6じゃがいも

「出来たか?」それはライオン料理長の野太い声だった。

「どうなんだ?」容赦なくライオン料理長は箱の中を覗き込もうとする。

「で、出来ました!」実際はまだだった。箱の中にはまだ三つが手付かずだった。

セレンは残りの三つをライオン料理長が覗き込む前に見えないように箱を傾け、渡す時にすかさずエプロンの中に隠した。

厨房内のみんなの目がいっせいにセレンに向けられた。とても信じられないといった面持ちだった。

「うそをつけ。そんな早くできるわけがない」ブルドック先輩が疑いの目でセレンの傍まで駆け寄って来た。

「本当ですよ。見てください。何も残ってないです」

ブルドック先輩は信じられないと言う顔をして箱を見ると、向き直ってセレンをもう一度上から下へとねめつけた。異変に気づくのはそう長くかからなかった。エプロンの右腿の辺りが三こぶほど盛り上がっていた。

「ふふ、これはなんだ?」ブルドック先輩はセレンのエプロンのポケットの三つのこぶの正体を突き止めようとポケットに手を突っ込んだ。おしまいだ…。セレンの顔から血の気が引いて行った。セレンはエプロンからその三つのジャガイモが出ないように必死に抵抗したが所詮無駄な抵抗だった。エプロンごと引きちぎるように、ブルドッグのゴツゴツモコモコした前足がむんずとその三つの物体を捉えるや、そのサルの食事の引換券となる三つの歪な球体を厨房のスタッフの面前に晒した。

「ほら見たことか!」

セレンは目をつむって叫んだ。

「ええい、もうなんでも好きに料理してくれ!」

おおー。おおー。おおお。

歓声が聞こえた。思う存分喜ぶがいい。

「………」「………」「………」

しかしその後はなぜか沈黙だった…。セレンは、そんなに沈黙するほど嬉しいかと訝った。もうどうにでもなれと覚悟を決めた後だった。

沈黙の中、やっとの事で誰かが口を開いた。

「そんなばかな」「ど、どういうことだ?」

ややあって、料理長らしき野太い声の声がした。

「…デザートの時間には早いぞ?」

「絶対インチキですよ」

「ジャガイモは大地を失ったか? 出来すぎた冗談だ」

?????

セレンは一連の会話が何を言っているのかわからなくて目を開いた。

そこにあったのは三個の真っ赤なリンゴだった。

あっ! セレンは声にならない嘆声をあげていた。セレンは信じられなくて思わず視線だけで辺りを見回した。セレンの目の端に、ジャガイモがそろりそろりと作業台の床下を転がり込んで消えて行く最後の瞬間が捕らえられた。誰かがすり替えてくれたのか。悔しがるブルドック先輩をよそに、セレンは早く早く奥の方まで行って完全に見えなくなれとジャガイモに念を送った。

「待て」今度は甲高くも野太い声が割って入って来た。ジャガー副料理長がジャガイモを数えていたのだ。

「ジャガイモが三つ、足りないぞ」セレンは胃が口から出てくるような心地がした。

「そんなはずは…」セレンはジャガーがどうして数を知ってるのだろうと不思議だった。もしかして鎌をかけているのかもしれない。下手なことを言っては怪しまれる。油断はできなかった。

「大体が三つ足りないって、元々の数を知っているんですか? 副料理長」

「知らない」セレンはホッとしかけたが、ジャガーは余裕の笑みを浮かべていた。

「しかし…」そう言ってジャガー副料理長は目線を斜め下の方に向けた。言葉を継いだのは野太い声のライオン料理長だった。

「で、あれは何だ?」ライオン料理長は先ほどじゃがいもが転がり込んで行った作業台の下をその鋭い爪のある迫力のある前肢、いや巨大な手で指差した。セレンは緊張と絶望で顔がこわばった。もう本当に終わりだ。

一同は一斉に身をかがめて作業台の下を覗いた。そこには確かに3個のジャガイモほどのいびつに丸いシルエットが鎮座ましましているように見えた。

「てめえ、やっぱりごまかしやがったな」ブルドック先輩は即座にライオン料理長の意を汲んでかがみ込み作業台の下に手を伸ばして、あるはずのジャガイモを探した。セレンはその間何も出来ずに立ち尽くすしか無かった。茫然自失のセレンの耳にチュウチュウという音が聞こえてくる。

