「おはようございます!」

セレンは勢い良く無人のキッチンに挨拶をした。誰もいないキッチンに挨拶をするのがセレンにとってつらい一日に鞭を打つ唯一の気合の入れ方のような気がして、そうしていたのだ。しかし――

「遅いぞ!」なんと、セレンの前にすでに、料理長を始め厨房のいつものメンバーが勢ぞろいしていたのだ。

「え、そんな」セレンはあせった。すぐさま厨房のデシャップ台の上に備え付けられた銀製の掛け時計を見た。一瞬遅刻したのかと思った。しかし時計は間違いなくまだ6時を少し越えたばかりだった。しかし時計が遅れているということもあるかもしれない。セレンは不安でいっぱいになった。

「今、6時ちょっと過ぎじゃないんですか? あの時計は間違っているのですか?」

「いいや、あっている」

「なんだ、それじゃなぜ?」セレンはそれを聞いて安堵したが、それでも疑問よりも不安の方が大きかった。いつもはセレンがほかの動物よりも一時間は絶対早く出勤しているはずだった。そうでもしなければ仕事が終わらないのだ。昨日も妙に早かった。今日の出勤も一時間早かったのか?

「それじゃあ皆さんどうしたんですか? こんなに早く」

「ばかやろう。今日は料理長が大会に参加される日だ。だから大会の準備時間確保のために前倒しで、今営業の準備をやっているのだ」事実、料理長は既に真っ白なキッチン服に身を包み、ぐらぐらと煮え立つ料理長の体とそうは変わらないほどの大鍋の前にかがんで、その下にめらめらと燃え立つ炎の調節に余念がなかった。

「お前、この中に入りたいのか?」料理長は寸胴に向かい、セレンの方を一瞥だにくれず言い放った。

「ひ、とんでもない。すみません遅れまして」

地獄から聞こえてくるようなバリトンの効いた言葉にセレンは震え上がり、ただでさえ小さなその体が塩をかけられたナメクジのように余計に一回り小さくなった。

「ふはははっはあ。規定では指定された動物以外の使用は今大会予選では禁止されている。残念だがな」

それを聞いてセレンはまた生き延びた気がした。

「そ、そうでしたか」どうやら本当にセレンの剥いたジャガイモは今日の料理大会に使われるようだった。既にそのジャガイモは茹でられた上で細かく潰されて、小判型に整えられている。セレンは急に興味を抑えきれなくて、とりあえずは自分自身が食材に使われることもないという安心感も手伝って、質問をした。

「でもどうしてジャガイモなんですか? もっと高価な食材を使えばいいじゃないですか」

周囲はセレンの興奮とは別の意味で興奮して、ライオンと猿とのやり取りに注目した。

ギロリとしたライオン料理長の目は、セレンを射すくめるように見据えた。周囲はいよいよセレンの公開処刑が始まるのではと期待と興奮は最高潮に高まった。正直、事故とすればいくらでも理由はでき、それ以上お上がとがめるとも思えない。この時ほどセレンは自分の調子に乗りがちな性格を後悔したことはなかった 。 

しばしの沈黙があった。セレンは逃げ出そうと片足を外側に向ける準備をした。

ライオン料理長の大きな口が開き始めた。セレンをいとも簡単にくわえこみそうな大きな口。セレンの目の前にその口の中がどんどん大きくなり視界を覆う。セレンは恐怖のあまり顔をそらし、身を翻した。

「課題で使うのだ」周囲の期待とセレンの恐怖とは裏腹に、その大きな口からは言葉が発せられただけだった。

「料理大会は課題料理と自由料理からなる。その課題料理がジャガイモを使った肉料理と言うわけだ。肉は会場で捌かねばならん」案外ライオン料理長の返答は淡々としたもので、猿肉を楽しみにしていた周囲をがっかりさせた。

セレンは思わず次の質問を浴びせた。何かライオン料理長の言葉を返さなければならないという気持ちがわき起こってきたのだ。

「で、では、自由料理は何ですか?」

「自由料理は課題料理の予選を通過してからの話だ。予選で捌いた肉と合わせてメインを作る。もちろんメインの素材は用意されているが、特に縛りはない。自分で用意する分に限っては、どんな食材を使っても許される。ということは、わかるな?」

そう言った料理長の眼光は突然、今迄にまして鋭くセレンを射抜いた。

「え?」セレンは分からない態でとぼけたが、その意図はいやというほどわかって、恐怖のあまり身をすくませた。

不安に駆られて、セレンは更に恐る恐る質問をした。

「では…、もし予選通過したら、な、何を食材に選ぶ予定ですか?」

「ふっふっふっふっふっふ、もう決まっておる」

「猿でも大丈夫なんですよね?」ブルドッグが要らぬ間の手を入れた。

「うむ。それも悪くないな。はうわっはっはっはっは」

勿論セレンにとっては笑い事じゃない。セレンは気が気でなかった。本当にやりかねない。もし料理長の課題料理が予選を通過したら…。セレンは暗澹たる気持ちになった。いくら猿を食材に使うのが禁止されていても、きっと何やかやといちゃもんを付けて俺を殺そうとするに決まっているのだ。

思いのほか、準備は早く終わったようだった。

「じゃあ行ってくる」料理長は助手もつれずに、ジャガイモの詰まった大きなコンテナを、片手で軽くひょいと持ち上げて、厨房を出ていった。

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