約束の花火
御堂美咲
研修医中野と外科
梅雨は嫌いだ。雨が嫌いとか晴れが好きとかそういう話ではなくて、雨が多いと単純に洗濯をする日が限られるからだ。実家に住んでいた頃には考えもしなかったが、一人暮らしをするようになってからは洗濯のタイミングに気を使うようになった。そろそろ溜まったかなというタイミングでの雨は嫌になる。洗濯は諦めて、窓の外を恨めしく睨んでから靴下を履いた。
6月半ば、はっきり言って楽しい毎日ではない。右も左もわからなかった初年度を乗り越えて、自在にできるようになったのはせいぜい電子カルテの扱いくらいのものだ。何をするにも上級医、いわゆるオーベンの指示を仰ぐことしかできないダメ研修医である。自らの意見を述べ治療方針を提出できる優秀な同期もいたが、僕はそうではなかった。世の中には医師免許を持っているだけで診断から治療まである程度はできるものと思っている人もいるだろうが、実際はそんなことはない。大学生気分が抜けきらず、責任感もなくなんとか毎日を怒られないようにしのいでいるだけの研修医などごまんと居るだろう。僕がそのうちの1人だっただけの珍しくない話だ。こなれた手付きでキーボードを叩き、中身のないカルテを作り上げていく。オーベンの話にもふんふんと頷きメモを走らせるだけで、なんら頭には残っていない。仕事が終わればすぐに帰ってくだらない動画鑑賞をたしなむ、お世辞にも勤勉とは言えない研修態度である。金のある大学生とはよく言ったものだとつくづく思う。だがやりたいことだらけの大学生とは違って、今の僕はやりたいことすら特に浮かばない、何のために生きてるのかもわからないような生活をしていた。
我々研修医は各科をローテーションし、症例や経験を積むことになっている。内科6ヶ月、救急科3ヶ月といったように、研修する病院にもよるだろうがある程度決められている。小児科や産婦人科など必修のものもあれば、自由に選択できる枠もあった。
内科医に比べると外科医というのはあっけらかんとしているものだな、というのが1年前に外科ローテをしてみての印象であった。研修医のやる気のあるなしを知ってか知らでか、必要以上に飴も鞭も振るうことなく、やるときはやる、やらないときはやらないとオンオフがはっきりしていて、何もないときは休憩も多かった。無論優秀な同期は積極的に手を出して参加していたが、向上心のない僕にとってぼーっと突っ立っているだけでよい手術は嫌いではなかったし、オフの時間は何をしていても良かったので、2年次もローテーションを組むときに選択したのである。
マンパワーの確保という点では優劣にかかわらず研修医は歓迎される。それに加え、自由選択枠に外科を選ぶということは少なからず外科に興味があるのだろうと、外科医としての後輩確保のため勧誘も含め上級医のモチベーションは高い。
「久しぶり!よく来てくれた、また2ヶ月がんばろうな!」
1年次のときと同じオーベンにつくことになり、いい笑顔で迎えてくれた。楽に過ごしたいから選んだとは口が裂けても言えない状況ではあったが、思うだけならタダである。
「はい、よろしくお願いします」
あくまで外科に興味がある風を装うのが世渡り上手というものだろう。2年間の研修を終えて3年目から正式に各科の医師として働き始めることになるのだが、正直なところ進路についてはまだ決めかねていた。志を持って医師になった同期もいれば、勉強ができたのでなんとなく医学部へ来た奴もいる。僕はどうかというと、医師免許を持っていれば食いっぱぐれなく稼げるだろうという、いわば就職活動からの逃げともいえる動機であった。だからどの科がいいとかそういうこだわりはなかったが、明らかにしんどいところはごめんであった。そういう意味では、世間で思われているほど外科というところはしんどくなさそうではあった。もちろん外科の中にもいろいろあるんだろうが、今いるこの病院の腹部外科に関しては、そう思った。
