか?珍しいですね。」
「そうなんだ。後でカルテ見たらわかると思うけど、手術目的ってわけでもないから、主治医が僕なわけ。勉強になると思うから、主に中野くんに任せてみよっかなと思っているんだけど」
直前までの暇に対する高揚感は一瞬で消え去った。これがいきなりのご指名、一気に大きな仕事が来たみたいだ。内心うんざりしたが、顔は不安げにできただろうか。
「僕に務まるんでしょうか」
「大丈夫大丈夫、僕もフォローするし、なんかあったら上の先生にも相談するしさ」
安藤先生が笑う。何が大丈夫なのか。安藤先生もうすうす感づいているだろうが僕はだらけるのが好きなんだ。意識を高く持って研修に臨んでいるわけではないというのに。
「わかりました、がんばります」
「とりあえずカルテと紹介状を見ておいて。これ患者IDね」
付箋にさらさらとID番号を書き写して渡してくれた。淡白な数字の羅列が恨めしく見える。
「それじゃ、そういうことで。入院手続きとかそのへんも任せた」
「あ、はい、お疲れさまでした」
安藤先生は医局へ戻っていった。泣きつきたくなる背中を見送りながら、しぶしぶその患者のカルテを開いてみる。直近の記述は3ヶ月前で、僕がまだ1年目、救急科で搬送患者と戦っているころのものだった。
腹部の膨隆感を自覚し来院、CTにて肝臓に巨大な陰影あり、大学病院に紹介。簡単にまとめるとそのような内容であった。今いる市中病院のようなところで手に負えなさそうな患者を大学病院に送る、というのが紹介の基本的な流れであった。大学病院は大病院であり、施設や設備の規模が大きく、医師も多い。中小の市中病院で対処しきれない症例を引き取ってくれるいわば最後の砦のような存在である。逆に大学病院に一般的な風邪ひきなどの患者が押し寄せては数が多すぎて対処しきれないため中小の病院が存在する。そのような役割分担を担っているのが今の日本の医療の基本体系である。大学病院は紹介状がないと診てくれない、というような話が出るのはそういう理由である。普段は小さな診療所から手術あるいはそれに準じた目的で紹介されてくるパターンが多いので、今回の大学病院からの紹介は僕からすると珍しいと感じる。
「なんで戻ってきたんだ?」
手術目的でも検査目的でもないだろう。ともかく大学病院からの紹介状を見ないことには始まらない。まだ電子カルテに取り込みされていないようだったので研修医ルームでしばらく待つことにした。
売店でお菓子を買ってから研修医ルームに戻るとAチームの研修医磯沢がソファーに座ってコーヒーを飲んでいた。勤勉にも手術書を読んでいたらしいが、僕に気づいてお疲れ様です、と会釈をした。
「ザワちゃんまさか勉強してんの?」
「はい、一応明日のオペの」
見てみると胆嚢摘出術のページだ。昨日僕が勉強したことを学年1つ下の彼が勉強している。やめてくれよ、これだから勤勉な研修医は。
「えー、えらいね」
「いえ、何もわからないのでせめて本くらいはと」
当てつけに聞こえるのは僕の心が汚れているせいだろう。彼は本当に真面目そうな奴だ。人当たりも良く話しかけやすいし、何を食べて育てばそういう風になるのか聞きたいくらいだ。
「いや本当に偉いと思うよ、こっちは今日新患あてられて萎えてるのにさ。しかも主に中野が診ろって言われちゃって」
「信頼されてるってことじゃないですか」
「ザワちゃんみたいにプラスにとらえられるならよかったんだけどね」
「マイナスなんですか?」
「だってめんどくさそうじゃん」
先輩にひとりくらい堕落したところ見せてくれる人がいたっていいと思う、いやいるべきだと僕は思っている。上の人が意識高いひとだらけだと息が詰まるというものだ。そういう建前を構築して僕は先輩顔をしているのだ。
「どんな患者さんなんです?」
「わかんない。大学からの紹介なんだけど、まだ紹介状がスキャンされてなくて」
「大学からの紹介ですか、なんでまた」
「だからわかんないっての。」
ドカッとソファーに腰かけてお菓子の袋を開けた。なんの変哲もないチョコレート菓子だが、これから頭を使ってカルテを読み込むんだから糖分摂取は必須だろう。1つ磯沢に分けてあげた。ありがとうございます、と隣で口に放り込んだ。しばらく雑談したが、磯沢は勉強中だったことを思い出したので、ソファーを離れ自分の机に向かって座った。本当はここから動画サイトやネットサーフィンするつもりだったのだが、新患のこともあるしお菓子を食べ終わったらさっさと病棟に戻ろう。
病棟に戻ると看護師さんに呼び止められた。患者の点滴の針が抜けてしまい、なかなか入らないらしい。看護師が何度かトライしたが駄目だったそうで、偶然居合わせた僕に白羽の矢が立ったのだ。
「僕より師長さんとかの方が上手いんじゃ?」
「師長にこんなこと頼めませんよ、先生よろしく」
