3厨房

「早く持って来い! さるぅ」

厨房では怒号が飛び交い、緊迫感が雪崩のように襲って来た。厨房でも一際小さなセレンは冷や汗をかき、すぐに言われた通り冷蔵庫から指定の肉片を取り出すと、小走りで先輩のところまで持っていった。遅れは文字通り命取りとなった。体躯のたくましいブルドックは肉片を検めるとニコリともせず作業を続けた。そしてセレンを刺すように一瞥すると言った。

「そしたらそこの寸胴、料理長のところへ持ってけ」

「はい」りょ、料理長だ…。セレンは心の中で叫んだ。その響きに胃がきゅーっと縮み上がるのを感じた。昨日から何も食べてなくて空腹の絶頂だったがその空っぽの胃がきりきりした。しかし不安はそれだけではなかった。

「寸胴は?」セレンは辺りを見回したがそれらしきものが見当たらなくてキョロキョロしていた。

「お前の目の前にあるだろが」ブルドックの言葉にセレンはもう一度真正面を見た。セレンの前には見上げるほどの壁が立ちはだかっていただけだった。

「ないですよ? どこですか?」

「だから目の前にあるって言ってんだろうが!」

「えっ?」セレンはもう一度目の前を見たが今まで壁だと思ってたものに違和感があった。それは燻んでいるがよく見ると曲面を描いていた。もう少し引いてみると、

「あ」壁だと思っていたのは寸胴だった。中には材料がいっぱいで水も張られていた。

「こ、これですか?」

「いいから早くお持ちしろ。出来なきゃお前がその材料に加わることになる」

「は、はい!」いわれるままに両手をいっぱいに伸ばしブルドッグの指す寸胴に手をかけたが、それはセレンの体のゆうに倍はあり、地面に根を張っているかのように重くて微動だにせず、セレンの力では一向に持ち上がらなかった。

「早くしろ! 何やってんだ!」どすの利いたブルドックの声だった。セレンは慌てて更に力を入れたが、どんなに気合いを入れても二進も三進もいかなかった。

「早くしないとこうだぞ」ブルドッグは目の前で自分の牙と前足を使って鹿の肉を切り裂き、その肉片をセレンの顔に投げ付けた。

「わ、わかりました」そんな無茶な…、出来っこない。そう思ってもそれを言ったら最後なのは今までの同僚の末路を見て来たセレンには十分すぎるほど分かっていた。セレンは必死にどうすれば運べるか考えたがそうは言っても土台無理な話だった。

「セレン! 棒を使うんだよ」先輩のハナコが小声で囁いて間の手を入れてくれた。棒を下に何本も敷き、進むごとにそれを寸胴の前方下に入れ直しコロにして移動する方法だった。二匹は必死にその寸胴を転がしたが、それもジャガーは遅いと言わんばかりに二匹を突き飛ばして退けて、その寸胴をいとも簡単に持ち上げた。

「ふん、このくらい早く運ばないかい?!」

「す、すみません」二匹は申し訳なさそうに謝った。

「次は無いからな。次はお前がこの中の具になる番だぞ」ジャガーの脅しに怯え寸胴が運ばれた先の厨房の奥を見やると、セレンはぎょっとした。思わず悲鳴をあげそうになった。

大いなる存在が大きく鋭利なる爪と牙を見事に駆使し、静かにしかし豪快に巨岩のような牡牛を細かい肉片に切り裂いていた。もうここに来て一ヶ月、毎日見ているはずだがそれでもいつも圧倒された。そう、そこにいる山のような存在が料理長のライオンだった。セレンは皿を洗いながらもその一挙手一投足を見逃すまいと眼を皿にしてライオン料理長を追った。料理長の動きをエアーで真似てもみた。しかしそちらの方ばかりに気を採られてもいられない。すぐどこでまた他の先輩たちに用を頼まれるかわからない。それに皿の数も鍋もちょっと気を抜いているとすぐ山のように溜まってしまうのだ。下げられた皿にほんの少し残ってるものでもセレンはつまんで味見したかったが、運ばれるお皿の山を前にそんな暇は到底許されなかった。

「あっ」セレンは思わず小さく声を上げた。

手つかずで下げられた料理の皿があったのだ。空腹のセレンはその美味しそうな料理を喉から手どころか胴から足まで出そうなほど欲しかった。しかしそれもすぐさまブルドック先輩が見つけて捨ててしまった。そうこうしているうちに今度はほとんど空の寸胴が来た。セレンの鼻腔にえも言われぬ濃厚なソースの香りが届いた。空と言ってもまだまだソースが付いていた。軽く一人分くらいあるんじゃないだろうか? セレンはその僅かに残ったソースをひとなめしようとした。すると、突然これもまたすぐさまブルドッグ先輩がやって来て中身を流しに捨てた。

「あああ…」無情にも優に一人分以上あった濃厚ソースが流しへと吸い込まれていった。

「なんだ? 何か文句あっか?」

「い、いえなんでもありません」セレンはがっくりした。が、急にセレンの耳に幽かな声が聞こえて来た。

うまいうまい〜

「えっ?」どこから? 下からだ!