しとしと雨が降る中で水たまりを避けながら歩く。病院のすぐそばの賃貸に住まわされているので、道のりは短い。家賃補助も出るし職場も近いため、研修医はだいたいこの賃貸物件に住んでいた。壁が薄いのは少し気になるが。傘をたたんで細長いビニール袋に入れ、病院入り口の自動ドアをくぐると空調の効いた爽やかな空間が広がっている。エレベーターで4階に上がり、研修医ルームのロッカーでKCに着替えていると、ドタバタと部屋に入ってくる音が聞こえた。
「あ、おはよう中野。」
「おはよう。騒がしい登場だね。」
雨粒を払いながら森田がロッカーを開けた。
「走ってきたんだよ、傘忘れてさ」
開けたロッカーに入ったままの傘を見せながら森田が言った。
「昨日帰りは晴れてたじゃん?」
「忘れたって、昨日持って帰るのを忘れたのか」
「そうそう、小雨だしわざわざ折りたたみ傘出してくるのも面倒で」
「なるほどね、今日は持って帰るの忘れないようにしなよ」
降ってりゃ忘れないよ、と濡れた服を脱いでいく森田は、能天気という言葉がぴったりな奴だ。僕なら面倒でも傘を準備するけどな、そうか、君は走ってくる方を選ぶのか。朝から走るなんて体育会系の考えだよなぁと思いながらKCのボタンを留めた。
「いま外科?」
「そう。森田は?」
「麻酔科。オペ室で会うかもね」
「そうか、そん時はよろしく。」
「中野先生のメスさばきをじーっと見てるよ」
「メスなんか持たせてもらえるかよ」
軽口を叩きながらロッカーをあとにした。じゃあなと手を振りながら森田と別れ、階段を降りて病棟へ向かう。
外科ローテも2回目とはいえまだまだ序盤なので早めにきたつもりであったが、オーベンはもうナースステーションのパソコンの前に座っていた。何時からいるのだろう、いや何時からいたところでそれより早く来ようなんて気概があるわけないのだから考えるのは無駄だな、と気持ちを堕落した方向に切り替える。
「おはようございます」
「あ、おはよう中野くん、早いね」
「安藤先生のほうが早いじゃないですか」
「んーまぁそうか、そうだけどね、たまたま早く目が覚めてさ」
そんなたまたまが2週間も続いてたまるか、と心の中で吐いた。しかし気さくなオーベンでよかった、僕はツイている。医師というのは、というかどこの世界でもそうかもしれないが、いろんな人がいる。研修医を煙たがる気難しい人もいれば、後輩を可愛がるのが大好きな人もいる。安藤先生はどちらかといえば後者で、可愛がってもらっていた。なんといってもオペの時にロクに手を出せずただ立ち尽くしていても何も言われないのがよかった。質問しやすい雰囲気も業務上とてもやりやすい。僕のピッチはフリーダイヤルだから困ったらいつでも電話してね、と常々言ってくれるのは安藤先生くらいだろう。
当院外科は7人体制で2チームに分かれて診療にあたっていた。外科部長の市川先生は統括する立場でどちらのチームにも属さない、いわば監督の立ち位置。その他6名を3人ずつと、その下に研修医が入る形である。僕の所属するチームは便宜上Bチームと名乗っていた。
「そりゃ日向先生が率いるほうがAチームに決まってるでしょ、おっかねえ」
と、聞いてもいないのに安藤先生は笑いながら教えてくれた。どうやらBチームが勝手にBチームと自称しているだけのようだ。日向先生は難しい症例も積極的に攻めたオペをする厳格な先生であった。堕落研修医としてはあまり関わりたくない、小柄だが外科医かくあるべしといったタイプである。違うチームでほっとしたというのが正直なところであり、Aチームに加えられた1年目のヒヨッコ研修医を含め、上級医の山下先生、杉本先生は苦労が絶えないと思われる。一方Bチームは、上から順に堀先生、大竹先生、安藤先生と気さくな3人であり、早く仕事を終わらせてビールを飲むことを至上主義としていた。理由はどうあれ手早く仕事をこなして終われば帰るという理念は共感できるものである。結局のところオペが上手ければ早く終わるので、両チームともスタンスに差はあれどオペの腕は確かなものであった。