研修医は何もできないというのは病院内の常識である。指示系統としては確かに看護師より上にくる研修医だったが、それだけのことであり、ヒエラルキーとしては底辺であるといっても過言ではなかった。ゆえにこういう頼まれごとは断れないし、唯一同等の立ち位置であろう新人看護師が見ている前では断れる空気でもなかった。病室に向かうと婆さんがむすっとした顔で待っていた。何度もチクチクと針を刺されて苛立っているのだろう。僕らから言わせると入りにくい血管をしている方が悪いのだ、と思ってしまうが誰も悪くないので仕方がない。両腕に青あざを作った老婆は怪訝な顔でこちらを見ている。
「先生に入れてもらいましょうねー」
と看護師が話しかけている。余計なことを言ってプレッシャーをかけないでほしいものだ。「先生は上手いんですか」
ほら答えに困る質問をされたじゃないか。そんなこと聞かれても答えは決まっている。
「んー、普通ですかね」
それ以外何と言えばいいのだ。普通かあ、と少しがっかりしているのが伝わってきた。自信をもって上手いですと言える研修医などこの世に存在するのだろうか。
「じゃあ腕見せてもらいますね」
と腕を見てみるが、確かに血管は細い。めぼしいところは看護師が失敗した後なので使えない。逆の腕も同じような状態であった。なるほどこれは難しい。こういう時はあっさりとあきらめてしまうのも一つの手だ。
「ちょっと腕は難しそうなんで、手の甲にしますね」
一般的に前腕より手背の方が痛いと言われる。だがこの後まだ何回もトライするよりは、多少痛くとも一発で成功する可能性の高い方にかけようと思う。これは逃げではない、策略だ。
「ちくっとしますよ」
右手の震えを最大限にこらえながら針を刺す。外套とよばれる針の外側のチューブを進め、点滴をつなぐと問題なく流れていく。
「はい、終わりましたよ、お疲れさまでした」
「ありがとう、先生上手いじゃない」
そうではない。簡単なところでやっただけだ。とはいえ、医療手技というのはいかに簡単に行うかがカギである。難しいことをすれば誰だって難しいのだ。今回は僕の作戦勝ちであった。新人看護師は目を輝かせてこちらを見ていたし、心の中でガッツポーズをした。
「先生ありがとう」
「はい、あとはよろしくお願いします」
看護師さんにバトンタッチして病室を後にした。
ナースステーションに戻ってカルテを開こうとしたら
「あ、中野先生、転院の患者さん来られてますよ」
と看護師に言われた。まだ何も読んでないのだが患者が先に到着してしまったらしい。
「わかりました、今行きます」
思わず行きますと答えてしまった。事前情報はわずかの状態で患者さんのところに行くのはどうかとも思うが、最初のあいさつと自己紹介くらいにとどめてすぐに戻ってくればいいだろう。立ち上げたカルテをそのままに、病室へ向かった。
302号室は広い個室である。洗面台や冷蔵庫、トイレやテレビもある。8畳間くらいだろうか、一人暮らしできるくらいの部屋で、日当たりも良い場所だった。一般病室が4人1部屋で、トイレも共用、テレビも共用の休憩スペースにしかないのに比べるとずいぶん豪華な作りだ。そんな部屋に転院してくるなんてどんな人なんだろうか。僕は軽くノックをして、失礼します、と部屋に入った。
中に入ると、患者は窓の外を見ながらベッドに座っていた。薄いピンクのワンピース、肩までの黒い髪。細くて小さい体は透き通るような白い肌に包まれていた。こんにちは、と僕が声をかけると彼女が振り向いた。
「こんにちは、先生」
僕は大いに驚いた。カルテにきちんと目を通していなかったのが悪いのだが、てっきり老人がそこに居るものだと思い込んでいた。しかしそこにいたのは、自分と同じくらいの年頃の女の子であった。華奢な身体に吸い込まれそうな瞳。予期せぬ事態にどぎまぎしそうになりながらも自己紹介する。
「初めまして、担当の中野です。今日からよろしくお願いします。」
驚きを隠すため変な笑顔になっていたかもしれない。彼女はゆっくりと立ち上がってこちらを向いた。
「初めまして、小沼唯です。よろしくお願いしますね」
あどけない笑顔でぺこりとお辞儀をした。ベッドの横には小さめのスーツケースがおいてあり、これから荷解きをするのだろう。殺風景な病室にワンピースというのはいささか不相応に思えたが、このあと入院着やパジャマに着替えたりしてしまうのだろう。彼女のワンピース姿を見れたのはラッキーだったかもしれない。
「あれ、先生ずいぶん若いですね?おいくつですか?」
「え、僕ですか。26歳になったところです。」
「えー!じゃあ4つ上だ!私そんな若いお医者さん初めて見たよー。よろしくね先生」
ずいぶん気さくで明るい、いわゆる女子だなという感じであった。いきなり年齢について聞かれることは珍しかったが、彼女からしても同年代の医者というのは珍しい存在だったのかもしれない。それにしても年下とはなお驚きである。僕としてもこれほど若い患者を受け持つのは初めてだ。手術というのはだいたい若くても4-50代であるので、やや接し方には戸惑う。