「ん? やっぱり文句あんのか?」ブルドッグの顔がにじり寄ってくるのを避けながら必死に否定した。ブルドッグ先輩はご丁寧に寸胴に漂白剤を入れた。

まただ…、ソースを吸い込んだ流しから声が聞こえて来た。いよいよ空腹で幻聴が聞こえるようになったのか。以前にも疲れと空腹が絶頂に達したときにこんなことがあった。セレンはしかし自分の体調を気にしてばかりも居られなかった。

セレンは次々と汚れた皿や鍋が投げ込まれる巨大な洗い場のシンクの周りを縦横に走りながらどれとどれを一緒に洗えば効率的に終わるか考えてお皿をピックアップし洗った。そして洗い終わったものからすぐさま元の位置にすばやく走って戻すのだった。

「さる!」「おい」

二つの声が重なった。最初の勢いのいい声はジャガー副料理長だった。しかしセレンは瞬時にその声を識別してジャガーに一礼をすると、後から発せられた雷のような声の主の方へさっと一目散に駆けつけた。その声は、ライオン料理長のものだった。

「な、なんの御用でしょうか?」

ライオンはギロリとセレンを一瞥した。セレンは心底縮み上がってライオンのお言葉を待った。ライオンの身体はセレンの優に三倍以上はあった。それだけでセレンを縮み上がらせるに十分だった。何を言われるんだろう。緊張して胃が喉元まで持ち上がるようだった。

ライオンは言った。

「厨房を走るんじゃねえ」

稲光の後の雷のようなどすの利いた重低音の声だった。セレンはその声を耳にしただけで全身の毛穴という毛穴が開くような気がしてそのまま心臓が止まるかと思った。「は、はい! すみませんでした」それでも言外に忖度が大事なことはわかりすぎるほどわかっていた。

セレンは恐る恐るしかしきびきびと、切り分けられた肉片を今から使うのと保存するのとに判断して分け、後片付けをまめまめしくこなした。それも走らないようにそれでいて極力速い動きで。ほんの些細なミスも決して許されない。下手をすれば、今度は自分が、こうして片付けている肉片になっているかもしれない。ついこの間も、仲間の猿がほんの些細なミスをしたばかりに、その日のディナーの特別料理に供せられた。その作業の間中も先輩たちは容赦なくセレンを呼びつけ、セレンはその都度必死にその要求に応えていった。

やがてレストランはいつも通り夜の七時から八時頃ピークに突入し、あまりの忙しさに気がついた時には既にラストオーダーの時間だった。セレンはほっと胸をなでおろしていた。ラストオーダーが終わると料理長を始め他の動物の先輩方は帰るので、厨房に残されるのはほとんど猿たちだけだった。とは言えお客が帰った後も後片付けは延々と続き、次の日の仕込みもあり、それでいて交代で番をしている犬の監視員が目を光らせており、ほとんど談笑する余裕もなく店を後にするのはゆうに夜中の二時を過ぎるのだった。

 毎日がこんなに生きるか死ぬかギリギリの戦場にいるような緊張の連続で、この先やっていけるのだろうか? セレンは帰り道を将来の不安に駆られながら歩いた。不安というよりむしろ絶望に近かった。ほんの一ヶ月前にシェフを目指してこのギンザにやってきて下働きとしてこのレストランに雇われることになった。しかしシェフの道は覚悟していたもののそれ以上だった。とりわけ猿にとってこのギンザでは、ただの一料理人になることさえ容易ならざる道であった。それは他の動物にも言えたがとりわけ猿は不利だった。猿はこのギンザでは奴隷なのだ。ギンザ中探しても、猿がシェフをやっている店は皆無だった。そもそも身分は別においてもこの世界で料理人でやっていくには猿はあまりにも非力すぎた。レストランは力の強い動物がやるものだ。中でもとりわけ大型のネコ科動物、それもライオンの経営するレストランが最高ランクに置かれていた。稀にトラが一頭でやっている店もあったが、大所帯ともなるとライオンに道を譲ることが常であった。この国では、ライオンが支配級だったのだ。とはいえライオンだから無条件に支配階級で猿だから無条件に奴隷という決まりではなく、更にその上の支配率が存在した。それこそが料理の上手さだった。料理の上手さが動物たちの序列の全てであり、そのレストランが繁していれば即ちそれが権威の源になり、そのシェフの力を示すことになったのだ。セレンたち非力な猿にとって料理を上手くするにはあまりにも不利なように出来ていたのだ。すべての器具は大きく、とても猿たちに扱えるような代物ではなかった。

セレンは帰りの道すがら、ふらふらになりながらも両足に重りをつけ、ダンベルをあげて、体を大きくすることに余念がなかった。 

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