第90回 笑顔の花は、満開に

90ー1

「ハァ、ハァ……!」

 息が苦しい――たった数百mほどしか走っていないというのに、心臓が張り裂けそうだ。隣を走るアゲハの息も荒れているのを感じ、彼女も必死なのだということを感じ取る……この僅かな時間の間に、あたし達二人は一進一退の攻防を何度も繰り広げていた。


「ハ、ァ……!」

 抜ける—―何度もそう思える瞬間があり、その度にスパートをかけるものの、彼女も決して譲らず抜き去ることは叶わない……流石は昨年のインハイの女王だ。

 今年不出場だった理由は不明だが、もし彼女が出場していればその結果は違うものとなっていたかもしれない。


「くっ……!」

 そうしてスタートから今に至るまで、常に横並び状態が続いている。状況はまったくの互角であり、あたしがアゲハに勝るためには……あと一つ『何か』が足りなかった。




「(ん……?)」

 そんな中――不意に前方からこちらへと向かってくる、一つの人影が目に入る。


「(あれ、は……!)」

 ハッキリ見えずともその選択肢は限られる。こんな雨の中、封鎖された道路側から走って来る人影—―思い当たる可能性は、一つだけだ。


「(『乖』……!)」

 ――口には出さず、その名前を呼ぶ。

 彼は言った……きっと『心臓』を持ち帰ってくると。その『乖』の姿が見えるということは、『心臓』がすぐそこまで来ているということに他ならない。



「……『乖』!」

 その事実を前に、身体から感激の想いが溢れ始め――感情のままに今度はハッキリと彼の名前を口にした、次の瞬間。



「ハナ……来るな!」

「え……?」

 叫びにも近いその呼びかけに対し、思わず声を上げる中—―激しい音と共に土砂崩れが道を塞ぎ始める。

 それと共に視界から『乖』の姿が消えていくのを前に、あたしは――


「『乖』!!」

「ちょっ、ま……!」

 隣から聞こえる制止の声をよそに、一人土砂崩れの方へと駆け出していた。



「……『乖』」

 そうして数秒の後に辿り着いた、『そこ』には。


「待たせたな……ハナ」

 ボロボロになりながらあたしへ笑いかける――『乖』の姿があった。








「ば……あんた……!」

「話は後だ! 『これ』を頼む!」

 僕の眼前で呆けたように立ち尽くすハナに対し、そんな暇はないとばかりに手を伸ばす。


「これ、は……?」

「これに……『心臓』が入っている」

 心配してくれるのはありがたいが、生憎今は僕のことなどどうでもいい。少なくともこうして生きているのだから、優先すべきことは他にある。


「あ……」

「すまない。病院まで持ち帰るつもりだったんだが……後は、頼む」

 倒れ込んで転げた際に足でも挫いたのか、満足に立ち上がれそうにもない……なら僕が走るのはここまでだ。他に誰もいなければ足が折れようとも走ってやるが、この現状でそんな意地を張る意味はない。

 そう判断し、恐る恐る手を差し出すハナへと『心臓』が入った箱を託す。



「……」

「ハナ?」

 だがいざ箱を受け取ったハナは、何やら戸惑った様子だ……どうしたというのだろうか?


「……走るんだ、ハナ」

 何かを迷っているのだということだけはわかるが、それ以上のことは僕にはわからない。

 だからただ……自分が今彼女に願うことだけを、率直に告げる。


「え?」

「叔父さんとおばさんが『それ』を待っている。皆で繋いだ――『バトン』を」

 無論その理由は、皆で走ってきたこの『リレー』を、最後まで走り切って欲しいという思いに依るところが大きい。


「お前が……『最終走者アンカー』だ」

「!」

 だがそれは、決して紅葉さんを救うためだけではなく……僕自身の『願い』でもあった。


「走れ――ハナ!!」

「……うん!!」

 僕の声に応えるようにハナが振り返り、一目散に走り出す。

 そう……脇目も振らずに全力で走る『その姿』こそが、彼女には似合っている。



「そうだ……それで、いいんだ」

 そうして走っている時のハナが――僕は一番好きなのだから。







「……ねえ、ちょっと」

「え……?」

 その場に倒れ込んだまま走り去るハナを見届けようという頃—―ふと横から声を掛けられ、そちらを見上げる。


「浸ってるとこ悪いけど……大丈夫?」

「お前……どうしてここに?」

 声の主の姿を見て、思わず驚きの声を上げる――なんとそこには、昼間ハナに暴言を吐いていた、『葉喰蝶あの女』が立っていた。


「まあ、話すと長いんだけど……『色々』とあったのよ」

「……そうか」

 非常に複雑そうなその表情を前に、空気を読んでそれ以上の追求は止める……僕に詳細を知る由はないが、もはや昼の時のような刺々しい様子は感じられない。ハナと一緒に走ってきたということは、まあ言葉通りに『色々』とあったのだろう。