「はい、よろしくお願いします。」
「うわ、硬いなー。」
「まあ仕事ですから。後僕のほかにも何人か上の先生も担当しますので、ご安心ください」
僕なら自分と同年代の担当医が現れたら少し不安になるだろうから、そう付け加えた。
「あ、そうなの?まぁでも年の近い先生ならなんでも話しやすくて安心だな」
と彼女は笑った。なるほど、そういう考えもあるのか。患者側に回ったことがないのでそんな発想には至らなかった。そうだ、あまり長居をしているとカルテを読んでいないことがバレそうだったので、早々に引き上げることにしていたことを思い出した。
「それじゃあ、今とりあえず挨拶だけで。また来ますね」
「はーい、またね」
僕は部屋を後にした。なんとも気さくな、悪く言えば馴れ馴れしい感じの患者だ。今までにも気さくな患者さんはいたが、近所のおばちゃんといった感じだった。だが今回はそれこそ友達のように接してくる距離の近い女の子といった感じだ。一見健康そうに見えたが、どういう状態で転院してきたのか気になってきた。早速ナースステーションに戻り電子カルテを立ち上げる。
小沼唯、22歳。僕は紹介状に目を通した。淡々と要点だけ書かれた紹介状を見て、僕は衝撃を受けた。紹介状の内容を簡単にまとめるとこうだ。
「精査の結果肝臓癌であり、肺や脳に転移が見られる。手術も困難であり、化学療法を行ったが、副作用が強く継続困難で断念。緩和療法の方針となり、貴院での治療を希望されたため紹介する。」
にわかに信じがたい情報である。彼女は、先ほど軽いノリで挨拶を交わした小沼唯は、末期がんの患者であった。自分より年下の女の子が、末期がん、しかも積極的な治療をする方針ではないと書いてある。緩和療法とは、簡単に言うと、これ以上手の施しようのない症例に対し、積極的な治療は行わず、苦痛なく死を迎えられるように痛み止めやその他の治療薬を使っていく方針である。つまりこの紹介状は、彼女の余命が幾許も残されてはいないことを雄弁に物語っていた。紹介状に添付されたCTやMRIの画像を見ると、いくら堕落した研修医でもわかる、紹介状に書いてある通りの画像だった。もしこれを知ってから彼女に会っていたら、もっと神妙な面持ちで挨拶したかもしれない。それに関しては読まずに行って正解だったかもしれない。ともかく、思っていたよりはるかに重い症例である。これを勉強になるからと研修医にあてがった安藤先生は何を考えているのだろう。僕は居ても立っても居られず安藤先生に電話をかけた。
「はーい、どうしたの中野くん」
「安藤先生、転院されてきた小沼唯さんなんですけど」
「ああ、もう来てたんだ、早かったね。で、どうしたの」
「僕がメインで診るというのは、少々難しい症例ではないですか?」
ここぞとばかりに自信なさげに問いかける。
「ああ、そういうことね。びっくりしたでしょ」
「それはもう」
「あはは、だよね。でも、そういう症例はとっても勉強になるから、ぜひやってほしい。もちろん、投薬やムンテラについては僕らがサポートするから遠慮なく助けを求めてくれて構わない。だけど、基本的に全て中野先生発信でことを進めてほしいんだ。」
「本当に大丈夫でしょうか」
「大丈夫大丈夫、ほら、言ったじゃんやるときはいきなりだって」
安藤先生はまたカラカラと笑っている。僕はいつもの面倒くさいというよりも怖いという気持ちの方が強かった。なにか一歩間違えれば彼女はすぐに亡くなってしまうのではないか、という不安に押しつぶされそうである。ムンテラは確かに僕一人では不安だ。ムンテラとは簡単に説明すると患者やその家族に対して、現在の病状やこれからの方針を伝える面談のようなものである。さすがにこれを一人でという無茶な注文ではなかったが、
「あ、でもムンテラも一緒には入るけど基本中野先生にしゃべってもらおうかな。後ろから補足入れる係になるよ」
と安藤先生はとんでもないことを言い出した。
「本気で言ってるんですか」
「まあね。大丈夫でしょ。しっかり診てあげてね。後で僕も行くから」
それじゃね、と言って安藤先生は電話を切った。僕は呆然とした。今までサボってきたツケが回ってきたのかとさえ思った。まず何からすればいいのか、それすらわからない状態であった。わかることと言えば、入院の書類にサインをもらってくる、という事務的な作業の必要性くらいであった。わかるところから一つずつやっていくしかない。書類を印刷し、再び彼女のいる302号室へ足を運んだ。彼女はベッドに座っていたがこちらに気づいて
「あれ、先生また来たんだ、忘れ物?」
フフッと笑って言った。
「小沼さんに入院の書類説明と、サインをもらわなくちゃいけなくって」
「なーんだ、さっそくお話に来てくれたのかと思っちゃったよ」
ざーんねん、と口をとがらせて書類を見た。入院に際する注意事項や面会についてのことが書いてあったがさらりと見ただけで
「はー難しいことわかんないや、サインだっけ?どこにすればいいの」