「ん? ねずみでもいるのか? ふん、ネズ公になんか渡してたまるものか」

作業台の下ではネズミ達がそのジャガイモを目のあたりにしてチュウチュウしきりに喚き立てているようだった。

「よし、あったぞ。お前わかっておろうな、ごまかすということがどういうことか…」

セレンの顔から血の気が完全に引いた。本当に本当、自分が食材になるんだ。

キッチンはいやが応にも盛り上がって来た。若い猿が新鮮な食材に変わろうとしているのだ。ブルドック先輩はジャガイモ三個を一気に一掴みで持つと、それをスタッフの前に見せた。

「どうだ!」そこには確かに、皮付きのジャガイモが三個あった。

「これで言い逃れは出来ないだろう」キッチンは今晩の賄いのスペシャリテが確定したことに、もはや興奮で収拾がつかないようだった。セレンはすべてを覚悟した、まさにその矢先だった。

「剝けてるよ」

「剝けてる?」セレンは思わずその声のする方向を見た。しかしそこには誰もいない。

「剝けてるだと? ふざけるな」ブルドック先輩はせせら笑うようにジャガイモを確かめたが、セレンもそんな訳がないことは、自分自身が一番よくわかっていた。

「確かに剝けている…」今度も空耳かと思ったが、しかしそれを言ったのはブルドック先輩だった。ブルドック先輩の手のひらで、三つのジャガイモははらりと音を立てるように、ドレスを肌けるように皮を脱いだ。それには寧ろセレンが一番驚いたがそれを悟られまいと、口を突き出してさも得意げの表情を作った。

「くうう、副料理長…、そんなバカなはずは…、絶対イカサマですよ?」

副料理長は言われて二匹のところまで見に来た。副料理長は、少し複雑な表情をしたが仕方ないといった様子で言った。

「少しは出来るようだな。まあ今日のところは生き延びた。しかしさる。うちの一番の裏スペシャルはサルの脳みそのラグーだと言うことを忘れるな」そう言ってジャガーの副料理長はセレンをぎろりと睨み、天井を焼かんばかりに盛んに燃え盛る大きな炎にずっしりとくべられた大きな大きな大寸胴を指差した。その地獄の釜のような大寸胴の中には、大きな牛の頭骨がぐらぐらぐらぐらと煮え立っていた。まるでそこがお前の最終的な行き場所だと言わんばかりだった。

それにしても不思議なのはあのジャガイモだった。それにリンゴ。誰がやってくれたのだろうか? ハナコ? そんなに俊敏に動けるとも思えない。

「ん?」微かに下から鳴き声が聞こえた気がして、セレンはジャガイモが消えていった先ほどの作業台の方を改めて見た。その下からは、一匹の小さなネズミがひょっこり顔を出していた。目があうと、一瞬セレンにウインクをしたような気がした。

「おい、さる。いいから早くもって来い」

「はい」今度は料理長だった。次から次へと忙しい。セレンはライオンの爪を大事に

ポケットにしまうと、すぐにジャガイモの箱を料理長のところまでハナコに手伝ってもらって運んだ。

とりあえずなんとか命拾いはしたらしい。一安心すると、ふとセレンに疑問がわいた。そもそもどうして今日はこんなにもジャガイモを使うのだろう? 取り立てて大きなメニュー変更の予定はないはずだった。ジャガイモの使う料理は限られている。これほどの量を使うことは今までなかった。きっと何かの仕込みに違いないが何を仕込むんだろう? 特別の予約があるのだろうか? セレンはだんだんとそのことが気になって仕事に手が就かなくなって来た。それはそれで身の危険なのでセレンは意を決して料理長に聞いてみることにした。

「す、すいません。料理長…」言ったそばからセレンは後悔をした。ライオン料理長は返事をする代わりに、ものすごい迫力で、セレンを見据えた。それだけで、セレンを固まらせるに十分だった。

