レストランの勝手口には分厚い鋼鉄製の重い扉が前を阻んでいた。セレンは自分の目蓋より桁違いに重いこの扉を渾身の力で開けなければ中に入れなかった。ある意味それで毎日眠気を吹っ飛ばしていたのだ。その勝手口をくぐると、警備の犬たちによる検問があり、そしてその次に厨房があった。

ぎいい〜ぎいい

やっとの事で扉を開けると、セレンは思わず悲鳴をあげそうになった。セレンの目は完全に覚めた。

頭のない猿の死体があったのだ。セレンは何も声をあげられなかった。逃げ出したい気持ちを思い止まらせたのはそれが昨日まで一緒に働いていた仲間だったからだ。この猿のためにもここで逃げ出す訳にはいかない。セレンは目を閉じ静かに手を合わせた。それでも悲惨に思っている余裕はなかった。それがいつ自分の身に降りかかるとも限らなかった。犬たちは猿の死体には無関心でお決まりの厨房に入る前の身体検査を始めた。とは言っても実質これは猿のみに適用されているようで、それもなんらかの武器を所持していないか検査するだけだった。セレンはいつも父の形見である小さなおもちゃのナイフを没収されないか気が気でなかったが、犬たちに簡単に調べられたあと明らかにバカにした笑いで放り投げ返されるのがいつものお決まりになっていた。

検問も終わるとさあ次は厨房だった。セレンは今日も覚悟して中に入っていった。

「おはようござい」バシィン! 

セレンの挨拶が終わるが早いか、セレンの右ほほに重たい衝撃が走り体は宙を舞い吹っ飛ばされた。セレンは何者かに思いっきり殴られたようだった。

「い…いだい…」セレンは涙目になりながら衝撃のやってきた方を恐る恐る見た。そこにはあらゆる造山活動でもここまで集中して曲がりくねった山脈を作ることは不可能かと思われるほどのシワを顔の中央に寄せ、不機嫌の極みを体現したブルドッグが恐ろしく発達した上腕の先にくっついた拳を前に掲げ、塩缶を持って立ちはだかっていた。丁度何かの塩振りをしているところらしかった。そのブルドッグはセレンの優に二倍以上はあろうかという体の大きさを誇っていた。

「馬鹿野郎早くしめろ。塩が流れちまっただろうが」

「す、すみません」空調の関係でドアを開けると風が起こるのだ。

「それに遅刻だ」

「でも、時間には間に合ってます」セレンはちらと時計を確認をして主張した。

「お前は奴隷なんだ。俺たちより遅い時点で遅刻だ」

ブルドッグの言葉にこれ以上口答えをするのがよろしくないのは十分すぎるほどわかっていたセレンは、深く頭を下げ反省の意を示した。実際ブルドッグの機嫌はいつも以上に悪く、以降、涙目になりながらブルドック先輩の矢継ぎ早の指令についていかなければならなかった。厨房全体に言えることだったがどうやらブルドッグの機嫌の悪い理由は厨房の外の猿の死体にあった。料理長の決断で猿の頭はすぐさま業者に売られ、楽しみにしていた猿の脳みそがお預けになったのだ。一週間に一回くらいの買取巡回訪問がたまたま早い時間にあったのだ。それで今度はセレンがターゲットにされたのだった。もっとも料理長の決断もセレンの犠牲を計算に入れてのことだったかもしれない。

「次そこのジャガイモの皮、いますぐ剥け。10分以内だ」ブルドッグの声は尖った氷のつららのように冷たく鋭くセレンの耳に突き刺さった。

セレンは必死に剥いた。ジャガイモは、セレンの体が軽くすっぽり入るくらい大きな箱に今にもあふれんばかりにいっぱい積まれていた。この皮むきの作業は本当につらいものだった。嫌で嫌で堪らなかった。どうしてもうまくいかない。早く出来ない。他の動物のように猿には鋭い爪も無ければ牙も無かった。包丁を使えばいいじゃないかという声が聞こえてきそうだが、このレストランには、いやこのギンザには包丁がなかった。より正確には無いとされていた。だからセレンのように爪の鋭くない動物にとってジャガイモの皮むきさえ、本当に一苦労の作業だった。

