4日々の出勤
家にたどり着くまで正味一時間以上。次の日も早朝からだったが店での寝泊まりは固く禁じられていた。少しでも眠ろうとするとすぐに犬がやってきて、猛烈に吠えた。レストランには猿が残っていないように交代で常駐の監視の犬がいる。レストランどころかギンザの表通りには、猿が路上のどこかで眠っていないようにたくさんの犬が監視していた。近くに留まるどころかギンザに残ることさえ厳禁だった。それは猿を疲弊させて反乱を起こさせないためなのだろうかとセレンは思っていた。汽車に乗っていけばほんの十数分もあればついてしまう長屋であったが、セレンにはほんの160グルマンすらも払える余裕はなかった。それでも拾ったお金で一度列車に乗ったこともあったが、あまりにも押し合い圧し合いで混雑するので気分のいいものではなかった。
♬昼下がりの午後〜太陽をー背に〜坂を上り♬
猿が谷に着くとセレンはいつの間にか歌を口ずさんでいた。気分が良いからではなかった。むしろ野生動物がたまに出るのでセレンは緊張していた。野生動物は凶暴な上に言葉が通じない。ここに住み始めたのはレストランに勤めだしてからで時間は経っていなかったが幼い頃隣の旧市街に住んでいた記憶は朧げにあった。
セレンはほとほと疲れ果て、夢遊病者のように家に着くと、空腹も空腹だが疲労による眠気には勝てずそのまますぐに倒れこむように戸を開けた。時計の針はもう、夜中の三時を過ぎようとしていた。
「おかえり。ご飯は食べたの?」セレンの母親はセレンの帰りを待っていたようだ。
セレンは言われるままに、母親の作ってくれたご飯を食べた。朝から何も食べていなかったのだ。レストラン勤めとはいえ猿達が食べられる賄いは一切なかったのだ。
「うん、うんめいや。やっぱり母さんの作るご飯が一番うまいや」
「何言ってるの。そんなこと言ったら料理長に追い出されてしまうわよ」
「はは、そりゃそうだ。レストランの味とは比べられないよ。あれは家庭では出来ないものなんだから。でもほんと、正直母さんのが一番だ」そう言いながらセレンはほとんど店のものを食べたことがないことに気がつき、悲しい気分になった。こないだなんかも、寸胴に残っていたソースを空腹からひとなめしようとした途端、ブルドック先輩はめざとくそれを見つけすぐ流しに捨てられた。ちょっと残ってるものでも直ぐに洗剤を投げられたりしてつまみ食いどころかちょっとした味見さえ許されなかったのだ。それに不思議な出来事も…。しかしそれ以上心配をかけたくないセレンは決してそれ以上触れなかった。
「何言ってるの。ばかねえ」
「でもきっと料理長だって母さんの味はできっこないさ」
「さあ、もう余分なことを言うのはそのくらいにして、歯磨いてとっとと寝なさい」
「うん…」結局セレンはものの十分もしないうちにぐっすりと眠りに落ちていた。
「ひゃあっ! 何時だ! 何時?」セレンはガバッと飛び起きた。日時計は五時をちょうど越えようというところだった。
「大丈夫か…、もう、母さん起こしてくれよ」しかし、セレンの呼びかけに返事はなかった。それに食べたばかりだというのに妙に空腹だった。目をこすりながら、セレンは悲しい現実に気がついた。返事なんかあるわけがなかった。夢だったのだ。セレンの両親はとうの昔に亡くなっていたのだった。それにセレンは亡くなった時は幼く母親の顔もほとんど覚えていなかった。セレンは今まで妄想を膨らまし励みに生きてきたようなものだった。
セレンは夢の余韻に浸る間もなく、目をこすりこすり再び出勤の途についた。
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