担当患者のカルテを一通りチェックしたら、朝の回診が始まる。チームに分かれて担当患者に会って回る。術後の患者には診察・処置を行い、術前患者には体調不良などないか確認する。先陣を切るのは安藤先生で、大竹先生がサポートする。堀先生はほとんど見ているだけというのがBチームのやり方であった。僕は見学するか、安藤先生の手伝いをする程度のことしかしない。それでも怒られないのだから楽であった。かといって積極的に余計な手出しをして怒られるなど、向上心のない研修医としては論外なのである。手出しして怒られることこそが研鑽になるとわかってはいても、実行に移せるのは優秀な研修医といえよう。徹頭徹尾無難にやり過ごすことしか考えない自分が嫌にならないかと問われれば少しの罪悪感はあるが、それよりも面倒くささが勝ってしまうのであった。安藤先生は、ご飯が食べられているか、熱はないか、痛みはどうかなど手早く質問して患者の様態を確認していく。簡単なことのように見えるがいざ自分がするとなると意外とできないもんなのかな、まあいいかまだできなくても、と堕落を極めた考えをしながら回診についていく。
Bチームは回診が終わると手術時間まで各々の仕事をするため三々五々に散っていく。僕はオーベンの安藤先生についていくのを常としていた。回診カートを片付けながら今日の予定を確認する。
「今日は午前がラパ胆、午後がSですね」
「そうだね。中野くんは2年目だし、そろそろカメラ持ちにも慣れてきたかな?」
「全然だめですね。今日も怒られる自信があります」
「またまたご謙遜を」
謙遜したつもりはない、本心である。ラパ胆というのは腹腔鏡下胆嚢摘出術のこと。腹腔鏡のことをラパロというので、略してラパ胆。おなかに小さくあけた穴から中に腹腔鏡というカメラを挿入し、テレビモニタを見ながら手術を行う。ほかの穴からカンシと呼ばれる、マジックハンドのような器具を挿入して、胆嚢を切除するのだ。皮膚を切開するメスや、内臓に直接触れるカンシを操るのは上級医であり、研修医はカメラ操作を行うことになっていた。あまりにも拙い場合はお取り上げを食らうのだが、幸い2年目になってからはまだ取り上げを食らわず完遂させてもらっていた。もっといい角度から、考えながら映して見せて、と怒られながらではあるが。SというのはS状結腸切除のことで、大腸の一部を切り取る手術だ。こちらも同じく腹腔鏡を使った手術であり、カメラを持たされる予定である。
「まぁ今日の執刀は僕だから、気楽にやってよ」
「安藤先生が執刀医ですか」
「何、不安?たまにはやらせてもらえることもあるさ。」
「いえ、そういうわけではないですよ。ただ、先生くらいの若さでもう執刀するなんてすごいなと思って」
「やっぱり僕のことなめてるんじゃない?」
安藤先生は笑って言った。
「もちろん助手が大竹先生でおんぶにだっこさ。そんな僕がやるからこそ、カメラはきちんと映してもらわないといけないよ」
がんばります、と強く頷いて見せたが、お取り上げを食らわないか心配になった。安藤先生は6年目の先生で、僕の4学年上だ。もし外科に進んだとして、あと4年後に執刀しているなんて想像もできない。
「中野くんも、いきなりやれって言われて困らないように勉強はしておいてよ」
「執刀ですか?」
「執刀はないかな。何かはわからないけど、やれって言われるときはいきなりだよ」
「怖いですね。」
安藤先生はカラカラ笑っているが、僕は苦笑いである。
「そういうわけだから、僕はオペまで予習しとくよ。そんなに時間はないけど。中野くんも少し休憩してきな。では解散。」
そう言って安藤先生は医局へ戻っていった。休憩しておいで、というのは文字通りの意味なのか、勉強しておくようにという意味なのか、微妙なところではあったが、さすがにあんな話を聞かされた手前羽を伸ばして休憩という気分でもなかったので、研修医ルームにある手術書を広げることにした。