と言っても、たとえ包丁があっても、土台短時間で剥ききれる量ではなかった。そして五分も経たない頃だった。

「もう出来てるんだろうな?」ブルドッグのいかつい顔がセレンの顔のすぐ背後からぬっと横に現れ、セレンは思わず頭を下げて座り込んだ。

「そんな!…、まだほんの少ししか経ってないですよ」

ブルドック先輩はもみくちゃの顔をより一層険しく山脈のようにお互いの皺を寄せて、山脈が天から降ってくるかのように自分の顔を上から覆いかぶさるようにセレンの顔に近づけると、ギロリと睨んだ。

「まだ終わらんとはふざけるなよ猿、わかってるんだろうな?」

「は、はい。もうすこしまってください」セレンは恐怖で身をすくめた。

来る。噛みつきの刑だ。ブルドッグは特にこの噛みつきの刑を楽しみにしている節があった。ブルドック先輩は容赦なくプレッシャーを掛けてくる。

「もう遅いわ。刑執行!」

セレンの耳たぶに激痛が走った。容赦のない噛付きの洗礼だった。

「痛い、痛い、痛い痛い痛い! 先輩痛いです」セレンの右耳に激痛が走った。あまりの痛さに耐えられず右耳を押さえもんどり打った。

「てめえ、先輩だあ?」

「先輩でなければなんと?」

「てめえは、奴隷だ。ブルドッグ様だ! ブルドッグ様と呼べ」

セレンは素直に言い直そうと口を開きかけたが、遮るようにブルドッグは続けた。

「そもそもお前に一生コックなんて無理だわ」

セレンはしかしそう言われると、今までとは一転して、きりっと睨み返した。

セレンの反抗的な目、そのくりんとした目が、ブルドック先輩は気に喰わなかった。

「何だその眼は、ああ? この非力猿が!」

セレンは悔しくて更ににらみ返そうとしたが、側にいたハナコがセレンの肩を抑え、セレンはなんとかぐっと感情を抑えられた。

「ふふふ、まあいい。次終わってなかったら耳を噛みちぎるからな」ブルドッグはそう言って、満足そうに向こうの方へ行ってしまった。だがセレンが血をだらだら流しながら、皮むきを続けなければならないことに変わりはなかった。牙や爪が他の動物ほど発達していない猿にとって、こういった作業は絶望的に難しかったのだ。せめて自分にもあのライオン料理長のような鋭い爪がついていればよいのに…。セレンはしょんぼりしてうな垂れた。しかし落ち込んでいる暇も無かった。あと五分もない。気合を入れて顔を上げた。どう考えても無理そうだがやるしかない。ん? セレンは何か心に引っかかるものを感じもう一度顔を下げた。そしてもう一度顔を上げた。視線の動く途中、ゴミ箱の中にあるものが目に入った。

「あっ」ゴミ箱に長い爪がこんもりと打ち捨てられているのに気がついたのだ。

そうだ! 

セレンにいいアイデアが浮かんだ。これだ! ライオン料理長の爪だ。料理長は頻繁に爪を手入れするため、一つ一つはごく小さいながら大量の爪の破片が残されていたのだ。しかしそれでもセレンには十分の大きさに見えた。セレンはそおっとその爪の一つをゴミ箱から取り出すと、それを使ってジャガイモを剥くのに使ってみた。今度は面白いようにそれが剥けた。

「おい、さる! ジャガイモの皮むきはまだか?」ブルドック先輩が確認に来た。セレンはすかさずその爪を隠した。

「まだです」ブルドック先輩は剥いたジャガイモには一瞥もくれずにいやらしい笑いをセレンに目でくれた。何も信用してない様子だった。

「なんだったらその首からぶら下げているおもちゃを使っても良いから早くな」

セレンは言われて思わずきっとなったが、すでにブルドッグはそこにいなかった。形見のナイフのことを言われるとセレンは途端に我を忘れてムキになる傾向にあった。それはお父さんの形見だった。とは言ってもそれが言われたようにおもちゃで何の役にも立たないのはセレン自身が一番よく知っていた。何度も試してみたが、肉は愚か、柔らかい豆腐のようなものでも切るのが困難だった。それだったらさすがの非力のセレンでも素手で切った方がましだった。おまけにペラペラとして紙のおもちゃのように脆そうだった。

