忘れ花と辿る郷愁

楸白水

忘れ花と辿る郷愁


 人はいつから大人になって、いつまで子供でいられるのだろう。ふとした瞬間に過去の何でもない出来事を思い出す度に、私はそんなことを考えてしまうのだ。


 もうすでに日は落ちて空は真っ暗だった。それなのに気温は一向に下がることはなく、昼と同じような暑さと湿気でシャツが肌に貼り付いている。真夏の熱帯夜はどうにも苦手だ。ため息も虫の鳴き声でかき消されていく。

 社会人になって数年が経ってしまった。あまり感じたくはないけれど、時の流れの早さを確かに感じてしまう。嫌だなあ。ヒールの音を規則的に鳴らしながら帰路につく。駅まではまだ距離がある。

 そんなことを考えているとだんだん視線と頭が下がってくるもので、いけないと思い直して顔を上げた。このままでは電柱にぶつかりかねない。


「あっ」


 この場所には初めてきたはずだった。もちろん土地勘もあるはずがない。しかし顔を上げた先に見えた看板に懐かしい土地の文字が見えて少し嬉しくなった。


「へえ、ここも武蔵野なんだ」


 思わず独り言を呟いてまじまじと武蔵野の名前がついた公園を見つめる。明日も仕事はあるけれど、好奇心に負けて公園の入り口へと足を踏み入れた。

 私の実家は埼玉の方にあるけれど、そこも武蔵野と呼ばれていた。武蔵野台地は意外と範囲が広いらしい。家の近くにもこんな自然公園があって、小さいときには足繁く通ったものだ。

 とりあえず目的もなくぶらぶらと散策する。こんな時間だからかあまり人の姿はない。微かな風でも木の葉がさざめく音がするのは、ここに多くの木が植えられている証だ。どこもかしこも木の上も下も葉が生い茂っている真緑の世界だった。あらあら元気なことで、とよく分らない事を呟いて足を止めた。暑さで頭がやられてしまったようだ。

 早く帰ろう。そう思い踵を返した時、視界の端に何かが見えた。道を外れた雑木林の中に小さく黄色い何かが落ちている。いや咲いている? 街頭に微かに照らされているだけなので目をこらしてもよく分らなかった。とりあえず近くに寄ってみることにした。


 そういえば、昔もこんなことがあったっけ。学校の宿題で「私たちが住む武蔵野について調べて発表し合いましょう」とかなんとかで武蔵野台地にまつわる何かを自分で調べて紹介する、というものがあった。クラスメイトは土地の成り立ちやら歴史やら作家の作品やらすぐにとりかかっていて、なんとなく友達と被りたくない私は頭を悩ませた記憶がある。

 悩んだ末に母に相談したのだ。あれは多分買い物に行く道すがらだったと思う。母は歩きながらふんふんと頷いて聞いていたのだけれど、話の途中で急に声を出して公園の中に入ってしまった。母の謎行動に困惑しながら後をついて行くと答えをすぐに見つけた。


「見てみて! 一輪だけ、綺麗な花ねえ」


 はしゃぐ母が指を差した先に、黄色い花が咲いていた。公園の隅っこの生い茂る草木の中で一輪だけ、真っ直ぐ伸びた細い茎と大きくラッパの形をした花は存在感があった。しかし公園で遊ぶ他の子供たちや道行く人は気にも留めない。


「ほらほら、アレかもしれないわよ! ほら、そういう品種無かった?」

「アレとかそれとかじゃ分かんないよ」


 良いものを見た、とはしゃぐ母と共に後に調べたら……なんていう名前だっけな。武蔵野の花かもしれないって話になって、私も良いネタが出来たなんてほくほくした気がするけれど。

 結局それからもっと詳しく調べてみるとその品種の咲く時期ではなく、またその花は自生地も限られている絶滅危惧種だった。おそらく違うユリの花だったのだろうけど、「ああいう季節外れの花はね、忘れ花って言うのよ」なんて誇らしげにいうものだから当の本人には最後まで教えなかったのだ。まるで隠された宝物を見つけたかのような母のキラキラした視線がやけに子供っぽくて呆れたのを覚えている。


 今なら言える。いくつになっても小さな事で子供のようにはしゃげる母は羨ましいと。きっとそういう心持ちでいられることはとても良いことで、人生を楽しむ上では大切なことなのだと思う。「大人はこうでなければならない」という指標なんて本当はないはずなのだから。


「そうだ。ムサシノキスゲだ」


 私は足下にある黄色に目を落とした。残念ながら黄色の花が描かれたハンカチだった。誰かの落とし物だろう、そっと拾い上げて近くの街頭のそばに置いた。こっちの方が誰かの目に留まるだろう。


 急になんだかおかしくなって一人で勝手に吹き出して笑う。今の私は、かつての母のようにわくわくした顔をしていたのだろうか。ここに顔を映せるものがないのが救いだった。

 時期になったら本物のムサシノキスゲを見に行こう。出来たら母も誘ってあげよう。そんなことを考えながら、来たときよりも軽い足取りで再び帰路についたのだった。

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忘れ花と辿る郷愁 楸白水 @hisagi-hakusui

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