胆嚢摘出術は、腹部外科の手術において最も初歩的なものといって差し支えないだろう。というのも、手術中に切離する構造物が少なく、シンプルな手術であるからだ。胆嚢管だとか総肝管、総胆管、胆嚢動脈などの解剖学的知識はいかに堕落していようとも理解していた。教科書に載っているようなイラストや模式図も国家試験の時にいやというほど見てきたからだ。じゃあできるかと言われるとそうではない。模式図はあくまで模式図であり、実際のおなかの中はそう簡単には構造物を把握できないのだ。例えば血管。血管には2種類あり、心臓から全身へ血液を送る動脈と、全身からの血液を心臓に送る静脈があるくらいのことは、理科の教科書で見たことがある人がだいたいだろう。そういうイラストはほぼ間違いなく動脈は赤、静脈は青で描かれているものだ。そういうイメージでいざ手術に臨むと、血管の色分けなどされていないことに気づくのだ。いや、正確に言うと、色である程度見分けはつく。しかしそれは見慣れた外科医だからこそ言えるのであって、赤と青のイメージしかない状態での区別は困難を極める。そういう意味でイラストはあてにならない。他にも内臓脂肪により構造物が覆われていたり、結合組織の癒着があったり、そもそも個人差によって構造が違うことさえある。何度も手術を見て、録画された映像を見て、教科書と照らし合わせながら人体の構造を学んでからでないと、手術のスタート地点にすら立てないのだ。
とはいえ、初歩としては手術中に現在何が行われているかをだいたいでも把握することが重要であると思うので、手順を読みながらああしてこうしてこうなって、とイメージトレーニングをする。今日は大竹先生が助手にまわるので、今何をしているかわかるか、これ何切ってるかわかるか、といった質問が飛んでくる可能性がある。わかりません、よりは何か答えたほうがいいと思う程度の意識はあったので、テストのヤマを張るように手術書とにらめっこする。
「絵で見ると簡単なんだけどな…」
思わずぼやくと、横から正論が飛んできた。
「本とビデオを見ないとダメよ」
「いやまあわかってるんだけどさ、面倒くさくて」
「その面倒を努力って言うんじゃないの」
まったくその通りだ。いつも核心を突く鋭い正論で黙らされてしまう。凛としたすまし顔でこともなげにそう言い放った彼女の目線は、「研修医のための当直マニュアル」と書かれた小さな赤い参考書に向いたままだった。
「そうなんだけどさ。一番合戦は何してるの」
「予習。今日、当直だから」
「そっか。頑張ってね」
「お気遣いどうも」
なんて淡々としたやりとりだろうか。彼女のことは苦手ではないが話に花を咲かせる自信はなかった。視線を手術書に戻して予習を続ける。
「さて、オペ行ってくる」
「うん、いってらっしゃい」
一瞥もくれずに当直マニュアルを読み続けている姿を尻目に、僕は研修医ルームを後にした。
更衣室でKCを脱いで手術着に着替えていると、大竹先生が入ってきた。
「先生、よろしくお願いします。」
「ああ、中野くん、カメラよろしく。もう慣れたでしょ。」
「いえ、そんな」
「今日は安藤が執刀だから、きっちり見せてあげてよ」
そう言う顔はにやにやしていた。大竹先生は後輩になにをさせるにおいても面白がっているきらいがある。それは何が起こっても対処できる自信の表れなのだろう。指導者に余裕がないと指導される側まで落ち着いて物事を遂行できなくなることをよく知ってのことだろうか、それとも単純におもしろがっているだけなのだろうか。そんな大竹先生は嫌いではなかった。短い会話を終え、いざオペ室へ。
「お願いしまーす」
挨拶と共にオペ室に入ると、すでに安藤先生がカルテを見ていた。最終チェックだろう、腹部CT画像をコロコロとスクロールさせていた。邪魔しないように患者の到着を待った。しばらくすると看護師に連れられて患者が入ってきた。その後ろには麻酔科医と、森田。患者が手術台に寝かされると、体に様々なモニターや電極が装着され、全身麻酔で眠ってしまった。森田と意味のない目配せをした後いったんオペ室を出て手洗いと消毒を行う。その間も安藤先生は大竹先生となにやら話をしている様子であった。最終打ち合わせなのか、たわいない話なのかはわからなかったが、終始にこやかな雰囲気であった。手洗い消毒が終わると、清潔ガウンを着せてもらい、いよいよオペが始まる。