と諦めた顔で言ってきた。
「ここです、あとでしっかり読んでおいてくださいね」
「はーい」
本当に読む気があるのかは知らないが、サインしていただいた。女子特有の丸文字で書かれた名前は、大学時代の女子友達に借りたノートを思い出させた。
「ありがとうございました、書類はこれで大丈夫です」
僕が部屋を出ようとすると、明るい声で呼び止められた。
「先生、いま暇?」
仕事中の医者に対してそんな質問あるか?と思わず笑ってしまった。
「まぁ、少しなら時間はありますよ」
「やった!ちょっとそこ座ってお話しようよ、ほら」
家族が面会に来た時用の椅子を指さして笑っていた。患者の話を聞いて現在の症状や状態を把握しておくのももちろん仕事のうちなので、決して無駄話をするつもりではないのだが、お言葉に甘えて椅子に腰かけた。そういえば、彼女はどこまで自分の状態を把握しているのだろう。こっそり探りを入れてみる必要もあるなと思った。
「中野先生ってさ、なんで医者になろうと思ったの?」
いきなりその質問か。就職活動から逃げたなんて言えないし、まして稼げるからなどとは言えないだろう。
「そうですね…かっこよかったから」
「かっこよかった?」
「そう。ドラマとかで、手術するお医者さんってかっこいいじゃないですか。それに憧れて」
「そんな理由なんだ、ウケる」
彼女はあははと笑っている。
「もっとさー、命を救いたいから!とかそういうのじゃないの?」
「いや、そこまで崇高な考えはなかったですね」
彼女にとって医師とは、高い志を持った者がする仕事というイメージだったようだ。一般的にはそんなもんなのか。
「じゃあさ、外科ってことは手術とかバンバンするの?」
「いやまだ研修医だし、バンバンってわけではないです」
「研修医なんだ!まだぺーぺーじゃん」
「まあそうです、ぺーぺーです」
本当に歯に衣着せぬ物言いをする女子だ。こういうやつ大学にもいたなあ。そういうタイプの女子は友達が多くて毎日楽しそうにしているイメージだった。小沼さんも毎日楽しく過ごしていたのだろうか。その日常が奪われて、どんな気持ちだったのだろうか。
「小沼さんは、大学生なんですか?」
何の気なしに聞いたが、もしかしたら踏み入りすぎたかもしれないと不安になったが、彼女はあっけらかんと答えた。
「唯ちゃんでいいですよ。大学生です!」
「そうなんですね。小沼さんは理系?」
「もー硬いなぁ。文系ですよ!どうみても理系じゃないでしょ!経済学部!まあでも入院も長くなっちゃって休学せざるを得なかったんですけどね」
彼女は少しだけ表情を曇らせた。
「こんなに入院長引くとはなーって感じ。癌って聞いたときはびっくりしたし、治療がしんどくて、もうギブアップ!でとりあえず退院になるかなと思ったんだけど、途中から足が思うように動かなくなっちゃって。それで、まだ入院中なの。」
「足が?」
「そう。立って歩くくらいはできるんだけど、長い距離歩くのは難しくて。だから移動は車いすなんだ。先生が言うには、治療の影響か、脳転移の影響かはわかんないんだって」
そこまで聞いて僕は、もうこの足は治ることはないのだろうと思ってしまった。明るく話してくれてはいたが、厳しい現実を目の当たりにしてしまった。僕は言葉に詰まった。
「そうなんですね、大変でしたね。」
コミュニケーションの教科書に書いてあった共感の例文そのままの返ししかできなかった。
「そうなの!大変なの!でもまぁ病院での生活も慣れてきたし、家にいてもやることないしね。今はほら、スマホがあれば何でもできるでしょ。だからそんなに苦じゃないよ」
ニコっと笑った。本心なのか強がりなのか、僕にはわからなかった。
「足、よくなるといいですね」
「足さえよくなれば退院でしょ?早く良くならないかなー」
ぷーっと頬を膨らませて彼女は言った。表情豊かで見ていて飽きないおもしろさがある。こうして話していると末期がん患者とはとても思えない、普通の女子大生である。それだけにカルテの情報は嘘なんじゃないかと疑ってしまうほどだ。しかし、足が思うように動かないという事実に、カルテに偽りがないことをありありと見せつけられる。彼女はまだ知らない。足の症状が序の口であることを。これから待っている苦しく、そしておそらく短い時間を。
「それじゃ僕はこれで」
「え、もう行っちゃうの」
「これでも仕事中なんで」
「そうだったね。じゃあまた来てよ」
笑顔で手を振る彼女に見送られながら僕は病室を出た。