「立てる? ……辛いなら肩貸すけど」

「……すまんが、頼む」

 一方の僕もいつまでも倒れているわけにはいかない……仕方がないのでお言葉に甘え、体を支えられながら病院へと歩き出すのだった。





 





「ハァ、ハァ……」

 『乖』から受け取った『心臓』の入ったクーラーボックスを抱えたまま、病院までの道を全力で走り抜ける。


「ハ、ア……」

 往路で隣を走っていたアゲハはもういない……多分動けない『乖』の救助をしてくれているのだろう。結果として勝負を投げ出すことになってしまい申し訳なく思うが、今最も優先すべきはあくまで『これ』を母の元に届けることだ。



 走れ――。 

 告げられたその言葉が、脳裏に木霊する。


「うん――ただそれだけで、よかったんだ」

 そうだ……余計なことを考える必要はない。この箱を受け取った瞬間は、皆が繋いできたその『重さ』を前にやや怖じ気付いていた。

 だがこの『リレー』の『最終走者アンカー』として、残る道程を走り切るために必要なこと……その答えは、先ほどの『乖』の言葉にあった。



「だよね……『乖』!」

 その名を口にし、思い起こされるのは――遠い昔、『約束』を交わした時のことだった。








「ダイジなモノだから……ゼッタイかえしてね」

「—―うん」

 幼い『カイちゃん』が呼びかける声に、そう言って頷く。


「ゼッタイかえしてくれなきゃ……ダメなんだからな!」

「う、ん……」

 弱々しいあたしの声に不安を感じてか、カイちゃんの語気が強まっていく――それはきっと、その成就を強く願う故のものだろう。


「ゼッタイだぞ! ボクとハナちゃんは……ゼッタイに、サイカイにする! 『ヤクソク』だからな!」

「ヤク、ソク……」

 尚もカイちゃんは語気を強めていき……そんな中出てきた言葉に対して、あたしが反応を示す。


「そう! 『ヤクソク』!」

 実際のところ、手術を前にした当時のあたしは非常に弱気になっており、生き残ることを半ば諦めかけている状態だった。


「する……『ヤクソク』!」

 だがそうしてカイちゃんと話していく中で、ある『願い』を抱いた。


「うん……ゼッタイに『サイカイ』するって!」

 『生きたい』――必ずカイちゃんと再会を果たしたい、と。

 気が付けばあたしは……強くそう願うようになっていた。


「ああ……『ヤクソク』だからな!」

「うん!」

 『生きようとする意志』……それは時に、他の何にも勝る強さを見せることがある。突き詰めればそれは精神論でしかないし、それだけで病気が治るなどという都合のいいものでもない。

 だが――それが患者の身体に影響を与えることがあるのもまた、紛れもない事実だった。

 あたしが生き残れた理由には……この時交わした『約束』があったからだと、今でも誇張なしに思っている。



「そうだ、もう一つ『ヤクソク』!」

「え?」

 そして、この時交わした『約束』は……もう一つあった。


「サイカイしたら……いっぱいはしろう!」

「はし、る?」

 身体の弱い当時のあたしにとって――何の憂いもなく走ることなんて、まさしく『夢』でしかなかった。


「うん。シュジュツがセイコウすれば、もうくるしいの、なくなるんでしょ?」

「そっか……はしれるん、だ」

 故に、走っている自分など想像することすらできなかった。

 カイちゃんがくれたその言葉は、一つ前の切実な願いに比べれば、何気なく発したものだったのかもしれない。


「そうだよ! いままでうごけなかったぶんだけ……いっぱいはしろう!!」

 けれどあたしは――その言葉に『夢』を見た。


「うん……うん!!」

 生きて、走る。


「あたし……はしりたい!」

 たったそれだけの『願い』が――あたしを救ってくれたのだ。




「そうだよ……」

 遠い記憶が、大切なことを思い出させてくれた。

 先程アゲハと走る中で、彼女を抜くために足りなかった『何か』……それが何なのか、やっとわかった。


「ただ、走ること――それ以外のことなんて、考える必要ないんだ」

 両親のこと、アゲハのこと、『約束』のこと……全て重要なことであり、それらを想うこともまた、とても大切なことだ。

 だがあたしが『走っている』この瞬間においては……そういった思考は『ノイズ』にしか成り得ない。


「待っててね……パパ、ママ」

 母を救うためには、一刻も早く病院まで走り切る必要がある。


「ごめんね、アゲハ……」

 なればこそ……走るために不要な要素は、その間でも消し去る必要がある。


「ありがとう、『乖』……大好き!」

 大切な人達への想いを一通り口にした後—―それらを一時的に思考から消し去る。



「さあ……行くよ、!!」

 その言葉を最後に、自らの体を動かすことだけに全神経を集中する。



 そうして走り出したあたしは――全力疾走を保ったまま、『病院ゴール』へと辿り着いたのだった。

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