「田中祥子さん、胆石症に対し腹腔鏡下胆嚢摘出術を行います。手術時間は1時間半、出血少量予定です。お願いします。メスください。」
安藤先生の発声とともにオペがスタートする。介助看護師から安藤先生に手渡されたメスが臍を切開する。ラパ胆では臍に穴をあけそこからカメラを腹腔内に挿入する。傷が目立ちにくいためだ。カメラ挿入用の器具が装着され、僕はおなかにカメラを入れた。腹腔内の様子がモニタ画面に映し出される。このとき堀先生がオペ室に入ってきた、お、やってるやってると言いながらオペ室の端の椅子に腰かけた。
「癒着なし、脂肪もそんなに多くない。やりやすいね」
「そうですね。もう1回メスください」
大竹先生との短いやりとりのあと、カンシ挿入用の穴をあけていく。
「カメラ、見てあげて」
早速指摘を入れられてしまった。腹腔内の天井を見ると、カンシ挿入用器具が腹壁を貫いてくる様子が映し出された。
「カメラいいよーカメラ」
逐一褒めるのが大竹先生のやりかたであった。
それからは非常にスムーズにオペは進んだ。澱みない手つきでオペを進めていく安藤先生は、いつもの朗らかな顔つきではなく真剣そのものだった。助手の大竹先生にここを切れ、そこは違うなどとやいやい言われつつも、僕の目には鮮やかなオペに映った。僕の方はというと
「中野くん、これ何かわかるか」
「総胆管です」
「そうだね、これを傷つけるとえらいことになる。」
ヤマが当たった。
「さては勉強したな」
と術野外の堀先生が言った。普段はぼーっとカメラを持っているだけだが、予習はしてみるもんだと思った。森田と目が合った。マスクをしていて口元は見えなかったが、あの目はにやついているときの目だ、間違いない。
結局大きな問題なく手術は終了した。堀先生は満足そうにオペ室を出ていき、僕たちは一息つきながら患者が麻酔から目覚めるのを待った。
昼食は両チームの空いた時間になるべく一緒に、というのが習慣であった。誰かが外来業務を行っているので7人全員がそろうことはないが、市川部長を除く6人と研修医2人で食堂の机に並ぶ光景は見慣れたものだった。食事中は本当に世間話や雑談をする、外科としてのコミュニケーションの場でもあった。安藤先生がラパ胆を完投したことを肴に今夜は旨いビールが飲めるとワイワイ盛り上がった。
午後のオペは大竹先生が執刀、第一助手が堀先生といういつもの布陣であった。第二助手が安藤先生。僕は第三助手という名ばかりの棒立ち要員である。必要な時以外はカメラを持つこともなかったが、一番合戦なら安藤先生からカメラを奪い取っていたかもしれない。
午後のオペを終え、夕方の回診だ。主に今日手術した二人の様子をうかがう。二人とも痛み以外は問題なさそうであった。
「おなか切ってるから多少は痛いですよ。遠慮なく痛み止め使ってくださいね」
安藤先生が術後の患者に声をかける。酷な話ではあるが、外科医は痛みに対してはあまり優しいとは言えない。バイタルサインが安定していれば問題なし、というわけである。切ったのだから痛いのは当たり前だと言ってしまえばそれまでだが、たまにすごく痛そうにしている患者は気の毒に思えた。幸い今日の二人はそこまで痛みの訴えはなく、痛み止めがよく効いているようだ。
回診が終わると堀先生の解散宣言が出た。堀先生と大竹先生はあとよろしくと言って帰っていった。非常にあっさりした解散である。
「さてこれで今日の業務は終了だね。何か質問ある?」
毎日最後に質問タイムを設けてくれるのも安藤先生の好きなところである。カタカタとカルテを書きながら話す。
「いえ、特には」
現状オペに関してはわからないことだらけで何を質問していいかわからない。
「そっかそっか、まあ何がわからないのかもわからないだろ」