医療者と患者との認識のズレというのは、どこにでも存在する。小沼さんの余命は長くないだろうが、彼女はまだ退院できるとさえ思っている。大きなズレだ。これをいつの日か修正せねばならない。もう長くは生きられないと彼女に告げるのがムンテラの大きな役目である。それを安藤先生は僕にしろというのだ。想像するだけで胸が痛む。家族はどこまで知っていてどう思っているのだろう。それもまた情報収集が必要であった。家族と僕たち医療者の認識、患者本人の認識。これらを最終的には統一しなければならない。しかも、今回の場合は退院に向けた治療ではなく、行き着く先は間違いなく死だ。さっきまで元気に笑いながら話していたあの女の子が、すぐ目の前に迫った死を受け入れられるのか。彼女の親は、大学卒業をすることも叶わず、若くしてこの世を去る娘の運命を受け入れられるのか。考えるだけで胸が張り裂けそうになる。先ほど初対面の挨拶を済ませた僕でさえこんなに苦悩しているのだから、本人や肉親の苦悩は想像できないほど深いものになるだろう。
電子カルテを立ち上げ、彼女から得た情報を記録していると安藤先生がナースステーションに入ってきた。
「お、中野くん、もう小沼さんに会ってきた?」
「はい」
僕は研修医生活で一番暗い表情をしていたと思う。それを見てか、安藤先生が言った。
「僕も今会ってきた。信じられないよね。あの子が緩和療法なんてさ。」
「何かの間違いではないですか?」
縋る思いで僕は問うた。
「いや。僕はこんなケース初めてではない。でも初めての時は相当悩んだものさ。中野くんもすでにだいぶ頭を抱えているようだけど?」
安藤先生はお見通しだ。
「そうですね。これからどうしたらいいのかわからないです。」
「だよね。でも、中野くん発信でやっていくって言ったよね。君はまずどうするべきだと思う?」
「そうですね……、家族と話がしたいです。現状どこまで知っているのか」
「お、なるほどね。いいと思うよ。じゃあ家族が来たら、一緒に話してみようか」
「お願いします」
こうして木曜日の暇に現を抜かす計画は脆くも崩れ去り、家族とのムンテラという大きな、非常に大きな仕事ができたのだった。
昼食の時、堀先生と大竹先生にもよろしくと言われただけであった。安藤先生に任せて自分たちはバックアップといった感じなのだろう。食後の休憩は研修医ルームでコーヒーだ。ソファーでコーヒーを飲みながらスマホを触っていると森田が入ってきた。森田もコーヒーをいれて僕の隣に座った。
「なんか浮かない顔をしておりますな中野先生」
「顔に出てる?」
「出まくり。何があった?」
小沼唯のことを話した。末期がんの患者で緩和療法目的に転院してきた患者がいること、その担当が僕になったこと、今日家族とのムンテラがあること。
「へー、そりゃ大変だ」
コーヒーをすすりながら森田が言う。
「自分より年下に余命宣告なんてしたことないし、考えたこともなかったよ」
「まぁなぁ。あるにしても普段じいさんばあさん相手が多いしな」
はあ、とため息をついた。森田の言う通り、80歳を超えた年配者に余命宣告をする現場には時々居合わせることがある。そういう時はたいてい家族も「もう十分生きた。苦しまないように逝かせてあげてください。」という流れになるのだ。本人も延命を望まない場合が多い。チューブまみれになってまで生き永らえたくはない、という人が多いのだ。ただ今回はそんなセオリー通りにいくはずがないのだ。延命、すなわち人工呼吸器をつないだり、心臓マッサージをしたりという処置を希望するのかどうか、という話を持ち出すことすら躊躇われる。
「自分ならどうするかなぁ…」
思わず本音が出てしまった。
「俺なら延命なしでスパッと死にたいけどな。医者だからそう思うだけかな」
さっぱりした意見を言う森田。僕もそうかもしれない。けれどいざ当事者になったらどうなるかはわからない。うちの親はなんて言うだろう。僕の希望通りに、とでも言ってくれるのだろうか。僕の親は医療関係者ではないから、やはりここにも認識のズレが生じるのだろうか。コーヒーをすすりながらぼんやりと考える。
「まあ今日のムンテラに関しては安藤先生の力に頼るしかなさそうだ」
「そうだな、それがいい」
いつもより落ち着かないコーヒーブレイクを終え、家族の到着を待つことにした。
しばらく机でうとうとしていると電話が鳴った。
「あ、中野くん、家族さん来られたみたいだから行こうか」
安藤先生からだった。すぐ行きます、と返事をして病棟に向かう。僕が病棟について間もなく安藤先生も来た。
「どう?何話すかまとまった?」
「いえ、あまり」
「そっか、まぁ仕方ないね。僕もいるから、大丈夫だよ」
「お願いします」
本当に何を話すかなんて頭でまとまっていなかった。漠然と、事実を伝えるのは酷だという思いしかない。しかしそれもまた医師の仕事なんだろう。どのようにして何を伝え、何を言えばいいのか。考えれば考えるほどこんがらがってくる。
「とりあえず看護師さんに面談室に家族さんを呼んできてもらおう」
そういって看護師と短い話をした後、面談室に入る安藤先生。僕も後に続く。面談室はパイプイスがいくつかと、机の上には電子カルテ用のパソコンが1台あるだけの簡素な部屋だ。ドア側の壁に沿って机が置かれており、パソコンの方を向いて座ると患者に対して90度の角度となる。教科書によるとこれが最も良い配置らしい。僕と安藤先生は奥にある椅子に並んで腰かけた。電子カルテを開いて画像を交えた説明の準備をする。