「今から五分で剥き終われ。それが出来なければ、今日のランチはサルのソテーだ」

明らかにブルドッグ先輩よりも野太い、嵐のような低く唸るような声だった。セレンには見なくてもどこからその声が発せられているのかがわかった。今度はライオン料理長だった。いくら爪のおかげでスピードアップしたとはいえまだ箱の中には丸のままのジャガイモが三分の一以上残っていた。無理な話だ。しかし、こうなったら今度ばかりは耳を噛みちぎられるだけではすみそうもない。その料理長の言葉がでたらめでないのは確かだった。セレンがこのレストランに入った当日も、同じ理由で猿がその日のディナーのメニューに上ったのだ。

「無理ですよ。そんな、誰がやったって二十分はかかります」

「そうか、わかった。ありがたい。ジャガイモの代わりに、お前が食材になってくれると言うわけだな?」ライオンの目は冗談を言っている目ではなかった。そもそも冗談だろうが何だろうが一匹の猿の命など何とも思っていない。冗談で殺されることも普通にある。そのことはセレンが一番よくわかっていた。

「い、いえ。全力でやらせて頂きます」セレンはがむしゃらだった。従わなければ本当にライオンの言うとおりになる。だからと言って五分でできるわけがない。

 厨房内ではいつもよりみんなのテンションがあがっていた。理由は簡単だった。久しぶりにサルが食べられるからだった。いくら奴隷とはいえ法律でサル食は一応禁止されていた。業務上やむをえない場合あるいは犯罪者等以外、サルは奴隷として有益なため無闇に食べられないように制限をされていた。しかし現実には何らかの理由をつけては食されていたのが実際のところだった。とりわけ、サルの脳みそは珍重され、その値段は天井知らずであった。特にセレンのような若いサルは珍重された。たまたまサルでもある一定の年齢を生き残ると案外長寿を迎えるものもあったが、大抵は若年のうちに散々奴隷としてこき使われた末、頃合いを見て食されると言うことがしばしばだった。そして、犯罪者であるサルが処刑されたときなどは、刑務所の門にサルの脳みそを買い求める業者が、長蛇の行列を作るというのが慣わしになっていた。その犯罪もほとんど言いがかりに近いものだったと推察される。

ブルドック先輩やジャガー副料理長などは料理長が先ほどミンチにした牡牛の肉を、いろいろな地域で採集された木の実のスパイスや遠くアラリヤ海で取れた塩、そして地下の貯蔵庫で熟成を重ねた特製の調味料で調味しながら、流行歌を鼻歌交じりに踊っているような始末だった。

(冗談じゃない。俺は料理されるためにここにいるんじゃない。料理をするためにここにいるんだ。こんなところで料理にされたんじゃ本末転倒だ)

セレンは本当に必死だった。カリカリとライオンの爪を使って、周りからセレンのところだけ切り取ってコマ送りをされているのでは?と言うくらいそれはものすごいスピードでジャガイモの皮を剥きに剥いた。もう後一分あるかないか。それでセレンの一生が続くかどうかが決まってしまう。セレンはとにかくジャガイモに集中した。ジャガイモが口を開いてセレンに話しかけてくるような気がした。死を前にするとそんな精神状態になるのかも知れない。大丈夫だよ。そんな声が聞こえてくる気がする。みるみる箱の中のジャガイモが無くなって行く。手が、増えているかのように。錯覚? 錯覚ではなかった。ハナコが見えないように手伝ってくれていたのだ。しかし時間は容赦なく過ぎていった。

「時間だ」セレンの背後から刺すような声が聞こえた。もはや死刑宣告に等しかった。

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