見透かされているようでドキッとしたが、安藤先生もそういう経験があるのだろう。もしかしたら堕落研修医だったのかもしれない。
「まあそんなところです。安藤先生はいつ初執刀だったんですか?」
「3年目の時だよ。堀先生にいきなり『今日はお前やれ』って言われてね」
「3年目ですか、そんなに早く」
「本当にいきなりだったからね。今よりずっとおんぶにだっこだったのに、当然のお取り上げさ。途中までやったから執刀したことにしてくれたけどね」
思わず口をぽかんと開けてしまった。3年目といえば来年の僕だ。来年の今頃に執刀が回ってくるなんて、外科とは何て恐ろしいところなんだろう。
「怖くなかったですか」
「そりゃ怖かったし、わけわかんなかったよ。でも、あれがあって初めて真面目にオペを見るようになった気はするね。自分でやって初めてわからないということがわかる感じ」
そんなもんなのか。
「外科に限ったことじゃなくて、どの科に進んでもそういう瞬間は来ると思うから、覚悟しときなよ」
安藤先生はカラカラと笑った。堕落研修医にとって急なご指名ほど恐ろしいものはない。日頃から勉強しているならいざ知らず、僕は毎日をのらりくらりと切り抜けているだけなのだ。もちろんできないことも込みでのことなんだろうが、それでもかかなくていい冷や汗はかきたくないものだ。それが研修でしょ、と一番合戦の声が聞こえた気がした。
帰り支度をしようと研修医ルームに戻ると、森田がちょうど帰るところだった。
「あ、おつかれ。見事なカメラさばきだったじゃないですか中野先生」
にやにやと話しかけてくる森田。何度も怒られたのを麻酔科という安全圏から見ていたのだからからかいたくなる気持ちもわかるが、自分がされると腹が立つ。
「そりゃどうも。すぐ着替えるからちょい待って」
同じ賃貸に住んでいるのでタイミングが重なったら自然と一緒に帰ることになる。森田とは大学の時からの同期で、仲も良かったので同じ研修病院に決まってほっとしたものだ。軽口を叩きあうのも気の置けない間柄ならではだろう。心強い。着替えてロッカールームを出るとスマホをいじりながら森田が待っていた。
「お待たせ、帰ろう」
帰り道の道のりは短く、会話は途切れなかった。
「外科は、順調にいってれば楽ちんなんだけど、緊急オペで急に呼ばれたりすることがあるとちょっとしんどい。」
森田が言った。確かにそのとおりである。緊急オペとはその名の通り緊急なので、昼夜問わず連絡が入る。
「いつ来るかわからないもんな。」
「夜中に連絡が来て、しかも2件ならんだりすると最悪だよ」
「そんなことある?」
「めったにないけど、去年1回あった」
「それはお気の毒に。」
森田は引きが悪い。当直のたびにややこしい救急搬送があるとよくぼやいている。僕は比較的穏やかな夜を過ごせることが多いので素直にかわいそうだなと思っていたが、外科ローテのときにも引き当てていたとは。
「一番合戦なんかはそれで血沸き肉躍るタイプだろうけど」
僕が言うと森田はうんうんと頷いた。救急科志望の彼女はストイックでエネルギッシュだ。緊急症例を望んでいる節すらある。今夜も救急車を待ち望んでいることだろう。
「でもさ、森田は外科に進むんだろ?」
「まあね。やっぱオペ楽しいし、頭で考えるより手を動かす方が向いてると思って」
「外科医が頭で考えてないわけじゃないと思うけど」
「そこはほら言葉の綾ってやつだよ」
森田は外科に進むことを去年から決めていた。確かに外科よりは内科の方が考えることは多そうだ。頭脳労働より肉体労働の方が向いているから、という考えはいささかおおざっぱ過ぎると思うが、もうその考え方自体が外科っぽいと言えば外科っぽい気もする。個人的なイメージの枠を出ないが、確かに森田は外科向きであるように思えた。
「じゃあね」
家の前で別れる。ふと空を見上げた。
「そういや晴れてるな」
案の定森田は傘を置き忘れてきていた。
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