6.逃走

「なら、俺を助けろ」






 少女の瞳が少し大きくなりました。口元が何か言いたげに震えたように見えますが、言葉は発せられません。男の人から見える白い背中は、動きませんでした。

「まだ俺は生き足りない。奪い足りない。殺し足りない。全部足りねぇんだ。だから助けろ」

 男の人は牢の壁に背を預けたまま、少女を見つめます。少女は牢の柵に背を預けたまま、目の前の少女の『部屋』を見つめます。

 ぴちゃんと、床に雫が垂れました。

「そうしたら……」

 男の人が言いかけた瞬間、少女は立ち上がりました。粗末なワンピースの裾が、優雅に揺れます。

「わかったわ。少し待っていて」

 少女は男の人を振り返ることなく、小走りで去っていきました。

 それから待つこと数分、少女は帰ってきました。手には牢屋の鍵が握られています。男の人は見なおしたように片方の眉を上げました。

「報酬のことで、両親が喧嘩しているの」

 暗闇の中で見えていないはずなのに、少女は言います。その間も、手はいくつもある鍵を一つ一つ試します。

「払いすぎだったんじゃないか。穏便に済ませるにはこれでよかった。そうやって平行線。だから気づかれずに鍵のところに行けたの」

「ならもうあいつらはいねぇな」

 かちり、と音がしました。

「ええ。さすがにここに住んでいるとは思えないわ」

 少女が牢の扉を開けます。男の人は立ち上がり、そこをくぐりました。通路に出て、大きく伸びをします。少女が男の人のパーカーの裾を引きました。男の人は頷きます。

 少女が地下から一階へ向かい、男の人もついていきます。最後に男の人は少女の『部屋』を見ました。今もまだ手錠と足枷が転がっている『部屋』を。

 その瞳には、何の色も浮かびません。

 少女と男の人は、一つしかない階段を上がります。最初は汚い石の壁が、蝋燭の灯りで浮かび上がっているだけでした。上に向かうにつれ、少しずつ湿度も下がっていきます。階段の終着点にある重い扉を押せば、豪奢なカーペットと、煌びやかな装飾の照明が出迎えました。照明は点灯していないため、あたりは薄暗いです。

「こっち」

 少女が囁いて、向かって右に曲がります。長細い廊下が続いています。そこを二人は足音を忍ばせながら、早歩きで進んでいきました。

特に部屋のない廊下でしたが、最後の方に一枚、簡素なドアがありました。外側から鍵がかけられるようになっています。きっと少女の普段の部屋でしょう。

 そしてその部屋のすぐ先に出口がありました。少女を家から出入りさせるときの裏口かもしれません。少女は二個ついている鍵を手慣れた仕草で開けました。そのままの勢いでドアを開けようとする少女を制し、男の人は前に出ました。取っ手を持ち、慎重に隙間を開けます。外に人の気配はありません。

 男の人は最低限の隙間から体を滑らせるようにして外に出ました。少女もあとに続きます。そこには綺麗に整えられた芝生がありました。そして、高い塀がありました。ひとまず男の人は塀まで近づきます。男の人の二倍くらいの高さでした。周りに少女が足掛けにできるような木はありません。

「いつもどこから出てた」

「正門から」

 男の人は小さく舌打ちしました。

「先に行って」

 少女は男の人の思考を先取りするように言いました。いいえ、もう男の人の頭には、足手まといを置いていく、という考えはなかったのかもしれません。いずれにせよ男の人は、少女の言葉を聞いて動きを止めました。

「わたしはいつも追いついているでしょう?」

 男の人は少女の瞳を見つめました。街頭の灯りが、こけた頬を白く浮かび上がらせています。その中で瞳だけは、綺麗な色をしていました。生きる者の色でした。

 男の人が口を開こうとしたとき、

「やはりここか!」

 男の人のものではない男声がその場に響きました。

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