「す、すみませんでした」慌てて発言を撤回しようとしたが意外にもライオン料理長から普通の返事が返ってきた。

「何だ? 言ってみろ」

厨房では各々が自分のポジションで自分の仕事をこなしていたが、みんなの耳がぴくぴくとセレンとライオン料理長の方に向けられていた。セレンは思い切って聞いた。

「あ、あの。このジャガイモ、いったい何に使うのですか?」

「どうしてだ?」ライオンは少しでもセレンの言動に落ち度があればいつでも料理してやろう、そんな意図があったかないのか、穴があくほどセレンの顔を睨みつけた。

「いえ、いつもこんな量使ったことないと思いまして。初めて見たものですから、何かなと思いまして…」セレンは聞かなければよかったと思った。余分なことは言わずに言われたことだけやっていればいいのだ。案の定、他の動物は興奮し始めていたようだった。これでライオン料理長の逆鱗に触れれば、いよいよ今度こそサル料理のおこぼれに預かれるのだ。

「お前には関係ないだろ」ライオンはにべもなく言ったが、その眼はセレンを刺すようだった。セレンはおしっこを漏らしそうになった。

「すいません。忘れてください」しかし言うが早いか、ライオン料理長は返事をした。

「大会があるんだ」一転楽しそうな口調だった。

「た、大会ですか!?」何だか知らないが、ここはひとまず助かったっぽい。

「そうだ。大会だ、一年に一回、ギンザの料理自慢が集まる大会だ。そこで天下一の料理人が決まる」

「えっ、ギンザ一料理大会に、出るんですか?」セレンの目は一瞬にしてぱっと輝いた。

「それって、去年の優勝者は誰だったのですか?」

「わからん」

「わからないですって?」ライオン料理長の風貌にはそれ以上聞いてはいけない雰囲気が現れていた。

「あ、ありがとうございました」興味は尽きなかったが、どこで逆鱗に触れるかわからないし、これ以上刺激するわけには行かなかった。

しかし分からないと言うのはどういうわけだろう? セレンは以前にもどこかで、その大会の噂を耳にしたことがあった。だがそれはあくまで噂であり、確かに一度も実際にその大会を目にしたという者を知らなかったし、半ば都市伝説の扱いでそんな話をしようものなら笑われるのが関の山だった。


その日はその後、何回か危ない場面もあったが、いつもに比べれば比較的安穏とした一日だった。帰り道、街は穏やかで一番心休まるひと時だった。勿論体の疲れはピークに達し、今にも倒れんばかりだった。それでもセレンは料理長の言葉が気になって思い出していた。ギンザ一料理大会。あれは単に料理長が俺のことをからかって言ったのだろうか。それでもひっかかることはあった。あのジャガイモだ。野菜は大抵ブルドック先輩の扱う分野だった。もっとも以前は馬やロバがやっていたらしいのだがよく盗み食いをするため、ブルドック先輩の管轄に回されたらしかった。そのときは罰としてディナーのメインが馬肉やロバの肉に書き換えられた。

ともかく今日のブルドック先輩は、一度もジャガイモに触れていなかった。ジャガイモを扱っていたのは専ら料理長だったのだ。しかも、良く考えたら今日の料理長は何も実際のオーダーに関わってはいなかった。オーダーのオペレーションはジャガー副料理長が指揮をしていた。だったら本当に料理長は、あのギンザ一料理大会の準備をしていたのだろうか? それにしたって優勝者が分からない、あるいは存在しない大会なんて在るのだろうか? セレンはしかし既に自分がその大会の参加者になることを夢見ていた。いつかそんなときが来れば…。

 いつの間にか、セレンは夢遊病者のように歩きながら夢の中にまどろんでいた。しかし歩みは確かに自分の長家にセレンを連れて行った。途中、田園風景の中に豚小屋やら牛小屋やら、このギンザの食を支える家畜地帯を通るのだが、今晩は心なしか、彼ら家畜もそんなはずはないのだがセレンに話しかけてくるかのようだった。家畜や野生動物は話せなかった。でもそう言えば子供の頃、といっても今とあまり変わりはないがその頃はこうしてお話をしていた気がする。セレンはまるでお酒でも飲んでいるかのようにいい気分だった。

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