2.変化

 路地に野菜をかじる音だけが響きます。少女が身じろぐ音も、息をする音も、何も聞こえません。ただただ咀嚼音が聞こえるだけです。

「わたしにこれは使えないわ。意味がないもの」

 しばらくして少女が言いました。真っ白で、骨が浮かび出た手を使い、足元の小銭を拾います。一枚の銅貨は、暗い路地では何の光も反射しません。

「わたしのような汚い、やせっぽちの子供が、お金なんて持っているわけないわ」

 男の人の無言を、疑問と捉えたのか、少女は説明を加えていきます。男の人の眉間に若干のしわが寄りました。持っていたビーツに爪が刺さり、一部が抉れました。

 久々に聞いた少女の声。見た目は随分痩せていても、声は前と変わりませんでした。『淋しい人』と話しかけてきたあの頃と、何も変わりません。変わっていてはくれなかったのです。

「前のわたしなら、クローンが小遣いをもらった……で済んだでしょうけれど、もう、だめ。今のわたしだと、だめよ」

 少女は淡々と理由を説明します。けれど、だからその手の中の野菜を分けてくれとは言いません。男の人にはわかりきっている理由を、とても丁寧に説明しただけです。

 男の人にはやはりわかりませんでした。

 お腹が空けば、どんなことをしても食べ物を手に入れる。自分を陥れようとする人間がいれば、殺す。邪魔な人間も、殺す。そうやって生きる。男の人の世界は、そんな単純な原理で動いていたのです。

 そしてそんな原理で動けば、人々の不幸がついてきます。それが男の人にとって幸福で、なおのことこの生活はやめられません。

 しかし、少女はそうではないのです。男の人はまともではないので、その基準に当てはめるのは良くないですが、こと生存本能においては誰しも持っているのではないのでしょうか。

「なら」

 男の人がビーツを嚥下しつつ、言いました。

「殺してやろうか」

 空っぽの口内から放たれた言葉は、かすれていました。

「本当に?」

 少女が言います。きっとその声はいつも通り、平坦で感情のないものだったのでしょう。しかし男の人にはなんとなく喜色がにじんだように聞こえました。

 男の人の足に力が入ります。その拍子に足元の銅貨を踏み、地面と銅貨が擦れる耳障りな音が響きました。

「殺してくれるなら、ありがたいわ。生きている意味なんて、ないもの」

 少女が男の人の目の前に立ちます。少女は足元のお金にも、男の人のポケットの野菜にも、視線を向けません。パーカーの奥の、仄暗い瞳だけ見ています。

 男の人は、なぜか腹の奥が熱くなるような気がしました。その勢いのまま、少女を殺してしまうこともできたかもしれません。

「やらねぇ」

 でも、男の人は、身につけた武器にすら触れませんでした。きっとそれは苛立ちを抑えられるようになった、なんて成長故のことではありません。もっと温かく、人間臭い原理故でしょう。

「どうして? わたしは邪魔じゃないの?」

「殺されたくないやつを殺すのが、面白いからな」

 男の人は下卑た表情で微笑み、ちろりと舌を見せました。座る男の人と立つ少女の顔の高さはちょうど同じです。少女からは男の人の表情がよく見えます。

 少女は少しだけ顔を伏せました。

「そんなに死にてぇなら、そこら辺の奴隷証人にでもついていけ。痩せこけたちびだからすぐ死ねるさ」

「そうじゃないの」

 少女のか細い声が路地裏に落ちます。

「あ?」

 男の人にはその声が聞こえませんでした。恐ろしい声音で問い返しても、少女はやはり表情を変えません。

「……厄介払いする方法、知っているのに、無理やり連れて行かないのね」

 少女の言葉に、男の人は片頬をひきつらせました。言外の含みに気づけないほど、男の人は馬鹿ではありません。

「だから、死にてぇやつを殺したって、つまんないんだよ」

 男の人は吐き捨てるように言うと、立ち上がりました。相変わらず少女の歩幅など完全に無視した速度で路地裏を抜けていきます。

 少女はやはり、男の人のあとを、黙ってついていくのでした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る