電子カルテを開けたところでドアがコンコンとノックされた。
「小沼さんのご家族さんをお連れしました」
とドア越しに看護師の声がした。安藤先生と目配せをした僕は、どうぞ、と言った。
「失礼します」
ドアが開き、50代くらいの男女が部屋に入ってきた。
「どうぞおかけください。担当医の中野と言います。」
「同じく安藤です。よろしくお願いします。」
「小沼唯の父です。これが妻です。よろしくお願いします。」
両親がパイプ椅子に腰かけた。挨拶は問題なくできたものの、緊張もあってかそのあとの言葉が続かずたじろいでしまった。少しの間沈黙が続いた後、見かねた安藤先生が口を開いた。
「今日は来ていただいてありがとうございます。早速ですが、唯さんの状況をどのように聞いていますか」
すみません、と目だけで謝ったが、安藤先生の目は大丈夫だよと言っているようであった。それにしても単刀直入な切込みである。もっと世間話を間に挟むのかとも考えていたのだが。これは安藤先生のキャラクターなのか、そういうものなのか。判断はつかなかったが、よくよく考えると世間話などする意味もないだろう。変に気を使いすぎているのも緊張のせいかもしれない。僕はすでにじんわりと冷や汗をかいていた。
「娘は、唯は肝臓癌だと聞いています。見つかった時にはすでに全身に転移しており、手術では取り切れないということを聞きました。それで、化学療法をしてもらったのですが、副作用が強く出てしまい、断念したと。」
うんうんと頷きながら聞いていた安藤先生が口を開いた。
「足のことはご存じですか」
「はい。化学療法を行っている途中から違和感を覚えだして、今では思うように動かなくなってしまったと言っていました。やはり副作用のせいなのでしょうか?」
「その可能性もありますが、やはり脳転移による影響ではないかと思います。ここ、わかりますかね、ここが転移巣です。」
安藤先生はパソコンの画面を指でさしながら説明した。
「今後のことについて何か聞かれていますか。」
「いえ、詳しいことは…。ですが、積極的な治療はできないと聞いています。緩和療法を行うにあたり、大学病院ではなく娘本人がこの病院を希望したので、転院する運びとなりました。」
小沼さん本人が希望してこの病院だったのか。どうして大学病院ではなくこの病院を希望したのか少し気になったが話の腰を折らぬようにこの場は流すことにした。
「なるほど、そうでしたか。それでは、現在の状況からもう一度詳しく説明いたします。」「お願いします。」
言うまでもないがもう僕の出る幕はなく安藤先生がずっと話していた。無論僕に理路整然とした病状説明や今後の方針についての相談ができるとは思っていなかったのでありがたかったのだが、同時に自分の無力さを実感することになった。しかしこの場は安藤先生に頼るしかないので、僕は安藤先生の隣でうんうんとわかっているような顔をして聞いていることしかできない。安藤先生はCT、MRIの画像を画面に表示させ指をさしながら説明し始めた。
「今現在、確認されているだけで肺と脳に転移があります。先ほども申し上げましたが、脳転移による影響で足が不自由になっている可能性もあります。この転移が大きくなれば、さらなる神経異常が出てくる可能性があります。例えば意識状態が悪くなったり、視野に異常をきたしたりする場合もあります。また、現在肺の転移巣については症状としては表れていませんが、いずれ大きくなってきたり数が増えてきたりすると呼吸がしにくくなってくることが予想されます。そして、現在見えていないだけで全身のどの部位に転移巣が現れても不思議ではありません。場合によっては痛みを伴う場合も出てくるかもしれません。」
淡々と残酷な説明がなされていく。両親は真剣なまなざしで安藤先生とパソコンの画面を交互に見つめていた。
「そして今回の転院の目的でもある緩和療法ですが、このような苦しみを緩和する、という意味合いです。呼吸が苦しくなればその苦しみをとったり、痛みが出てくれば痛み止めを使ったりして、苦痛となるものをできるだけ抑え込もうという治療です。理解していただきたいのは、根本的な治療ではない、ということです。すなわち、緩和療法とは、病状の進行を食い止めたり治したりするものではなく、苦痛を取り除くことに重点を置いた治療です。ここまでご理解いただけましたでしょうか。」
両親は黙ったまま、目線は下を向いていた。決して理解していないのではなく、理解しているからこそ、目の前に突き付けられた現実を受け止めきれずにいる。自分の娘の治療はもうできないと、そう告げられているのだから無理もないだろう。以前に聞いていた話かもしれないが、改めて聞くと何も言葉にならないのだろう。しばらく沈黙が続いた後、
「大変厳しい話をしていることは承知していますが、お伝えしなければならないと思いお話しさせていただきました。」
安藤先生は優しくそう続けた。
「はい、わかってはいても、つらいものですね」
母親が小さな声で言った。続けて父親が言った。
「少しずつよくなったら退院、ということも考えられるのでしょうか。」
絞り出すような声でそう問うた。だが安藤先生はゆっくりと首を振った。
「難しいでしょう。悪くなることはあっても、今以上によくなるということはないと思います。」
「ということは、娘はこのまま、この病院に、死ぬまで入院ということなんでしょうか」
父親が縋るような目でそう尋ねた。
「そうなるでしょう。」
安藤先生は淡白に答えた。そうか…、と小さくこぼした父親は涙ぐんでいた。その肩に母親が優しく手を置いた。気づけば僕も涙をこらえていた。淡々と説明する安藤先生がとても冷徹な人間に見えた。しかし医師としてそれがあるべき姿なのだろう。真摯に説明する安藤先生は、いつものカラカラと笑う人とはまるで別人のような真剣な顔をしていた。またしばらく沈黙が続いた後、意を決したように父親が尋ねた。
「娘は、唯は、あとどれくらい生きられるんでしょうか。」
その質問をするか否か、心の中でどれほどの葛藤があったであろうか。僕ですらその質問を安藤先生に投げかける勇気はなくここまできてしまったのだ。どれほどの勇気を振り絞って、耐え難い恐怖に対峙し、その質問をしたのだろうか。僕は一気に冷や汗が出たような気がした。だが、安藤先生は静かに、冷静に、冷酷に答えた。
「長くて1ヶ月でしょう。」
僕は心臓を握りつぶされた気がした。思わず目を見開いて安藤先生の方を見た。なんの根拠もなく、ただ漠然と1年くらいは今と同じように元気な彼女のままなのかと思っていた。安藤先生と僕とでは経験の差がある。どうにも埋めがたい差があった。だが、同じ医師としてなんとなく近しいところにいると思っていた。だが違ったのだ。僕と安藤先生の間にさえ、認識の大きなズレがあった。1ヶ月。それは残された余命としては短すぎる宣告であった。
「い、1ヶ月、ですか」
ふたりの顔がいっきに青ざめた。先ほどまで冷静に話を聞いていた母親はついに涙をこぼして泣き始めた。父親は床に視線を落としたまま動かなくなってしまった。実際に流れた時間は1分もないだろう。しかし、その1分の沈黙は永遠とも思えるような長い沈黙であり、聞こえてくるのは母親の嗚咽のみであった。個人差もあり、正確にはわかりませんと付け加えた安藤先生の言葉は、二人に届いていないように思えた。だが、追い打ちをかけるように安藤先生は続ける。
「その内、今まで通り普通にコミュニケーションをとれるのはその半分くらいだと考えておいた方がいいかもしれません。もし会わせたい人がいるのならば、早急に会わせてあげた方がよいでしょう。もう1度言いますが、あくまで僕の予想です。なので正確な余命まではお答えできませんが、経験上そのくらいだろうと思います。」
両親は黙って頷いた。安藤先生は十分に時間をとってから、
「今日の説明は以上ですが、何か質問や、言いたいことがあればお聞きします。」
と言った。またしばらくの沈黙の後、父親が静かに言った。
「娘には余命のことは黙っておいてくれますか。あいつは今でも治って退院できると思っているから」
言えるわけがないだろう、と僕は思ってしまった。彼女の希望を踏みにじり絶望に突き落とすと同じ行為であるように思えたからだ。だがまたしても安藤先生は厳しく現実的なことを言った。
「わかりました。ですが、いつまでも隠すことが本人のためになるのかどうかはわかりません。そのことについては今後の唯さんの状態を見ながら、また一緒に話し合い、相談していきましょう。」
そうなのだろうか。本当に余命を素直に彼女に伝えることが正しいと思える瞬間など来るのだろうか。僕には想像ができなかった。本人に訊かれたとてはぐらかしてしまう気さえした。
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
そう言って両親は面談室を出て行った。
「1ヶ月ですか」
たまらず僕は聞きなおしてしまった。僕の予想とはかけ離れていた深刻な予想だったからだ。安藤先生は頭をかきながら答えてくれた。
「どうだろうね。だいたいこういうときは短めに言っておくのさ。ほら、宣告された余命より長生きすれば家族が救われるだろ」
それはそうだと納得はした。逆よりははるかにいい。経験を積んだ医師のテクニックなのだろう。
「では実際のところはどれくらいなんですか?」
「そりゃ正確にはわからないけど、たぶん2ヶ月はもたないんじゃないかな」
「それでも2ヶ月ですか」
「そう思うよ。驚いたかい」
「はい、僕は1年くらいかと思ってました」
それくらい生きてくれれば御の字なんだけどね、といつもより少し悲しそうに笑っていた。部屋の電気を消して、僕たちも面談室を後にした。結局ほとんど安藤先生が話してしまったが、そこには触れてくれないのが安藤先生の優しさなんだろう。ここは甘えておく。
夕方の回診ではBチーム全員で小沼さんの部屋を訪れることになった。部屋を訪ねると小沼さんはパジャマに着替えており、家族団欒といった感じで3人が楽しそうに話をしていたようだった。堀先生と大竹先生が自己紹介を兼ねて挨拶をすると、よろしくお願いしますと3人そろって頭を下げた。小沼さんは先ほどの馴れ馴れしさは全く見せず、借りてきた猫のようにおとなしかった。部屋を出るときちらりと振り返るといたずらな笑顔の横で小さく手を振っていたので、軽く会釈をして病室を後にした。堀先生も大竹先生も特に何のコメントも無いようだったのであえて聞くことはしなかったが、こういう患者はよくいるのだろうか。そもそもそんな質問をするより前に二人は今晩飲むビールの話をしていた。
帰り支度をしに研修医ルームに戻ると、森田がくつろいでいた。
「森田も帰り?」
「いや、当直。」
「なんだ、今夜は荒れるな」
「思っても言わないでくれよ」
森田が当直ということは何か引き当てるのだろうと思ったが、今の段階では平和そうである。
「なあ森田、ちょっと聞いてくれよ」
「しょうがないな」
軽口を返すこともなく、僕は話し始めた。昼間話した持ち患者の余命1-2か月であるということを。
「それはまた、重い話で」
森田はいつものヘラヘラ顔とは違い神妙な顔で話を聞いていた。僕にはそれがありがたく感じた。自分一人で抱えるには少し重すぎて、誰かに話したかった。守秘義務がどうのと言われそうだが、カルテを見ればすぐにわかる同僚に話すくらいは問題にされないだろう。
「今日、家族にムンテラして、余命1ヶ月だって言ったのよ。泣いてた。」
「そうだろうな。寝耳に水だろうよ」
「うん、本人は元気そうだからね。信じられないと思う」
「中野はどうしてやりたいんだ?」
「どうもこうも、僕の平穏な研修医生活が脅かされないように振る舞ってもらいたいね」
「お前はそういう奴だったな」
口ではそう言ったものの、なんとかしてやれないかという気持ちが無いでもない。でも、自分にはどうすることもできないように思えた。
「かわいそうとか、気の毒とか思うけど、どうすることもできないよ」
「まぁそれはそうかもしれないけど。一応任されたんだろ?しっかり診てやりなよ」
「わかってるよ」
しっかりと何をすればいいのか。僕には平穏無事を祈ることしかできない。確実に待っている死のタイミングや状況が穏やかなものであることを祈ることくらいしかできないのではないかと思う。
「とりあえず今夜は当直の平和を祈っててくれよ」
「それは無茶ってもんだ」
話すと少し肩の荷が下りた気がした。森田には感謝せねば。言わないけど。
着替えを済ませロッカーから出る。
「当直頑張って」
「頑張らなくていいように祈っててくれよ」
「なるほど」
それじゃあと手を振って帰路につく。
帰りの短い道のりでぼーっと考えていたが、小沼さん本人はどこまで自分のことをわかっているのだろうか。癌のことは化学療法を行うときに説明があったろうからもちろん知っているようだったが、自分がもう少ししか生きられないことを感じたりはしているのだろうか。僕は今までも病室で亡くなる人を何人かは看取ってきた。全員80歳以上の高齢者であり、周りも本人も死ぬこと自体の受け入れはスムーズであったように思うが、明日明後日に自分が死ぬことになると予期していた人は少なかったように思う。ほとんどの人が少し体調を崩したから入院した、しばらくしたら退院できる、と思っていたように感じる。亡くなる1時間前まで普通に会話できていた人もいるし、やはり自分の死を予期している人は少ないのだろうか。とすれば、小沼さんはどう思っているのだろう。緩和医療ということは、手の施しようがないほど進行した癌であるという説明はどこかで聞いているのだろうか。それにしては彼女の口ぶりは退院を楽しみにしているようでもあった。もしそんな説明を聞いていないなら、どのタイミングで彼女は自身の病がもう治らないことに気づき、死を予感し、死を受け入れなければならないのだろう。安藤先生も言っていたが、これから先は足だけでなく様々な症状が出てくるだろう。症状が増え、強くなるにつれ退院という希望が夢物語であることに気づき、やがて死を予感するようになるのだろうか。そして、それを突き付けるのが、僕たち医療者の役目なのだろうか。ああ、できればその役目は負いたくない。できれば、僕のいないところで事が進んでほしい、そう考えてしまう僕を許してほしい。経験の浅い、自堕落な研修医なのだから。家に着いた僕は、小沼さんについて考えないようにするかの如く動画サイトを巡った。束の間の現実逃避だ、ゆっくり楽しみたい。その日は珍しく缶ビールをあけて飲んだ。こんな味だったか。居酒屋のジョッキが恋しくなった。
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